コルタサル短篇集 悪魔の涎・追い求める男 他八篇 コルタサル短篇集 (岩波文庫)
- 岩波書店 (1992年7月16日発売)
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感想 : 90件
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Amazon.co.jp ・本 (301ページ) / ISBN・EAN: 9784003279014
みんなの感想まとめ
テーマは、現実と虚構の境界が曖昧な中での人間の追求と哀しみです。短編の一つ『追い求める男』では、サックス・プレイヤーのジョニーが「明日を吹く」ことで、スピード感や存在の意味を探求します。この作品は、読...
感想・レビュー・書評
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アルゼンチン出身の作者。父親の仕事で世界を転々として過ごす。
南米作家は、家族の転勤や、自身が外交官やジャーナリストという「旅行作家」タイプが多くいて、一度離れた視線から祖国を見て、そのため却って独自の視線で祖国へのアイデンティティが表現される作品が多いです。
コルタサルの作品は、異空間に放り込まれてドアを消されたような、なんとういうか寝覚めの悪い悪夢を見たような読後です。
また、短編は難しいなりに分かるのですが長編は残念ながら私には理解不能、本人も晩年は「分からないように書けるようになった!」と喜んでいたというので困った作家だ。そんな難解さのため、「日本語には絶対翻訳不能の作品がある」と翻訳者が根をあげているような作家です。
コルタサル短編集は3冊読みましたが、それぞれで言われている言葉があります。
<自分は悪夢を見ると、とりつかれたようになってどうしても頭から振り払えなくなる、それを払いのけるために短編を書いている、つまり、ぼくにとって短編を書くというのは一種の≪悪魔祓いの儀式≫なのです。P259>
悪夢を払うのはもっと強烈な悪夢なのか。似たようなことはガルシア・マルケスやイザベル・アジェンデも言っていました。
本を読んでいると「この作品は作者に憑りついている物を祓う行為だろうな」と思うことってありますよね。
そしてコルタサルの短編小説が、ただでさえ合理的に説明の付かない悪夢の、さらに合理のつかない悪魔祓いなら、読者としては意味とか解釈とか深く考えず、「悪魔祓えたなら良かったね。私も面白かったです」と楽しめばよいのかなと思っています。
※他の短編集にも載っている話のレビューは、同じ内容を載せています。
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時が止まったように暮す兄と妹。だが屋敷に何物かが入り込む、兄妹はただ何もせず屋敷を明け渡す。
…なんかこの短編がどこかの高校の教科書の載っているらしいんですよ。どんな授業しているんでしょうか。
/「占拠された屋敷」
交通事故にあった男が、入院中の病室で夜な夜な見る悪夢。
…これは嫌だ、本当に嫌だ、絶対嫌だ。現実が異世界に侵食される短編の中でも一番嫌だ~と感じる。ネットリした空気感、ジャングルの匂い、身を潜める男の息遣いまで感じる、追いつめられる焦燥感がたまらない。
/「夜あおむけにされて」
寸前で阻止された誘惑の現場を撮った写真は、部屋に飾られた後、起こるはずだったおぞましい展開を示す。
…題名の「悪魔の涎」とは、スペイン語では空中に浮遊する蜘蛛の糸を示す言葉だそうです。同じものを日本語では雪の季節の前に漂うことから「雪迎え」といいます。「ロミオとジュリエット」の中ではフラフラ浮く恋心のたとえとして出ています。
同じものを見ても各国における捕らえ方が違うのが面白い。
天才にして薬物中毒のサックス奏者は、演奏を通して時間の観念を超えた感覚にいた。エレベーターで、地下鉄で、その感覚は蘇る。彼は追い求めた場所へ行きつくためにさらに壊滅的な生活、演奏を繰り返すがしかしその彼岸へは決してたどり着けない。
…サックス奏者チャーリー・パーカーの訃報によせて書かれた作品と言うことで、YOUTUBEで聴きながら(笑)
他の幻想的短編とは違った作風です。
/「追い求める男」
高速道路に信じがたいほどの渋滞が発生する。車で生活する彼らにコミューンが出来上がる。やがて渋滞が解消される…。
…この話はすごい。目から鱗と言うか、こんな読書体験初めてというか、とにかく異質で、短編の一つと言うより、一つのジャンルとなっているような小説です。「高速道路で渋滞に捕まってしまった」という誰でも体験していることでこんな小説書けるんだ!非日常は不便でつらいがいつの間にかそれに馴染んで、それが日常に戻るときのこの喪失感。すごいなあ。
/「南部高速道路」
現在パリのアパートと、古代ローマの闘技場。時代も場所も違う二つの場所で繰り広げられる三角関係を火は燃やし尽くす。
