- 岩波書店 (2014年6月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (288ページ) / ISBN・EAN: 9784003271452
感想・レビュー・書評
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榛の茂み、葡萄畑、サルトの丘。大地から、葡萄の樹のあいだの地面から湧いてくる熱気。雪の跡に残る狼の足跡。
アメリカに渡った主人公と、故郷に根付く親友ヌート。かつて主人公が住んでいた荒屋に住む少年チント。
個人的には、主人公が「アメリカの人びとがみな私生児である」と気づいた、というところが一番印象的だった。
解説にあった、「生贄」という考え方は、わたしには難しく読み取れなかった。
“どうやって人に説明できただろう。ぼくが求めているのは、かつて見たことがあるものを、ふたたび見たいだけだ、などと?荷車を見たい、干し草置場を見たい、葡萄の桶を、鉄柵の門を見たい、チコリの花を、青いチェックのハンカチを、瓢箪を、鍬の柄見たい、などと?”
“故郷は要るのだ、たとえ立ち去る喜びのためだけにせよ。故郷は人が孤独でないことを告げる。村人たちのなかに、植物のなかに、大地のなかに、おまえの何かが存在しおまえがいないときにもそれが待ちつづけていることを知らせる。けれども、そこに、身を落着けるのは容易でない…”詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
いやいや~こういうタイトルは一見して心惹かれます。古きものに現代的な意味を込めたような……そこにはどんな謎や心象や詩情が込められているのか?
先日久しぶりにイタリアの鬼才、イタロ・カルヴィーノを読んだことをきっかけに、イタリア脳内旅行を愉しんでいるこの頃です。
本作の作者チェーザレ・パヴェーゼ(1908~1950年)は、カルヴィーノの先輩で、イタリア・ネオレアリズモ文学の代表の一人でもあります。とにかく情景描写が美しい。あまりにも透徹した描写に身震いし、映画のようなおどろおどろしい光景に息をのみます。また月やかがり火には、いにしえから語り継いできた深い意味が込められ、あるいはそこへ隠され、それらが絶妙な隠喩となって作品全体を神秘的な色あいにしています。
「赤みがかった光が照らしていた……低い雲の裂け目から、短剣の傷口にも似て、利がまのような月が現われ荒野を血で染めていた」
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ぼくは大聖堂の前に置き去りにされた捨て子。自分の名前すらわかりません。そもそもぼくに名前なんてあったのだろうか……。
彼は孤児院で育ち、銀貨一枚の養育費目当てに極貧の山手の農家に引き取られます。その後、平地の農家に売られた彼は、友人ヌートと触れ合うなかで字を覚えます。むさぼるように本を読み、労働と階級の意識に目覚め、しだいに地下組織(パルチザン)とも関係を深めていきます。故郷をあとにした彼は渡米して成功するも、すでに人生の道半ば。数十年ぶりに故郷を訪ねます。
本作は戦後まもない混乱期にかかれた(1949年)、パヴェーゼ最期の作品です。故郷の山や沢には、大雨で流されてきたドイツ兵のむくろが露わになり、いまだ戦争の生々しさが残る、リアルで写実的な作品です。その一方で、どこか神話的・呪術的な雰囲気が漂っていて、貧しい寒村の閉塞感やグロテスクさをより際立たせています。このあたりはカルヴィーノの短編もふくめた初期作品に相通ずるものがあって、親近感と大きな繋がりを感じて嬉しくなります。
作品全体のトーンとしては決して明るいものではありません。月明かりのような仄暗さに覆われています。そのぶんしっとり落ち着いた作品世界が楽しめます。まちがっても、語り手の視点が飛び乱れたり、時空が歪んでみたり、わんさか人が登場したりするようなことはありません。
寄る辺ない彼の孤独、自己の存在の揺らぎ、根無し草のように生きてきた彼にとって、育った土地とそこに根づいて生きる幼なじみのヌートは、ある種の憧れであり、圧倒的な存在であり、はたまた力強い現実でもあった。ふと気づいてみれば、それらは彼の存在、生の拠り所なのかもしれません。
哀しみに染まった郷愁、淡い月の光、妖しく揺れる祭りのかがり火が混然一体となって、死と(再)生と希望を感じさせます。じつはパヴェーゼにはほかにも郷愁をさそう作品、初期作品の『故郷』がありますが、わたしは本作のほうがより素直で、明暗のバランスがとれていて、ほのかな生命の萌しを感じさせるいい作品だと思います♪
