恐るべき子供たち (岩波文庫)

  • 岩波書店 (1957年8月6日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (136ページ) / ISBN・EAN: 9784003256619

感想・レビュー・書評

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  • Les Enfants Terribles(1929年、仏)。
    フランスの詩人ジャン・コクトーによる悲劇小説。日本でコクトーといえば、

     私の耳は貝のから
     海の響をなつかしむ  ――「耳」 堀口大學訳詩集『月下の一群』より

    という詩が有名だが、コクトーは詩だけでなく小説や戯曲も手がけており、『恐るべき子供たち』は小説の方面での彼の代表作である。
    エリザベートとポールというエキセントリックな姉弟のいびつな愛憎関係と、彼らを待ちうける悲惨な運命とを、ギリシア悲劇のような格調高さをもって幻想的にえがきだした名作といわれる。
    自分だけの空想世界にひきこもり、自分自身をやしなってくれる世間の営みを「唾棄すべき凡俗」として徹底的に侮蔑し、現実を直視することなく成熟を拒む子供たちは、当然の帰結として悲惨な末路をたどるよりほかないのだが、彼らはそれすらも「凡俗に染まるくらいなら」と受容する。平凡な幸福より、高貴な――と彼らが信じる――不幸を選ぶのである。
    この美学を肯定するか、否定するか、判断保留するかは読者にゆだねるとして、この小説がいわゆるデカダンと呼ばれる流儀をみごとに表現していることは確かだろう(ただし文学史的には、コクトーはデカダン派には分類されないようだが)。

  • ポールとエリザベートは、アルコール中毒の父親を亡くし身体に麻痺の残る母親と暮らしている。亡き父親は妻の全財産を持ち逃げし、たまに帰って来ては発作を起こしてピストルを振り回し、あげく最後に帰って来たとき、騒いだかと思うとそのまま力尽きて死んだ。以降、母親は疲れ切って無気力の塊のようになり、出掛けた先でダンスをする相手から金をせしめてくることはあるが、子供には構わず、家ではぼーっとして暮らすようになった。そのうち世話をしてくれる女中も雇えなくなり、友人である医者が送ってくれる看護師たちに助けられて、家族は生活していた。

    2人の子供は1つの部屋に一緒に住んでいた。ここには看護師が手をつけないため(何度か挑戦したのだがとうとう諦めてしまったため)、年中ひどく散らかっていてまるで物置きのようである。ただ、2人にとってそこが物置きのような場所であることなどどうでもよかった。そこは彼らの掟が支配する場所であり、いわば彼らの聖地であった。例えば、夢想により恍惚状態に入ることは2人の間で「行ってしまう」(p26)と呼ばれているが、どちらか片方がその状態に入っているときは、絶対に邪魔をしてはいけない。また、隠し事は厳禁であり、宝物に加えたいものがあるときなどは、2人で相談しなければならない。「姉と弟のあいだでは、何の気兼ねもなかった。この部屋は一つの甲羅みたいなもので、二人は同じからだの二つの手のように、そのなかで生活し、洗ったり、着物を着たりするのだった。」(p31〜32)

    その後母親を亡くしてからも、彼らの生活は周りの親切な大人たちによって保証されていた。しかし奇妙なことに、誰も彼らに干渉しようとしない。年頃になってもなお1つの部屋で生活する2人を引き離そうともしなければ、出来合いのサンドイッチの朝食をやめさせて家庭料理を出してやることもしないし、学校に行かない弟にも、仕事をしない姉にも誰も助言してやろうとしない。こうして、未来について考えることから綺麗に切り離され、現在に宙吊りになった彼らは、閉塞感から逃げるようにして甘美な夢想に浸りながら毎日を過ごすようになる。

    そんな彼らの関心事は、ただ1つであった。誰かを愛し、また自分も誰かに愛される世界に「生きる」ことである。現在に閉じ込められた子どもたちの、あり余るエネルギーは恐ろしい。あまりに強く同級生のダルジュロスを愛したポールは、彼に雪の玉をぶつけられて傷付き、さらに彼が放校処分になったと知って、精神を病んでしまう。そんな弟といつまでも一緒にいたいと願うどころか、常に彼の気を引いていたいと思うエリザベートは、四六時中弟を罵ったり、わざと陥れようとしたりするのである。これらの異様な行動が、さらに2人の孤児を物語に参加させることになる。雪玉の衝撃によって失神し歩けなくなったポールを、同級生のジェラールは家まで送ってきてくれるのだが、それ以降、頻繁に2人の子供部屋に遊びに来るようになる。さらに、エリザベートはポールの気を引きたいがために遂に働きに出るが、勤め先の洋裁店でアガートという少女に出会う。同じ境遇の友達ができたことに喜んで、エリザベートは子供部屋に彼女を連れてくることになる。

