罪と罰〈下〉 (岩波文庫)

制作 : 江川 卓 
  • 岩波書店
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レビュー : 77
  • Amazon.co.jp ・本 (431ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003261378

作品紹介・あらすじ

ルージンの卑劣な工作により窮地に立たされたソーニャを弁護したラスコーリニコフは、その後ついに彼女に罪の告白を…。贖罪をうながすソーニャに、彼はつぶやく。「もしかすると、ぼくはまだ人間で、しらみではないのかもしれない…」(全三冊完結)。

感想・レビュー・書評

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  • 19世紀ロシアの小説家ドストエフスキー(1821-1881)後期の長編小説、1866年。

    一般的には、実存思想の先駆とも云われ、思想小説と見做される。しかし、主人公ラスコーリニコフが殺人に到るまでの心理描写や、予審判事ポルフィーリイとの論争場面、さらに終盤のスヴィドリガイロフとドゥーニャとの緊迫したやりとりなどには、推理小説さながらの迫力と戦慄が感じられる。さらに、都会の貧苦に喘ぐ人々を描いた社会小説とみることも可能であろうし、エピローグに於けるラスコーリニコフとソーニャの姿は深遠な愛の物語ともなる。ドストエフスキーの作品には、小説という文学形式の多様な相貌が詰まっているように感じる。ときに難解と云われながらなお読む者を惹きつける所以の一つではないか。

    ドストエフスキーの作品に対する個人的な印象として、冗長なまでのお喋りと偏執的なまでのリアリズム的描写と、この二つの過剰さがある。そこから、ドストエフスキーに独特の息苦しさを感じてしまうことがある。本作品でもそれは変わらない。文章を長く引き延ばして少しでも高い原稿料を得るためにそうしたのだという話も聞いたことがあるが、そうした彼の文体と小説の思想内容との間に何か関連が在るのか無いのか、興味がある。

    ○「青年」像の現代性

    ときに「現代の預言書」とも称されるほどにドストエフスキーの小説が帯びているとされる現代性は、この長編小説の冒頭に既に現れているように思う。或る暑い日暮れのペテルブルク、登場したラスコーリニコフは、不安・不穏・不機嫌・自意識を重苦しく抱える現代の青年の姿であった。観念的で独善的で極端に走りやすく、自尊心が強く他者を見下し、疑心暗鬼と神経症に苛まれ、内省的で没社会的で都会の孤独の裡にありながら、内面に於いて過剰な自意識が世界との闘争を演じている、そんな青年は、我々自身であるところのあの病的な自己意識の姿は、ドストエフスキー以前の文学作品には登場していないように思う。大袈裟に云えば、世界文学史上の画期ではないか。第一部冒頭のラスコーリニコフの姿は、現代における一つの典型的な青年の登場であると感じられた。

    こうした都会の孤独な青年の内面が、人間存在に於ける機制としての「実存」という在り方を、ひとつの時代精神として、云わば作りだしていく invent していくことになったのではないか。

    「大学時代のラスコーリニコフには、ほとんど友人というものがなかった。みなを避けていて、だれを訪ねるでもなく、だれの訪問を受けるのもきらっていた。もっとも、みなのほうでもすぐと彼には背を背けた。学内の集会にも、学生仲間の雑談や気晴らしにも、彼はなぜかいっさい加わろうとはしなかった。勉強は骨身を惜しまずするほうで、そのことでみなの尊敬を受けていたが、だれも彼を好こうとはしなかった。彼はひどく貧乏なうえに、妙に人を見下したような、つきあいにくいところがあり、何か自分だけの秘密でも持っているふうだった。一部の友人たちの目には、彼がみなを子どもあつかいにして、知能も、知識も、思想も、自分が一段上だといわんばかりにお高くとまり、ほかのものの思想や関心を何か低級なものと見ているように映った」

    「……陰気で、気むずかしくて、傲慢で、気位の高い男……疑り深くなって、ヒポコンデリー[自分は病気に罹っていると思い込む不安障害の一種]気味……自分の感情を人に話すのが嫌い……ただ冷淡で、人間らしさが感じられないほど無感動になる……まるで相反したふたつの性格が交互に現れて来るみたい……いつも暇がない、邪魔をするな、と言うのが口癖のくせに、その実は、ごろごろしてばかりいて何もしない。皮肉は言わないけれど、それも機知が欠けているからじゃなくて、そんなくだらんことにつぶす時間の持ちあわせはないといったふう……人の言うことは半分までしか聞かない……その時点でみなが関心を持つことには背を向けてしまう……」

