ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯 (岩波文庫)

制作 : 会田 由 
  • 岩波書店
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本棚登録 : 63
レビュー : 7
  • Amazon.co.jp ・本 (125ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003272015

作品紹介・あらすじ

原タイトル: La vida de Lazarillo de Tormes

感想・レビュー・書評

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  • スペイン文学の授業で扱った作品を通して読んでみた(その授業は落としました)
    ピカレスク小説の代表と言われていて、盲人や聖職者らが、ずる賢くて欲深い人々として描かれているのが新鮮。キリスト教をとことん皮肉っていて面白い。そしてラサリーリョが最後には彼らの仲間入りをしていると思わせる加減が絶妙だなあ

  • 読んだ時腹が空いていたので主人公にやたら共感してしまった。司祭の不品行の余録による「幸運」というのは、当時のリアリティだったのか、それともそれ以外の事で幸運を使うのが「ありそうもないこと」だったのか。

  • 喉まで届く鼻にびっくり。

  • ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯における幸運と逆境

    テーマ:文学(西文学)

    問題設定
    (1) 主人公ラサリーリョ・デ・トルメス(以下ラサロ)の生涯とは。
    (2) 自らの生涯を細かく綴る事の意味(作品を通して伝えていること)。
    (3) ラサロにとって、タイトルになっている「幸運」と「逆境」とは何か。

    <主人公>
    (1)出生と家庭環境 
    主人公ラサリーリョ・デ・トルメスは、トルメス川の岸辺にある水車小屋で水車番をし、粉をひくのを生業とする父トメ・ゴンサーレスと母アントーナ・ペレスの息子として、サラマンカ近郊の寒村、テハーレスで生まれるが、父は盗難の罪で逮捕、さらに、モーロ人討伐の遠征の場において戦死する。以後、母は職業遍歴を重ねる中で出会った黒人と結婚し、一人の子を出産する。継父は母を愛するが故に、罪を犯し刑に処されたため、母も厳しい拷問を受けるが、なんとかしてラサロと弟を育てるべく宿屋の召使いとして働く。こうして、母が女手ひとつで、ラサロを一人前の少年に、そして、弟を歩けるようになるまでに育て上げた。以上のことから、少年ラサロは、貧しい家庭環境の中で生まれ育ち、社会的に恵まれた境遇ではなく、むしろ、社会の下層に位置する、いわば、運命の女神にそっぽを向かれた立場にあるということがわかる。そして、少年ラサロは、以後、以下に記す俗人・聖人などに次々と仕え、波乱万丈の生涯を送ることになるのである。

