六号病棟・退屈な話 他五篇 (岩波文庫 赤622-6)

  • 岩波書店 (2009年11月13日発売)
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本 ・本 (400ページ) / ISBN・EAN: 9784003262269

感想・レビュー・書評

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  • 私の初チェーホフです!
    チェーホフの医者としての体験が生かされた短編集です。

    『脱走者』
    7歳のパーシカは一人で入院することになった。医者が「市場の買い物や、鳥を見に連れて行ってあげるよ」というから張り切ってお母さんとお別れした。
    ==なんか全体的に、アイテムが不気味というか、薄汚れた様子とかが漂ってくるよなお話だった。

    『チフス』
    クリーモフ中尉は帰り道でチフスに罹ったようだ。家に帰って寝込んでうなされて、その間のことは夢現。目が覚めたときに家族の不幸を知らされた。その時は自分が回復する力のほうが強く感じたけど、動けるようになったら喜びは消えた。

    『アニュータ』
    貧乏医学生ステパンは、アニュータという娘と同棲している。アニュータは今までも何人もの男たちと暮らしていて、彼らは一廉の人間になると皆自分を忘れていった。そしてステパンも突然アニュータに飽き飽きしていることに気がつく。

    『敵』
    医師キリーロフの6歳の息子が亡くなった。嘆く医師と妻。だがその時、どうしても往診してもらいたいという客、アボーギンが訪ねてくる。
    ==なんかもう…、うーん、嘆きと嘆きが重なって「よりによって…」という気持ちに。そして哀しみに沈むだけだったはずの医師は「品位にふさわしくない、憎しみ」も芽生えちゃって…。哀しみは薄れても、憎しみは自分にその感情があったと知る前には戻れない。社会の断絶というか。

    『黒衣の僧』
    一人の黒衣の僧が歩いていた。そこから離れたところに黒衣の僧の蜃気楼が歩いていた。その蜃気楼から、新たな蜃気楼の黒衣の僧がうまれる。こうして黒衣の僧はいまや地球を超えて宇宙に現れているという伝説がある。

    休息を勧められたアンドレイ・コーヴリン博士は、園芸家ペーソツキーの家を訪ねた。コーブリンは幼い頃に両親を亡くして、エゴール・ペーソツキー氏とその娘ターニャとは家族のように交流していたのだ。
    コーヴリンはターニャに黒衣の僧の話をするが、ターニャはそのような話は好まない。しばらくしてコーヴリンとターニャは結婚する。
    その時にはコーヴリンの目の前には「黒衣の僧」が現れていたのだ。黒衣の僧との議論を語り合い「溢れる才能と狂気は紙一重ともいわれる。狂人かもしれないが心身の幸福を味わっている」コーヴリンは、ターニャへの思いも、僧との議論も愉しんでいたのだ。しかし新妻ターニャと義父コーヴリン氏はコーヴリンを狂人としてすぐに入院させた。
    やがてコーヴリンは戻って来る。彼の前には黒衣の僧はもう訪れない。コーヴリンは正常になったのかもしれないが、彼の気持ちも生活も荒れてゆく一方だ。現実の世界でコーヴリンはすべてを失う。
    そんな彼の前にまた黒衣の僧が戻ってきた。「だからお前は天才だと言ったではないか。狂人と正常の違いなどなんだというんだね、ほら、今お前は幸福だろう」その通り、彼は幸福を感じた。