    ○罪/罰

    「罪」とは何か。原語は преступление 、「越える」を意味する接頭辞 пре (英語の ex-, over-, super- )と「歩む・踏む」を意味する動詞 ступить(英語の step )との合成語であるという。則ち、神の掟や共同体の法を「踏み越える」ということ、それが「罪」であると。物語の冒頭、貧しく酒に溺れた小官吏マルメラードフが云う。「わかりますか、あなた、わかりますか、このもうどこへも行き場がないということが?……だって、人間、せめてどこかへ行き場がなくちゃいけませんからな」。この行き場のない出口無しという情況、これこそはラスコーリニコフをはじめ多くの内省的な青年が投げ出されているところの境位である。過剰な自意識がついに世界大にまで拡大してしまった青年にとって、現実世界は余りに卑小であり、そこに自己の存在を根拠づけることはできない、自己の存在余地は無い。なぜなら、自己とは本来的には全き可能態・不定態であるにもかかわらず、現実世界がそのような自己に対して無数の卑小な限定を課してくる、というのがここでの情況であるから。そのようないま=ここからの"突破"としての、"踏み越え"としての「罪」。それがラスコーリニコフにとっての老婆殺害の形而上的意義だった。現実の社会関係の裡で自己に負わせられるあらゆる概念的規定=属性の限定を脱ぎ棄てて、可能性の縮減という暴力を超え出ようとする、無限定への志向、則ち実存の超越的機制が、ラスコーリニコフをして「罪」に向かわしめた。

    「だいたい、人間は何をいちばん恐れている……? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それをいちばん恐れているじゃないか……」

    「いまの彼にとっては、過去の一切が、はるか下方、見えるか見えないかの深い底に行ってしまったように思われる。以前の考えも、以前の問題も、以前のテーマも、この眺望全体も、彼自身も、いや、すべてが、すべてがそうなのだ……あたかも彼自身がどこか高みへ舞いあがり、いっさいが彼の視野から消えてしまったようでもある……」

    ところで、この超越への志向の裡には「支配への欲望」が含まれている。ラスコーリニコフは自分が単なる客体=「凡人」=「しらみ」=「操作される側」=「法・倫理に服従する側」=「保守的」=「世界を維持する側」であることに我慢がならなかった、彼は絶対的な主体=「非凡人」=「人間」=「操作する側」=「法・倫理を踏み越える権利をもつ側」=「破壊的」=「世界を変革する側」たることを欲していた(「たんなる存在だけでは、彼にはいつも不足だった。彼はつねにそれ以上のものを望んだ」)。彼は自分が全てを超越し得る存在であるということ、則ち実存のその絶対的な自由性(「つまり、いっさいが許されるんだ」)を、証立てたかった(「ぼくは……ぼくは思いきってやりたかった、だから殺した……ぼくはね、ソーニャ、ただ思いきってやりたかったのさ、それが原因のすべてだ!」)。次の言葉には、ラスコーリニコフに於ける実存への志向と支配への欲望とが実は表裏一体である、ということがよく表れている。「ぼくがあのとき、一刻も早く知りたいと思ったのは、自分はみなと同じようにしらみなのか、それとも人間なのか、ということだった。ぼくはふみ越えることができるのか、それともできないのか!」。この言葉は彼の「凡人・非凡人」論と同根である。

    「罪」へと踏み出すことによってラスコーリニコフの情況はどのように変わったか。彼は絶対的な自由・絶対的な主体性を求めることで、それと表裏の関係にあるところの絶対的な孤独へと到った。それは神の喪失であり共同体からの追放である。あらゆる人間的な意味づけや存在根拠を失った、ニヒリズムという地獄である。「罰」と云うならば、これが「罰」であろう。「この瞬間、彼は、いっさいの人間といっさいのものから、自分の存在を鋏で切りはなしでもしたように感じた」。世界からの、人類からの、意味からの、隔絶である。絶対的な自己喪失である。目的合理的連関の円滑なつながりの裡に埋没していれば享受できた安っぽい幸福としての安楽もあったであろうに、人間を即物的に限定するそうした連関を拒絶し無化しようと志向する実存は、「偉大な苦悩と悲しみ」を味わわなければならない。

