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Amazon.co.jp ・本 (176ページ) / ISBN・EAN: 9784003260418
みんなの感想まとめ
複雑な人間関係や感情が描かれたこの作品は、独特な語り手によるユーモアと皮肉が際立っています。饒舌な「私」が登場人物たちを突き放しながら物語を進める様子は、読者に新鮮な驚きを与えます。特に、夢見る乙女タ...
感想・レビュー・書評
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本書はロシア近代文学の嚆矢、アレクサンドル・セルゲーヴィッチ・プーシキンの傑作小説。
プーシキンは後のロシア文学界の巨匠、ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフらに大きな影響を与えた作家である。
本書は1832年に完成したプーシキンの韻文小説。
プーシキンは1799年生まれであり、プーシキンが38歳の時(1837年)、自分の妻に横恋慕した友人に決闘を申し込み、その決闘で友人の発射した拳銃の銃弾の傷が元で命を落とした。
プーシキンは1828年生まれのレフ・トルストイ、1821年生まれのフョードル・ドストエフスキーらから見れば父親的な世代であり、その作品だけでなく、生き様についてもロシア近代文学界への影響は大きかった。
本書のストーリーは非常に単純。
主人公は題名にあるエヴゲーニィ・オネーギンと純情な少女タチアーナの二人。
オネーギンは簡単に言えば世間に馴染めないプレイボーイ。女の子を引っかけては捨てるということを繰り返す色男である。
そしてタチアーナはそんなプレイボーイに恋してしまう一途な娘だ。
オネーギンに恋した純情な少女タチアーナはある時、オネーギン宛に恋文を送る。しかし、オネーギンは「自分は貴女の気持ちを受け取れるようなまともな男ではない」と若きタチアーナをあっさりと振ってしまう。
その後、月日が流れ、タチアーナはある貴族と結婚する。偶然、タチアーナを見かけたオネーギンは、美しく成長したタチアーナに狂おしいほど恋し、今度はオネーギンがタチアーナに恋文をしたためる。
オネーギンと再会したタチアーナであるが、オネーギンに対して涙ながらに言う。「わたしは今でも貴方を愛しています。しかし、私はもう人妻となった身、貴方を受けいれることはできません。」ときっぱりと断り、立ち去っていく。
という物語である。
こんな単純なストーリーながら、オネーギンとタチアーナというキャラクターはその後のロシア文学に大きな影響を与えている。
本書で描かれる世の中に対して斜に構えるイケメン主人公のエヴゲーニィ・オネーギンと純情可憐で一途でありながら一本筋の通ったヒロイン・タチアーナ。
特にヒロインのタチアーナはロシア人女性の理想像と言われているのだ。
ロシア文学に興味のある方はぜひ一読してほしい。
この二人のキャラクターを元にしたロシア文学がわんさかあるので、そういった本を探していくのも楽しいものである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
予想以上にヘンな作品で面白かった。何より、「読者にウザ絡みするのはドストエフスキーだけじゃなかったのか」というレベルに饒舌な語り手「私」。歯の浮く蝶よ花よ星よ乙女よから一転して皮肉ったり茶化したり、登場人物を突き放したり。
あまりにも「私」が出張ってくるので、「私」の友人である筈の主人公の虚構性がどんどん強まっていって、ラストでぽん!と放り出す手際の鮮やかさ。あと内気な夢見る乙女タチヤーナは、実は初恋の人を魔王コスで自分の夢に登場させる筋金入りのドリーマーですし。エヴゲーニイ、ロックスターかよ。
一方我らが主人公のオネーギンはと言うと、もっと若い時期に読んでいたら「この碌でなし男」と腹立てたと思うのだが、この年で読むと「こんな生育歴で、こんな神経の調子崩しそうな夜型生活を送って、これでメンタルが不調にならなかったらむしろおかしいだろ」という感想しかなく。そういう意味では、碌でなし男の自業自得ではなく、結構残酷な話ではある。 -
巻末のエッセイが面白かった。オネーギンが哀れで滑稽だった。
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一番好きなロシア文学
