イワン・イリッチの死 (岩波文庫)

著者 :
制作 : 米川 正夫 
  • 岩波書店
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本棚登録 : 524
レビュー : 72
  • Amazon.co.jp ・本 (105ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003261934

作品紹介・あらすじ

一官吏が不治の病にかかって肉体的にも精神的にも恐ろしい苦痛をなめ、死の恐怖と孤独にさいなまれながらやがて諦観に達するまでの経過を描く。題材は何の変哲もないが、トルストイ(1828‐1910)の透徹した人間観察と生きて鼓動するような感覚描写は、非凡な英雄偉人の生涯にもましてこの一凡人の小さな生活にずしりとした存在感をあたえている。

感想・レビュー・書評

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  • ひとりの凡俗な人生を送ったイワン・イリッチが死んだ。栄達を求めて組織や上司に対してそれなりにうまく立ち回り、調和としての結婚もし、子どもも出来て、司法官として出世もした。子どもができた頃から家庭内はまずくなったが、勤務への精励を逃げ道にして、自分のこれはと思う人生を生きてきたのであったが・・・、とまあ、現在でもどこにでも居そうな人物ではあるが、そうしたありきたりな小人物を主人公にすることによって誰もに訪れる「死」というものをレフ・トルストイは容赦のない現実として読者へ突き付けた。
    誰もが直面するはずなのに、それが現実感を持つまで自らのこととして向き合うことを避ける「死」。そうした普通の人物が「死」と向き合った時、その「人生」とは一体何であったのか?主人公イワン・イリッチが病魔の苦しみに悶える中で、「人生」を振り返る時、まさに身につまされるような葛藤が次々と展開されていく。痛みが身体を襲い、四肢が不自由となり、排泄物を人に頼らなければならなくなる「死」への身体的過程と、自分に対し真実を避けるような言動をとる家族への憎悪と孤立など、心身ともに衰弱していく生々しい描写が痛々しい。
    だが、おそらく本作におけるトルストイの主題は、当時傾倒していたという宗教的救いの可能性を訴えることにあったのだろう。どこにでもいる普通の個人の「人生」と「死」を直截的に追求することで、誰もが体験するはずの最期の時にどう向きあえるのかを冷厳に提示し、ラスト直前にもたらされる「救い」はどのような人間にも等しく可能なのだと訴えかけているのだろう。しかし、ここにあえて普遍化を要求するならば、唐突感のある「救い」ではなく、もし「救い」が本当にあるのならば、葛藤の果ての諦観の転換としての到達をもう少し深化して欲しかった。いつか起きる自分の可能性のためにも。

  • 岩波文庫赤

    トルストイ 「 イワンイリッチの死 」

    死をテーマとした良書。哲学や宗教を用いずに 死の境地を表現。
    一人の男性の人生を通して、生の自己満足→死の恐怖→死の喜びを 追体験できる凄い本。死顔の表現力に驚く


    「アンナカレーニナ」は よくわからなかったが、これは面白い

    「死とはなんだ〜恐怖はまるでなかった。なぜなら 死がなかったから〜死の代わりに光があった〜何という喜びだろう」


    死顔
    *在世の時より美しく、もっともらしかった
    *その顔は 必要なことはしてしまった、しかも立派にしてのけた とでもいうような表情
    *この表情には 生きている者への非難、注意が感じられた




