- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003264126
作品紹介・あらすじ
ロシア前期象徴主義を代表する詩人・作家ソログープ(1863‐1927)。影絵やかくれんぼに夢中になる少年少女たち…。汚濁に染まらない者たちは美しいまま醜い現実によって死んでいく。夢と現実の交錯、美と醜、生と死の対立の中に、妖しくもにぶい光が立ちのぼる。表題作の他に、「白い母」「光と影」「死の勝利」等を収録。
感想・レビュー・書評
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「かくれんぼ」や「光と影」を再読したくなって、
ハタと、そういえば新版って何なんだ?
と思い、チェックしたら、
旧版に別の翻訳家が訳した3編を加えたものだった。
ということで購入。
旧版(2002年発行の第8刷)では
柱(ページ上部の作品タイトル)が右から左へ読むように
印刷されていたが、
こちらは逆――普通に、左から右へ――に改められている、
って、そりゃそうか(笑)。
■旧版レビュー
→http://booklog.jp/users/fukagawanatsumi/archives/1/4003264118
物語のひんやりした美しさ、
人の心がジワジワ壊れていく怖さを淡々と伝えてくれる名調子が
今回も心に沁みた。
純粋なものがそれ故に内側から壊れていく痛ましいストーリーに
胸が締め付けられるけれど、妙に清々しく、
残酷さを超えた美しさを感じる。
読んでいると清らかなサボンで心が洗われるようなのだが、
キレイになったその先には真っ白な狂気しか存在しない
……といったところ。
しかし、残念ながら
追加の3編は旧版収録の4編に比べると薄味だった。
4編はきっとまた何度でも読み返すことだろう。 -
旧版は読んでいるが、旧版には無かった「白い犬」「毒の園」「死の勝利」を読みたいと思い、改めて一通り読み直した。
新たに入った3短篇の中では、「死の勝利」が1番面白かった気がする。話の展開が面白かった。
ただ個人的には、旧版にも入っていた4短篇の方が好きかな…と感じた。
なんとなくだがどこか『甘ったるさ』を感じさせる日本語が、特に「光と影」「小羊」「かくれんぼ」の雰囲気と合っていると思った。
「毒の園」は、これも何となくだがホフマンの日本語訳っぽいくらいさっぱりしていて、もう少しさっぱりしていない日本語で読んでみたいとも感じました。 -
静謐な退廃感の感じられた『かくれんぼ』に魅せられる。かくれんぼがはばかれるようになってしまいそうだ。もっともその機会はないだろうが。予言があるのとないのでは重みも違う。『毒の園』。まさに毒だ。毒に満たされ、魅入られる。危険な遊戯である。大人の楽しみの一品だ。戯曲『死の勝利』。とてもつもなく秀逸な作品だ。登場人物と仕立てはギリシア悲劇を思い起こす。結末と序がオリジナルだそうだが良く締まった効果がよく、味わい深い。日本でもここまで書ける劇作家は少ないと思う。ギリシア悲劇が再読したくなった。
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著者は厭世主義者で「死の吟遊詩人」を自称していたそう。
私のロシア文学体験は、レールモントフ・ガルシン・チェーホフぐらいで、プーシキン・ドストエフスキー・トルストイ・ツルゲーネフ・ゴーリキー等は未読だ。それでも、彼らが今なお世界的な作家として認知されていることは知っている。
気候的・政治的な意味あいで、ロシア文学(芸術)にはなんとなく薄暗いイメージがつきまとう。だが実情はむしろ豊饒ということか。ソログープについては、本書を手にするまで聞いたことすらなかったけど。
陰気・悲観(厭世)主義・簡潔なスタイル——なるほど本書に収められた作品群は、どれを取ってもそのもの陰鬱と言っていい。
寓話ふうな物語られかたが残酷さを強調しているかもしれない。
表題作の『かくれんぼ』『毒の園』のほか、『小羊』『白い犬』『悲劇 死の勝利』なんかが私的ヒット。-
「寓話ふうな物語られかた」
初めて「かくれんぼ」を読んだ時は、予想はついたものの気が滅入ったのを思い出します。
淡々と話を進められると、手出...「寓話ふうな物語られかた」
初めて「かくれんぼ」を読んだ時は、予想はついたものの気が滅入ったのを思い出します。
