イプセン 野鴨 (岩波文庫)

  • 岩波書店 (1996年5月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784003275030

みんなの感想まとめ

人間関係の複雑さや過去の影響をテーマにしたこの戯曲は、特に家族間の因縁とそれに伴う選択の難しさを描いています。登場人物たちは、それぞれの正義感や価値観に基づいて行動し、特に主役のヤルマールは、過去に縛...

感想・レビュー・書評

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  • 『野鴨』は、ノルウェー出身のイプセンによる1884年作の戯曲。『人形の家』では女性の自立について、未来に光がさす終わり方でしたが、本作は衝撃的な結末を迎える悲劇でした。

    「僕が考えているのはね、ヤルマール・エクダルの目を開けてやることなんです」そう喝破するのは、豪商ヴェルレの息子グレーゲルス。彼はその行き過ぎた正義感ゆえに、昔のある事件で父の同僚のエクダル老人が凋落するのと反対に、父の方では人生を謳歌しているのが我慢ならなかった。そして、その正義感の矛先は、エクダル老人の息子で友人でもあるヤルマールに向けられます。それは、15年も安泰に暮らしてきたヤルマール一家にとって、とても耐え難い真実でした……。

    グレーゲルスの言動は、ヤルマールに真実を知ってもらい、あらゆる虚偽から解放された幸せを得て欲しいという、まさにレリング医師のいう”正義病”です。こういう相手の立場で考えられない正義を振りかざす、余計なお世話を焼きたがる人は、まったく悪びれていないのが怖いですね。ただ、この戯曲の肝心なところは、その匙が投げられたヤルマール自身が、どう気持ちに折り合いをつけるかというところです。

    過去にこだわって全てを放擲するか、家族の絆を深めながら、お金も貰える未来に目を向けるか。とは言え、未来志向なんて、なかなか難しいですけどね。そんなわけで、イプセンもこのような結末を選んだのでしょう。ちょっと、舞台を見てみたいと思わせるストーリー運びでしたね。

  • ある二家族を中心に、その間のとある因縁を巡って繰り広げられる人間模様を描いた戯曲。

    時分にまつわる消せない過去をどのように受け止めるのかに関して、登場人物の対照的ともいえる反応が興味深い。これは男だから、女だからと片付けられる問題なのだろうか。

  • 【あらすじ】
    第一幕
    豪商ヴェルレの邸宅にて、息子グレーゲルスの帰宅を祝うパーティがひらかれている。ヴェルレは客の数が13人であることに苛立っており、そのことをグレーゲルスが親友のヤルマールに伝えると、ヤルマールは自分が来なければよかったのではないかと案じる。
    ヤルマールの父エクダルは元中尉だが、ヴェルレと二人で工場を経営していた際に不正を行ったかどで有罪判決を受け廃人となり、エクダル一家は凋落の憂き目を見る。
    ヴェルレはエクダルに簡単な仕事を与えたり、ヤルマールの写真屋開業資金を提供したりと彼らを援助してきたが、それを帳簿につけて表沙汰にすることはなかった。また、ヤルマールに開業を促したのはちょうど彼がギーナ(ヴェルレの元メイド兼不倫相手)との結婚を考えていた頃のことで、グレーゲルスがその点をつくとヴェルレは言い訳をつらつら述べたて、また、ついでのようにグレーゲルスに会社の共同経営を持ちかける。
    グレーゲルスはその提案に、父が現恋人セルビーとの再婚にあたって親子仲が良好であるというアピール、世間体を整えようとしている魂胆を見抜いて「(もし自分がそれを受け入れれば)母さんは犬死にだ!何しろ息子が一撃で噂を否定するんだから」「母さんの、あの不幸な欠点は、いったい誰の責任なんです。お父さんと、あいつらだ!その最後があの女で、ヤルマール・エクダルがそいつを押しつけられたんだ(中略)だのにあのヤルマールは、心底から安心して、無邪気に、偽満のただなかに落ち着いている、あんな女と一つ屋根の下に暮らして、家庭と呼んでいるものが、うそ偽りの上に築かれたものだなんて夢にも知らず」と激昂し、家を出る。