  • 一見すると「死」をテーマにしているようだが、本当のテーマは「心の目覚め」だ。

    主人公は病床で肉体的苦痛に苛まれながら、苦痛、死、人生の意味など答えのない自問が次々に湧き起こり、精神的にも苛まれていく。

    死の直前になって、ようやく地位、名誉、世間体、経済的な富裕、他者との比較評価など、自分が当たり前のように信じていた人生の価値尺度が全て「間違い」だと気づく。

    凡人を主人公にしたのは、この主人公こそわれわれ読者であり、他人事ではないという著者のメッセージだ。

    死の間際に、まだ「本当のこと」ができると気づいた主人公は、息子が手にしてくれたキスでようやく心が目覚める。

    最後に自分のことを忘れて家族のことを思って、いまその瞬間にできることをして、息を引き取る。

    だから、心の目覚めた主人公にとって、それは「もう死ではなくなった」のだ。

    このメッセージは、裏を返せば「心の目覚めない人生は死んでいるのと同じ」ということかもしれない。

    残念なのは、訳。原文にフランス語が使われている箇所は、そのニュアンスを訳そうともしていない。

    本書に興味がある人には、光文社から出版されている新訳をお薦めしたい。

  • 2016.1.28
    うあーこれはすごい。多少裕福ないわゆる凡人、俗的快楽に生きるまさに凡人、そんなイワンが不治の病にかかり、苦しみ、それまでの人生の薄っぺらさを自覚し悟るまでを描いている。私も死について考えることは多々あって、死はすべての人間に約束された絶対の終わりであり、いつか私も(いつかとさらっと書いちゃう当たり自覚が足りない。明日、または2秒後だってあり得る)死ぬわけであり、その避けられない事実とどう向き合うべきか、いかなる生き方をすれば死を乗り越えられるのかを自らの人生に問いたいと思い、この本を読んだ。ゲーテのファウストにおいては、自らの生命より生まれた文化という名の子どもが自らの死後も生きていくことを直感した瞬間、主人公は息絶えた。しかしこのような生き方は超人的であって、一般的な死の克服法とは言えない気もする。本著はもっと一般的、凡的な側面から死を描いている。死を目の前にすれば、日々の生活のなんと薄っぺらいことか。彼は苦悶する、ではまた生きるとして、今までの薄っぺらい、虚偽に覆われた生き方以外の道を選ぶとして、本当のものとは、本当の生き方とは何か、と。死という絶対性に張りあえるだけの本物を、生のうちに見出すことはできるのだろうか。その本物のひとつの姿が、先に述べたファウストなのかもしれない。しかし結局その苦悶においてはイワンは答えを見つけられない。終盤、自らの生きてきた人生の薄っぺらさ、虚偽をついに自覚してしまい、激しい苦しみに苛まれる中、ついに彼は悟る。妻も息子も、そして自分自身も、楽にならなければならないと悟った時、彼から死は消え、その代わり光があったのである。生あるところに死はなく、また死あるところに生はない。彼は直前まで生を手放せなかった、しかし自らの生が家族を、そして己自身を苦しめていると知った時、生とはしがみついてでも離したくないものではなく、周りも自らも苦しめるものだと悟った時、彼にとって死は、生を奪う恐怖でなく、生から逃れる救いになったのである。死とは救いである、これが死の乗り越え方なのか。しかしこの境地は、本当に本当に人生に苦しまないと得られないような気もする。死にたいと思ったことはあるが、あれではない、死にたいという思いは生きたいの裏返しである以上、一般的な意味での生の苦しみとはまた別のレベルでの、生の放棄が、死が救いとなる条件なのだろう。この小説から学べたことは、まず、死という絶対的真理から照らされたら生活の虚偽はすべて無に等しくなってしまう、だからこそ、出来うる限り、虚偽の殻を破り、本当を生きたいと思う。イワンのように病床につき人生を振り返る時がいつか私にも来る、その時に、振り返る人生の中にどれだけ本物があるか、それが私を死を前にした絶望から救う唯一のものである。本当を生きたい、では本当に生きるとはどういうことか、よく生きるとはどういうことか、やはりこの問いは考え続けたい。そしてもう1つは、生きること、年をとることは生から死へ近づいていくことであり、もし私がある程度の年齢まで生きることができるのならば、しっかりと生を手放しながら、生を燃やしながら、死に近づいていきたい、最期には死を救いとして受け入れたいということである。きっと苦しむだろう。死の苦しみは、一思いにそこに行けるのではなく、その恐怖を目の前にして徐々にしか進まないことにもあると、書いてあった。一思いに死なせてくれ、こんな苦しみを私も味わうだろうし、その苦しみを以って、生を苦しみとし、死を救いとするのだろう。今の私では、死にたい、生きるのは苦しいと思っても、でもやっぱり生きたいと思っている。生きるのは苦しいとはまたちょっと違う、苦しみによってでなく、別の尺度、例えば充実、苦しみも含めた充実、諦観と受容というか、そういうものを持って生を手放し、死を迎えたい。そのためにはまずなにより、生きねば。生きた!いやー生きた!そう思えるような生を生きねば。100ページと短いながらも死について非常に含蓄ある一冊。メメントモリというように、人間の人生の絶対的真理である死を思い返すため、これからも読み直したい一冊。

  • 日々の生ごみを逐一取り上げ、顕微鏡で拡大して細かくスケッチしたような短篇。


     ここで死ぬイワン・イリイチという人物は、とりたててどうというところもない会社員、どちらかといえば社会的に成功した部類に入りそうです。冒頭、やけにあっさりこのイワン・イリイチの死が告げられます。だから、この話は最初から主役死んでます。

