平凡物語(下) (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003260661

作品紹介・あらすじ

次々と苦い現実に直面し、幻滅を重ねていく主人公。理想を抱いていた青年がやがて世間ずれした俗物と化す。『平凡物語』とは、およそありがちな過程をたどっていく一人の人間の、微苦笑を誘う平凡な歴史の物語である。

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  • 19世紀ロシアの小説家で『オブローモフ』でも知られるゴンチャロフ(1812ー1891)の処女長編小説、1834年。

    或る極端な形の青春とその終焉を描いた物語。全ての人間は、自己の内面に沈潜しそこに自閉しようとする空想屋アレクサンドルと、世俗的な価値観で身を包んだ俗物ピョートルと、その両極端のグラデーションの内のどこかに位置しているだろう。そして一般的には、青年時代はアレクサンドルの側の極に近く、そして恋愛・友情・精神的野心・世俗的野心に挫折し、現実というものに対して徹底的に幻滅する過程で、次第にピョートルの側の極へと遷移していくだろう。

    アレクサンドル的な人間の困難は「現実世界において何者にもなり得ていないこと」に起因するが、同時に彼の自我が最も恐れていることは「現実世界において或る何者かとして限定されてしまうこと」であると思う。自由=無限の可能性=自己超越の可能性=不定態、その否定としての社会的役割。

    アレクサンドルの青春の蹉跌は、一言で云えば「感情のアナーキー」によるものと云える。何者でもない彼は、潔癖であろうとすることを自己の拠り所としようとした。彼は、精神の無限性を計量可能な有限性に切り詰めてしまう打算・計算的理性・功利性といったものを徹底的に峻拒すると同時に、市民的節制という中庸の裡に身を律することも潔しとせず、どこまでも極端に走り観念に潜り独善へと強張っていく。彼は自己の内的領域を極大化しようとし、同時に世界と他者の領域を極小化しようとする。肥大化した自惚れは傲慢と自己卑下の両極端に揺れるが、いづれにせよ「内面=全」の自己中心主義がロマン主義の正体か。



    感情がアナーキーに横溢するアレクサンドル的人間と、感情を理性で統御するピョートル的人間と、その対照。アレクサンドル的人間からすれば、次のピョートルによる空想家に対する批評は、殆ど何を云っているのか分からないくらいにその人間観が転倒してしまっているように聞こえるだろう。

    「出来ないのは勘定だ。つまり物を考えることだよ。・・・。歓喜、熱狂――そんな時こそ人間は最も人間らしくないんだ。・・・。まずその人は感情を支配することが出来るかと聞いてみなければいけないよ。もしそれができるなら、彼は人間だ……」(上巻p155)。

    空想的なロマンチストの眼に映る現実だとか生活だとか社会だとかいうものは、巨大な屍骸じみていて、そこを平気な顔で闊歩する現実主義の連中はあたかも屍体性愛者のようだ。

    「こうして書類は次々と渡って行き、その作者は死んでも、書類そのものは、どこにも紛失しないで、いつまでも存在している。さていよいよ書類が百年の埃をかぶるようになっても、まだその書類を引っぱり出して照らし合わせるのである。こうして毎日、毎時、今日も、明日も、いつまでも官僚機構はなめらかに、小やみなく働いている。それは人間なんかいないで、車輪とばねばかりのようなものだ……」(上巻p160)。



    青年アレクサンドルの言動の中に、それを批評する世慣れした大人たちの言葉の中に、嘗ての自分の姿が認められる。彼のような青年期を人生のうちにもったことのある者にとって、これは苦い読書体験になる。

    「しかし彼は叔父ばかりではなくて、彼のいわゆる、群衆をも避けていた。彼は自分の女神に拝跪するか、でなければ自宅の部屋でただひとりその幸福をむさぼり、それをきりもなく小さな原子にくだいて、分析していた。彼はそれを「特殊世界の創造」と称し、孤独の中で本当に無から一種の世界を創造して、主にその中に住んでいた。また勤めはにがき必要とか、必要な悪とか、悲しき散文とか名づけて、時たましぶしぶと顔を出していた」(上巻p237)。

    「自分の我を相手に話すことは、彼にとって最高の喜びであった。「人間はひとりでおる時にのみ、鏡に映すように自分を見ることが出来る」と彼はある小説の中に書いた。「その場合にのみ彼は人間の尊厳と価値を信ずることを学ぶのである。自分の精神力とこうして対話するときの彼は何というすばらしさであろう! 彼は首領のように自分の精神力を鋭く見回して、聡明に考えぬいた計画に従ってそれを整列させ、その先頭に立って驀進し、活躍し、創造するのだ! これに反して孤独になり得ない人、孤独になることを恐れる人、孤独を避けて常に他人との共同生活を、他人の知慧と心を求めている人は、何という見すぼらしさであろう……」」(上巻p238)。

    「彼は自ら人生を一つの拷問に作りかえているのだ」(下巻p26)。

    「作家というものは、第一に、個人的な熱中や偏愛に動かされない場合に初めてまとまった物が書けるのです。作家は落ち着いた、澄みきった眼で人生と人間一般を見渡さねばなりません。でないと彼は誰にも用のない自分の我だけしか表現しないのです」(下巻p86)。