    (2)ラサロが仕えた主人たち
    <一人目の主人:盲人>
    ラサロは、母が働いていた宿屋に泊まっていた盲人の手引きとして雇われる。盲人は、占いや医術など、金を稼ぐ方法や手口を無数に心得ており、荒稼ぎをしていたが、欲深くてケチであり、さらには、ラサロにあらゆる肉体的虐待をも与えるという、「強欲」、「吝嗇」、そして「性悪」あるいは「残酷」という、あらゆる悪の要素を兼ね備えた、まさに最悪な性格の男であった。ラサロが少年時代に使えた、特に最初の三人の主人は、いずれも何らかの虐待をラサロに与えているが、中でも第一の主人である盲人の虐待が、最も残酷であるように思われる。では、盲人がラサロに与えた虐待とは具体的にどんなものなのか。パンなどの食糧を入れた袋に南京錠をかける、あるいは、食事の時には常にぶどう酒の壺を自分の側においておく、そしてさらに、この虐待に対してラサロが行った悪戯に気がつくと手口を変えるなど、何が何でもラサロに十分な食糧を与えようとせず、彼にとって最も辛い「空腹」の苦しみを与えた。これといった理由がないのにやたらラサロの頭を殴る、髪の毛を引っ張る、さらには、膝蹴りやちょうちゃくなどといった、盲人自身の手による直接的な暴力から、ラサロの悪戯への仕返しとしてぶどう酒の壺を全身の力でもってラサロの口元に叩きつける、あるいは、ラサロを騙して石像に頭突きさせるなど、物や凶器を利用した間接的な暴力まで、あらゆる虐待によって、ラサロに「肉体的な痛み」の苦しみを与えた。では、盲人の虐待に対するラサロの悪戯とは具体的にどんなものなのか。どのようにして空腹を満たしていたのか。盲人の目がみえないことを利用して、好機を狙い、隙を見つけては食糧を奪い、空腹を満たしていた。例えば、食糧を入れた袋に南京錠を掛けたことに対しては、袋の片側の縫い目の糸をほどいて隙間をあけ、パンをとってまた縫い直すというようにして、または、ぶどう酒の壺を自分の側においていたことに対しては、壺をすばやく手にして2、3回口づけしては音も立てずに飲み、また元に戻すというように。既述したように、この上なく残酷な虐待を受けていたラサロにとって、盲人が、悪戯に気付いたら自分を殺しかねないような男であることは容易に想像がついていただろう。こうしたことから、ラサロは悪戯をするにも命がけであったのだと思われる。以上のような二人のやりとりで面白いのは、残酷な盲人の虐待にラサロが一方的に苦しめられ、(ラサロが)あわれに思えるのではなく、(ラサロは)空腹で飢え死にしそうな状態ながらも必死で生きるべくあらゆる知恵をしぼり、(盲人に)何かしらの仕返しをすることによって、むしろ主人である盲人の方が、逆にあわれで、気の毒に思えることである。また、「残酷な盲人」「性悪な盲人」「気の毒な盲人」「あわれな盲人」「世故に長けた盲人」など、ラサロの状況に応じて盲人の呼び方が変化していることからも、その時その時によって、ラサロが盲人をどのように見て、どのような思いでいるのか、という「ラサロの視点から見た盲人」、そして、「ラサロの心境」がよくわかり、ラサロが「残酷な盲人」から、「気の毒な盲人」「あわれな盲人」などと呼び方を変えることで、本当に、残酷な盲人が時に、気の毒であわれに思えてくるのが滑稽である。 では、ラサロが盲人の虐待に対して行った仕返しとは具体的にどんなものなのか。 (既述した)あらゆる悪戯をして強欲な盲人が必死で守っている食物を奪う。わざと石でごろごろしている、あるいは、ぬかるんでいる「悪い道」を歩かせることによって、盲人をつらい目に遭わせ、足を悪くさせようとする。盲人を騙して、石柱に頭から激突させ、半死半生の状態に至らせた。これが、ラサロの最後の仕返しであり、また同時に、盲人とラサロの醜い争い(イタチごっこ)の終焉でもある。盲人が、ラサロに対して自分が与えた最初の虐待(ラサロを騙して石像に頭突きさせる)と同じ手口で、最後にラサロから仕返しをされるというのが皮肉である。