    第二幕
    ヤルマールの自宅兼スタジオにて、彼の妻ギーナと娘ヘドヴィクが留守番をしている。そこにエクダルが酒を隠し持って帰宅。その後すぐヤルマールも帰宅。ヘドヴィクはパーティの土産を楽しみに父を迎え入れるが、ヤルマールはこれを忘れたためただの献立表を手渡し、娘を落胆させる。パーティの話をしているうちにヤルマールは少々機嫌が悪くなるがすぐに持ち直す。そしてみんなで家族団欒をはかろうとしているところにグレーゲルスが来訪。下宿の部屋が空いていることを知ったグレーゲルスはこれを貸してもらえないかと申し出て、家族と同居することになる。
    エクダルはグレーゲルスに自身の飼っている野鴨を見せるが、その野鴨は元々ヴェルレが仕留め損なって傷を負わせたものだった。
    エクダルが野鴨について「まっすぐ底に戻っていきよる(中略)藻や水草やーそのほか何でも手当たり次第にかじりつくんじゃ。そうして、もう二度と浮き上がってこんのじゃよ」と語ると、グレーゲルスはではどうやってあなたの野鴨は浮き上がったのかとたずね、「ばかに利口な犬がその鴨を捕まえた」という話を聞く。
    グレーゲルスは自身の「ヴェルレ」の名を背負っていることを嫌悪し、「なれるものなら、何をおいても利口なイヌになりたい」と言う。

    第三幕
    ヤルマールの家で暮らし始めたグレーゲルス。
    ヤルマールはグレーゲルスに「(自分には)エクダルの名にもう一度、名誉と感激を取り戻し、親父の自尊心を蘇らせる」使命があると語る。そして父親のピストルを指差し、「あれだって一役ちゃんと買ってるんだよ、エクダル家の悲劇にね」という意味深な台詞を吐く。
    グレーゲルスはヤルマールに、「君には野鴨みたいなところがある」「君は水底に潜り込んで、そこらへんの草にしがみついている」と言い、そして「いまに僕が立ち直らせてやる」と、自身が使命としているところをヤルマールに伝えるが、ヤルマールはこれを軽く拒絶する。
    朝食時、グレーゲルスは他の下宿人レリングとモルヴィクに出会う。レリングは以前、山の工場でグレーゲルスに会ったことがあり、その際グレーゲルスが「理想の要求」を労働者に押し付けていたという話をする。レリングはヤルマールを「素晴らしい発明」に専心するようそそのかしているが、ここにきてまたグレーゲルスが「理想の要求」をヤルマールに押し付けようとしている様子を見て、二人は一触即発の状態となる。
    そこへヴェルレがグレーゲルスを訪ねてやってくる。グレーゲルスはヴェルレに「あんたが僕の一生を台なしにしたんですよ。母さんに関することは、まあいいでしょう―。しかし、僕がいまなお良心の呵責に苦しみ、悩まされつづけて
    いるのは、お父さんのおかげなんだ(中略)僕は、あんたに抵抗すべきだったんだ。エクダル中尉に罠が仕掛けられたあのときに」と責め、エクダル老人に犯した罪はもう償えないがヤルマールはまだ救える、という自論を述べる。そしてもうヴェルレ家には戻らない旨を伝えると、父は一人去っていく。
    その後グレーゲルスはヤルマールを散歩に誘う。嫌な予感がしたギーナとレリングはこれをとめようとするが、二人は彼らの制止を無視して連れ立って外へ出ていった。

    第四幕
    ヤルマールは憔悴した様子で家に戻ってくる。ギーナとヘドヴィクがヤルマールに言葉をかけるも彼は心ここにあらずな調子で、「あんないまいましいノガモなんか、首をひねってやりたいね」などと物騒なことを言う。ヤルマールはヘドヴィクに散歩に行くよう促し、ギーナと二人きりになると、ヴェルレとの不貞の話を持ち出して言い争う。
    そこにグレーゲルス、さらにはレリングも乱入してきて各々自説を主張する。
    この口論の最中、セルビー夫人が登場。セルビー夫人は昔レリングと恋仲になりかけたことがあったため、二人は親しげに会話を交わす。グレーゲルスがセルビー夫人に「それが父にばれたらということは気にならないのか」と尋ねると、セルビー夫人は自分はあけっぴろげで何でも伝えているから大丈夫だと答える。
    セルビー夫人辞去後、ヤルマールはグレーゲルスに「真の結婚生活を築いているのは、僕なんかじゃない、あの人(ヴェルレ)なんだ」と言い、グレーゲルスは動揺する。また、遺伝性の目の病をヘドヴィクとヴェルレの両人が持っていることにヤルマールは疑惑の念を抱き、ギーナを問い詰めた後家を飛び出す。
    その会話を聞いていたヘドヴィクは、ヤルマールを案じ、グレーゲルスの誘導によってノガモを始末することを決意する。

