遊戯の終わり (岩波文庫 赤790-2)

  • 岩波書店 (2012年6月15日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (272ページ) / ISBN・EAN: 9784003279021

みんなの感想まとめ

日常と非日常の境界が曖昧になる瞬間を描いた作品は、読者に独特の余韻を残します。主人公の視点が転換し、見る側と見られる側が入れ替わる体験は、衝撃的でありながらも心に深く響きます。作品内の短編では、現実と...

感想・レビュー・書評

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  • 20世紀アルゼンチンの作家コルタサル(1914-1984)の第二短篇集。1956年。コルタサルは、ボルヘスやガルシア=マルケスらと並んで、1960年代以降のラテンアメリカ文学ブームを担ったひとりであった。ボルヘスと同様に、コルタサルも幻想的な短篇作品で知られるが、本書に収められた作品には、ボルヘスに特徴的な「高度の感覚」、自己が空間の高みに発散してついに消失してしまうような感覚はなく、むしろ土の臭い、血の臭い、人間の体臭が感じられる。



    「幻想文学とは、絵画でも音楽でも映像でも建築でもなく、ただ言語によってのみ構築可能な世界の表現である」というような定義をどこかで読んだ記憶がある。言語は、秩序を打ち建てる。そして秩序とは、区別と序列と順序のことだ。しかし同時に、秩序をぼかし、偽り、すり替え、撹乱し、反転させてしまえるのも、また言語の為せる業である。言語は、階層構造を構築すると同時に、階層化されたものを全て同一平面上に引き摺り下ろして並置させてしまうことで当の階層構造を破壊してしまう。数学、論理学、プログラムが言語の形式体系であると同時に、幻想文学もまた言語の産物であるといえる。「続いている公園」は、まさに言語によってのみ構築可能な「幻想」であり、本書の白眉だろう。

    「メビウスの輪というのがある。細長い一枚の紙を一ひねりして、その両端を糊でくっつける。そして紙の上を鉛筆でなぞってゆくと、紙の表と裏がひとつにつながっているのである。コルタサルの世界がまさにそれで、読者が紙の上に印刷された幻想的な物語を読みながら、心の底でここに書かれていることは自分とはかかわりのない世界の出来事だと思い込んでいると、いつの間にか自身の足元から現実世界が崩れはじめるのである。」(p254木村榮一「訳者解説」)

    幻想譚以外に、子どもを主題とした作品がいくつかある。少年少女たちは、思春期になると、自分以外の他者の存在やそうした他者からの眼差しを意識し始めるようになり、自己が他者との関係のうちに位置づけられる相対的な存在であることを知るようになる。他者の存在を通して、自己は万能でもなければ世界の中心でもないことを、反発しつつも、しかし否応なく思い知らされ、そうやって行きつ戻りつしながら、徐々に自己、他者、世界の関係を整序して、相対化された自己を受け容れていくようになる。こうして、「子どもの世界」は崩壊していく。「遊戯の終わり」や「殺虫剤」は、そうした成熟への過程の或る瞬間を見事に切り取った佳品であると思う。

    「そのあと、オランダとわたしはいつものように柳の木のところに行ったが、どうなるか大方の察しはついていた。列車が通ったので、三番目の窓を見たが誰もいなかった。思ったとおりだった。ほっとしたような、そのくせ腹立たしいような気持ちでわたしたちは顔を見合わせて、笑った。」(p245「遊戯の終わり」)

    「誰も悪くはない」は奇妙な滑稽譚で、ミクロを偏執的に記述するさまはニコルソン・ベイカー『中二階』を思わせる。こういうナンセンスな話も面白い。「バッカスの巫女たち」は、美的なものや神的なものに対する集団的な熱狂の不気味さを風刺的に描いており、強く印象に残る。現代では、美的なものや神的なものがイデオロギーに取って代わり、陶酔、忘我、合一が政治化していくという事態が、ありふれたものとなっている。「キクラデス諸島の偶像」「黄色の花」「水底譚」「山椒魚」「夜、あおむけにされて」など、現実/夢、正気/狂気、生/死、自/他の境界が曖昧になり、後者が前者へ侵犯してきて、時間感覚や因果関係を混乱させる物語も多いが、今回はそこまで惹き込まれることはなかった。

  • たった3ページの短編だが、最後の文で現実と異世界とが交わる。
     最初はラストが近づくと「あと数行で終わっちゃうけどどうしたいの?」と思ったら、見事に繋がった。
     / 「続いている公園」

    セーターを着ようとしたんだよ。ところが片手が出ない、しょうがないから反対の手を出したらバケモノの手になってるじゃないか!慌てて頭を通したら出ないんだよ。どこをどう絡まったんだ、どうすればいいんだ?
     セーターを着ようとしたら絡まった、でホラー短編ができる作家精神が素晴らしい。かなりコワい話のはずなんだがどことなくユーモラス。異世界はすぐそこにある。
     / 「誰も悪くない」