/「すべての火は火」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
深夜から早朝にかけて読んだコルタサルの『追い求める男』がとても良かった。目が覚めてしまった夜明け前の時間帯に読み始める短編が思いがけず素晴らしかった、ということが良くある。これも信じるべき偶然だろうか。
「『これは明日吹いている曲だぜ』その言葉の本当の意味が突然啓示のように閃いた。つまり、ジョニーはいつでも最初の数拍子で今日を楽々と飛び越えて、明日を吹くのだ。そして、他のものはあたふた彼のあとを追いかけているにすぎない。」
ここでいわれている「明日を吹く」ということやサックス・プレイヤーのジョニーが「追い求め」ているものは、「ぼくは誰よりも速くなりたい 寒さよりも、一人よりも、地球、アンドロメダよりも」や「俺は季節を超えるスピード感を持ちたい」といった阿部薫の求めたスピード(感)と同じもののような気がしてくる。
阿部薫の山崎弘とのDUOをかけて読み進めていく。ジョニーと彼の伝記を書いた評論家のブルーノの物語は、阿部薫と間章の関係も思い出す。ブルーノの評論は独立したアートではなく、対象のアートの付随物のように描かれているのだけど。
そこにあるプレイヤーになれない(と諦めている)“評論家”、あるいはスペクテイターの哀しみのようなものを感じて、今度は『孤独の要塞』のディランとミンガスの関係も思い出した。あの物語にもスペクテイターの哀しみがある。そこがとくに染みた。わたしにもある哀しみも湧き上がってくる。今もサックスとドラムの音と一緒に染み込み、その分だけ湧き上がってきている。ああ。
そんな読書、体験には明け方の青い色がよく似合う、とカッコつけて言ってみたくもなる。そんな感じもこの時間帯の特別な効果なのかもしれない。そんなところも含めて、わたしはこの時間帯が好きなのだ。 -
「続いている公園」
これはオチがわかった。それに短すぎるのでは。
「パリにいる若い女性に宛てた手紙」
口からウサギを吐き出すという発想にたまげた。
「占拠された屋敷」
不可思議な出来事に対する無力感を描いているという点でいえば「パリにいる若い女性に宛てた手紙」に似ている。
「夜、あおむけにされて」 -
その経歴と幻想的な作風からボルヘスとの比較は避けられないが、ボルヘスの作品では虚構が現実を侵食していくのに対して、コルタサルは現実と虚構が並列して存在し、代替可能な様に描かれているのが印象的であった。そこから生じるのは不確かさ故の不安感や寄る辺の無さであり、だからこそ「追い求める男」が求めるものは決して手に届かず、「南部高速道路」で生まれた共同体は形成された途端に瓦解する。そうした作風の原因を、南米出身でありながら半生をフランスで過ごした著者の引き裂かれたアイデンティティに求めてしまうのは蛇足だろうか。
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コルタサルの短篇では「遠い女」のように、幻想が現実を侵食していくもの、いつの間にか視点が移り変わっていくものなど、ちょっとぞわっとさせられるところが好き。
本短篇集では、「夜、あおむけにされて」「悪魔の涎」「正午の島」あたりが好み。
「続いている公園」
どこかで似たような話を読んだなと思ったら、エリック・マコーマックの「フーガ」(『隠し部屋を査察して』)だった。コルタサルのこちらが本家。
「パリにいる若い女性に宛てた手紙」
読んでいるこちらの喉までムズムズしてきそう。
「悪魔の涎」
傍観者として、街角で見かけたドラマチックな光景を写真に収めた男。
壁に飾ったその写真、一瞬を切り取ったはずの写真が独自の時間を刻みだす。写真が窓のよう。観る者から見られるものへ。
「南部高速道路」
とてつもなくヘンな話なのに、最後に味わう寂しさったら。
「正午の島」
一瞬の間に見た幸福な幻影、なのだと思う。 -
南部高速道路
人間同士の関係性は、所詮環境によって形作られ、環境の変化によってあっけなく崩れていく儚いものであることが、よく分かる。
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池澤夏樹の世界文学短篇コレクションで読んだコルタサルの「南部高速道路」が好きで好きで、収録されている短編集を購入。
読書という体験は基本的に登場人物の生活に侵入する行為というか、無断で覗き見をしているようなものなのかも、と一瞬我に帰るような作品が多い印象。気付けば自分の背後に人が居たり、見ていると思っていたら見られていたり…。視点がグルグル回る、エッシャーの絵画に入ったらこんな感覚なんだろうか。「続いている公園」「夜、あおむけにされて」「悪魔の涎」「正午の島」「ジョン・ハウエルの指示」「すべての火は火」辺りがそれに当てはまる。「追い求める男」も信頼足り得るべき現実が足元から崩れていく感覚が共通しているかも。薄々勘付いてはいたけれども、終盤に突きつけられる事実の恐ろしさたらないな。