    第五幕
    家を飛び出したヤルマールはレリングのところで一夜をあかしていた。
    レリングはそのことを伝えにエクダル家を来訪し、再びグレーゲルスと「理想」や「嘘」についての論争を交わす。レリングは「平凡な人間から人生の嘘を取り上げるのは、その人間から幸福を取り上げるのと同じ」と言い、グレーゲルスの理想主義を非難する。
    ヤルマールは帰宅後、自分は父親と家を出るという話をする。グレーゲルスは、ヘドヴィクがヤルマールのためにノガモを犠牲にしようとしている件を伝え、その優しさにヤルマールは心うたれる。
    納屋で銃声がしたのち皆がかけつけると、そこにはノガモではなくヘドヴィクの亡骸があった。
    レリングはグレーゲルスに、これは彼の理想主義がもたらした結果だと示し、ヤルマールの凡庸さをあげつらって「死んだ者を目の前に涙を流しゃ、たいていの人間は崇高な気持ちになるものさ。だが、いつまでつづくかね、その栄光が」「あの子の墓に草が生えてくるころには(中略)感傷と、自己礼賛と、自己憐憫にどっぷり浸かっているだろうね」と言う。
    グレーゲルスは「君の言うのが正しくて、僕が間違っているとすれば、人生なんて、もう生きる価値がない」と言い、自分の運命は「食卓の十三人目になることさ」という言葉を残して去る。


    【感想】
    戯曲を読み慣れていないので初めは読み進めるのに苦労したが、第三幕あたりから読むスピードがぐんぐん加速。いい具合に分かりやすくさまざまな伏線がはられており、それを確認していく作業が気持ちいい。このあたりには作者のサービス精神を感じる。
    グレーゲルスの言動の根幹には母に対する過剰な愛と父に対する過剰な憎しみがあるが、そうした自身の暗部をろくに見つめることなく安直にこの攻撃性を理想主義に転化させた彼自身の脆弱さ(あるいは凡庸さ)が招いた悲劇であると、私は読んだ。
    13人目の客は、ユダ=裏切り者を象徴しているものと思われるが、では作者は一体グレーゲルスが何を裏切ったと言いたかったのか、ちょっとよく分からなかった。嘘偽りのない人生への裏切りってこと??
    ラストのレリングの辛辣さが秀逸。

  • 読みながら嫌な予感ばかりしていたが、、、。


    正義感を振りかざしながら、人を不幸に陥れる嫌なやつだ...
    あ、最近の炎上とそっくりですね。
    叩いている本人は、己の正義で言っているのだろうけれど。
    だれも幸せにならない正義って、なんだろうね。
    って考えてしまう。

    舞台が発表されたので読み直した。
    良い役者が揃っていて魅力的。どうするかなぁ...ピッタリな配役だと思うけれど。

  • 「人形の家」に続いてイプセン2作目。舞台という限定された空間において、数人の登場人物が演じる者だからこそ、人間心理が浮き彫りにされる。登場人物の会話といくらかの動作のみで話が進む。それが私の内面のいろいろな創造のピースを拾い上げる。しばらくは戯曲にはまりそう。

     「野鴨」の舞台は貧しく、思慮深さの足りないヤルマール・エクダルの家庭である。資産家のヴェルレ家で家政婦をしていた妻と娘、そして父との4人暮らしである。決して豊かな暮らしではなかったが、娘のヘドウィグは明るく、また父をこよなく慕い、その雰囲気の中で幸せを感じながら生活をしている。しかしそこに妻の過去が暴露される事件が起こる。ヤルマールの友人である、ヴェルレ家の息子であるグレーゲルスが、正義の名のもとに、自身の父とヤルマールの妻であるギーナが不適切な関係にあり、その事実を隠すためにヤルマールと結婚させたことをヤルマール本人に伝えるのである。「真実」を知らされたヤルマールの心は千地に乱れる。グレーゲルスは真実が人間を解放する、偽りの結婚から真実の結びつきへと変わると信じていたが、思慮の足りないヤルマールは自身の結婚を偽りの結婚と決めつけ、妻に対して、ヴァルレに対して恨みを爆発させる。そしてもっとも愛していたヘドウィグさえも不倫の子ではないかと疑うことになる。
     家を出て行くと心かたく決めているヤルマールを止めるには自身のもっとも大切なものをささげて、父への愛を示す必要があるとグレーゲルスにそそのかされたヘドウィグは一番大切にしていたノガモを撃とうとピストルを持って納屋に入る。まさかヘドウィグ本人がピストルを持って行ったとは思わないグレーゲルスは、ヤルマールにそんなヘドウィグの献身的な愛を伝え、ヤルマールのヘドウィグに対する愛が取り戻されたと思った矢先、ピストルの音が納屋から聞こえる。納屋には誤って自身を撃ってしまったヘドウィグが倒れていた。悲しみに暮れるエクダル一家と、真実が人間を幸福に導くと信じてやまなかったグレーゲルスの失念で幕を閉じる。