キャラクターも多かったり名前が変わったりして混乱せず、スラスラと読めた。
タチヤーナは、ロシア文学で一番好きなキャラクターかもしれない。 -
女性を愛する度合が少なければ少ないほど、それだけ容易にわれわれは女性に好かれ、それだけ確実に女性を、誘惑の網目のなかで滅ぼすものだ。一体むかしの冷淡な漁色家は、至るところで自己喧伝にこれ努め、愛なき快楽にふけりながら、恋の道で名をあげた。だがこうした厳粛な気散じは、光輝ある祖父の時代の猩猩爺ィなればこそふさわしい。ロヴラスたちの名声は、赤い靴の踵や、仰山なかつらの栄誉とともに、今は昔の語り草だ。
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よく見かけるプーシキンの『オネーギン』は抄訳である。
多くの場合、「第四章の冒頭の四節」が削除されている。
私が知っている範囲で、例外は 米川正夫訳の『オネーギン』(新潮文庫)だけである。
本書も抄訳であり、「第四章の冒頭の四節」が削除されている。
しかし、訳者の池田健太郎氏は、わざわざ、削除された「第四章の冒頭の四節」を「注」に載せておられる。
池田氏も、「第四章の冒頭の四節」を惜しんでおれれたのだろう。
池田氏は解説で「初稿にその四節がある」と述べておられるので、後の稿でプーシキンが「その四節」を削除したことがわかる。
池田氏の解説は次のようである。
<初稿に次の四節がある。
「人生の門出にあたって、私を支配したのは、うるわしい、さかしげな、か弱き女性であった。私はそのころ、女性の気まぐれをただ一つの掟と考えていた。魂はただ燃えさかる一方で、私の胸には女性が清らかな神とさえ映った。情緒と知恵を兼ねそなえている女性は、完全無欠な姿として輝いて見えた。女性の前では私は音もなく溶け、彼女の愛は高嶺の花と思われた。愛らしいその足許に生きて死ぬこと、――それ以外、何の希望も私は持ち得なかった。」
「時によると、私は突然女性を憎悪し、おののいて涙を流し、哀愁と恐怖を抱きつつ、女性のなかに意地の悪い、秘密の力の作った創造物を見た。刺すような彼女の目差も、微笑も、声も、話しぶりも、一切が彼女の内部で毒に染み、悪意の裏切りに酔い、一切が彼女の内部で涙と呻きに飢え、私の血をすするように思えた。・・・かと思うと、また私は突然、女性のなかに祈禱前のピグマリオンの石像を見た。その石像は、今はまだ冷たくて口もきかないが、やがて祈禱とともに暖い、生ける女性となるのである。」
「物知りの詩人の言葉を借りて、私もこう言わせてもらおう。――『テミラもダフニスもリレータも、はや夢のごとく忘れ去りぬ』と。だが彼女らの群れのうちにただひとり・・・長らく私の心を捕えたひとがいた。――ただ、私が愛されていたのか、誰に、またどこで、久しい間なのか、などということは、諸君の知るべきことではない。問題はそんなことにはない。昔のことは、過ぎ去ったこと、詰まらぬことだ。問題は、その時いらい私の胸が冷え切って、かたくなに恋に扉を閉ざし、一切が空しく、暗くなったことである。」
「私はこう悟った、婦人たちは、内心の秘密に背きながら、自分自身を正直に値ぶみして、われわれ男性を讃美することができないのだと、女性にとっては、われわれの歓喜は気まぐれな座興に見える。実際、われわれの側から言っても、われわれは勘弁ならぬほど滑稽なのである。われわれは不用意に奴隷に身を落として、その褒美に女性の愛をあてにする。まるで蝶や百合の花に深い情けや情熱を求めることができでもするように、狂気に駆られて愛を呼ぶのだ。」>
参考に、米川正夫訳の『オネーギン』(新潮文庫)の「第四章の冒頭」を紹介する。
<1
かつてわたしは生涯の初めの頃に、
美しくて狡猾(さかしら)な、弱い女性に支配され、
この頃はまるで女の気紛れを、自分に取って
唯一の掟と心得てゐた。
魂はたゞひたすら燃え立つて
女性は一種純潔な
神體とすら思はれてゐた。
情も智も具備した女性は
完成の美に輝くやうに思はれた。
女の前へ出るとたちまち意久地なく
溶けて流れるやうに感じた。女の愛は
及びもつかぬ幸福とさへ思はれて
懐かしいその足もとに、生きかつ死ぬる――
それよりほかになんの希望も持ち得なかつた。
2
しかしまたある時は、急に女性を憎み始めて
悶えたりまた、苦い涙を流したりした。
女性はすべて意地悪な、神秘な力の創造物と