    <二人目の主人:司祭>
    ラサロは、物乞いをしようとして近づいた司祭の下男として雇われる。司祭は、一人目の主人であった盲人などたいしたものではないと思えるくらいに貪欲で、おまけに、ケチなため、教会からパンを持ってきても、ラサロには少量のパンやたまねぎしか与えず、一方で、自らの腹を満たす食糧は古びた箱に入れて鍵を掛けるなど、ラサロに対しては慈悲のかけらもないが、自分自身に対しては寛容であるという、一人目の主人と同じく「強欲」「吝嗇」「性悪」というあらゆる悪の要素を持ち、この世の全てのさもしさといやしさが閉じ込められたような、まさに最低最悪な性格の男であった。以上のことから、二人目の主人である司祭も、度合いの差はあるが、かつての主人である盲人と同じように、ラサロに「空腹」の苦しみという、彼にとってはこの上ない虐待を与えたといえる。この二人の主人が与えた「空腹」の虐待に関してラサロは以下のように言っている。「俺はこれまで二人の主人に仕えた。最初の奴は飢えでもって俺を半死半生の目にあわせやがったが、二番目の奴は飢えでもってほとんど俺を墓の中に閉じ込めていやがる」と。こうしたことから、最初の主人である盲人と比較して、二人目の主人である司祭から与えられた「空腹」の苦しみがどれほど辛いものであったのかが伺える。「墓の中に閉じ込められる」というような、まさに死ぬほどの苦しみを味わったのだろう。実際、司祭に仕えていた頃のラサロは、「死」こそが、自分にとっての真の安らぎであり、自らの「死」を希求するなど「死」というものを強く意識しているのがわかる。また「死」を「真の安らぎ」と言っていることから、当時のラサロにとって、「生きること」は、ある意味、「死ぬこと」よりも辛いことであったのだということもわかる。おそらく、よほど辛く苦しかったのだろう。では、なぜラサロは、盲人の時のように、仕返しをすることによって司祭から離れなかったのか。これに関してラサロは以下のように言っている。 ひどい空腹による体の衰弱ゆえに自分の二本の脚に身を委ねる勇気がなかったから。 一人目、二人目と、だんだんひどい主人になっているため、三人目はもっとひどい主人であるかもしれないという恐れがあったから。以上のことからも、ラサロが「空腹」の苦しみによって、肉体的にも精神的にもぼろぼろに傷つけられていたのだという、当時の状況の悲惨さが伺える。しかし、盲人の時と同様に、司祭の虐待に対しても、ラサロは決して負けてはいない。ラサロと司祭とのやりとりで面白いのは、既述した古びた箱の中のパンをめぐって繰り広げられる、二人の争い(イタチごっこ)である。必死で箱の中のパンを守ろうとあらゆる策を弄する司祭と、同じく必死になって生きるべくしてあらゆる知恵をしぼり、箱の中のパンを食べようとするラサロの争いからは、人間とはこんなにも欲深く、狡賢いものなのかと考えさせられる一方で、(人間とは)生きるためなら、どんな手段でも使って(時に反社会的な手までも使って)、あらゆる知恵と才覚によって努力するものなのだという、「善」と「悪」を含めた人間の本性について深く考えさせられる興味深いエピソードである。

    <三人目の主人:郷士>
    ラサロは、通りを歩いていてめぐり合った郷士の目にとまり雇われる。郷士は、カスティーリャ出身で髪から服装に至るまで立派な身なりをした上品な紳士であったが、一方では、いかにも暗くて陰気で侘しげでしけた感じの、まさに「呪いの家」とも呼べるような住居で暮らしており、所有するものは何もなくどうすることもできないという、ラサロを養うことができないばかりか、ラサロが養ってやらねばならないほど貧しい男であった。そのため、以前と同様、貧しさゆえに「空腹」の苦しみを味わっていたが、物乞いや、神のご加護により、何とか飢えを凌ぎ、主人と二人で少しはましな生活をしていた。このような意味で、郷土は、それまでのラサロを餓死させようとしていた憎むべき二人の主人とは違って、ラサロが三人目の主人に対して抱いていた不安や恐れに反する、同情さえも寄せるに値する主人であり、彼に使えることに対して、ラサロはこの上ない喜びさえも感じていた。しかし、郷土は、貧困状態にあるにもかかわらず、過度の「名誉」や「自尊心」、そして「思い上がり」にとり付かれたような男であり、これがラサロにとって唯一の不満であった。以上のように、ラサロは、社会的に差別されていた盲人、司祭、そして郷土という三人の主人に仕えてきたわけであるが、興味深い三者の特徴は、誰もが偽善の仮面の下に、何かしらの悪意(貪欲さ、狡賢さなど)を隠しているということ、そして、そうした彼らの偏屈さが、まだ幼いラサロの独特な視点から皮肉的に、しかし、同情的に親しみをも込めて風刺的に語られているということである。人間の本性とは、必ずしも善ばかりではなく、自らの利害に関わる場合、多くの人々は悪意とは意識せずに欲深く、狡猾になる。人間とは、本来そういうものだと言っているかのようである。