「サルトの丘には、ぼくの友達のヌートがいて、ぶどうの桶を作り、遠くカーモまで谷間一体にぶどう搾り機を卸している。これは何を意味するのか? 故郷(ふるさと)は要るのだ、たとえ立ち去る喜びのためだけにせよ。故郷は人が孤独でないことを告げる。村人たちのなかに、植物のなかに、大地のなかに、おまえの何かが存在し、おまえがいないときにもそれが待ちつづけていることを知らせる」
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先の大戦末期の前後に描かれたイタリア・ネオレアリズモ作品は、パヴェーゼのほかにも、ヴィットリーニ『シチリアでの会話』(1941年)、カルヴィーノ『くもの巣の小道』(1947年)などがあります。イタリアファシスト、ドイツナチズムとの壮絶な闘いの歴史、そんな勇猛な地下組織パルチザンの克己と偽善と悲哀、隠喩を駆使した幽玄的世界……それぞれ深い作品たちで面白い。
興味のある方に本作とあわせてお薦めします(^^♪ -
あるとき書店で見かけて以来、中身をほとんど読みもせず、これを読むまでは死ぬまい、と心に決めた本である。それを読んでしまったのだが、やっぱり、自分の直感に誤りはなかったと思う。内容についてここであらためて語ることは野暮でしかないので、語らない。まあ、これはどんな話にも共通しているけれど。気になったら読めばいいと思うし、気にならなければ読まなくてもよい。ただ、気になったのなら必ず読んだほうがよい。そんな話。
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なんという始まり方だろう。若くして故郷をあとにし、世界の荒波を漕ぎ切り、40歳を過ぎて故郷に帰る、パヴェーゼが若い時に書いた詩「南の風」そのものではないか。
そしてなんという展開と終わり方だろう。美しい夏、故郷、丘の上の悪魔、流刑、青春の絆、それらすべての要素が凝縮されている。それらはこの作品を書き上げるための習作だったようにも感じられる。
本作品の脱稿は1949年11月9日。出版は50年4月27日。命を絶つのは8月27日。本作品の出来を見るかぎり、思い残すことはなかったのかもしれない。
巻末、訳者による「解説」の最後には、「私事」が記されている。1980年から81年にかけて、訳者はトリーノに住み、パヴェーゼが最後に亡くなったホテルに半年滞在した。パヴェーゼが最後に借りていた部屋も使わせてもらった。彼が見ていた窓辺の風景を眺め、彼が眠ったそのベッドで「幸せな眠りをいつまでも眠った」という。 -
残酷さも貧しさも全ては美しい過去となり郷愁の中に葬られる。
地続きの今がその先にあるとしても。
篝火はすぐに焚けないけれど、外に出れば今夜も綺麗な月が浮かんでいます。 -
読んでいて、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」を思い出した。
イタリア(といっても地方は違う)が舞台であることと、田舎を出て成功した主人公が一時帰郷するということからなのだけど、今作はずっとシビア。
孤児だった主人公の貧しい少年時代、主人公の回想と村に残った親友が語る周囲の人々の末路、過去よりなお悲惨な現状。
重苦しい物語だが、文章が非常に美しいために読み進めたくなる。
主人公は帰郷の間、自らの過去の幻を避けながら探すような複雑な心境でいたが、祭(=非日常)の時にはまた帰郷すると言い残した彼自身が亡霊のようなものだと思った。
ハッピーともアンハッピーとも言えない結末が絶妙。 -
一切が回帰する世界のなかで、物語は象徴に導かれながらすすみ、やがて始まりに到達する。すでに決められた世界から飛躍し、別の物語へと繋がるためには、神話と時代が必要なのだ。
パヴェーゼが目指したのは神々がまだ人間、動物と平等だった時代の共産主義的ユートピアなのだろうか。とすれば、死すべき者は常に不死である神々なのだ。 -
パヴェーゼの最高傑作と名高い本作。タイトルとゴッホの絵に惹かれる。個人的にはやや難解。『美しい夏』の方が個人的には好み。
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私生児の主人公が故郷である寒村の丘に帰ってきて、昔を懐かしむような話。
1回で名前が覚えられない。 -
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内容は三分の一くらいしか把握できなかった。主人公、ヌート、チント以外の登場人物が誰が誰なのかわからなかったくらい、自分には難解だった。カラマーゾフの兄弟の方が登場人物が整理しやすい。この本の文字の小ささに慣れたら、大体の小説は読みやすいと思えると思う。
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p84. どうやって人に説明できただろう。ぼくが求めているのは、かつて見たことがあるものを、ふたたび見たいだけだ、などと?