きめてしまつて、愁ひに沈みまた慄然と戰いた。
突き刺すやうなその瞳
ほゝ笑み、聲音(こわね)、話しぶり
何もかも毒に充ち滿ち
ても恐ろしい裏切に息づいてゐる。
すべて涙と、呻きの聲に餓ゑ渇き
人の生き血を糧(かて)としてゐる・・・けれどわたしは
また不意に女の中に、ピグマリンオンが
祈の前の石像を見る。それはまだ
冷たく口を噤んでゐるが、やがて間もなく
温い生ける女人(によにん)となるのであった。
(3、4は略)>
いやはや、我が身を顧みて(省みて)、恋愛(特に初恋)とはこういうものだった、という感慨を強くする次第である。
なお、新潮文庫版より高い値段だが、『完訳 エヴゲーニィ・オネーギン』(群像社、1996年)がある。
<ロシア詩研究者である小澤政雄氏が30数年前に構想を練り始め、晩年になりようやく完成させた幻の書。>
<日本語版『プーシキン全集』にも未収録の作者自注と削除された断片をおさめた初の完訳。最新の研究成果にもとづく詳細な注釈付き。>
という評判である。
研究者向けの本ようだが、読んでみたい。
お終い -
ドストエフスキーを何作か読んだ後だったので 非常に軽やかで洒落ていて爽やかな文章!
物語の流れもスムーズでした
叙情的な情景描写はとてもいいと思います
多少というかかなり登場人物の心理について理解できないのはもう ほぼ ロシア文学 はだいたいそうなので いつもよりかは 読みやすい かなと思いました
若者の恋愛のすれちがいというとなかなか安直ですが、そこだけにおさまらない 精神的なゆらめきがきらめいていたような
文章の流れは素晴らしいと思います
たぶん、訳も良い。 -
散文というより詩のような形で、ふつうに読んでいては意味を持たない文章が多く読みづらい。
展開は単純だが面白く、時々語り手が物語と読み手の間に出てくるため、その距離感の変化は妙に冷めた感覚をもつ。 -
『エヴゲーニイ・オネーギン』はプーシキンの代表作であり、ロシア文学史上最高傑作の一つに数えられています。 この作品はドストエフスキーに多大な影響を与え、彼の最晩年のプーシキン講演の中心主題もこの『エヴゲーニイ・オネーギン』でした。 そしてこの作品は19世紀ロシアだけではなく、今でもロシア人に愛されています。 私の通うロシア語教室の先生も「プーシキンは私たちの全てです。彼は本当に素晴らしいです。ロシア人の心が彼の詩にあります」と仰られていました。
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散文詩調というのか、なかなか文章にはまることができず、内容もよくわからなかった。ツルゲーネフのはつ恋に近いか。
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◆神戸市外国語大学図書館「韻文小説」
https://www.kobe-cufs.ac.jp/library/recommend/materials/e_68.html
◆RUSSIA BEYOND "詩人アレクサンドル・プーシキンの韻文小説『エフゲニー・オネーギン』のショートサマリー"
https://jp.rbth.com/arts/86796-pushkin-evgeny-onegin -
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恋のすれ違いを描いた作品。
まだ少女だったタチヤーナは初恋の人オネーギンに恋文を認めるが、オネーギンはそれをけんもほろろにあしらってしまう。
数年後オネーギンは上流階級が集まる社交場でタチヤーナを見かけたが、今度は彼が彼女に惹かれてしまった。
タチヤーナは心の奥底ではオネーギンをまだ慕っているものの、既婚者という立場上オネーギンを冷たく突き放すのであった。
タチヤーナのオネーギンに対する態度は立派であると思うと同時に、親族からの期待を背負いそうせねばならない彼女の立場を考えると息が詰まる思いだった。
200年ほど前のロシアの貴族の生活の様子が描かれていて興味深い。
いまいち理解できない部分も多く、当時の国際関係や文化を知っていればより楽しめたと思う。 -
ロシア政治の先生に勧められ購入。
ロシア式の自由主義はヨーロッパ製のものとは違う、怠惰なものでありそれをよく表現している作品だという。オネーギンはこの時代の青年貴族の象徴的存在であり、国民性がよくわかる。タチアーナはロシアの美徳を表しているという。色んな解釈が出来そうだ。 -