淡々と話を進められると、手出し無用と言うような拒絶感がありました。。。2013/08/17 -
>手出し無用と言うような拒絶感
なる……まさしくそうなのかもしれませんね。作家が読み手を拒絶しているということは、端からエンターテインメント...>手出し無用と言うような拒絶感
なる……まさしくそうなのかもしれませんね。作家が読み手を拒絶しているということは、端からエンターテインメントにはなり得ないわけですけど(ソログープがエンターテイナーとかないっすねw)、物語の語り口は寓話的。
小難しいことを小難しい語り口で書くのは案外簡単だと思いますが、こんな物語られかたをされると、読み手の突き放された感は半端ないかも。
2013/08/27
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これはなんていうんだろう。怪奇?小説と戯曲一編の短編集。
生と死とか、光と影とか。
不可思議な出来事や猟奇な事件が起こるものもあるにはあるけれど、不思議なことはひとつも起こらないものもある。
残酷な出来事にも悪意が感じられない。悪なんだろうけどドロドロじゃない。
でも怖い。なのに怖い。
昇曙夢の解説がよい。
「毒の園」は『岡本綺堂探偵小説全集』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4861823838に入っていた「魔女の恋」の前半と同じ設定。
全集には「魔女の恋」はナサニエル・ホーソーンの「ラッパチーニの娘」の翻案に別の翻案(もしくは創作)を合体させたもの、とあったけど、「毒の園」は関係ないんだろうか。
「ラッパチーニの娘」も読んでみたい。
(後日読んだ。http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4488501087)
「死の勝利」の誇り高く哀れな母娘が好き。
こういう子が幸せになる話が読みたいと、岡本綺堂の悪女を見たときと同じ感想を持った。 -
ロシア前期象徴主義を代表するという詩人の短編集。甘ったるいとも言える感傷的な雰囲気の中で、リリカルに死を語る。ロシアの作家ははまると深そうな人が多いが、この人も底なし感があるなあ。
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ふと思い立ってソログープが読みたくなった。しかし新刊で手に入るのは、どうやら岩波のこれだけっぽい……?
ちょっと前に『小悪魔』が文芸社から出たのは話には聞いていたのだが……って、それも10年以上前の話か。そりゃあ手に入らない筈だ。
ソログープというと『子供』が重要なモチーフになっていることで知られている。本書はその代表的なものだろう(多分)。しかし、著者がより追い求めていたのは、俗に『イノセンス』と呼ばれる何かではないだろうか? と、いうことを、通勤電車の中で考えるのであった。しかし朝っぱらから読む本じゃねぇよなぁw -
毒液で養われた美しい女の呼吸は花の香り。蒼い電光が潜む瞳、赤い唇に紅い頬、闇に溶けてゆく黒い髪、無垢と冷淡をあわせ持つ白い肌。死装束の月光がまどわしの園を包囲すれば、昼の存在の醜さは覆い隠される。匂い立つ甘い蜜みたいな毒気は肌に染みこんでいくようだ。
冷たい安らぎ、歓喜の愛、恍惚の死を哀れな魔女は叫ぶ。耳に注がれる言葉の魔力に全身が痺れる。恐ろしいほど美しいものには必ず毒があり、触れた者を徐々に蝕んでいくとわかっていても、こちらに戻って来られる限り、再び足を踏み入れてしまう。震えるほど好き、『毒の園』。 -
◆端的にいえば、厭世と死の短編集。不気味なまでに子どもの純粋さが描き出された「かくれんぼ」「白い母」「子羊」。◆「光と影」にも子どもが登場するのですが、これは子どもの純粋さというのとはちょっと違う気がしました。というのも、この物語は影によって母親も幸福な狂気に引きずり込まれているから。むしろこれはどこかが破たんした生活世界を描き出していて、おとなになりかけていた少年もそこに引きずりこまれてしまったのではないかと思います。
◆愛と死が最後に一体となるのは「毒の園」と「死の勝利」。とくに「毒の園」の死は、主人公の日常世界と毒の園という非日常世界に愛という架け橋が渡されるラストがなんとも美しい。この本で死というものが不可解なまま終わっているのは「白い犬」。解説にもある厭世主義的な一面が色濃く表れている作品なのかもしれません。