初パヴェーゼ。作者も作品も知らなかったたので、「ぼく」の背景を知らず、この主人公の行動や人々の会話が何を意味するか分からず、最初は読んでいるだけだった。そのうち、イタリアの寒村の風景、「私生児」アングィッラの暮らしと、戦争で変わってしまった人々と村、祭りや労働の記憶などの味わいを感じた。ヌートのクラリネット、篝火、玉蜀黍の皮、孤児院と小作人、荒家と山羊と榛の茂み、葡萄とポレンタ、チントヴァリーノ老婆、マッテーオ旦那と2人の娘、司祭とパルチザン。貧しさの記憶と故郷パドリーノの家での季節の移り変わり。 -
解説が素晴らしい
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主人公にとってこの村は血の繋がった家族はいなくても様々な繋がりがあり確かな故郷と言える
それが失われていくそんなストーリーだと感じた
時代の変化だとか、主人公の成長、戦争とか様々な形での喪失を味わうことになる
ただ、孤児など弱者に対する容赦のなさは変わらないことを痛感した
暗いストーリーと美しい描写がよかった -
2014-7-10
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「故郷は要るのだ、たとえ立ち去る喜びのためだけにせよ。」
すべてが“私生児だから”というのが理由になるだろうか?
月は憧れ、篝火は最期の象徴。 -
先日読んだスーザン・ソンタグが取り上げていた、パヴェーゼの最後の長編小説。
40歳になった主人公が、生まれ育った故郷の村を訪れる。その村でかつて起きたさまざまなこと、現在のさまざまな様子、あるいは別の土地(アメリカ)で体験したさまざまなことが綴られる。
これもまた、「場所」に関する小説である。時系列が少々入れ替わっており、通時的な「歴史」というよりも、すべての事象が共時態的に「止まった時」のなかに漂うような、そんな場所=時間が描出されている。
この場所に登場する人物が多く、どの名前がどんな人物を指しているのか、ちょっと混乱させられた。
背景として、両大戦にまたがって、ファシスト党のムッソリーニが権力をふるい、それに対抗するパルチザンが活躍し、やがてファシストが滅びる、という暗く陰惨な、激動の時代がある。この小さな村も、そうした歴史性に完全に巻き込まれており、決して独立したユートピアを形成しているのではない。
この小説を読みながら、小説的な言語ということを考えていた。イデオロギーの言語は、人びとを絶えず争闘のなかにたたき込むということを、日頃目にしている。イデオロギー的な言語とは、否定し、排斥し、攻撃するパワーそのものであり、人びとはむしろ、そんな争闘のパワーに操られているだけのようにも見える。(ただし哲学の言語はまた別だ。)
小説の言語とは、それとは全く異なるものだ。それは誰をも攻撃しない。否定するよりもひたすらに肯定し続ける。そうして、構築された言語は象徴的なイメージを結実し、そこにポエジーを生成する。このポエジーは「語り得ぬもの」であるがゆえに、小説の言語を別の言語に交換することは出来ない。
かけがえのないポエジーが、確かにこの小説にも宿っている。 -
パヴェーゼ最後の長篇小説。
本作の他にも岩波文庫から出ているものは読んだが、自然描写、特に田舎の村の景色を描いたところがとても美しい。その中で生きる登場人物は決して善人ばかりだとは言えないが、そこもまた魅力と言える。
しかし『月と篝火』という邦題は何とも言えず美しいね。
チェーザレ・パヴェーゼの作品
