イワン・イリッチの死 (岩波文庫 赤 619-3)

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (105ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003261934

作品紹介・あらすじ

一官吏が不治の病にかかって肉体的にも精神的にも恐ろしい苦痛をなめ、死の恐怖と孤独にさいなまれながらやがて諦観に達するまでの経過を描く。題材は何の変哲もないが、トルストイ(1828‐1910)の透徹した人間観察と生きて鼓動するような感覚描写は、非凡な英雄偉人の生涯にもましてこの一凡人の小さな生活にずしりとした存在感をあたえている。

感想・レビュー・書評

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  • ひとりの凡俗な人生を送ったイワン・イリッチが死んだ。栄達を求めて組織や上司に対してそれなりにうまく立ち回り、調和としての結婚もし、子どもも出来て、司法官として出世もした。子どもができた頃から家庭内はまずくなったが、勤務への精励を逃げ道にして、自分のこれはと思う人生を生きてきたのであったが・・・、とまあ、現在でもどこにでも居そうな人物ではあるが、そうしたありきたりな小人物を主人公にすることによって誰もに訪れる「死」というものをレフ・トルストイは容赦のない現実として読者へ突き付けた。
    誰もが直面するはずなのに、それが現実感を持つまで自らのこととして向き合うことを避ける「死」。そうした普通の人物が「死」と向き合った時、その「人生」とは一体何であったのか?主人公イワン・イリッチが病魔の苦しみに悶える中で、「人生」を振り返る時、まさに身につまされるような葛藤が次々と展開されていく。痛みが身体を襲い、四肢が不自由となり、排泄物を人に頼らなければならなくなる「死」への身体的過程と、自分に対し真実を避けるような言動をとる家族への憎悪と孤立など、心身ともに衰弱していく生々しい描写が痛々しい。
    だが、おそらく本作におけるトルストイの主題は、当時傾倒していたという宗教的救いの可能性を訴えることにあったのだろう。どこにでもいる普通の個人の「人生」と「死」を直截的に追求することで、誰もが体験するはずの最期の時にどう向きあえるのかを冷厳に提示し、ラスト直前にもたらされる「救い」はどのような人間にも等しく可能なのだと訴えかけているのだろう。しかし、ここにあえて普遍化を要求するならば、唐突感のある「救い」ではなく、もし「救い」が本当にあるのならば、葛藤の果ての諦観の転換としての到達をもう少し深化して欲しかった。いつか起きる自分の可能性のためにも。

  • 岩波文庫赤

    トルストイ 「 イワンイリッチの死 」

    死をテーマとした良書。哲学や宗教を用いずに 死の境地を表現。
    一人の男性の人生を通して、生の自己満足→死の恐怖→死の喜びを 追体験できる凄い本。死顔の表現力に驚く


    「アンナカレーニナ」は よくわからなかったが、これは面白い

    「死とはなんだ〜恐怖はまるでなかった。なぜなら 死がなかったから〜死の代わりに光があった〜何という喜びだろう」


    死顔
    *在世の時より美しく、もっともらしかった
    *その顔は 必要なことはしてしまった、しかも立派にしてのけた とでもいうような表情
    *この表情には 生きている者への非難、注意が感じられた