    喧嘩すると君は"セーヌ河に飛び込んでやる!"と言ったね。
    でも気には隣で寝ている。シーツの中の君を抱きしめる。まるで溺れるようにもがいている君、桟橋に横たわる濡れたままの君を。
     / 「河」

    裏庭の蟻退治の殺虫剤散布と、少年の心の動きを書いた短編。
    「蟻退治」の部分は現実的な話かと思うが、両隣の家にまで続く蟻の穴の余りの広さがちょっと非現実的でもある。そんななかで、こっそりと恋している隣の少女が他の少年と仲良くなっていたことを知った少年は、殺虫剤散布機に大量の薬剤を入れて…。
    …庭に蟻が大量発生という現実の話なのだが、蟻の穴が両隣にまで行き渡っているという大袈裟さなど読んでいてちょっとした違和感がある。最後は思春期の恋心が破れて一瞬芽生えた殺意を見せる。
    / 「殺虫剤」

    ホテルの箪笥の裏に隠された開かないドア。夜な夜な聞こえるいるはずのない赤ん坊の泣き声。
    …初めは気味の悪かった異世界が馴染んでみると心地よかった、とはまさにコルタサルの小説を読んでいる私なんだが(笑)
    / 「いまいましいドア」

    そりゃあマエストロには感謝しているよ。この町に音楽と聴衆を作ってくれた。聴衆だって彼には熱狂している。でも今日の騒ぎはちょっと行きすぎでないか…?
    / 「バッカスの巫女たち」

    モーランとソモーサはギリシャ(の神殿?)で彫像を掘り当てた。ソモーサは彫像に取り憑かれたように複製を作り続ける。「こうやって一歩ずつ近づいていくと、相手が僕を認め始めたんだよ。」モーランはその手に斧を見る。そうか、それでその斧で僕を生贄に捧げようというのかい。次の瞬間、モーランはソモーサの死体を見下ろして準備をする。もうすぐ尋ねてくる彼女を迎えるために。斧を手にとって。
    …返り討ちにしたまでは事故なんだが、モーランが「服を脱ぎ始めた」というところで「あんたも取り憑かれちゃったのか!」とわかる、このさりげない異世界への転換の見事さよ。
    / 「キクラデス諸島の偶像」

    私たちは死なない運命なのですよ。それを知ったのは、私たちとは反対に死ぬ運命にある男にあったからですよ。彼は、自分と同じ輪廻を辿る人、つまりは自分の生まれ変わりに出会ったと言うんです。普通は死んでから生まれ変わるでしょ、そうすれば人は普遍だ。だが自分が生きている間に自分の生まれ変わりに出会ったら、その人は死ぬってことなんです。
    …違う人間で、違う事柄であっても、輪廻というところで同じものを繰り返すなら人は普遍であり…。こういう不死のテーマは、ボルヘスお気に入りの作家の誰かが書いていそうだ。
    / 「黄色い花」

    ブエノスアイレスのフェデリーコ・モラエスと、ロボス(ちょっと田舎?)のアルベルト・ローハス博士との書簡小説だが、二人の時間がズレている。
    モラエスからローハス博士へ夕食会の招待状を書いている。だがその日のうちにローハス博士から夕食会での出来事についての手紙が届いた。まだ夕食会を開いていないのに?しかし手紙の内容は、たしかにみんなで集まらないと知り得ない内ことが書かれている。
    書簡短編のため、どっちも事実を書いているということが分かりやり方だ。しかし一人は「夕食会はこれから開く」もう一人は「この前開かれた」という、なんか時間がズレちゃった不思議さ。
    / 「夕食会」

    映画を見るためにコンサートホールに入った男の目の前で演じられたのは素人集団の酷い楽想。終わってみれば笑い話なんだが、でもほんとうに起きたことなのか…?
    / 「楽団」

    チンピラ時代の友達が、殺す側と殺される側に回る。
    …ここからの三作品は南米の”男らしさ”(マチスモというべきか)を競う男たちの物語。ボルヘスもこのような作風はお得意ですね。
    / 「旧友」

    ヤクザ仲間が殺され、復讐のために犯人を捜し出そうとする男は船に乗る。犯人はこの中の誰だ?と、探ろうとしながらそこに女の取り合いが絡んでくる。殺人の動悸は仲間の復讐じゃなくて眼の前の面子。
    / 「動機」

