尼僧ヨアンナ (岩波文庫 赤 777-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (274ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003277713

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  • 小説の舞台はポーランドの辺境の町ルーディン。修道院で多くの修道女が悪魔憑きになり、悪魔として神父が一人火刑に処されるという事件が勃発、神父スーリンは悪魔祓いに協力するため新たに赴任してくる。複数の大悪魔がとり憑いているという尼僧長ヨアンナに面会し、さらに他の神父による祓魔式で狂乱し悪魔の言葉をしゃべる彼女の姿を目の当たりにしたスーリン神父は、なんとか彼女を救おうと試みるが・・・。

    1630年にフランス、ルーダンの女子修道院で実際に起きた「ルーダンの悪魔憑き」事件が本作のモチーフ。映画化もされており、同じ題材をオルダス・ハクスリーも『ルーダンの悪魔』として小説にしている。(こちらはケン・ラッセルが映画化『肉体の悪魔』)

    以前ミシュレの『魔女』という、魔女狩りについての本を読んだことがあるのだけれど、欲求不満の尼僧たちの中に神父とはいえ男性を一人だけ放り込んだらハーレム状態の神父はやりたい放題、女性たちは嫉妬等で集団ヒステリー化、件の男性は悪魔として、女性たちは魔女として処刑されただけという大変俗っぽい事例がいくつか紹介されており、たしかこのルーダンの事件についても書かれていたかと思う。

    この小説の中でも、スーリン神父が赴任してくる以前に、尼僧たちを誑かした悪魔として火刑にされたガルニェツという神父について冷静な老教区司祭ブリム神父が語るには「ガルニェツ神父は若くて美しかったし、ワラキア人のように黒い目をしておった。一言で言って男前だったんだな」「あの娘たちは、どうしてもガルニェツに来てもらいたかった。で、その願望が娘たち自身の頭をおかしくしただけなんだと、わしはそう思っておる」

    尼僧たちはガルニェツ神父が修道院の壁をすうっと通り抜けて彼女らのもとへ侵入してきたと訴える。イケメンだったばっかりに尼僧たちを刺激してしまい、やってもいないことで火あぶりにされた神父はたまったもんじゃないでしょう。

    修道院の中で一人だけ悪魔に憑かれていない尼僧がいるのだけれど、その尼僧マウゴジャータは、ふだんから不真面目で酒場等に出入りしており、ゆえに現代風に言えばガス抜き、息抜き、ストレス解消の方法を心得ていたので精神のバランスが保たれていたのだろうし、真面目で信仰心が篤い人間ほど、悪魔=現代人から見ればなんらかの心の病気、にかかりやすいのは道理。結果これは、ヨアンナだけでなくスーリン神父にも当てはまってしまう。

    とはいえ、やはり悪魔憑きヨアンナの狂乱っぷりはなかなかに恐い。映画『エクソシスト』でも女の子がブリッジ状態で階段を降りてくるシーンとか、言葉で説明できない恐怖がありますけど、ヨアンナもあんな状態になったり、複数の悪魔の声色を使い分け、尼僧ならずとも憚られるような下品な言葉を喚き散らしたりする。

    もしや悪魔は本当にいるのか?と思わされる瞬間もあるのだけれど、前述ブリム神父や、ユダヤ人ラビのツァディクという人物などは冷静だ。むしろつきつめれば神そのものの存在すら危ぶまれる。

    ラストのカタストロフは現実の事件とはおそらく違うのだろうけれど、かなり衝撃的。私のような無神論者の現代人が身も蓋もないまとめ方をするなら「貞操観念が強く恋愛に免疫のない処女がイケメンに一目惚れして妄想爆発、さらにその女性に一目ぼれした同じく童貞がやはり対応を間違えて大暴走、結果、無関係の善良な人間まで巻き込み大事故、誰も幸せになれず終了」

    何が怖いって結局、悪魔ではなく人間。スーリン神父がヨアンナに伝えてくれとマウゴジャータに伝言した言葉「これは愛ゆえにしたこと」に一番ぞっとする。

  • 悪魔に憑かれた修道女と、祓魔のためにやってきた神父。
    実話を元にした物語ではありますが、後半は事実とはかなり違いかなりショッキングな展開となっていきます。

    自分がミッションスクール出身なせいか、悪魔とはなにか、神とはなにか。悪魔も神が作ったのか。だとしたらなぜか。といった疑問には思わず引き込まれてしまいました。
    考えれば考えるほど深みにはまっていきそうです。