峻厳・・・非常にきびしいこと。
ex:私は冬のように冷ややかで清らかで、近づき難い、峻厳な、無欲てんてんたる、不可解な美女たちを知っている。
嬌態の女(コケット)は冷静に男心を判断するが、
炯眼・・・鋭い目つき
ex.炯眼なる詩人トリケ
階段(きざはし)
ex.この世の階段のうちで、
若い時に若かった人は仕合わせである。
よい時期に成熟した人は仕合わせである。
衒学(げんがく)
ex.卑俗なテーマも永遠の心理も衒学趣味さえ聞かれぬ分別くさい話が、それをさえぎる。
焦がれ死
媚態(びたい)
主顕節(しゅけんせつ)
ex.主顕節のころの厳しい寒さ -
おすすめ資料 第68回 「韻文小説」を読む(2008.7.4)
韻文と聞くと、普通「詩」「ポエム」を想像しますが、韻文小説というのはあまり聞き慣れないかもしれません。
これは、文字通り「韻文の形式で書かれた小説(роман в стихах)」を指します。
文学のジャンルの中に韻文小説というものが明確に確立されているとは言い難いようなのですが、これはなかなか「スゴイ」ジャンルです。
きれいに韻を踏んだ表現が延々と連なって1本の長編小説となっているのですから。
その代表作品が『 エヴゲーニィ・オネーギン(Евгений Онегин)』(1823-31)。
作者はロシア文学の父と呼ばれるアレクサンドル・プーシキン(1799-1837)です。
独特な文体をもつ韻文を、しかも外国語で読むのは難しいでしょう。
でも、あえてこれをお勧めしたいのは、意外とわかりやすいロシア語で書かれており、恋愛が主なテーマとなっていて親しみやすいからです。
ロシア文学は「重い」「暗い」「名前が長い」と敬遠されやすい傾向がありますが、プーシキンの描く明るい雰囲気に触れると、ロシア文学の違う一面を見ることができるでしょう。(『オネーギン』自体は、コメディでもハッピーエンドでもないのですが、それでも!)
簡単にあらすじを紹介すると、ニヒルでダンディなオネーギンに田舎娘のタチヤーナが一目惚れをします。
タチヤーナは彼に情熱的なラブレターを送るけれど、オネーギンは相手にしません。
その後、すったもんだがありオネーギンは放浪の旅に出ることに。
月日は流れて、タチヤーナは公爵夫人となり社交界でももてはやされる存在になります。
そんな彼女に再会したオネーギンは今度は自ら彼女に愛の告白をします。
その結果、・・・は読んでのお楽しみ。
ロシア語にいきなり挑戦するもよし、翻訳がいくつも刊行されているので、並べて読み進めるもよし。
他に文学全集の中にも収められています。
例えば、金子幸彦訳が収められている筑摩世界文学大系30巻『プーシキン ; ツルゲーネフ』筑摩書房や木村浩訳が収められている世界文学全集23巻『オネーギン他』集英社など。翻訳を読み比べるのも楽しいし、翻訳と原文を付き合わせて、ロシア語の詩の世界を味わうのもよいでしょう。
翻訳の中で注目に値するのが、小澤政雄訳『完訳エヴゲーニイ・オネーギン』です。
他の翻訳は散文の形式をとっているのですが、小澤訳のものは詩の形式を保持しています。
どちらが読みやすいかは好みによるかと思いますが・・・。
なお、「ちょっと読んでみようかなぁ、(本を開いてみて)・・・読みにくいじゃん」という方には『オネーギンの恋文』(1999年イギリス)という映画をお薦めします。
もちろん『エヴゲーニィ・オネーギン』を題材に撮影された映画です。
「ロシアっぽさ」に欠ける嫌いがありますが、ストーリーを味わうことはできるでしょう。 -
リズムがよくて、描き方も詩人の作品だなぁ、といった感じ。7章あたり、主をなくした本を読む場面が好き。あと気になったのは、あまりに脚注が多すぎることかなぁ…。
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ロシア人はプーシキンのこの作品のロシア語に魅了されるとのこと.
もともと韻文形式を日本語の散文として翻訳してあるが,短い文節の小気味良いつながりはなんとなく想像できる.ただ,やはり原文を読まないかぎり,完全に味わうことはできないらしい.
アレクサンドル・プーシキンの作品
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