    このアガートという少女はダルジュロスにそっくりであった。彼女に会ったポールは「雷に打たれたような」(p72)衝撃を受ける。そして、ダルジュロスによって自分が被った痛みを、ダルジュロスの生き写しのような彼女に与えることで、復讐を遂げようと思い立つ。無論、彼はアガートを憎みきれず、強く惹かれていく。この様子を鋭く察知したエリザベートは激しく苛立ち、冷静に3人を観察するジェラールは密かにエリザベートに想いを寄せる。4人はもつれ合いながら坂を転げ落ちるようにして、複雑に運命の糸を絡ませていく。

    • みるうさん
      質の低い映画評くらいしかまともに書いたことのない私が、他人の書評にコメントするのは、不可避的に「上から目線に」見えるかもしれず、おこがましい...
      質の低い映画評くらいしかまともに書いたことのない私が、他人の書評にコメントするのは、不可避的に「上から目線に」見えるかもしれず、おこがましいこと、この上ないのだが、控えめに言って、素晴らしいブックレビューであったので、コメント。

      まず、すみやかに原著を紐解くことに誘われるような書き口が素晴らしい。そして、原著がとても読みたくなるだけでなく、原著を読むときに隣におけるような副読本としても機能する理想的なブックレビューである。というのも、そのような書評がなぜ可能になっているのかというと、レファレンスの仕方が必要十分で、明示的で、的確だし、参照箇所も多く、それにもかかわらず、批評本文はシンプルな文体で読みやすいので、誰でもすぐに該当箇所を参照できるし、適切な量の引用量なので、まったく独断的で主観的な独自解釈の開陳といった書き方でなく、テキストに寄り添った書評になっているからだ。

      雑なコメントはかえって迷惑になるので、少しだけ調べたことを書いてみる。コクトーの『恐るべき子供たち』の日本語訳はいくにんかの訳者によるものが既に存在するのだが、1930年(昭和5年)に東京日日新聞に掲載された劇作家で仏文学者の岸田国士(これで"くにお"と読むらしい)(1890-1954)の短い文章がとてもおもしろい。

      なお、この文章は、Kindleでダウンロードが0円なだけでなく、青空文庫にhtml形式もあるし、パブリックドメインの翻訳なので著作権フリーなところも素晴らしいし、そしてなにより、全てデータ化されているので、コピーアンドペーストできるのも魅力である。それゆえ、少しコピーアンドペーストすると、岸田は『恐るべき子供たち』について次のように語っているのだが、私はここの箇所の実に楽しい記述に知的興味を大いに刺激されたために微笑みながらここを読んだ。歴史的な日本語の用法には()内で補足をつけつつ次に引用する。

      「「恐るべき子供たち」、この日本語の題名は、多分様々に解釈されるであらう。テリイブルは「恐るべき」の意に相違(そうい)ないが、更に説明的に訳すると「エキストラ・オルヂニエル」(extraordinaire)である。「何を仕でかすかわからない」である。「箸にも棒にもかゝらない」である。

      誠(まこと)にこの物語の小主人公等(ら)は、異常な素質によつて、異常な生活に踏み込んで行くのであるが、そこに描かれた環境は、ロマネスクな絵空ごとでなく、鋭利細密な観察に基(もと)づく近代一社会層の解説であり、雪玉で胸を裂かれた少年が、遂(つい)に毒薬の塊りに歯を当てるまでの運命は、善と悪、呪咀と祈願の交錯に終始する人生史の象徴的記録である。

      私が、この作品に打たれた理由の一つは、作者が、微塵も正義派的感傷を交へず(まじえず)に、しかも、限りなく暖かい作品を書き得たといふことである。標題の「恐るべき子供たち」は、頁(ぺーじ)を繰ると共に「愛すべき子供たち」として読者の心に映るであらう。