    <四人目の主人:メルセード会の修道士>
    ラサロは、糸紡ぎ女たちの計らいで紹介された修道士に雇われる。メルセード会の修道士は、聖職者であるにもかかわらず、お祈りと修道会での食事が大嫌いで、その代わり街を歩き回ることを好み、俗事にかまけ、あちらこちら人を訪ねてばかりいるような男であった。

    <五人目の主人:免罪符売り>
    ラサロは、たまたま出くわした免罪符売りに雇われる。免罪符売りは、機略と創意に富み、いかさまの芝居をすることによって実直な人々を騙すなど、様々なあくどい手段や策略を弄しているだけではなく、絶えず新たな手の込んだ売り方を工夫している、この上なく厚かましく破廉恥で、地上最悪の男であった。このように、五人目の主人まで見ていくと、主人の人間性としては、やはり最初の三人の主人と同様に、何かしらの欠点を持っていることがわかるが、一方で、最初の二人(ある意味では三人)の主人に関するエピソードで多く見られたような、ラサロに対する虐待などの悲惨な言及は比較的、徐々に見られなくなってきているということもわかる。こうしたことから、4、5人目の主人に仕えていた頃が、ラサロの生活が、悲惨な少年時代から徐々に安楽な青年時代に変わっていく、ちょうど過渡期であったのだといえるのかもしれない。実際、次の六人目の主人に関するエピソードから、彼の生活が少しは安楽なものになっているという兆しが伺える。

    <六人目の主人:礼拝堂付き司祭>
    いっぱしの若者に成長したラサロは、大聖堂で出会った司祭に下男として雇われる。司祭に関する詳細な言及はないが、彼に仕え、市内で水を売り歩くという仕事を得て、それが順調に進んだことで、お金も貯まり、古着ながら立派な服装ができるようになるなど、徐々にラサロの生活が安楽なものに変わっていったという意味で、六人目の主人との出会いは、悲惨な人生を歩んできたラサロにとって、ひとつの大きな転機であったと言える。実際、ラサロ自身も、司祭に仕え、仕事を得たことが、自分にとって安楽な生活に到達するために登った第一の段階であったと言っている。つまり、ここからが、ラサロの新しい生活の始まりであったと言えるのである。

    <七人目の主人:警吏>
    ラサロは、ある警吏に雇われるが、危険な仕事であったためすぐに辞めてしまう。彼と離れた後、友人や旦那方の好意と援助によって、ラサロにとってはこれまでにないくらいに立派な地位である、官職に就くことができた。

    <八人目の主人:サン・サルバドール教区の主席司祭>
    主席司祭は、ラサロと自分の女中を結婚させ、また、毎年の復活祭や降誕祭における祭礼用の肉、小麦やパン、そして使い古した長靴などの様々な好意と援助を与えてくれる、ラサロにとって、主人であり、また同時に、友人でもある貴重な存在である。しかし、彼(主席司)とラサロの妻との関係についてよからぬ噂が広まるなど、聖職者としてあるまじき面も伺える。そして、これ(司祭とラサロの妻の関係の詳細)が、ラサロが冒頭で述べていた「あの件」である。

    <九人目の主人:あなた様>
    (=書物を書くように依頼した高位の人物)
    「あなた様」は、訳注にあるように、ラサロに書物を書くように依頼した人物であり、ラサロにとっては、サン・サルバドール教区の主席司祭よりも、さらに高位に位置する現在の主人である。ラサロが冒頭で述べていた「あの件」は、この「あなた様」に対して向けられた報告である。

    <十人目の主人:神>
    書物の随所で見られるように、ラサロは、彼にとって何か「幸運」が舞い込んできた時、あるいは、貪欲な主人たちに対して悪戯をした後など、いつ、どんなときでも「神」の存在を忘れずに畏れ敬っていることから、幼い時からラサロは「神」を自分の最高の主人としていることがわかる。

