白痴〈下〉 (岩波文庫)

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レビュー : 6
  • Amazon.co.jp ・本 (555ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003261392

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  • 神と違い人間は、自身の心の中に「聖性」と「非聖性」とを併存させるのが避けられないというのは誰も異論ないと思う。
    ここで本書の主人公ムイシュキン公爵を『白痴』という言葉から、人より聖性を多く持つ者(神性を持つ者)と考える読者はもしかしたら多いかもしれない。しかしそれは正しくないというのが私の意見だ。つまり、彼は聖性を多く持っていたのではなく、聖性と非聖性とのバランスが極端に人と異なっていたということではないか。

    しかし、そもそも人の聖性と非聖性とのバランスなんて人それぞれ。それがどうような割合で出現するかというのは、その人の持って生まれた性情や、育った環境で変わっていくもの。
    そこで一つ疑問が生じる。いったい何が「聖性」で何が「非聖性」なのか?それは国によっても違うし時代によっても違う。長い間、多くの知識人がその定義化や聖性を増やして非聖性を縮小させる方法などを思索するも、手法も見出せず混沌としたまま現代に至っているというのが正直なところだろう。哲学はそのアプローチの一手法だと思うが、ドストエフスキーも本作で人間の聖性と非聖性の核となるものがどういうもので、人がその二者にどのように捉えられて離れられないでいるのかを小説の形で視覚化しようとしたのでは、と私は読んだ。

    本作品は登場人物も多くページ数も膨大なため手に負えなかったという人も多いだろうが、仮に数学の授業で学んだ表を作る要領で、聖性と非聖性との2つの欄を横に並べ、本作の登場人物の欄を縦に並べて“マトリック化”し、表のようなものを頭に描けば、ドストエフスキーの明晰かつ緻密な人物描写を改めて思い知り、本作の読解の助けになると思う。
    たとえば主人公のムイシュキン公爵では、欲望(物欲、性欲、自己顕示欲など)の徹底的な欠如を上欄に書き、一方で下欄には欲望の欠如ゆえの他人の心情を理解しようとする姿勢の欠如を書くという「仕分け」を登場人物ごとに行うのである。ラゴージン、ナスターシャ、アグラーヤ、etc.といった登場人物が何人出てこようとも、作業としての考え方は同じ(少なくとも私はその作業を“楽しいもの”として行い、長い作品を読む“苦痛”を和らげることができた)。

    そうなると、興味は次の段階に進む。-「はたしてドストエフスキーは、どの登場人物に一番思い入れがあるのか?」それは著者本人でなければ分かりようがなく答えは出ないのだが、推理としてこれも読書の楽しみの一つになる。
    「ロシア的」というドストエフスキーの他の作品にも出てくる言葉にも照らし、情熱、理知、他人への信愛、信仰といった登場人物の発言や行動を分析し、さっき書いた登場人物ごとの仕分け表に当てはめてみると、私の解答は(おそらくほかの読者はその解答を誰も想定しなかっただろうくらい)意外な人物に行き当たった。

    それはムイシュキン公爵ではない。ナスターシャでもない。ほかに聖女的に描かれるヴァーリャでもなければ、若くして死が目前に迫り本性が露出するイッポリートでもない。
    それは「リザヴェータ夫人」である。
    生きるうえで聖性と非聖性との分別を行えず混乱し、破滅や沈黙や閉じこもりや冷笑的態度など、上手に自己の一生の舵取りを行えない登場人物がほとんどのなかで、彼女だけが意識せずに非聖性の陥穽にはまり込まずに人生を続けられているはないか?
    作者がその長大な作品の最後に彼女に語らせているのも、ある意味で象徴的である。

  • 十代に読んだころよりはのめり込めなかった。ドストエフスキー体験はお早めに。

  • ロシア

  • 20/10/2 80

  • 自分は思想を表現する事によってその思想を辱めているが、そんなことをする権利を与えられていないからだ

    僕らは他人に罪がある場合、その他人に関する一切のことを知る必要があるにもかかわらず、どうしてそれができないんでしょう!

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