  • 一見すると「死」をテーマにしているようだが、本当のテーマは「心の目覚め」だ。

    主人公は病床で肉体的苦痛に苛まれながら、苦痛、死、人生の意味など答えのない自問が次々に湧き起こり、精神的にも苛まれていく。

    死の直前になって、ようやく地位、名誉、世間体、経済的な富裕、他者との比較評価など、自分が当たり前のように信じていた人生の価値尺度が全て「間違い」だと気づく。

    凡人を主人公にしたのは、この主人公こそわれわれ読者であり、他人事ではないという著者のメッセージだ。

    死の間際に、まだ「本当のこと」ができると気づいた主人公は、息子が手にしてくれたキスでようやく心が目覚める。

    最後に自分のことを忘れて家族のことを思って、いまその瞬間にできることをして、息を引き取る。

    だから、心の目覚めた主人公にとって、それは「もう死ではなくなった」のだ。

    このメッセージは、裏を返せば「心の目覚めない人生は死んでいるのと同じ」ということかもしれない。

    残念なのは、訳。原文にフランス語が使われている箇所は、そのニュアンスを訳そうともしていない。

    本書に興味がある人には、光文社から出版されている新訳をお薦めしたい。

  • p40
    勤務上の喜びは自尊心の喜びであり、社交上の喜びは虚栄心の喜びであった。

  • 2016.1.28
    うあーこれはすごい。多少裕福ないわゆる凡人、俗的快楽に生きるまさに凡人、そんなイワンが不治の病にかかり、苦しみ、それまでの人生の薄っぺらさを自覚し悟るまでを描いている。私も死について考えることは多々あって、死はすべての人間に約束された絶対の終わりであり、いつか私も(いつかとさらっと書いちゃう当たり自覚が足りない。明日、または2秒後だってあり得る)死ぬわけであり、その避けられない事実とどう向き合うべきか、いかなる生き方をすれば死を乗り越えられるのかを自らの人生に問いたいと思い、この本を読んだ。ゲーテのファウストにおいては、自らの生命より生まれた文化という名の子どもが自らの死後も生きていくことを直感した瞬間、主人公は息絶えた。しかしこのような生き方は超人的であって、一般的な死の克服法とは言えない気もする。本著はもっと一般的、凡的な側面から死を描いている。死を目の前にすれば、日々の生活のなんと薄っぺらいことか。彼は苦悶する、ではまた生きるとして、今までの薄っぺらい、虚偽に覆われた生き方以外の道を選ぶとして、本当のものとは、本当の生き方とは何か、と。死という絶対性に張りあえるだけの本物を、生のうちに見出すことはできるのだろうか。その本物のひとつの姿が、先に述べたファウストなのかもしれない。しかし結局その苦悶においてはイワンは答えを見つけられない。終盤、自らの生きてきた人生の薄っぺらさ、虚偽をついに自覚してしまい、激しい苦しみに苛まれる中、ついに彼は悟る。妻も息子も、そして自分自身も、楽にならなければならないと悟った時、彼から死は消え、その代わり光があったのである。生あるところに死はなく、また死あるところに生はない。彼は直前まで生を手放せなかった、しかし自らの生が家族を、そして己自身を苦しめていると知った時、生とはしがみついてでも離したくないものではなく、周りも自らも苦しめるものだと悟った時、彼にとって死は、生を奪う恐怖でなく、生から逃れる救いになったのである。死とは救いである、これが死の乗り越え方なのか。しかしこの境地は、本当に本当に人生に苦しまないと得られないような気もする。死にたいと思ったことはあるが、あれではない、死にたいという思いは生きたいの裏返しである以上、一般的な意味での生の苦しみとはまた別のレベルでの、生の放棄が、死が救いとなる条件なのだろう。この小説から学べたことは、まず、死という絶対的真理から照らされたら生活の虚偽はすべて無に等しくなってしまう、だからこそ、出来うる限り、虚偽の殻を破り、本当を生きたいと思う。イワンのように病床につき人生を振り返る時がいつか私にも来る、その時に、振り返る人生の中にどれだけ本物があるか、それが私を死を前にした絶望から救う唯一のものである。本当を生きたい、では本当に生きるとはどういうことか、よく生きるとはどういうことか、やはりこの問いは考え続けたい。そしてもう1つは、生きること、年をとることは生から死へ近づいていくことであり、もし私がある程度の年齢まで生きることができるのならば、しっかりと生を手放しながら、生を燃やしながら、死に近づいていきたい、最期には死を救いとして受け入れたいということである。きっと苦しむだろう。死の苦しみは、一思いにそこに行けるのではなく、その恐怖を目の前にして徐々にしか進まないことにもあると、書いてあった。一思いに死なせてくれ、こんな苦しみを私も味わうだろうし、その苦しみを以って、生を苦しみとし、死を救いとするのだろう。今の私では、死にたい、生きるのは苦しいと思っても、でもやっぱり生きたいと思っている。生きるのは苦しいとはまたちょっと違う、苦しみによってでなく、別の尺度、例えば充実、苦しみも含めた充実、諦観と受容というか、そういうものを持って生を手放し、死を迎えたい。そのためにはまずなにより、生きねば。生きた!いやー生きた!そう思えるような生を生きねば。100ページと短いながらも死について非常に含蓄ある一冊。メメントモリというように、人間の人生の絶対的真理である死を思い返すため、これからも読み直したい一冊。

  •  ここで死ぬイワン・イリイチという人物は、とりたててどうというところもない性格だけど、仕事ではわりと成功した部類に入りそうな会社員です。冒頭、やけにあっさりこのイワン・イリイチの死が告げられます。だから、この話は最初から主役死んでます。

     彼の妻や同僚らは、その死を悼むよりも、金銭的な問題だの社内の人事異動だの、自分たちの進退のことで頭がいっぱい。非人間的なようですが違うのです、こんなに人間的な反応はないでしょう★
     特に友人(?)ピョートル・イワーノヴィッチは、わき上がる「明日は我が身かもしれない」の思いに愕然! そう、イワン・イリイチの死はサラリーマンの死。ピョートル・イワーノヴィッチの死であっても何らおかしくはない……。

     それから、このどこにでもいるような平凡な勤め人、イワン・イリイチ氏の人生がふり返られ、彼の苦痛が死の間際までつぶさに書きこまれています。「お疲れさまでした」と一声かけたくなるような最期☆ 死にざままでサラリーマンらしい人物でした。