    以上のように、「生い立ちと家庭環境」、そして「仕えてきた主人」を中心に、ラサロが生まれてから、現在(書物の編纂時)に至るまでの軌跡を辿ることで、彼がどのような家庭に生まれ、どのような生涯を送ってきたのか、ということがほぼわかる。ラサロの生涯を以下に簡単にまとめておくことにする。主人公ラサロは、社会的に下層に位置する、貧しい家庭に生まれ、父の死後、あらゆる苦労に耐えながらも母によって、少年になるまで育てられるが、以後は、仕える主人を求めて遍歴を重ね、九人(神を除く)の主人に仕え、彼ら(特に始めの2、3人)の虐待に耐えながらも、あらゆる知恵と才覚によって生き延び、遂には、神のご加護のもと、(ラサロにとって)高位の官職に就き、「富と名誉」を得たという、いわば、貧しい少年ラサロの「サクセス・ストーリー」である。では、なぜ自らの生涯を細かく綴った自伝的書物(「サクセス・ストーリー」)を書いたのだろうか。ラサロにとって、それはどんな意味をもつのだろうか。

    <作品を通して主人公ラサロが伝えていること>
    まず、なぜ、作品を編纂したのかについて考えてみたい。序文で、ラサロは以下のように述べている。「あなた様はあの件に関して詳細に報告するようにと手紙でお命じになりました。そこで私は、あなた様に私という人間をよりよく知っていただくためにも、前後を無視して話すより、そもそもの始まりから語る方がよかろうと判断いたしました」と。つまり、もともとラサロは、書物を「あなた様」に「あの件」を報告するために書いたのであるといえるのだ。そして、「あの件」とは、既述したように、「ラサロの八番目の主人である首席司祭と、ラサロの妻とのよからぬ噂の詳細」である。では、なぜ、「あの件」、つまり、「主席司祭と妻の関係の詳細」に関して報告するだけなのに、あなた様に、「ラサロ自身の生涯について」も詳細に語り、ラサロという人間がどんなものなのかをも知ってもらう必要があるのだろうか。それは、「あの件」についての報告とは別に、ラサロ自身が伝えたい何かがあるからであると考える。もし、書物を編纂した理由が、先述したように「あなた様」への「あの件」に関する報告だけならば、わざわざ自分の生い立ちや、仕えて来た主人の全てを詳細に述べる必要がないだろうし、そんなことは無意味であるからである。だからこそ、あえて述べたことには意味があるのだろう。それほどまでにして彼が伝えたいこととは何なのだろうか。まず、既述したラサロの生涯を綴った書物(ピカレスク小説)の特徴を以下に挙げ、整理することにする。

    <ピカレスク小説の特徴>
    主人公のラサロ自身が、自らの体験を一人称で自伝的に語る形式である。自らが仕えた主人に関するエピソードの羅列・並列によって構成されている。主人公ラサロは、食べるために罪を犯したり悪戯をしたりする下層出身者である、あるいは、自分の力では生活ができないで他人に頼って生活している、いわば、社会寄生的存在である。口語的な語りで簡潔な文体である上に、皮肉や親しみをも込めたユーモアにあふれた表現で書かれ、面白く読みやすい。高貴な血筋を持たない主人公ラサロが、現実という日常を舞台に、生きるための闘いを繰り広げる中で、自らが体験し目の当たりにした、多くの社会的矛盾を風刺的に批判したもの。主人公ラサロにとって、不幸な境遇(逆境)から始まり、ハッピーエンド(幸運)で終わる。では、ラサロが目の当たりにした社会的矛盾とはどんなものなのか。彼が風刺した事柄として、少なくとも以下のものが考えられるだろう。人間の個々に内在し、己の利害に関わる場合に現れる(人間の)「悪」の本性。特に、最初の三人の主人に見られる、あらゆる「悪」の要素。第一の主人である盲人と第二の主人である司祭に共通して見られたのが、「強欲」「吝嗇」「性悪」「残酷」という要素である。そして、第三の主人に見られたのが、過度の「名誉感」「自尊」「傲慢」と言う要素である。これらはいずれも人間の個々に内在する「悪」の本性である。ラサロは虐待を受けながらも、生きるべく必死で努力する中で、嫌というほどの(上述した)人間の「悪」の本性を目にし、矛盾を感じてきたのだろう。そうした人間のあらゆる「悪」の本性が、ラサロの皮肉とユーモアにあふれた独特な視点から風刺的に描かれ、本来は憎むべきラサロを搾取する悪どい主人たちが、時にあわれで間抜けに思われ、「憎しみ」というよりは、むしろ、滑稽で「親しみ」さえも感じられるのが面白い。(特に聖職者のような)高貴な人間の堕落。既述したように、ラサロは十人の主人(神を含む)に仕えるが、そのうちの少なくとも五人が聖職者であり、以下のように、ほとんどが何らかの罪を犯し、ラサロ(ピカロ)の独特の視点から風刺的に批判されているということがわかる。