    そしてこのニヒリズムそのものが、やはり行き場も出口も無い=外部の無い境位なのである。なぜなら、実存は無際限の自己否定=自己超越の運動の裡にあるが、こうした実存の超越的機制によって到達し得るのが一切の概念的規定の無化という境位である以上、ニヒリズムを超越した先もまたニヒリズム以外では在り得ないから。ニヒリズムからの超越を志向する実存の運動それ自体が、予めニヒリズムの裡に内在しているのだから。「Aからの超越という機制それ自体が実はAへの内在に他ならない」という実存に於ける超越=内在の機制としての自己関係性、これこそが出口無しという情況の正体ではないか。

    ○共感共苦としての愛

    絶望しか在り得ないこの情況にあってなお希望が在り得るとすれば、それはそこに於ける苦悩そのものではないか。物語の終幕でドストエフスキーは、ラスコーリニコフとソーニャの二人が、お互いの愛によって救済されることを示唆している。それは、"踏み越え"てしまった「罪」人である二人が、唯一手にした「罰」としての孤独と苦悩を共感共苦することで可能となったのではないか。

    「ふたりはどちらも青白く、やせていた。だが、この病みつかれた青白い顔には、新しい未来の、新しい生活への全き復活の朝焼けが、すでに明るく輝いていた」

    「彼はただ感じただけだった。思弁の代わりに生活が登場したのだ」

    実存の無限運動の行き着くところは、ニヒリズムか/他者への自己喪失か/土壌回帰(イデオロギーへの頽落)か、これらのいづれかであろうか。

    ○「凡人・非凡人」論批判

    ラスコーリニコフは、自身が犯した「罪」を正当化するために、以下のような論理を用いた。則ち、人間は「凡人」と「非凡人」の二つの部類に分けられる。前者は生殖で個体数を殖やす以外に能の無い低級な人間で、後者は「新しい言葉」を発する天賦の才によって全人類のために世界を変革する人間である。そして後者は新しい世界秩序を実現するという目的のためならば旧体制を破壊しその法を踏み越える権利を有する。なぜなら、失われる「凡人」の生命の価値は、「非凡人」によって実現される新秩序の価値に比べれば無に等しいから。そして、老婆は「凡人」であり自分は「非凡人」である以上、自分は彼女を殺害する権利を有する……。ここには、実存という哲学上の観念とファシズムという政治的イデオロギーとの危うい親和性が、典型的な形で表れているように思う。両者はどのくらい近く、またそれぞれを分かつ点はどこなのか。

    まず、この「凡人・非凡人」論に於いて、「凡人」/「非凡人」は如何なる指標によって区別されるか。「凡人」は自己自身に対して無自覚な云わば即自的な存在として世界に埋没しており、あらゆる局面で object level に在る。一方、「非凡人」は自己を意識する対自的な存在として世界から超越しようとしており、自己に対しても他者に対しても meta level に立とうとする。「非凡人」には、あらゆる他者からの限定的規定を超越しようとする「力への意志」がある。つまり、実存への覚醒を果たしたか否かが、両者を区別する指標となっている。ラスコーリニコフはここで、実存の超越という機制への覚醒を、共同体に於ける「選民」たる"条件"としているのである。しかしそれは、実存を実体化しているという点で不可能である。なぜなら、実存を object level に措定して肯定的規定によって語ることは不可能であるから、実存とは不定態への志向性であるから。「実存に覚醒した英雄」などというものは成り立ち得ない。

    ところが、こうした俗人俗世からの"突破"の志向が政治権力に回収・包摂されてしまうとき、それは20世紀のファシズムと重なってくるのではないか。ファシズムとは、特定の政治共同体を所与として、予めその外部への超越を暗黙の裡に取り下げてしまっている、そのような不徹底性により政治化してしまった、実存主義の頽落形態の一つではないか(それはまさに、恣意性を隠蔽し普遍性を僭称する虚偽意識=イデオロギーそのものである)。自己自身に徹底性を要求する実存主義が不徹底であるということは語義矛盾ではあるが、ファシズムとはこのような歪さを含んだものではないか。