      私は、屡々(しばしば)、フランスの親たちが、その子供らについて他人に語る時、“Ils sont terribles”といふ言葉を濫用してゐたやう(いたよう)に記憶する。日本の親なら「どうも、乱暴でしやうがございません(しょうがないです)」といふところだらう。コクトオは、この親たちの如く、その「恐るべき子供たち」について語つてゐるとはいへない。しかしかれは少なくとも、それらの子供たちの一人である。」

      ↑なんてオシャレな解説だろうと思ったので引用してみた。特に最後の一文なんか、オシャレ過ぎてニコニコしてしまう。この岸田さんという人は、オシャレである。

      さて、以下には、この岸田さんの新聞記事に続いた『恐るべき子供たち』の翻訳を、単に年代順に羅列しておく。

      ⑴東郷青児訳 1953年 角川文庫
      ISBN 978-4042047018

      ⑵鈴木力衛訳 1957年 岩波文庫
      ISBN 978-4003256619

      ⑶高橋洋一訳 1995年 求龍堂
      ISBN 978-4763095244

      ⑷中条省平、中条志穂訳 2007年 光文社古典新訳文庫
      ISBN 978-4334751227

      ⑸佐藤朔訳 グーテンベルグ 2012年
      →詳細不明

      ⑹塩谷祐人訳 2017年 白水社
      ISBN 978-4560087510
      「対訳 フランス語で読む「恐るべき子どもたち」《CD付》→対訳にする意味がよくわからない。見開きでフランス語原文があることが便利だと著者は思っているのかも知れない。


      【閑話休題】
      以下はこの書評に対するコメントに戻る。

      「夢想により恍惚状態に入ることは2人の間で「行ってしまう」(p26)と呼ばれている」 ↑ここの表現が非常に面白いです。原文のフランス語だとどういう表現なんでしょうか。(ウィキソースやiBooksで検索してもフランス語原文がなかなか出てこないので、)この批評を読んで、フランス語版の原著への購買欲も湧きました。女子美術大学客員教授の萩尾望都が書いた漫画版も面白そうですよね。(萩尾望都作品集(第2期)第7巻『恐るべき子どもたち』 1985年2月 小学館 ISBN 978-4091780270)

      ところで、すこし調べてみたところ、(間違っているかもしれませんが)、1929年に40歳のコクトーが阿片依存で入院中に記したこの作品には、コクトー自身が描いた60点ほどのイラスト線画が残っているらしいのですが、それって、『星の王子様』みたいでかわいいですよね。とはいえ、『星の王子さま』の挿絵は全部で40点だし、書かれたのは、1942年なので、雑な比較でしかないんですが、「作者が挿絵を描いた古典小説」ってそんなに多くないような気がするのですが、気のせいでしょうか。内容も、「子どもが主人公で、しかも主人公の自殺で終わる」という構造が似ているかもしれないなどと邪推しましたが、ここまで書いて、ただの思いつきかもな、と考え直しました。

      素晴らしいブックレビューをありがとうございます。

      (アマチュア映画批評家)
      2019/09/18
    • みるうさん
      俺や。

      https://open.spotify.com/show/3cl52tuWsNAwjuZFMjetj6?si=_5DkUcbHR...
      俺や。

      https://open.spotify.com/show/3cl52tuWsNAwjuZFMjetj6?si=_5DkUcbHRaO-eujbDGe6NQ

      届くといいんだが。
      まぁ無理か。
      2022/10/02
  • うん、なんかわかった様なわからなかった様な感じ。でもちょっと精神的に病んでるのかなぁ、って思った。なんか最後が壮絶だった。結局ジェラールはどうなったんでしょ。

  • 死にたかったり、目が見えなくなったら……と縫い針を見つめた高校時代。忘れないけれど、今になってみれば衝動的にしなくてよかったことばかり。そんなことを思い出させてくれる若者の混沌とした複雑な気持ちに浸りきってしまった。第一次世界大戦後に書かれたのに現代も同じ問題から逃げられていない。すごい洞察力と筆致力だと感じた。ただひとつ笑えたのは、岩波文庫の表紙がネタバレであることかな。