     平凡であることを保つために出す日々の生ごみを逐一取り上げて、顕微鏡で拡大して細かくスケッチしたような小品。平凡な平凡な生活の実態をクローズアップしていて、時代や国籍は違えど身につまされる部分が多い。日本人はとりわけ共感指数が高いかも。平凡さの維持にも、恐ろしいほどの無理を積み重ねているわけで。
     よく「あなたの変わりはいない」と言う人がいるけれど、その人いなくても世界は回っていきますよね? 普通の人間は、普通に存在するために苦しんでます。

     言ってみれば、「主人公死す」というそれだけの短い話ですが、非常にものものしい文体が印象的でした。低い、抑揚を欠いたような声で朗読されるのを聞いてみたいです。最も平凡な生活のなかにひそむ、人間のぞっとするような部分を抽出したトルストイ。その荘重な語り口が「ザ・文豪」って感じ!

  • 初老の男イワン・イリッチが病死に至る。
    その胸の内、感情、心理を克明に描く。

    病患の苦痛、死の恐怖、家族に対する不信と憎しみ(屈折した感情)。それらをたどってゆく。
    19世紀半ばなので、近代的な医療は未発達のようだ。
    治療は、医師の診断(主に問診)を受けて薬を処方してもらう、というだけ。科学的な検査診断はなかったようで、病名もよくわからない。
    イワンイリッチ自身は、「盲腸炎」か「腎臓遊動症」に違いない、という曖昧な解釈に留まっている。
    そんな時代に比べれば、現代の医療は各段の進歩を遂げている。そんな時代に生まれなくてよかった、と思う。
    だが、それが本作の本質ではない。

    イワン・イリッチの病状は悪化し続け、終幕で、死を迎える。最期を迎えるまでの数カ月、彼は、身体的な苦痛と共に、濁った思考を続けてゆく。
    死の病の激痛に苛まれ、この責め苦は何の因果か?と自問自答を繰り返す。
    果たして自身の生き方が間違っていたのか? その因果なのか? と。

    最終幕、イワン・イリッチは、死の迎えを目前にしてようやく、ある種の解脱のような心持に至り、静かに世を去る。自分の生き方は誤っていた。妻や家族を苦しめてしまった…と。

    だが、このへんの、彼の気づきのような部分が、私には不鮮明に思われて、釈然としない感じであった。
    どうやら、イワン・イリッチは、自分の生き方に虚飾や不誠実なものがあったことに気付いたらしい。
    (解説によれば「過去の生活の無意味さ無価値さを悟った」のだそうだ。)

    しかし、作中描かれた、司法官僚として生きてきた彼の職業人生や生活史に、私は、誤ったものは感じなかったし、人として間違いを犯したようにも思えなかった。
    トルストイは、キリスト教的な道徳観をベースにした創作が目立つように思われる。
    なので、イワン・イリッチの歩んだ官僚としての人生、及び、家族との接し方に関して、キリスト教倫理の面からは正しくなかった、ということなのか。そのへんは、現代日本で仕事中心の人生を歩んできた自分でもあり、理解できずにいる。

    かように、作品の核の部分を、真芯で捉えることは出来なかったが、その他、作品の佳き点もあった。

    1つは、イワン・イリッチの心理描写をこってり丁寧に描いていること。
    もう1つは、イワン・イリッチが自分の歩んできた人生を振り返る様に触れて、読者である自分自身も、読みながら、知らず、人生の来し方、成しえたことと成しえなかったことなどに思いを巡らせ、半生を振り返っている瞬間があったことである。

  • 古典だが現代人に通じる。地位や見栄や表面的な人付き合いは結局、死ぬときには何も意味がないのだとつくづく感じた。自分も人生の折り返し地点にいるが、これからの人生は仕事や用事に忙殺されるのではなく、少しでも自分のため、自分が大切に思うことのために時間を使って死ぬ時に 満足できるような日々を過ごしたい。

  • 最近大病をしたので手に取った本。病気で死ぬとはこういう事だ、とリアルに現代に通じるものだった。

  • 【感想】
    前半はなかなか読み進めることができなかったが、後半から面白かった。死に対しての恐怖、家族への憎しみなどがリアルだった。

    【あらすじ】
    イワン・イリッチが亡くなり、葬儀が行われる。
    イワンの過去について。妻プラスコーヴィヤとの結婚生活は上手くいかなかったが仕事は順調だった。イワンは家の手入れをしていて転倒して以降、腹痛に襲われるようになった。病気のことばかり考えてしまうので裁判の仕事に身を入れようとするが、痛みによって思い出してしまう。百姓であるゲラーシムに看病してもらうときは気分が良い。
    妻や子供たちがイワンの病について気遣うが、偽りであると感じ余計に苛立ってしまう。肉体的苦痛、精神的苦痛を感じるが、最期は死の恐怖から解放され光を感じるのであった。

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