    「罪」としての"突破"は、あらゆる政治権力・あらゆる共同体・あらゆるイデオロギーに対して、一切の手加減をすることができない。実存の不徹底な超越なぞ自己矛盾でしかないのだから。そしてこの徹底性ゆえに、それは、実存の超越への志向を可能としている機制それ自体へと向けられる自己否定=自己超越の無限運動でなければならない。土壌をその都度毎に喪失し続けるしかないこの自己関係的機制の相に到ることで、この永久運動の志向ならざる志向性のその無限遠点に於いて、実存主義はファシズムへの頽落を不可能にも免れ得るのではないか。

    ドストエフスキーは文学に於いて初めて本格的に実存主義を展開したが、彼の思想の射程には実存主義的なテロリズムとしてのファシズムまでもが含まれていたのではないか。

  • 最終巻は中巻以上にクライマックスの連続である。ソーニャに罪を告白するラスコーリニコフ。どこまでも彼について行くと決意するソーニャ。ポルフィーリイとの最後の対決。思想と道徳と信仰と愛憎、さまざまな思いの間で激しく揺れ動きながら、ついにラスコーリニコフは自ら警察に赴き自白する。ここで本編は終了となる。

    エピローグでは、シベリアで服役する彼の様子が描かれる。相変わらず自分の殻に閉じこもって思索に耽る彼は、囚人仲間からも嫌われて孤立している。自分を追ってシベリアに来てくれたソーニャにまで八つ当たりする始末である。しかし、次第に彼の中でソーニャの存在が大きくなっていき、いつしか彼女の面会を心待ちにしている自分に気づく。そしてある日、自分にも理解できない衝動に駆られて、彼は突然ソーニャの前にひざまずいて泣き崩れる。今度こそ愛によって自分の前にひざまずいた彼に、ソーニャもまた深い愛を覚え、互いにかけがえのない存在であることを確信する。そうして二人が残り7年の懲役をともに乗り切ろうと決心したところで、この大作は幕を閉じる。

    陰鬱なタイトルからは予想できない美しいエンディングである。主人公の魂の復活を予感させる荘厳さは、いっそ神話的といっていいくらいだ。無神論者の私でさえ感動するくらいだから、キリスト教圏の人はこの「聖女の勝利」を前に、きっと私には想像できないほど熱狂的な法悦を感じるのだろう。

    しかし実は、この結末は未解決の重大な問題を含んでいる。ラスコーリニコフは確かに愛に目覚めはしたが、殺人については結局すこしも反省することなく終わってしまっているのだ。彼が自分を責めるのは、初心を貫けず自首してしまったという点だけで、例の凡人・非凡人論については「どこが悪かったんだ?」と本気で自問を繰り返し、最終的には「おれの良心は安らかだ」という結論に達している。それに対する論理的な反駁は、作中ではついに提示されないままだ。

    それだけではない。これは本編のエピソードだが、ラスコーリニコフに自首を勧める時のポルフィーリイの言葉がこれまた奇妙である。「ああいう一歩を踏みだした以上、心をまげないことです。それこそ正義ですよ」。これでは反省を促すどころか、逆に「きみはその路線で行け」と発破をかけているようなものだ。殺人犯に対して、司直がそんなことを言って良いのだろうか。

    まるで作者は、一方ではソーニャの言葉を借りて「神の摂理に従え」と説きながら、一方ではポルフィーリイの言葉を借りて「その意気やよし」と是認しているようにみえる。この矛盾をどう解釈すればいいのだろう。結局ドストエフスキーは何を言いたかったのか。必然的に疑問はその一点に集約される。

    その疑問に答えるためには学ばなければならないことが多すぎて、私の手には負えそうにない。ただ、訳者による解説本『謎とき「罪と罰」』に、ヒントになりそうな話が少しだけ述べられているので、興味があったら参照してみると良いと思う。