     彼の妻や同僚らは、その死を悼むよりも、金銭的な問題だの社内の人事異動だの、自分たちの進退のことで頭がいっぱい。非人間的なようですが違うのです、こんなに人間的な反応はないでしょう。
     特に友人(?)ピョートル・イワーノヴィッチは、わき上がる「明日は我が身かもしれない」という思いに愕然。そう、イワン・イリイチの死はサラリーマンの死。ピョートル・イワーノヴィッチの死であっても何らおかしくはないのです……。

     それから、このどこにでもいるような平凡な勤め人、イワン・イリイチ氏の人生がふり返られ、彼の味わった苦痛が死の間際までつぶさに書き込まれています。「お疲れさまでした」と一声かけたくなるような最期。死に様までサラリーマンらしい人物でした。

     平凡であることを保つために出す日々の生ごみを逐一取り上げて、顕微鏡で拡大して細かくスケッチしたような小品。平凡な平凡な生活の実態をクローズアップしていて、時代や国籍は違えど身につまされる部分が多いですし、日本人はとりわけ共感指数が高いのかもしれません。平凡さを保つためには恐ろしいほどの無理を積み重ねているわけで。
     よく「あなたの変わりはいない」という人がいるけれど、その人がいなくても世界は回っていきますよね★ 普通の人間は、普通に存在するために苦しんでます。

     言ってみれば、「主人公が死ぬ」というそれだけの短い話ですが、非常にものものしい文体が印象的でした。低い、抑揚を欠いたような声で朗読されるのを聞いてみたいです。最も平凡な生活の中にこそひそむ、人間のぞっとするような部分を抽出したトルストイ。その荘重な語り口が「ザ・文豪」って感じ!

  • 一官吏が不治の病にかかって肉体的にも精神的にも恐ろしい苦痛をなめ、死の恐怖と孤独にさいなまれながらやがて諦観に達するまでの経過を描く。(表紙解説より一部引用)

    死は永遠のテーマですね。
    これまで何度か病床の物語は読んだことがありましたが、よくよく考えてみれば死ぬ側の心理を書き綴った物語はあまり読んだことがないかもしれません。

    主人公であるイワン・イリッチは物語の冒頭で死に、その後の部分で死に至るまでの経緯が書かれています。
    初めてのロシア文学、そしてトルストイ。
    先にドストエフスキーを読む予定でしたが人気のためになかなか図書館になく、こちらにしました。・・・というのは言い訳で、とても薄っぺらい本だったので惹かれました。ロシア文学ってやたら長い。
    でもこの本ほど薄っぺらいのに中身が濃い本はなかなか無いかもしれません。
    最近の日本の小説はやたら分厚いくせに中身はペラッペラですからね。

    この本を読みながら、病床に臥している親類のことを思いました。それこそ、イワン・イリッチが患った病と同類の病でしょう。
    自分が病気に掛かったことのある人、若しくは近しい間柄の人間が病気になったことがある人なら解ると思いますが、病気になると明らかに変貌します。それは単に見た目だけの問題ではなく、心の変化が表出しているといった具合です。
    何度かそういった場面に出くわしましたが私はとても安易に言葉を掛けられなかったです。
    イワン・イリッチもどんどん変貌していきました。

    イワン・イリッチは病が進行するにつれ、自分の人生を回顧し、自分はどこで何を間違えたために今このように苦しむ羽目になったのかと思考を廻らします。
    ・・・私も同じ境遇に置かれたら同じことを考えるのだろうなと思います。
    この辺がとてもリアルで、トルストイが世界的に評価されているのも頷けました。

    イワン・イリッチは最後にとうとう死を受け入れることが出来ます。(ん?ネタばれ?wネタばれしても物語を読むのに影響はしないです!!)
    その点救われた気がしました。多くの人が同じ経験をするのだと思います。絶望の淵に立ち、最期突き落とされて意識を失うだなんて考えたくもない。

    人が死ぬということは当然のことです。
    でも、今の私は若かりし頃のイワン・イリッチと同様に自分とは切り離して考えてしまいます。
    それに直面したとき、もう一度これを思い出して読むことができたら良いなと思います。

  • ”なかなかヘビーだったが、最後のさいごに救いがあった。

    ーーー
     すると、とつぜん、はっきりわかったーー今まで彼を悩まして、彼の体から出て行こうとしなかったものが、一時にすっかり出て行くのであった。四方八方、ありとあらゆる方角から。妻子が可哀そうだ。彼らを苦しめないようにしなければならない。彼らをこの苦痛から救って、自分ものがれねばならない。『なんていい気持だ。なんという造作のないことだ』と彼は考えた。(p.101)
    ーーー