  • 裕福な姉弟の相反する心理描写

  • 学生のときよんだ気がする
    もしくは映画だったのかも
    面白かった

  • 多分、読むのではなく、感じる事でしか理解できないのだと思う。活字だけ見ると、なにが言いたかったの?になってしまう。
    だから、今の自分の立場が誰に近いかによって感じ方が全く違ってくる作品。
    ほんと、すごい。

    子供の世界の残虐さ、純粋さ故の残虐という理不尽な世界を、よくここまで表現できたな!とそこが高く評価されてる作品なのかなと思います。

    もやぁとした嫌な気持ちが残る、後味の悪い、生きる上で役には立たない内容なので、話しそのものではなく、心理描写のうまさみたいなのを感じる事がこの本の醍醐味。
    うまいだけに、ほんとうに読後嫌な気持ちになる。

  • ここまでかと思わずにはいられない程に退廃的で終始物悲しさが漂うにも関わらず、どこか耽美で幻惑的な世界に惹きつけられてしまった。
    もうとにかく終盤の盛り上がりというか勢いというか、ここから一気に突き抜け堕ちていくんだなと分かってからの吸引力が凄まじい。
    エリザベートとポールは純粋であるが故に無知であり、自分たちの許容する狭い世界でのみ呼吸ができるとでもいうような、途轍もなく傲慢で利己的で幼稚な関係性で成り立つ姉弟なのだけれど、その根底には他者には理解できないまでの愛情もとい愛憎が存在していて、それが肉親に対する極々一般的な感情を逸脱している事に気が付いた或いは認めてしまった瞬間に、もうこの姉弟にとっての悲劇は確立されていたように思う。けれどこの二人に於いてその悲劇は何にも変えられない世界を失わない為の唯一の選択であったのだと考えれば、それは悲劇でも何でもないのかもしれない。
    それでも互いを必要とするあまりに傷つけ合う事でしかその存在を受け入れる事が出来ないとでもいうような二人の関係はとても危くて、物語の序盤からもっと早くどうにかならなかったのかと思わずにはいられない。両親の存在であったり富への意識だったりが解答なのかもしれないが、しかしジェラールやアガートに代表される第三者が悉くその世界に魅せられて(或いは容認して)しまっている辺りが私が恐るべき点である。
    そう考えると、諸悪の根源であるようなダルジュロスがどこか一番人間らしくも思えてくるから不思議だ。しかしそれも飽くまで傲慢さや復讐といった負の感情の化身みたいなもので、彼に少しでも良心と呼べるものがあったならば、そもそもこの結末が生まれることはなかったのだけれど。いや、でもラストの行為がその実彼の償いとでも言えるものであったならば尚更に救いようのない結末ではある。
    しかしそんなどうしようもない泥沼の愛憎劇が嫌いじゃない、寧ろ好ましく思えてしまう私はきっとエリザベートの中の妬心や傲慢さに女としての自分の片鱗を見たのだと思うとそれこそが一番恐るべきである。

  • ダルジュロスの悪意、そして彼に怪我をさせられながらも固着し続けるポール。その関係は何年にもわたって「刷り込」まれるのだろうか。幼少時の雪合戦は数年後に形を変えて決着を見ることになる。姉のエリザベートもまた強固なエゴイズムで弟のポールを自己の支配下に置き続ける。アガートも、そしてジェラールもそれに巻き込まれていくのだが、ここには善意を前提とした社会性は存在しない。むしろ、そうした社会的な秩序を根底から覆し否定し尽くす一種のアナーキズム、あるいはダダイズムがこの小説を支配する原理なのだろう。

  • エリザベートとポールは姉弟であります。ポールとジェラールは友だち。
    ジェラールとアガートは後に結婚します。
    そして、ポールとジェラールの共通の知人にダルジュロスなる少年がゐます。以上が主要な登場人物。恐るべき子供たち。レ・ザンファン・テリーブル。

    ダルジュロスはポールに雪のつぶてを投げつけて怪我をさせます。雪玉の中に何が入つてゐたのやら。
    それなのにポールはダルジュロスに憧憬を抱いてゐるやうに見えます。結果としてそれが悲劇的結末を迎へるのでした。
    読む側としては、やはりジェラール君が一番近い立場なので感情移入しやすいですね。といふか彼以外にゐません。