    ひとつだけ言えるのは、「生活」がキーワードらしいということだ。ともすれば思索に熱中するあまり蝋の翼で天空に飛び立っていきかねないラスコーリニコフを、ソーニャの愛と肉体によって地上に繋ぎとめておくことができれば、つまり「思弁」と「生活」の融合を果たすことができれば、ラスコーリニコフの思想も現実感覚に根ざした生産的なものに変わるかもしれない。身体に根ざした生活を回復すること、それが彼に与えられた課題であり、それが成就された時、彼は復活するだけでなく進化をも遂げることになるのかもしれない。

    長くなってしまったが、難しい話を抜きにしても物語として楽しめるのが、この作品の長所である。「面白かったー」で済ませるもよし、哲学書を紐解いて深読みするもよし。この作品には、どんなスタンスも許容してくれる懐の深さがあるように思う。「難しそう」という理由で敬遠している人がいたら、とりあえず手にとって読んでみることをお薦めする。

  • ようやく上、中、下巻を読了。
    殺人を犯したラスコーリニコフが自首し、シベリア監獄へ…。
    下巻になってからは徐々にスピードが上がり、一気に読み終えた。登場人物の名前が頭に入ってきた事もあるが、特に、ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフとのやり取りがあり、終盤におけるスヴィドリガイロフの拳銃自殺等が陰鬱ながらドラマティックに描写されている。

    ドストエフスキーが芥川龍之介等、多くの作家に多大な影響を与えた事自体は何となく理解出来たような気がする。ただ、上巻からもう一回読み返すとより解るのだろうけど今の時点ではその元気はない。

  • エピローグがなかったらもっと解釈に困っていた。
    罪=自分が凡人なのに選民だと思ったこと
    罰=家族や恋人を苦しめたこと
    という解釈で一段落するけどまた数年後に読んだら変わるかも。

  • 本書の魅力は、登場人物がそれぞれ強烈な特徴を持っていることです。

    特にラスコーリニコフは、自らの考えを正しいと信じ、最後まで変わることがありません。自首し投獄される中でも道徳的な罪というものを認めることができずに葛藤します。自分を非凡な人間だと信じる自尊心が強く、高慢で不信心な若者が、人を殺めたときにどう感じるのか、生生しい苦悩の描写に引き込まれました。

    ラスコーリニコフがソーニャを罪人だと責める理由が最初分かりませんでした。ソーニャが自分の人生を生きないから、つまり偉大な人生を貪欲に求める彼の思想と正反対だからだと読み終わった後に思いました。

    エピローグの結末は個人的に好きです。

    時を経ても変わらない面白さを感じることができるまさに名著です。

  • 読了。人間臭いラスト。こうくるとは思っていなかったので意外でした。下巻で一気に、周りの人達に色がついた感じがした。

  • 読了日:2017/10/28

  • 1990.10.13 読了

  • 後半のスピード感はすごい。登場人物の性格の複雑さといい、展開の予測できなさといい、意外と普通に読んでも楽しめるレベルではないか。初めてドストエフスキーで完読できた。

  • 西欧近代社会における人間性の喪失と回復の物語。

    ラスコリニコフは「罪」人ではあるが、「悪」人としては描かれていない。彼が殺人に至った動機は、欲や怨恨のようなわかりやすいものでもなく、実は論文の形で発表した思想でもない。不幸な偶然も重なり「魔が差した」という表現が合う気がする。

    市民革命の結果として広がった「自由」と「平等」の思想。人間は何でもできる自由を持ち、権利は平等に与えられている...
    現実には何事かを成し遂げられるのは一握りの英雄で、凡夫はかつかつ生きていくのが精いっぱい、持てる者と持たざる者の差はそのままに、借金の取り立てだけが平等に降りかかって来る。
    英雄と凡夫を分ける「あちら側」と「こちら側」の境界は平等に開放されており、意思の力があれば個人は「あちら側」に行くことができる...

    結果として自分が凡夫であることを思い知らされたラスコリニコフは、知らず知らずのうちにドゥーニャのため、そしてソーニャのために「罰」を受け入れ、人間としての生を取り戻す。

    ラストシーンは簡潔な描写だが、美しさに心が震えた。

    大仰な愛情表現は一行も出てこないが、「愛の物語」だと思う。

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