    『六号病棟』
    町の慈善病院は乱れ切っていた。不潔な病棟、患者を殴りつける番人、資金を私物化する役人や経営者たち。
    そんな六号病棟は五人の精神病患者がいた。感情がほぼなくなっている町人、「無害なバカ」のユダヤ人セイモイカ、神経質で被害妄想の元役人イワン・ドミートリチ、不潔で愚鈍で巨体の百姓、妄想を持つ元郵便局員。
    町の医師のアンドレイ・エフィームイチは、病院の問題も、関係者たちの横流しも、分かり嫌って入る。しかし諦めの気持ちから改善はしないし、不正も暴力も見逃している。アンドレイ・エフィームイチ医師と一番近い友人は、元騎兵隊のミハイール・アヴェリヤーヌイチだ。
    ある時アンドレイ・エフィームイチ医師は六号病棟に立ち寄り、イワン・ドミートリチと言葉を交わす。医師はイワンの知性、思慮の深さに感じ入り、度々六号病棟に入り浸るようになる。しかしそのことは病院、町、そして地方役人たちたちへも問題視されてしまう。医師が精神病棟などに個人的な用事で入り浸るなどあってはならない。恥だ。彼も精神を患ってしまったのか。
    友人のミハイール・アヴェリヤーヌイチは強引にアンドレイ・エフィームイチ医師を旅行に連れ出す。だが医師はミハイール・アヴェリヤーヌイチの俗物ぶりにもう我慢がならなかった。
    町に帰ったアンドレイ・エフィームイチ医師にはもう居場所がなかった。退職させられ、精神異常者と見做される。アンドレイ・エフィームイチ医師は嘆く。この町でたった一人健全な精神と優れた知性を持った人物と語り合ったという「罪」で自分は何もかもを奪われるのか。
    そしてアンドレイ・エフィームイチ医師が勤めていた病院から…。
    ==
    これはとても惹き込まれました。イワンが精神を患っていることは確かでもありますが、しかし知性と純粋さも持っている。だがこの国の正常とは、賄賂をやり取りし、下位の者は暴力で押さえつける。アンドレイ・エフィームイチ医師も長年医師として勤務して不正も暴力も知っていたけれど消極的に許していた(暴力は止めない。不正書類に嫌々ながらもサインする。ほかも不正も見ないふり)。
    しかし上位者の傍観者だった自分が、不正や暴力を受ける側になってしまうのだ。
    正常と異常、傍観者と当事者の見事な入れ替わり、そして社会に生きるには不正こそ正常とも感じます。

    『退屈な話』
    余命宣告されてている大学教授ニコライ・ステパノヴィチの手記。
    彼は学部長でもあり、世界に名の知られた名誉も得ている。しかし医師から余命半年を宣告されている。すると自分の持っているすべて、辿ってきた人生すべてが虚ろで嘘のように感じるようになった。
    学ぼうとせず単位だけ欲しがる学生、目指す研究を見つけられず必要のない目先の論文だけを書かせる大学、ほぼ毎日家に訪ねてくる同僚。

    そして自分自身、家族。
    自分は名声はあるが見栄えは悪い。妻のワーリャは太って醜くなった(妻の容貌を相当悪しざまに書いています…)。娘のリーザは軽薄な男から言い寄られていい気になっている。そして友人の遺児でイワン・ステパノヴィチが後見人となっている娘のカーチャ。カーチャが幼い頃は引き取っていたが、その後家を出て、「夢を追う」と言って勉学も辞め、不実な男に自分を捧げた。だが夢は敗れ、男は去り、そして彼女の産んだ赤子も…。
    カーチャが滞在先から近況を知らせるたびにイワン・ステパノヴィチは忠告の返事を出す、だがそれは自分でも認めるように「退屈な話」でしかない。解り合えない。
    カーチャは今では家の近所に戻り、その日その日の楽しみだけに暮らしている。ワーリャとリーザ、そしてカーチャはお互いに嫌い合っている。しかしイワン・ステパノヴィチはカーチャのところにいるほうが気が休まる。しかしそれも妻や娘からは「近所の人がなんというか」と嫌がられている。
    イワン・ステパノヴィチは、リーザに言い寄る男の身元調査のため旅に出た。やはり男の身元は怪しい。だがそこに妻から「リーザと男が極秘結婚した」という手紙が来る。自分のしたことはなんだったのか。
    そんなイワンのもとにカーチャが訪ねてきた。わざわざ旅先に。偶然などではあるまい。
    リーザから人生の空虚さの問いかけされた。だがもうイワン・ステパノヴィチは、彼女の空虚も、自分自身の空虚を埋めることはできない。
    唯一の安定の相手だった二人は決定的な別れを迎えるしかない。