    1. ラサロが出会ったどの主人よりも貪欲な男である「司祭」(二番目の主人)
    2. 聖職者であるにもかかわらず俗事にふける「メルセード会の修道士」(四人目の主人)
    3. いかさま芝居をして実直な人々を騙す「免罪符売り」(五人目の主人)
    4. 礼拝堂付き司祭(六人目の主人)
    5. 聖職者であるにもかかわらずラサロの最愛の妻と何らかの関係を持った(ラサロの主人であり友人でもある)「サン・サルバドール教区の首席司祭」(八人目の主人)

    以上のことから、当時のスペインにおける聖職者階級がいかに堕落していたのか、あるいは、カトリック教会がいかに腐敗していたのか、ということがわかる。

    上層階級と下層階級の者に対する世間一般の偏見・矛盾

    ラサロは、自らの生涯を詳細に述べて、下層階級出身の貧しかった自分が、いかにして幸運をつかみ立派に成長したのか、そして、自らの輝かしい生涯に対比させて、(上述したような)上層階級に位置し、社会的に高貴であると認められている者が、どんなに愚かで、堕落しているのかを、はっきりと、対照的に示すことによって、上層階級出身の者と下層階級出身の者に対する、世間一般的な偏見・矛盾を風刺的に批判しているように思われる。

    以上のラサロが書物において風刺した内容から、彼が最も伝えたいことは以下のことであると考える。つまり、作品自体表向きは、ラサロから、現在の主人である「あなた様」への(既述した)「あの件」に関する報告書となっているが、実際にラサロが作品全体として最も伝えたいことは、人間とは、誰もがその偽善の仮面の下に、狡猾さや欲深さなどのあらゆる「悪」の顔(本性)を持っているのであるということ。堕落した聖職者などの上層階級の者よりも、自分自身のように、貧しい下層階級出身でありながら、あらゆる知恵と才覚を働かせて出世する方が何倍も立派なのであり、俗世間の偏見にとらわれて人を判断してはいけないのだということ、であると考える。実際、ラサロは、作品の中で自らの生涯をそもそもの始まりから詳細に語る理由として、以下のことを挙げている。「高貴な身分に生まれついた方々に、その恵まれた境遇がひとえに運命の女神の味方ゆえであり、ご自身の器量とは無縁だということを考えさせるため」あるいは「高貴の方々の零落がいかに大きな悪徳であることを知らせるため」。「女神にそっぽを向かれながらも努力を重ね、才覚を働かせて人生行路を漕ぎ渡り、ついに幸運の港に入ることになった者の方が、人間としてどれほど立派であるのかを考えさせるため」あるいは「卑しい身分の者が出世することがいかに立派であることを知らせるため」であると。