    「誰か若くして愚かならざる者あらんや! ですよ。決して実現の見込みのない、変な、いわゆる秘めし思いを持たない者がありましょうか? ・・・。僕は天から創作の才を授かっていると考えて、世界に前人未到の秘密を知らせてやろうと思っていたのですが、それが秘密でもなく、僕は預言者でもないことなど疑っても見なかったのです。われわれは誰でも滑稽なんです。しかし一つ伺いますが、わが身をかえりみて赤面することなしに、こうした少年期のいくらか度はずれたところはあっても、高尚で熱烈な空想をののしり辱める者がありましょうか? さらにそれぞれ無駄な空想も抱かず、自分を勇敢な壮図や仰々しい頌歌や、雷名とどろく小説の主人公と空想しなかった者がありましょうか? 高尚でうるわしいものに共鳴して泣かなかった者がありましょうか?」(下巻p357ー358)。

    「人生を見つめ、心と頭に疑問を投げて、彼がぞっとした思いで覚ったことは、どちらを向いても何ひとつ薔薇色の希望がなくなっていることであった。すべてはもはや昔のこととなっていた。もはや晴れて、眼前にはむき出しの現実が草原のようにひろがっていた。おお! それは何という無限の空間だろう! なんという退屈な、悲しげな光景だろう! 過去は亡び、未来はみすぼらしく、幸福はなく、すべては幻なのに、しかもなお生きて行かねばならないのだ!」(下巻p200ー201)。

    間延びしすぎた青春の日々が精神的にも生理的にもいよいよ持ち堪えられなくなり、その終わりが予感されるとき、アレクサンドル同様の「平凡な結末」を、自分も迎えることになるのだろうか。



    本書の中にも散見されるが、自己の内面へと沈潜して現実世界に直面することを忌避する青年を批判するとき、ジェンダー化されたメタファーが用いられることがある。則ち、「観念=自己を包み込む大いなる母への依存から脱して、現実への冒険へと踏み出す勇気ある男性性を獲得する」という具合に、それは「マザコン男」批判と同じ調子を帯びる。

    「しかし当人にとってずっと不幸なことは、母親があんなに優しかったにもかかわらず、彼に本当の人生観を授けることが出来ず、彼の(そしてあらゆる人々の)行く手にふさがる障害を突きやぶる用意をさせていなかったことである。・・・。可愛がり方はたとえ少なくとも、ちょっとの間も忘れずに考えてくれなくとも、心配ごとや不愉快事を片っぱしから払いのけてくれなくとも、また子供の頃から身代りになって泣いたり苦労したりしてやらなくとも、自分で雷雨の近づきを覚らせ、力を整えさせ、そして自分の運命を考えさせる――つまり、自分は男だと覚らせる――ことが必要であった」(上巻p29)。



    現実主義/理想主義という二項関係は、いろいろな分野でさまざまな形で変奏されているように見える。その意味で、それは或る普遍性をもった構図であるように思われる。似たような印象の対概念を思いつく限り。

    調和/破綻、中庸/極端、充足/過剰、順応/逸脱、謙虚/傲慢、従容/焦燥、冷静/情熱、冷笑/恍惚、持続/瞬間、日常/非日常、現/夢、朝/夜、健康的/病的、生/死、外/内、肯定/否定、幸福/自由、存在/当為、実生活/美、ブルジョア/芸術家、断片化/全体性、古典主義/ロマン主義、唯物論/観念論、ソフィスト/ソクラテス、ゲゼルシャフト/ゲマインシャフト、目的合理性/価値合理性

  • 田舎から出て来た青年が叔父さんを手本に一人前の男に成長する様子を描く。結構な皮肉の効いた作品だが、グレイズドーナツの糖衣のように優しさに包まれたもので、不快なものはない。辿った道は世間で言われているこうあるべきものという体制というか、形にはまるために本来持っている純粋な気質を押し殺す行為だった。当然妻の心の機微を感じられるような感受性は持ち得ない様子で、叔父の妻が光の存在のように描かれるが、甥も夫と同じ存在になってしまったと嘆く。叔父さんは妻の気持ちに気づいても、甥の歩む道に関しては何も言わない。

  • 叔母リーザのように、アレクサンドルのあの手紙の立派な思い、考えに感心したものだったが、アレクサンドルはまた変わってしまった。
    結局、血は争えなかった。
    アレクサンドルは、叔父ピョートルの後ろを行く。
    一方ピョートルは、それまでの自分の行いがリーザの病を引き起こしたことを反省し、地位も富も売り払ってリーザのために尽くす決心をする。
    対極した二人の物語は、流動し、訓戒を残して幕を閉じた。
    二人の姿は、現代にも通ずる。
    不変的な、正しい生き様・哲学などないのであろう。
    人が与えたとしても、選びとって実際に当てはめるのは自分。責は結果とともに、自分の元に戻る。
    結局は、自分の生き様は自分で決めて、動き、考え、修正を繰り返していく他はないのだ。

  • 相変わらず迷走してる甥。
    そして容赦のない叔父。あの依頼を受けて、甥はピンと来なかったのかな?

    二人に対して叔母のバランス感覚がいい。
    甥の夢を壊さず、上手く気持を引き立ててあげる優しさ。
    なぜ叔父みたいな人と結婚したのか不思議。条件だけでは幸せになれないことを知っていそうなのに。


    ラストは解説にあったように唐突な感じがある。
    甥はいくら理性の人になろうとしたところで、また素晴らしい音楽や、美しい女性に出会ってしまえば簡単に揺らいでしまうように思う。
    しかし叔父夫婦に関しては、もっと早くにそんな状況にならなかったのが不思議なくらい。

    最後の二人の会話にはニヤッとした。
    愛情を表すのに「卑しき金属」を貸したがるのが叔父のダメなところであり、かわいげでもあると思う。

  • 上巻参照。

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