    かつて、「若者」と「馬鹿者」は音が似てゐるだけでなく、実態もほぼ同じと言はれてゐました。さすがに現在、さういふ意見は鳴りを潜めてゐますが、そんなことを想起させる暴走振りであります。
    しかし、この予定調和的な暴走はなぜか心地良い。そして迫力があります。
    特に終盤でジェラールとアガートが、ポールとエリザベートを訪ねて、ダルジュロスと再会したことを告げる場面以降は恐いくらゐの展開であります。

    恐るべきは子供たちより、作者のコクトーであると申せませう。

    http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-92.html

  • 西洋文学において、こういった少年愛(それが必ずしも主題ではないが、)を扱った作品に時折遭遇する。それらは妖しくはあるが、崇高な匂いを醸す。現代の日本でそれをやるとすぐさまボーイズラブ系と位置付けされるという罠。

  • もう、何から言葉にすればいいのか判らないんですが、フランス文学特有の退廃的な雰囲気がたまりません。もう滅茶苦茶です、ここまでただれた快楽の、悦楽の日々を送っていいんでしょうか。そしてさらに言えば、何でも手に入る世界って凄い。毒薬だって手に入る。
    多分、好き嫌いがはっきり別れる作品だと思うんですが、私はこの世界にがつんとやられました。コクトーの才能を、ぐいぐいと押しつけられて、それなのに陶酔してしまう自分。
    ちなみに、映画は衝撃のラストがあっさりとまとめられていて、「うわああああ、なにこれひどい」という原作のどうしようにもない感が全くなかったので、お勧め出来ません(そんなのばっかりだな)。原作のラスト数ページのエリザベートの美しさ、強さ、そういうものが映画では再現されてません。
    とりあえず、短い小説なのですが、読みにくいと最初の数ページで思った人には、お勧めしません。でも、フランス文学、本当に何でもありだな。そこが好きなんだけどね。

  • 生の終着点にこそ美は存在し、まもなく消える。

  • 角川で夏の100冊に選ばれており、「こんなマイナーな本誰が選んだんや!?」とびっくり。
    約2年ぶりに読みました。
    詩人だけあって表現が独特ですねー。
    文章全体からフランス!フランス!アンニュイ!ボンソワール、サヴァ?な
    雰囲気がだだ漏れです。

    09.08.31 再読


    流れ星のような、薔薇の花のような文章。

  • タイトルが素晴らしい。シンプルだが引かれる。
    しかし読んだあと、なぜこのタイトルだったのか疑問に思った。読み進めていくうちにタイトルや始まりの場面から想像した内容や展開にもズレが生じ、その思いは強まった。しかし読後、このタイトルの意味に気付いた。
    年齢についてでは無い。そう、彼らは子供だったのだ。

  • この物語は、読み終えたあとも脳内に「部屋」が残る。
    閉じ切った空間。木製の家具。換気されない、少し酸素の薄い空気。少し肌寒いが苦痛ではない。
    電気はついておらず、窓から差し込む光だけが異様に美しい。その光に照らされた埃さえ、美しく見える。

    そしてその部屋でリズベートだけが、ひとり座っている。みんなを待っている。
    「まだ来ないのかしら、分からない、でも、ポールはもう来るはずだわ」と、何でもないただの空間を見つめて放心している。
    この部屋は、現実の部屋というよりも、死後世界の象徴として立ち現れているように感じた。
    そこには不安がなく、「来るかもしれない」という揺らぎもない。
    ポールは来る。遅れるだけ。待つことは苦ではなく、存在の状態としてそこにある。

    リズベートにとってポールは、「唯一、自分から離れないでいてほしい存在」。
    しかし、それが保証されていないことも、彼女はどこかで知っている。
    だからこそ、可能性の芽を必死に摘み取ろうとする。
    一方、ポールにとってリズベートは、「自分から離れるはずのない存在」。
    自分が離脱することは許されるが、リズベートが離れることは許されない。
    この非対称な認識が、二人の関係を静かに歪ませていく。

    あの部屋は、閉じられ、歪んだ世界だ。しかし同時に、ある種の完全を満たしている。
    選択も成長も、喪失すらも必要としない世界。だからこそ、この物語は恐ろしく、 そして美しい。
    リズベートは、安心してポールを待っている。
    それができる場所に、彼女はもう辿り着いてしまったのだと思う。


