光あるうちに光の中を歩め (岩波文庫 赤 619-4)

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  • Amazon.co.jp ・本 (106ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003261941

感想・レビュー・書評

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  • 原初キリスト教の清き生活に入るか入らないか悩み、入ろうとするたびにさまざまな世俗的言い訳が人の形をして説得してくる、そんな展開だった。
    世俗側の言い訳の詭弁や極論にいらだちを覚えつつも、この言い訳たちの口ぶりはまさに人間らしい。
    小説としての完成度は、トルストイ本人がこれを完成した作品と認めなかったこともうなずけるようにあまりに率直すぎる感想をもった。しかしそれでも面白い。

  • キリスト生誕100年後の世界、ローマ帝国の統治下にあるキリキヤで生きるユリウスと、その親友でキリスト教徒のパンフィリウスの話。
    私有財産を否定するキリスト教は社会を破壊するものか、現状の社会こそ暴力と情欲に満ちた救いのないものか、医師の話、パンフィリウスの話、ユリウスの疑問、それぞれが高度に議論される。プロローグでも、この現世で真にキリスト教の教えを守って生きることの難しさが語られる。最後の、豊かに実った第一のぶどう畑、少し落ちる第二のぶどう畑で働く場所が見つからなくて、最後の枯れたぶどう畑でユリウスが、自分の人生もこれと同じでキリスト教に入るのが遅すぎた、と嘆く場面が印象的。そこで出会った老人が、枯れたぶどう畑からも甘い実を見つけ出せることを教え、その実は他の畑の身に劣ることはないし、神の国はその量ではかるものではないことを語る。キリスト教に満ちた一冊。
    Ходите в свете пока есть свет

  • 頭脳が足りなさ過ぎて難しかった。キリスト教の教えが正しいと思われるような部分も多くあるけどそれが真理かというとそうでもないような。人類が生きる上で法律が必要になって世の中をまとめるような制度になったと思うし…。けど、敵をも愛するのと処罰するのでは圧倒的な差があると感じた。極端に1つの宗教にのめり込むだけじゃなくて、自分が信じたいと思える道のいいところを見つけて生き方に取り込んで行けたらいいなと思った。

  • 何のために生きるのか?
    どう生きるのか?
    人生の根本に触れる書。

  • 原書名:Ходите в свете покА есть свет

    著者:レフ・トルストイ(Tolstoy, Leo, 1828-1910、ロシア、小説家)
    訳者:米川正夫(1891-1965、高梁市、ロシア文学)

  • トルストイによる原始キリスト教の解釈?でしょうか。2人の対照的な登場人物のありようを通して、人間存在の意味を問うたものとみれば、キリスト者であるか否かを問わず、価値を見いだせる一冊。

  • いや〜わからん。わからんぞ、トルチャン。キリスト教を信じない人間として、その教えや宗教性を噛み砕いて、自分の腑に落ちるまで抽象化したものを飲み込むことをよしとしたくない以上、このモヤモヤの後始末をどうしてくれよう。やっぱりまだ、疑い深い罪な羊でいいや。

  • 学生時代に友達がこぞって評価していたので購入したが、結局実際に読んだのはそれから約10年後となった。しかもカトリック信者として信仰を持ちながら読むことになろうとは。教会に通い出して段々神様に近づいていった自分の体験と酷似しているこの本、静かな感動と共にあっという間に読み終えた。教会で仲良くしているSさんに勧めてみようかな。それで語り合ってみたい

  • 親友として育った二人の青年のうち、一人がその頃は邪教とされていたキリスト教に傾倒し、そのコミュニティーで質素ながらも幸せに暮らすようになる。もう一人は俗世間で地位を成しながらも一抹のむなしさを抱えている。その二人の人生を、後者を軸にしながら描いている。
    彼の名前はユリウス。子供時代、共に勉学に励んだパンフィリウスは母親とともに邪教に入信してしまった。自分は父が成した財で遊び暮らしている。そのうち放蕩息子を見かねた父が結婚を勧めるようになり、他にもいろいろ不満が出てきて、パンフィリウスの入信したキリスト教というものに興味を持ち始める。しかしある老人に諌められ、入信一歩手前で思いなおす。そして現実世界に戻り、父の選んだ相手と結婚。子供もでき、世間的にも認められた地位を得る。そんな折、ある怪我が元で仕事を休まねばならなくなり、気弱になったユリウスは、ちょうどキリスト教に興味を抱いていた妻とともにキリスト教に入信しようかと再び悩み始める。そこへまたも現われる件の老人。また思いとどまるよう説得され、怪我も癒えて戦線復帰できたことから、やはりキリスト教への興味は失せていく。さらに時は進み、妻は死に、息子はかつての自分のような放蕩生活を送っている。政権交代もあって、地位さえも失ってしまった。とうとうキリスト教入信を決意するユリウス。キリスト教徒の村へ向かう途中、あの老人がまたも現われるが、もう彼は老人の言葉に動じない。自らの意思に従ってキリスト教徒の村を目指す。
    これを読んで、散発的に表れるカルト教団のことを思わずにはいられなかった。ああいう集団は邪教集団には違いないと思うが、下層の、純粋にその宗教を信仰している人々と、この物語に出てくるキリスト教徒との間にはどれほどの違いがあるのだろう。日本人的感覚で言わせてもらえば、一神教といわれるものには多かれ少なかれ、事件を起こしたカルト教団と同じ過ちを犯す危険性があるのではないかと思う。一人の人間(または神)を無条件に信じるということは、私には非常に恐ろしい行為に思える。その人(神)が「こうしろ」と言えば殺人だって犯してしまうのだから。数多のカルト教団だってキリスト教だって同じだろうと思うのだ。トルストイはもちろん、キリスト教礼賛の立場でこの小説を書いたと思うが、私が読んで得た感想では、パンフィリウスよりもユリウスの方がよっぽど正常という感じがする。パンフィリウスの語るキリスト教のすばらしさを読んでいると、やはりどうしても、どこかに矛盾があるような気がしてならない。もやもやした疑問が次々に浮かび上がってきて、すっきりしない。どうにもキリスト教に対する不信感は消えない。
    私の宗教的立場に言及すると、少なくとも無神論者ではない。あえて言うならアニミズム信者だ。山には山の神様がいると思うし、俗な話をすれば麻雀の神様なんていうのもわりと真剣に信じている。ただ、そういう神々と一神教の神は絶対的に違うと思う。信仰のジャンルが違うというか、一神教信者と多神教信者が同じ有神論者として議論しても永遠に分かり合えないのだろう。欧米文学を理解する上で、キリスト教に対する知識及び理解というのは不可欠だと思うが、私には到底キリスト教を理解することはできない気がする。今回この小説を読んで、その思いを新たにした。

  • (1967.05.05読了)(1967.01.21購入)
    商品の説明 (amazon)
    キリスト生誕百年後,ローマ帝国統治下のキリキヤを舞台に,二人の男のそれぞれに異なる求道遍歴の生涯を描いたトルストイ(一八二八―一九一〇)の名作.人生の根本問題を力強く簡潔に織りこんだ原始キリスト教時代のこの物語は,世の塵におおわれたキリスト教を純な姿に戻すことを使命としたトルストイズムの真髄を十二分に伝える.

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