    ーーー
     古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ? 死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
     死の代わりに光があった。
     「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」(p.102)
    ーーー

    <キーフレーズ>

    <きっかけ>
     人間塾の2015年10月の課題図書。”

  • 『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』といった大長編で有名なロシアの文豪トルストイだが、もしかすると晩年に書かれた本作こそが彼の最高傑作ではないかと疑いたくなるほどの名作である。
     短い作品である。文庫本にして100ページにも満たない。四冊にまたがる『戦争と平和』等の大長編と比較して、見劣りしないと言ったら嘘になるだろう。だがその中身は、トルストイの全キャリアが凝縮されているかのように濃くそして重い。
     とはいえ何かドラマチックな事件が起こるわけでもない。主人公イワン・イリイチという一介の役人が死ぬだけの話である。死ぬだけ? なるほど死は、三人称の死は日常茶飯事に過ぎない。しかし一人称の死は? 主人公を三人称にとどめたまま一人称の死を描くトルストイの手腕は秀逸である。
     冒頭はイワン・イリイチの葬式から始まる。訃報を聞いた友人たちはみな一様に驚いたような振りをする。驚くわけがない。人が死ぬのは当たり前である。友人たちはみな一様に悲しいような振りをする。悲しいわけがない。死んだのは他人であって自分ではない。喜びの方がむしろ大きい。ハイデッガーの『存在と時間』で明らかにされる頽落が、これほど見事に描かれている場面はほかにない。
     死の直前イワン・イリイチの病に関し、医者がさまざまな議論をする。イワン本人は何を言われているのか全く分からない。自分の生死という存在にかかわる問題と、身体の疾患という事物にかかわる問題が同列に扱われていることの矛盾。哲学における死と医学における死の絶対的な断絶は永遠に解決不可能であろう。
     最後のシーン、死におけるイワン・イリイチの幸福感は、しかし読者を慰めることはない。そんなものがフィクションに過ぎないことくらい読者には分かっている。しかし私の死はフィクションではない。本書によってそれに気づかされてしまった読者は眠れぬ夜に悩まされることになる。他人に薦めるのもはばかられるほどの恐るべき傑作である。

  • 難しそうだなあと思いつつ、一気に読みきってしまった。
    読んでいて胸の詰まるような、苦しい気持ちになりながら。
    死ぬ間際の、今までの生活、価値観全てを否定する気づきに虚しさを感じた。
    が、現代に生きるわたしたちはどうだろう。
    ずっと昔に書かれた本だけれど、今の自分の生活、間違っていないだろうか。
    間違いって?
    SNSに翻弄されながら、寂しい夜を過ごしたり、
    いったい何が本当の幸せなのか。
    やはり本当の幸せは、生から解放される瞬間にしかないのでしょうか。

    疑心にまみれる人生は苦しい。

  •  イワン・イリッチは俗物の象徴ではあるのだけど、少なくとも他者からみれば成功した人物だろう。裁判官なのだから。むしろそのことが読者に死をめぐる葛藤の苦しみを与える。これだけ上手く社会的に立ち回り、上り詰め、表面的にせよ楽しく生きたイワンでさえこうなのだ。では私はどうなのだろうかと。そのことは読み終わってから冒頭に戻るとよく分かる。イワンの妻や友人の残酷なまでの無関心さは、読む前のわたしの姿でもある。しかし読み手はしだいにイワンの不安に惹きこまれてゆく。ここがすごい。

     イワンが「自分を理解してくれる」と思えたのは、献身的に自分に接してくれる田舎者ゲラーシムと、自分そっくりの目を持った息子ワーシャだけだった。とくにゲラーシムは社会階層的には友人でもなんでもない。イワン自身も権衡であったなら彼を鼻にもかけなかっただろう。だが病に臥したイワンは彼に心を開く。こうしたことからも、人生にとって本当に大切なものはなにか、ということをつくづく考えさせられる。もちろん彼自身の思想の変化こそがもっとも読み応えのあるところだけれど。

     これはさまざまな論点、感想が出ると思われるので、読書会などで語り合いたい一冊だ。

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著者プロフィール

一八二八年生まれ。一九一〇年没。一九世紀ロシア文学を代表する作家。「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」等の長編小説を発表。道徳的人道主義を説き、日本文学にも武者小路実らを通して多大な影響を与える。

「2004年 『新版 人生論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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