     平均的な人間から虚偽を奪うと幸福も奪われてしまう、というイプセンの持論を実験的に戯曲化させたもの。しかしそんな一面的な正義で幸福が訪れるとは、現代誰も思っていないだろう。グレーゲルスは思想にかぶれた少年のようである。エクダル夫婦には愛があったのかもしれないけれど、それは慰め以上の愛ではなかったようだ。低いとか高いとか言ってもしょうがないが、夫婦がもっと信頼し合うことができていたなら、過去が知れても動揺はなかったであろうに。尊い命が奪われることもなかっただろうに。
     個性の追求、尊重だけでは幸福は訪れない。これがテーマではないけど、レビューを書いていたらこんな結論に行き着てしまった。反面教師的な力作である。

    J.S.バッハ「ロ短調ミサ曲」を聞きながら

    14.5.29

  • アドルノの「道徳哲学講義」の終わりの方で紹介されていた作品。心情倫理と責任倫理が必ず矛盾するということの実例として扱われていた作品だったと思います。

    狂った生活をそうとは知らずに暮らす人達を、理想を掲げ理性的生活を標榜する人がその狂った部分を教え、一方では啓蒙することに成功するけれども、同時に「狂った」とされる生活の中で感じていた些細な幸福を完膚無きまでに破壊してしまうという悲劇。しかも最大の被害者はこの狂気の生活の内側にいながらも、その狂気の歴史とは無関係の人間なのだから。
    悲劇の後で、ただただ思うのは、全てがもう後戻りできないまま続いていくだろうということです。だからこそ、考えるべき素材がたくさんあるように思う。


    人物描写も巧みだからこそ、色々と考えさせられます。何が狂っていたのか、と。

    個人的に思う所が多すぎて、上手く表現できません。だけど、読む価値のある力作であることは間違いありません。

  • 不条理劇
    なぜそこまで女は耐えられるのか。
    情けない男を支え続けることができるのか。
    私にはわからない。

  • 古典戯曲ということもあり、あらすじは知っていて読み始める。ロシア戯曲の流れでいくとこうなるだろうなというように進む。
    ドリアン・グレイ思い出す。

  • ギーナやヤルマールはたいていの人がとる行動を取っていると思う。日常生活をつつがなく送っていく上では、欺瞞とか空想とかは役に立つ。ギーナのように開き直っているか(大人な対応とも言う)、ヤルマールのようにあれこれ悩んでいるか(まあ幼いとも言える)の違いはあれど。

    レリングのように達観できるのは当事者じゃないから。彼は当事者であることを避けて生きてるのかも。そういう人生を送っている人ばかりじゃないし。グレーゲルスは13番目の使徒(たぶんイスカリオテのユダ)になる、と言っているから、自分のやったことを悔いて、自死するつもりなのだろう。たぶん。

    これが1885年初演の戯曲だというのが驚き。そりゃ、今でも演じられるだろうな。ひとつだけ引っかかった点は女の子を最後に死なせちゃうこと。これな〜、どうよ〜。個人的には好きじゃない。特に書き手が男性だと、なんか引っかかる。

  • 某Aesthetics Bitesで言及されていたので古本で買ってみた。芸術と道徳の関係というようなポッドキャストだったが、芸術は真理の正しさではなく真理の重さを理解させてくれる、というような話をしていた。イプセンの野鴨はカント的な嘘は絶対によくないという人物がある家族のもとに訪れることによって、大きな不幸が生じるという、真実と幸福の関係を描いている。このように書くとまさに「真理の重さ」は伝わらないだとう思うが。

  • 素晴らしい読後感であった。20世紀ではなく19世紀に書かれてたとは、ショックである。現代にも通じる家族とその交友関係が精緻に描かれている。ギリシア悲劇、シェークスピアの悲劇も想起した。宿命が鮮やかに感じた。

  • あたし、イプセン好きらしい。面白い。はっきり言って、「人形の家」よりずっと面白い。

  • 2008/01/14

  • 2006夏の重版で買ったよ〜

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著者プロフィール

Henrik Ibsen

「2006年 『ペール・ギュント』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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