  • チェーホフの中短篇集。『脱走者』『チフス』『アニュータ』『敵』『黒衣の僧』『六号病棟』『退屈な話』の計7篇を収録。チェーホフは医師でもあったので、これら全て医業関係の作品が収められています。

    ちなみに以前の版のタイトルは、『退屈な話・六号病室』。タイトルの2篇のみで訳者も異なります。『六号病棟』も『六号病室』になっており、訳文も古いので、新しい方を読んだ方がいいでしょう。

    収録作は全て好みでした。特に良かったものを以下に。

    『敵』は、息子を亡くしたばかりの医師が、けたたましく玄関のベルを鳴らされ、無理矢理往診を求められます。状況が状況だけに、散々断っていましたが根負けし、嫌々遠路はるばる往診にいけば何と……。偶然の不幸の巡り合わせが、どちらも生涯忘れられない日になったと思うと、とても面白かったです。

    『黒衣の僧』は、精神が病んでしまったがために、自ら作り出した幻影と語り合うことができるようになった男の悲劇。普通って何だろうと考えさせられました。
    誰にも迷惑かけていないのに、人と違った考えや行動というだけで、普通になるように矯正させられる主人公の苦悩が胸に響きます。

    『六号病棟』は、病院敷地内の一角にある、精神病患者のみを収容した建物でのお話し。
    哲学好きの院長が、自分の考えを議論できる相手が、たまたま長年病棟に収容されている患者にいて、仕事をほっぽり出して議論に没頭していたことから、話しが暗転していきます……。これを読むと、世間が決めつけている正しいと思われることも、本当にそうなんだろうかと考えることが大切だと思いました。それと、自分がもしこういう状況になったらと思うと怖い話しですね。

    『退屈な話し』は、自分の命が長くはないと悟った、老医学教授の手記。手記という前提なので、身内のゴタゴタがひたすら書かれています。箴言めいた言葉も多くて楽しめました。最後は切なかったです。

  • 医師でもあった著者の残した、医療や病にまつわる七つの中短編のアンソロジー。はじめの四編が短編、残り三編が表題作ふたつを含む中編作品です。気鬱な内容の物語で集成されており、読んでいて気がふさぎました。なかでも三つの中編はその傾向が強いとともに、主要人物が俗人を嫌悪する知識人であるという共通点があります。以降は作品ごとの概要や所感などです。
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    『脱走者』
    母に連れられて外来診療の結果、ひとり病院に残ることになった幼いパーシカの一夜が描かれる。患者や看護人たちの姿が、子どもの目におどろおどろしく映る様子が伝わる。

    『チフス』
    帰郷の途の列車内で、病のために目につくもの全てを厭らしく感じるクリーモフ中尉。おばと可愛い妹の待つもとに帰宅してチフスと診断される。快癒した後のクリーモフの感情が列車内と対照的に描かれる。

    『アニュータ』
    前途有望な医学生クロチコーフと、同棲する身寄りのないアニュータとの関係性が中心となる。

    『敵』
    最愛の息子に先立たれた直後の都会医キリーロフに、妻の診察を依頼しにきた裕福な地主のアボーギン。キリーロフはアボーギンに不快感を抱きながらも往診に向かう。

    『黒衣の僧』
    コーヴリン博士は休養のため逗留していたペソーツキーの屋敷で伝説とされる黒衣の修道僧の蜃気楼を目にする。コーヴリンは屋敷の娘と結ばれるが。

    『六号病棟』
    朽ちかけた病棟に収容されるのは五人の精神病患者たち。医師ラーギンは唯一、貴族出の患者であるドミートリチとの知的な会話を楽しみ、病棟に足しげく通うようになる。病院のスタッフたちはそんなラーギンを不審な目で見る。中盤でラーギンがドミートリチに対して口にする台詞が象徴的に響く。本書で最も含蓄の深さを感じさせる作品。