ただ、「追い求める男」はより登場人物の痛みが感じられて好きだった。何かを切実に欲する人の話にどうしても心揺さぶられる。だから恋人の家の不可侵性に耐えられず、白い子兎を吐き続ける男の末路を描いた「パリにいる若い女性に宛てた手紙」も強烈に印象に残っている。しかし何より「南部高速道路」が一番好き。幾日も続く渋滞に巻き込まれた赤の他人同士が、いつの間にか作り上げていた共同体が、渋滞が解消されるのと同じくらい唐突に、一瞬で解けていく…。はあ…人生だ…。 -
「南部高速道路」はカッコイイな。どの短編もキュッと切なくなる瞬間があって息が苦しくなる。それが癖になる。「すべての火は火」はカッコよすぎてしみじみする隙がないくらいアクロバティック。
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知らないうちに「向こう側」に行ってしまう話がいろいろ。あちら側との接続のしかたが多彩で面白い。
かわいくてだめだめな兎ストーリーの「パリにいる若い女性に宛てた手紙」、保身に懸命な評論家の視線で至高をつかもうとする芸術家を描いた「追い求める男」、交換条件がひど過ぎる「正午の島」の三篇が特に良かった。
大人気の「南部高速道路」はそれほどでも。期待し過ぎたし、仕事でずっとじりじりしているからか、渋滞の話にぐっとこなかった。
全体的におしゃれな雰囲気だったのは想定外だった。そういえばコルタサルって欧州住まいが長いんだものね。 -
現実と非現実の境界線が曖昧な、独特の世界観。
読後感がふわっとしているところはボルヘスと似ているなあと思うのだが、こちらの方が後に残る感じがする。
何となく、ボルヘスは広い世界とか運命とかを描き、コルタサルは人間の内的世界を描いているような気がする。
と、感想までが曖昧模糊となってしまった。
ジョン・ハウエルへの指示が印象に残っている。
冒頭のインパクト勝ちって感じ。 -
一見どれもはじめはどことなく倦怠感のある流れを感じさせるのだが、それからじわじわと目の前のものが崩壊していく、あるいは急速に目覚めに向かうがごとく動きだしていく、その変化や切り替えが見事。
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アントニオーニの映画『欲望』の原作、コルタサル「悪魔の涎」について。
ほんの数頁。短篇。短い。怖い、というよりシュール。
映画と違ってとても閉じている。
全てが写真家の目の前、というより目の中で起こっている。
それにしても。
時空間の歪みどころか、次元の歪みというか何というかの連続。
ふと気づくとあちら側とこちら側が交叉してる。
それでぞっとする。
立体的で時間も縦に一方向に流れている四次元の現実と
フレームの中に切りとられた三次元の写真、その中の現実。
ないはずの時間と動き、流れ。変更、いや変質?
ということは閉じているというのとは違うのか。
因みにこれには、確か高校のときの国語の教科書にあった
「占拠された屋敷」も収められてます。
これ授業でやりたいって言ったら却下された気がする。 -
小池博史ブックフェア選書より
「コルタサル短編集」
ボルヘス、コルタサルと言えば、短編、そして幻惑、幻想、非日常、日常、自己、他者……ふたりともアルゼンチン人でありヨーロッパを往復。なにかと共通項は多いが、コルタサルの短編は深くぼくたちの日常を抉ってくる。世界の穴倉に突き落とされたような感覚さえ覚えることがある。(小池博史) -
最初の二篇『続いている公園』『パリにいる若い女性に宛てた手紙』に惹かれたが、あとの作品はよく分からなかった。。。
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ラテンアメリカ文学独特の難解さがあり、何だかよくわからない短編も多かったが、「南部高速道路」の奇妙な物語っぽさが面白かった。映像化したら良さそう。ジャズミュージシャンを舞台とした表題作「追い求める男」はただの架空の伝記のように感じられていまいちだった。
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うーん…わざとだろうが、場面が変わるのに改行しなかったりしてとても読みにくかった。これが幻想的、と言えば言えるのかも知れないが。とにかくわかりにくく、難しい言葉はないのに理解ができない。翻訳者の力量か、それともスペイン語圏の作品の特徴なのか。残念ながら良いところが見つからなかった作品集。
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ラテン文学を読む。実験的なものや、幻想的な作品集。
フリオ・コルタサルの作品