    ラストがあんまりで、終わり方も急に感じてしまいましたが
    強く印象に残る物語でした。

  • 宗教の凄まじさと無意味さに慄く。
    主人公とその置かれている状況の設定が卓越してる。
    俗なる悪も醜いが、善なる悪は凄まじいとしか言いようがない。

  • サタンはいるのか。

    ヨアンナには8の悪魔が取り憑いていた。

    スーリン神父が祓う役目なんだけど。

    はじめは尼僧たちが神父をからかっているのかな?と思ってた。

    けど、ヨアンナの悪魔が神父に乗り移るところからあれあれ。どうも様子が。

    信仰って。なんだろう。悪魔っているのかな。

    きっと言葉では表せない世界はあるように思える本でした。

  • 他人はわかんないって話。
    悪魔であり天使のような存在。
    他人。

  • 17世紀フランスの史実を元に舞台をポーランド北部に置き換えたエクソシストのお話とのことだけど、ファンタジー的な要素が多分に含まれている。
    スーリン神父の後日譚が知りたいかも。

  • 映画化原作。
    カトリシズムの中で描かれる悪魔憑きの尼僧と、その悪魔を祓うべく奮闘(?)する神父の関係が非常にエロティック。セクシャルなものだけがエロティシズムではない。
    ポーランドという東欧の雰囲気がゴシック的雰囲気を益々かき立てて、そういう意味でも楽しい。

  • ヨアンナの、平凡な尼僧であるよりは悪魔憑きの修道女であることに惹かれる、というのはすこぶる現代的な描かれ方。ヨアンナが再発し、その後治癒するという結末は、主人公の犠牲の「無駄」さを示しているんだろう。

  • 17世紀フランスで起きた”ルーダンの悪魔憑き”として知られる実話をもとに、舞台をポーランドに置き換えて書かれた物語。1961年に映画化もされており、映画評論家町山智浩氏の『トラウマ映画館』(2011年/集英社)にも取り上げられているが、今まで映画・原作ともに接する機会が無かった。
    最近たまたま『エクソシストとの対話』(島村菜津 /2012年/講談社文庫)を読み、文中でルーダンの件にふれられていたことから改めて読んでみようという気に。

    なんといっても、当時行われていた悪魔祓いの儀式が、一般にも公開され見世物的に扱われていたことがかなり衝撃的であるし、主人公とユダヤ教のラビとの対話は強烈で、さらに結末の重苦しさもひどいものだが、いずれ小説の話であり、『ルーダンの悪魔』(オルダス・ハクスリー /1989年/人文書院)でも読んでみないことにはなんとも。

  • 修道院長ヨアンナに取りついた悪魔を祓うために修道院にやってきたスーリン神父。途中の酒場でで立ったヴォウォトコビッチとの旅。修道院での出会い。皇太子を前に行われた悪魔祓い。他の神父との考え方の違い。ヨアンナを救うために自らの体に悪魔を受けいれたスーリン神父。

  • 悪魔祓いの話。一気に読める感じやけどラストが想像と違い、とまどった。

  • 悪魔憑きの尼僧を救おうとした神父の話。しかしこれははたして純粋な、そして崇高な愛の結果なのか?ならば悪魔とは何なのか。破戒の精神は外からもたらされるのではなく、己の心の底に生じることからまず始まるということか。
    結局のところ、世俗的な考えを捨てきれなかった尼僧の欲望に引きずられて自滅した神父として、侮蔑交じりの苦笑こそ浮かぶものの、同情や憐れみはさほど感じなかった。悲劇より、皮肉な喜劇と受け取れる作品。

  • エクソシストは青くない。

  • 実話を下敷きにした、悪魔祓いの物語。

    悪魔憑きに苦しむ尼僧を愛するが余りに、身代わりとして悪魔にその身を差し出す悲劇の神父…
    と言うと、純粋な愛を描いた感動作であるように思える。
    が、しかし。
    キリストの信仰世界の中、神父の内面描写を軸に、嘘とは?罪とは?そして悪魔とは?と問いかけながら物語は進む。やがて明らかになる尼僧の真意、そして最終章で神父がとった行動は。

    私が解釈した本書のテーマは、
    『悪魔そのものは、例え存在したとしても取るに足らない。人間の欲望が悪魔を呼び込むのであり、真に恐ろしいのは人の心である』というもの。
    悪魔はどれだけ猛威を振るったところで、誰の命も奪わなかった。
    結局のところ、人を殺すのは……というお話。

  • 実話に基づいた小説らしいけど、ちょっと半端な印象。伝承をそのまま読んだほうが面白いのかも。

  • 集団悪魔憑きになった修道院長と悪魔祓いの神父の至高の愛。結末がとんでもなく陰惨。

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