    『退屈な話』
    高名な解剖学名誉教授である、老年のニコライ・ステパーヌイチは自身の寿命が近いことを予感している。厭世観に満ち満ちたニコライの、俗世への嫌悪と軽蔑の感情が延々と綴られる。妻、娘、部下、娘婿候補、学生と、近親者を含めて目につくものをことごとく疎ましく感じる彼にとって、近所に住むカーチャという若い娘との時間だけが慰めだった。

  • 医者としてのチェーホフにポイントを置いて編まれた短編集である。7編がはいっていて、「脱走者」は病院がこわくて脱走する子供の話、「チフス」は青年がチフスに倒れ、なんとか生還するが、妹にうつって死んでしまう話、「アニョータ」は医学生に尽くし捨てられていく女の話、「敵」は自分の子供がジフテリアで死んだばかりなのに、往診を頼まれ、地主の家にいってみると仮病をつかった妻が情夫といっしょに駆け落ちした後だったという話、「黒衣の僧」はタイトルの幻影をみる哲学者が治療されたために、不幸せになり、離婚し、のたれ死ぬ話である。これらの短編は医学の無力を書いているのだが、これが「六号病棟」で細かく書かれている。主人公は「燃え尽き」た医師で、鉄道から200km離れた僻地で医療を行ったいる。予算がなく、読み書きができない無理解な人々が行政をしているので、病院に改善がなされず、不潔でむしろ健康に悪い病院になっている。主人公の医師は最新医学の知識をもっているが、やる気をなくし、もはや助手たちに医療を任せている状態である。ある日、精神病棟をたずね、脅迫観念の男と話していると、正気の人々より知的な会話ができ、医師は彼とよく話すようになる。それを見た野心的な准医師が医師が発狂したと郡会に告発、無理矢理引退させ、最後には精神病棟に入れ、殺してしまうという話である。「退屈な話」は死を間近に感じている著名な医学教授の手記である。妻は昔の面影がなく、物価が下がったことにしか喜びを示さず、息子は外国で士官となっているが仕送りをしなければならない状態、娘は音楽学校にかよっているが、いいかげんな男にだまされ、結婚してしまう。友人から養育を託された娘は、芝居に傾倒し、女優になるが、男にだまされ、子供を葬り、自分にも才能がなかったことを悟り、演劇をやる俳優たちの自堕落な生活にも幻滅、親の遺産を食いつぶしている状態である。教授は講義好きだが、助手には独創性がなく、清潔なプレパラートを量産し、「誰にも役にたたない論文」と「良心的な翻訳」を残すくらいの業績しか残せないだろうと将来をみかぎっている。そういう老教授の日常が淡々と書かれている。「六号病棟」の医師も「退屈な話」の教授も、感受性をなくし、もはや行動することのできなくなっている人間を描いている。時代のせいもあるだろうが、どうして人間は諦念に安住してしまうのだろうか。彼らが愚かだからではなく、むしろ賢いからそうなるのかもしれない。魯迅もそうだが、医学と文学をやる人は多い。やはり、人の死と向き合うと、考える所があるのであろう。だが、彼らにも「耐える」という美徳はある。同じように耐えられる人ばかりとは限らない。もっと崩れる人間もいるだろう。

