光あるうちに光の中を歩め (岩波文庫 赤 619-4)

著者 :
制作 : 米川 正夫 
  • 岩波書店
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本棚登録 : 120
レビュー : 9
  • Amazon.co.jp ・本 (106ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003261941

感想・レビュー・書評

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  • いや〜わからん。わからんぞ、トルチャン。キリスト教を信じない人間として、その教えや宗教性を噛み砕いて、自分の腑に落ちるまで抽象化したものを飲み込むことをよしとしたくない以上、このモヤモヤの後始末をどうしてくれよう。やっぱりまだ、疑い深い罪な羊でいいや。

  • 学生時代に友達がこぞって評価していたので購入したが、結局実際に読んだのはそれから約10年後となった。しかもカトリック信者として信仰を持ちながら読むことになろうとは。教会に通い出して段々神様に近づいていった自分の体験と酷似しているこの本、静かな感動と共にあっという間に読み終えた。教会で仲良くしているSさんに勧めてみようかな。それで語り合ってみたい

  • 親友として育った二人の青年のうち、一人がその頃は邪教とされていたキリスト教に傾倒し、そのコミュニティーで質素ながらも幸せに暮らすようになる。もう一人は俗世間で地位を成しながらも一抹のむなしさを抱えている。その二人の人生を、後者を軸にしながら描いている。
    彼の名前はユリウス。子供時代、共に勉学に励んだパンフィリウスは母親とともに邪教に入信してしまった。自分は父が成した財で遊び暮らしている。そのうち放蕩息子を見かねた父が結婚を勧めるようになり、他にもいろいろ不満が出てきて、パンフィリウスの入信したキリスト教というものに興味を持ち始める。しかしある老人に諌められ、入信一歩手前で思いなおす。そして現実世界に戻り、父の選んだ相手と結婚。子供もでき、世間的にも認められた地位を得る。そんな折、ある怪我が元で仕事を休まねばならなくなり、気弱になったユリウスは、ちょうどキリスト教に興味を抱いていた妻とともにキリスト教に入信しようかと再び悩み始める。そこへまたも現われる件の老人。また思いとどまるよう説得され、怪我も癒えて戦線復帰できたことから、やはりキリスト教への興味は失せていく。さらに時は進み、妻は死に、息子はかつての自分のような放蕩生活を送っている。政権交代もあって、地位さえも失ってしまった。とうとうキリスト教入信を決意するユリウス。キリスト教徒の村へ向かう途中、あの老人がまたも現われるが、もう彼は老人の言葉に動じない。自らの意思に従ってキリスト教徒の村を目指す。
    これを読んで、散発的に表れるカルト教団のことを思わずにはいられなかった。ああいう集団は邪教集団には違いないと思うが、下層の、純粋にその宗教を信仰している人々と、この物語に出てくるキリスト教徒との間にはどれほどの違いがあるのだろう。日本人的感覚で言わせてもらえば、一神教といわれるものには多かれ少なかれ、事件を起こしたカルト教団と同じ過ちを犯す危険性があるのではないかと思う。一人の人間(または神)を無条件に信じるということは、私には非常に恐ろしい行為に思える。その人(神)が「こうしろ」と言えば殺人だって犯してしまうのだから。数多のカルト教団だってキリスト教だって同じだろうと思うのだ。トルストイはもちろん、キリスト教礼賛の立場でこの小説を書いたと思うが、私が読んで得た感想では、パンフィリウスよりもユリウスの方がよっぽど正常という感じがする。パンフィリウスの語るキリスト教のすばらしさを読んでいると、やはりどうしても、どこかに矛盾があるような気がしてならない。もやもやした疑問が次々に浮かび上がってきて、すっきりしない。どうにもキリスト教に対する不信感は消えない。
    私の宗教的立場に言及すると、少なくとも無神論者ではない。あえて言うならアニミズム信者だ。山には山の神様がいると思うし、俗な話をすれば麻雀の神様なんていうのもわりと真剣に信じている。ただ、そういう神々と一神教の神は絶対的に違うと思う。信仰のジャンルが違うというか、一神教信者と多神教信者が同じ有神論者として議論しても永遠に分かり合えないのだろう。欧米文学を理解する上で、キリスト教に対する知識及び理解というのは不可欠だと思うが、私には到底キリスト教を理解することはできない気がする。今回この小説を読んで、その思いを新たにした。