◆解説や感想としては「死を賛美している」とまとめられがちですが、ぼくの感想は少し違いました。むしろ、厭世と死というテーマがいろいろな形でちりばめられていて、作者が執拗なまでに厭世と死を描き出そうとしているように感じました。
◆読みやすいけれど、考えてよく読んでみると底知れない深みがある、そんな珠玉の一冊ではないかと思います。 -
『毒の園』と『死の勝利』がよかった。
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ロシア前期象徴主義を代表する詩人・作家ソログープ(1863―1927)。影絵やかくれんぼに夢中になる少年少女たち……。汚濁に染まらない子供たちは美しいまま醜い現実によって死んでいく。夢と現実の交錯、美と醜、生と死の対立の中に、妖しくもにぶい光が立ちのぼる。表題作の他に、「白い母」「光と影」「死の勝利」等を収録。
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前半の、善悪をともに招きよせてしまう子供たちの姿は、無邪気であるがゆえにゆがんだ罪とも呼べず、哀れを誘う。また「毒の園」はストーリー自体に特筆すべきものはないのだが、様式美を感じさせた。「死の勝利」は『愛と死は一つ』という点が「毒の園」と同じでありながら、登場人物の心持が対照的であるのが面白い。
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前半4つの物語は只管平坦な文章がつづく。
後半3つの物語はまだ少し動きがある。
異なる話しとはいえ、訳によってこうも印象がちがうかと、感心。 -
ロシアの底力を思い知ってただ茫然。全く知らない作家だったので、何となく新刊書店で図書カードの残高を処理すべく買ったのだが。アタリ。「死」をリリカルな「作品」として仕上げていると言ったらいいか。
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駅前の書店で購入しました。
(2013年3月22日)
このくらい抽象的に書いても大丈夫、
ということです。
素晴らしい。
(2014年2月10日) -
「伝記など、作品が十分に知られてからでよいのだ。語られるべきものは人生ではなく作品である」という科白からもうかがえる様に、生い立ちから文壇に至るまでの彼の足跡はほとんど知られていない。作家自身の生涯とその作品とを過度に関連付けて理論化しようとする近代的な文藝評論への皮肉としても捉えうるこのような発言を、彼は諸々に残している。
彼がそう望んだように、だから、我々はその作品を読むべきだろう。あどけない死を修飾する寓話的モチーフの様々や、そこにある生と死の異様なまでに明確なコントラストから、ソログープの人生をペシミスティックなドクサの元に忖度することは無粋というものである。ナボコフもその『文学講義』の中で何度も、この様な素朴な誤謬に陥らぬように、と注意を促している。
死と無邪気に纏わる濃厚なペシミズムは、ソログープにとって単なる手段である。彼が創作活動によって藝術的表現を試みた様々な発想は、ただ重厚なペシミズムによってこそ、まるで版画の様に、その姿を文字通り浮き彫りにする。
『毒の園』にみられる、溌剌とした若々しい愛の熱狂に彩られた劇的な死。『子羊』の、あまりに無邪気で愛くるしい、凄惨な死。『かくれんぼ』の、暗示的な観念としての死。これらの死は、逆や裏や対偶として生を語る為のものではない。「死によって輝く生」などという安っぽい二項対立に、ソログープの文学を幽閉してはならない。それは彼とその作品に対する冒涜である。
生が死を語るためにあるのではないように、死もまた生を語るためのものではい。ソログープが死を駆使して浮かび上がらせるのは、いたいけな美である。繊細で儚い未完成がたやすく崩壊し、消滅する。その刹那に放つ俄かな甘い閃光を、彫刻刀のように鋭利な死で刻み込む。それが詩人ソログープの方法だった。
死は何も語らず、生も何も語らない。何かを語るのはいつも、ただ作品だけだ。
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