  • 医師でもあり作家でもあった著者の医療をテーマにした1880年代の作品集。1880年代といえば、日本では嘉納治五郎が柔道を起こしたのは偶然年末に読んでいたぞ。でも、このロシアのみすぼらしさ、救いの無さといったら凄まじい。じめじめして冷たい不潔な病室、塩魚のぷんと臭う毛皮外套、すっぱくなったキャベツのスープ、皆疲労困憊し神経を病み、哲学を持つものは実生活をしらず、生活するものは疲れ果て考えることをあきらめている。1980年代のロシアは重工業が起こってきてはいるものの、人々の暮らしは貧しいままで専制体制への不満が高まってきていた時代。レーニンの時代まで後一歩という時代。いったいどこの惑星の話かと思うほどの異質な環境と人々の暮らしが描かれています。最寄の鉄道駅まで馬車で二日もかかる辺鄙な町の精神病棟の医師の物語「第六病棟」。医師自信が次第に病んでいく様はサスペンスフルですらあります。「黒衣の僧」や「退屈な話」の、幸せだったはずの生活がいつの間にか苦しみと憎しみに満ちた暮らしに変わってしまうあの残酷さ。どんよりした曇り(雪なんか降っていればベスト)になるべく部屋を寒くして読むべし。迫力満点。

  • この作品のタイトルは『退屈な話』ですが、読んでみると退屈どころではありません。とてつもない作品です。 地位や名誉を手に入れた老教授の悲しい老境が淡々と手記の形で綴られていきます。 『魔の山』で有名なドイツの文豪トーマス・マンが「『退屈な』とみずから名乗りながら読む者を圧倒し去る物語」とこの作品を評したのはあまりに絶妙であるなと思います。まさしくその通りです。この作品は読む者を圧倒します。 そしてあのトルストイもこの作品の持つ力に驚嘆しています。ぜひおすすめしたい名著です

  • 『六号病棟』が面白かった。

    この作品の主題とも考えられるテーマは狂人とは何かという問題だ。イワン対社会、アンドレイ対社会やイワン対アンドレイなど様々な視点が見れる。しかし彼らの抱える問題の根本は社会に対する不満だ。アンドレイは知識を持つ人を探し不誠実ではない社会にイライラし、イワンは病棟自体の存在に憤怒している。町の人が未知な「病状」を「狂気」として区分け既知に帰ることでその未知に対する恐れを改善できる。このため、社会的に「正常」と異なる思想を持つものは「病気」や「狂人」と名付けられ社会から切り離される。

    育ちや教育が個人の考え方にもたらす影響、生きる事とは何かと狂人とは何かの三つのテーマを扱う作品だ。

  • 『六号病棟』が面白い。秀逸。掘り出し物であった。

    地方の小さな病院に勤めるラーギン医師が主人公。ある日彼は精神病患者を収容する「六号病棟」で、ある若い「狂人」に出会う。狂人とされる一方で青年はすぐれた知性をもっていた。医師は、青年と哲学的な対話を重ねてゆく。
    しかし、周囲の人々は、そんな医師の姿に「彼もおかしくなってしまった」と誤解してゆく。そして…。
    凡庸な思考を持つ「健康な」人々。対して、世界と社会に懐疑的で優れた知性を有し、故に狂人と目される少数者。狂気とされることの境界、その曖昧さを抉る。痛切で哀感も滲ませ、あじわいも深い。傑作である。
    私は、これまでチェーホフの戯曲に相性の悪さを感じてきたが、チェーホフは戯曲よりも小説にいいものがあるのではないか。この1作だけで☆5つを付けた。

    ※オースターの『シティ・オブ・グラス』を思い出した。NYである男がホームレスに落ちぶれ、感覚や認知が麻痺摩滅してゆくお話であった。
    私は、立派な人物を描く小説よりも、こうした狂気の人物や破滅的な生き様を描く小説に、より強く魅かれることを今回また再認識したのであった。

    ・破滅的なお話といえば本文庫所収の短編『黒衣の僧』の破滅ぶりも強烈だ。
    ある日男のもとに竜巻と共に「黒衣の僧」が現れる。その「黒衣の僧」は幻想幻覚なのだが、男は「僧」を相手に形而上学的な対話を重ね、その知的な営みに幸せを感じてゆく。だが、周囲の家族には、彼が精神を病んでいるように見える。男は精神病の治療を与儀なくされ、その結果、思考の自由と幸福、家族や実生活の幸福が崩壊してゆく。その破局ぶりは鮮烈である。