  • (1967.05.05読了)(1967.01.21購入)
    商品の説明 (amazon)
    キリスト生誕百年後,ローマ帝国統治下のキリキヤを舞台に,二人の男のそれぞれに異なる求道遍歴の生涯を描いたトルストイ(一八二八―一九一〇)の名作.人生の根本問題を力強く簡潔に織りこんだ原始キリスト教時代のこの物語は,世の塵におおわれたキリスト教を純な姿に戻すことを使命としたトルストイズムの真髄を十二分に伝える.

  •  岩波文庫の表紙がとても好きになってきた。この書はAmazonではイメージ表示されないので残念。再販してくれないかな。新潮さんは頑張っているのに・・・。

     半世紀生き読書好きになった無神論者が怯えや虚偽のない生き方を求めていると信仰、神につまずいた。イエス・キリスト教が出現し本書が立ちふさがった。
     パンフィリウス側とユリウス側のどちらで生きていくかだった。どちらも「ごもっとも!」と頷く生き方をトルストイに問われた。
     『聖書』や関連書を読んだ。教会の扉を開けた。結果、迷想妄想は終わりだ!パンフィリウスのキリスト教信仰を求める生き方に至った。主イエスを信じ神に従い全てを委ねる人間に生まれ変わった。

     私の人生を変えた書の一つである。

  • トルストイの短編作品。

    原始キリスト教時代の物語。
    キリスト教徒の村に住むパンフィリウスと、贅沢な暮しを続け、罪まで犯してしまったユリウスの物語。

    ユリウスは、人生に行き詰まるたびに、パンフィリウスにキリスト教の素晴らしさを聞いたことを思い出し、キリスト教徒の村に行こうとするが、そのたびに、キリスト教に対して反駁する一人の中年の医師に出会い、止められてしまうのである。

    その中年の医師の語るキリスト教に対する批判、また、ユリウスのパンフィリウスに対する言い分とは次のような点である。
    ・キリスト教は人間のなかにある自然の力を否定している。
    ・結婚の問題
    ・権力の否定に関する問題
    などなど・・・。

    その後パンフィリウスと出会うユリウスは、その中年の男の話をもってきて、キリスト教に対する問答を続けることになる。

    そのような問答が3度続いたのち、老年を迎えたユリウスは、例の医師が止めるのを振り切ってキリスト教徒の村に入ることになる。

    ユリウスは、古くなったブドウのふさを見て、「私の人生も使い物にならないブドウと同じだ。もっと早くここに来ていれば」と嘆くが、
    長老は、「神にとって仕事の量は問題ではない。神のもとでは大きいも小さいもない。神のもとで働く人ではなくて、神の息子となりなさい。」とさとし、
    ユリウスは歓びのうちに働き、死を迎えるのである。

    この物語から思ったことをあげたい。
    おそらく、ユリウスや、中年の医師と同じことを思う人がほとんどであろうと思う。
    「信仰」という問題は、単にいくら損得や理屈を挙げたところで、その人が根本的に「信仰」の次元に踏み入るには決定的な力とはなりえないし、
    また、政治や金銭など、社会を動かす力の側からも決して還元しえない問題であるということ。

    ユリウスは年をとり、自分の性質が腐ってどうしようもないことを自覚し、医師の言うことを振り切ってキリスト教徒の村に走った。

    また、人間の価値とは、「どれだけ仕事をなしたか」によって測られるものではないということ。
    本来の命の在り方をさししめしてくれる。

  • S.61.2.7 読了。
    こういう本を読むと、考え込んでしまう。再読せねば。

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著者プロフィール

一八二八年生まれ。一九一〇年没。一九世紀ロシア文学を代表する作家。「戦争と平和」「アンナ=カレーニナ」等の長編小説を発表。道徳的人道主義を説き、日本文学にも武者小路実らを通して多大な影響を与える。

「2004年 『新版 人生論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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