    <ラサロの生涯における「逆境」と「幸運」>
    上述した全てのことから、タイトルにもなっている、ラサロの生涯における「逆境」と「幸運」とは、以下のようなものであるといえる。まず、「逆境」とは、貧しい下層階級出身であるということ。父の犯した「罪」、そして「戦死」に加え、その後の継父も「罪」を犯したことにより、母も「拷問」を受けたという、いくつかの「不幸」が重なったことで、幼いラサロ自身も辛い思いをし、母共々生活に苦労したということ。仕えた主人は、そのほとんどが、たとえ一見して良さそうな様子の人であっても、あらゆる「悪」の本性を持っていたということ。仕えた主人から、あらゆる虐待を受け、特に「空腹」の苦しみを味わったこと。主人に捨てられたことなど。一方、「幸運」とは、 運命の女神にそっぽを向かれながらも、既述したあらゆる「逆境」に耐え、自らの知恵と才覚による努力によって、実力で「富と名誉」を手に入れたこと。自らの生涯を細かく綴り、自己を肯定する「サクセス・ストーリー」に仕立て上げることによって、書物を読む、高位の主人である「あなた様」や、読者からの賛辞を得ることなど。

  • (2007.03.05読了)(2007.02.23購入)
    先日、「スペイン ゴヤへの旅」中丸明著、を読んでいたら「ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯」と言う本が紹介されていました。本好きの習性で、ネットで検索してみたら薄くて値段も手ごろ、入手可能ということがわかったので、早速注文して入手しました。
    1554年に第二版が出版された、作者不詳のピカレスク小説といわれるものです。(初版はまだ見つかっていないので、いつ出版されたのか分かっていない。)
    【ピカレスク小説】
    一六世紀半ば、スペインで騎士道小説の理想主義への反動として現れ、やがてヨーロッパ中に流行した小説の様式。「ピカロ」(ならずもの・悪漢)の冒険を描き、辛辣に社会を風刺する。作者未詳の「ラサリーリョ=デ=トルメスの生涯」、ケベートの「かたり師ドン=パブロスの生涯」などが代表作。悪漢小説。[大辞林]

    あらすじは、「あまり自慢にならない両親の間に生まれたラーサロという少年が、めくらの乞食を手始めに、欲の深いけちんぼの坊主、素寒貧のくせに高い誇りを抱く気取り屋の従士など、次々に主人から主人に渡り歩いて、散々生活の苦労の果て、主席司祭に使える女中と結婚し、さらにトレードの「触れ役」の職を得て、自ら「私はちょうどこの時分、富み栄えて、私の幸運と言う幸運の、絶頂に立っていた」と称するのである。」(119頁)といったところです。
    主人公の悲惨さ、意地悪な主人への仕返し、知恵比べ、あきれた主人の行い、等、驚きあきれながら、楽しめます。
    出版されてすぐに大変な人気を博した秘密は、「アメリカの発見以来、度重なる戦争で、ほとんど崩壊にひんしたスペイン、しかもそのスペイン社会をもっともよく代表する三つのタイプ、めくらの乞食、貪欲な坊主、素寒貧の下級騎士によって、まざまざと描いてくれるのである。」(122頁)と言うところにありそうです。

    歴史の本を読んでも、なかなかどんな生活をしていたのかを知る事は出来ませんが、このような本があると、楽しみながら生活の様子が分かります。この本では、16世紀半ばのトレード周辺の生活ぶりが分かります。
    スペインに興味を持っている方にお勧めです。
    (2007年3月5日・記)

  • スペイン文学独特の形式『ピカレスク』。フランスではそれをユマニスムと呼んだのだろう、近代日本ではそれを勧善懲悪を排した自然主義と呼ぶのかもしれない。口語体で書かれたこの作品は、ルソー以来の告白文学として、口承文芸としての魅力も備え、あるいは逆に、成立年をみればまったく逆転する。いまや周縁とされるスペイン文学の古典が、あたかも中心のように居座るフランス文学に大きな動機付けを与えている。そして、これを通過したものは、世界のすべてが周縁となるだろう。

  • すごく淡々としてシンプルで、でも文の乱れのせいで混乱したりすることもありと、いかにも昔の良書って感じの小説。主人公は十分魅力的だし、対話がどこかシェイクスピア的。

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