    ・もうひとつの表題作『退屈な話』は、老齢の大学教授の独白。教授は自らの人生の終わりが近いと考えており、自身の人生を振り返るように独白を重ねてゆく。
    ※表題『わびしい話』と訳されたのもあるらしい。

    ところで、この『退屈な話』では、主人公の老教授が終盤近くで「ハリコフ」に向かう。ちょっと驚いた。
    現今のロシアによるウクライナ侵攻で東部激戦地となっている都市だ。(現今はウクライナ語の「ハリキウ」表記に換わっている。)娘に求婚している男の故郷がハリコフで、彼の素性を確かめてくれと妻に請われて渋々同地に赴くのだ。この頃、馬車や鉄道を使えるロシアの貴族にとってウクライナ地方のハリコフはそう遠くない土地だったようだ。

    ちなみに、トルストイの「青年時代」では、父の与太話で「クリミヤの南海岸に土地を買って、毎夏そこへ出かける」と語る場面がある。クリミア半島は比較的温暖な地で、ロシア貴族には羨望の対象で、ある意味で身近な地だったようだ。

  • 六号病棟のイワン・ドミートリイチはまるで自分のようだ。彼は被害妄想で精神病棟に閉じ込められている。しかし彼の被害妄想は、彼の臆病な性格や彼自身に対する自信のなさに端を発している。往々にして人は意図的に罪を犯すのではなく、うっかりしてとんでもない誤ちをするものである、とイワンは考えている。私自身もそう考える節がある。(夏目漱石の『こころ』の主人公のように。)イワンは自分が将来犯してしまうかもしれない過ちに怯えるあまり、気が狂ってしまった。私はイワンを他人事に思えなかった。

    アンドレイ・エフィームイチの気弱な性格も自分にそっくりだ。彼は医師という権限がありながら、人に命令することができない。常にまわりの人々の顔色を伺っている。この点も自分にそっくりだ。彼は大学まで順風満帆な人生を送ってきたが、医師になった途端、突如として話の通じない人ばかりの田舎に飛ばされてしまう。彼の境遇の全てに同情する。不遇な彼が唯一田舎で心が通じ合えたのがイワンだったこと、そしてこのことが更なる不幸を呼び起こしたこと、全てがかわいそうだ。

    表紙の紹介文は本作を「正気と狂気の曖昧さを突きつける」と評している。私はそれもあると思う。しかしそれ以上に、人がまわりの人間によって理不尽なレッテルを貼られて破滅していく様を、本作は如実に表していると感じた。

  • (特集:「先生と先輩がすすめる本」)
    学問への意欲に燃える若い人に、「黒衣の僧」を勧めるのは間違いかもしれない。しかし「お前は選ばれた天才だ」と囁く幻と出会い、やがて精神的に破滅していく若者を描いたこの傑作は、あなたに強烈な印象を残すであろう。閉じこもり、錯乱をきたしながら絶命する姿には、共感を誘う何かがあると言わざるを得ない。チェーホフは登場人物の心の動きに光を当てる短編小説を多数書き、ロシア近代文学の歴史を変えた文豪である。一家破産で貧しい中、苦学して医者となったが、生活のために執筆を続けた。日本文学にも大きな影響を与えている。
    (教員推薦)

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    https://mlib3.nit.ac.jp/webopac/BB00511250

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著者プロフィール

一八六〇年、ロシア生まれ。モスクワ大学医学部を卒業し医師となる。一九〇四年、療養中のドイツで死去するまで、四四年の短い生涯に、数多くの名作を残す。若い頃、ユーモア短篇「ユモレスカ」を多く手がけた。代表作に、戯曲『かもめ』、『三人姉妹』、『ワーニャ伯父さん』、『桜の園』、小説『退屈な話』『六号病棟』『かわいい女』『犬を連れた奥さん』、ノンフィクション『サハリン島』など。

「2022年 『狩場の悲劇』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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