    美しすぎる。コクトー様、モンスターやで。

  • この世の全てをそこに閉じ込めたような雑然とした部屋で暮らす姉弟と、二人に関わる男女との、ある種不可思議な暮らし、そしてその崩落とを描いた物語。
    四人は物語の中で、社会からすれば「子供」とは言い難い年齢に達し、それぞれ結婚さえするが、本書の中では徹底して「子供」として、大人には測り難い、不可思議で、清浄で、猥雑で、一種不気味でさえある世界を構築している。
    四人の中に生活と愛と恋とが時折影を落とし、そしてある日のとある一つの謀略をもって、幼くも美しい「子供」たちの世界は瓦解する……あるいはまた、完成したと言っても良いのかもしれない。
    終盤になるまで、部屋と同様に猥雑で悪意に満ちていながら決定的な一打が放たれることはないという姉弟の関係性の描かれ方に辟易し、何を読まされているのだろうと感じていたが、しかし、終盤に描かれる姉弟の世界の美しさと排他性とに呑まれ夢中になった。今日まで残るのも納得の作品であった。

  • 読書会の課題本。後に映画化もされた原著者の代表作。密室に近い状況で、歪な関係を繰り広げる姉弟を描いた中編小説。独特な比喩や修辞が多く、詩的な雰囲気が感じられ、原文で読むとより一層楽しめるだろうと思った。

  • 少年少女幻想
     比喩が多く、そのいちいちが大仰だ。加へて、訳が1957年だから古いのか下手なのか、まるで意味不明だった。

     作者の少年少女幻想についていけない。どうも現実味のうすい話だ。
     病的に無想ばかりしてる不健康な十五、六歳の子供が無垢だ。といはれても、いたづらなどをして悪餓鬼にしか思へない。
     コクトーは子供らが無垢だと書いてゐるがそんなのはただの大人の幻想だ。登場人物がおしなべて15歳やら17歳やら十代後半。どこが無垢なのか。

     描かれてゐる異性愛も正常ではなく、しまひには子供らは自殺してしまふ。そこに美しさがあると言はれても共感できない。悪人にも美はあると同様、理解できない。

     解説には、コクトーが阿片中毒の治療中に書き上げたとある。つまりさういふことだ。小谷野敦は〈コクトーは同性愛者であって、これは同性愛者か女でなければ理解できない〉と書いてゐて、なんだか納得した。

     岩波文庫の翻訳は古い。読むなら、光文社古典新訳文庫の方がいい。
     たとへば、岩波文庫の101頁《彼女はネクタイで腰にゆわえたタオル地の部屋着をひっかけていた。》。特に《タオル地の部屋着》は、新訳では「バスローブ」となってゐる。さらにミカエルはマイケルだ。

  • 3.39/1181
    『詩人コクトー(1889―1963)の手にかかると,子供の世界も,ギリシア悲劇を思わせる格調の高さをもって,妖しく輝き出す.白い雪の玉で傷ついた少年ポールが,黒い丸薬で自殺するという,幻想的な雰囲気の中に登場する少年少女は,愛し,憎み,夢のように美しく,しかも悲痛な宿命をになって死んでゆく.』(「岩波書店」サイトより)

    冒頭
    『シテ・モンチエはアムステルダム街とクリッシー街にはさまれている。』

    原書名:『Les Enfants Terribles』(英語版『The Holy Terrors 』)
    著者:ジャン・コクトー (Jean Cocteau)
    訳者:鈴木 力衛
    出版社 ‏: ‎岩波書店
    文庫 ‏: ‎135ページ

    メモ:
    ・西洋文学この百冊
    ・死ぬまでに読むべき小説1000冊(The Guardian)「Guardian's 1000 novels everyone must read」

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著者プロフィール

(1889年7月5日 - 1963年10月11日)フランスの芸術家。詩人、小説家、脚本家、評論家として著名であるだけでなく、画家、演出家、映画監督としてもマルチな才能を発揮した。前衛の先端を行く数多くの芸術家たちと親交を結び、多分野にわたって多大な影響を残した。小説『恐るべき子供たち』は、1929年、療養中に3週間足らずで書き上げたという。1950年の映画化の際は、自ら脚色とナレーションを務めた。

「2020年 『恐るべき子供たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ジャン・コクトーの作品

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