    これもマチスモ物。ベッドの老ボクサーが、アルゼンチン人でチャンピオンであることを期待され、力がものを言った時代を振り返る。
    / 「牡牛」

    ちょっと散歩をしようか。死んだルシオとも散歩したんだよ。僕はルシオに夢の話をした。僕の夢で死体が流れてきたのはこの川だよってね。死体の顔は忘れてっしまったけれど。マウリシオ、銃ならあるからやればいい。思い出したんだ、あの死体は僕だってことを。もうすぐ正夢になり、月の光を受けあおむけになったまま流されていく僕の水死体を砂州や葦原がみるはずだ。
    …夢十夜の子供を背負う話とか、芥川龍之介「沼」に似ている感触。
    / 「水底譚」

    あのこを散歩に連れて行けと言われて、連れて行ったお話。なんだけど、なんでこんなに不穏なんだろう?「あのこ」とは別の何かを象徴しているの(ーー)??そのまま読み取れば問題のある弟とか妹を散歩に連れ出してこのまま置いていきたいとおもいつつ面倒を見て、というもの。しかしそんな直接的な出来事をこんな曇ったように書くか(ーー)??
    / 「昼食のあと」

    ぼくは人間だった。水槽の外から山椒魚を眺めていた。でも今は山椒魚だ。水槽の中からぼくを見ている。
    …いきなり「今では、そのぼくが山椒魚になっている」と言われたら「え??…ああ、わかりました」としか言えない 笑
    精神は人間のまま心が山椒魚に入り、水槽の中から今では「彼」になった以前の僕を見ている。精神が閉じ込められていて、以前の僕とは完全に離れてしまった。これも色々なものの象徴なんだろうけど…。
    / 「山椒魚」

    交通事故にあった男が、入院中の病室で夜な夜な見る悪夢。
    …これは嫌だ、本当に嫌だ、絶対嫌だ。現実が異世界に侵食される短編の中でも一番嫌だ~と感じる。ネットリした空気感、ジャングルの匂い、身を潜める男の息遣いまで感じる、追いつめられる焦燥感がたまらない。
    / 「夜あおむけにされて」

    三人の少女のお楽しみ。それは家の裏を通る列車の時間に合わせて彫刻ごっこをすること。ある日男子生徒から手紙が投げられたことが、彼女たちの少女時代の終わりのきっかけだった。
    …これは心に残る短編。障害ある者が家族の”女王様”になる。幼い頃は障害なんて関係ないし楽しく笑いに変えることもできる。だがある出来事で、表面的には何も変わらないが、内面がはっきり変わったと分かる。冒頭の無邪気な大騒ぎは映像が目に浮かぶし、それが何かを得て何かを失っていく心理描写がなんとも心に残る。
    / 「遊戯の終わり」

    ===
    この本で一番印象に残ったのは後書きで描かれている言葉なんですよ。
    <自分は悪夢を見ると、とりつかれたようになってどうしても頭から振り払えなくなる、それを払いのけるために短編を書いている、つまり、ぼくにとって短編を書くというのは一種の≪悪魔祓いの儀式≫なのです。P259>
    悪夢を払うのはもっと強烈な悪夢なのか。似たようなことはガルシア・マルケスやイザベル・アジェンデも言っていました。
    本を読んでいると「この作品は作者に憑りついている物を祓う行為だろうな」と思うことってありますよね。
    そしてコルタサルの短編小説が、ただでさえ合理的に説明の付かない悪夢の、さらに合理のつかない悪魔祓いなら、読者としては意味とか解釈とか深く考えず、「悪魔祓えたなら良かったね。私も面白かったです」と楽しめばよいのかなと思っています。

    • マヤ@文学淑女さん
      フォロー、コメントありがとうございます!
      海外文学が好きなのですが、まだラテンアメリカにはあまり手が付けられていないので、淳水堂さんのレビ...
      フォロー、コメントありがとうございます!
      海外文学が好きなのですが、まだラテンアメリカにはあまり手が付けられていないので、淳水堂さんのレビューを参考に少しずつ読めたらと思っています(^^)
      コルタサルは全然知らない作家だったのですが、読んでみたらどの短編もおもしろくて。ラテンアメリカ文学の独特な雰囲気に最初は戸惑ったのですが、「悪魔祓いの儀式」という表現ですとんと腑に落ちました。淳水堂さんが一番嫌だ~とおっしゃる「夜あおむけにされて」が私はけっこう好きです。私も悪夢をよく見るので他の人の悪夢の話を読むと変に安心するんですよね~。だから幻想文学にはいずれハマる予感がします。空想癖もあるし…(^^;)
      これからよろしくお願いします♪
      2017/09/28
  • 夜になっても、わたしたちはいつものようにしゃべらなかった。母さんは怪訝そうな顔で、どうかしたの、ねずみに舌をかじられでもしたのかいと尋ねると、ルトおばさんの方にちらっと目をやった。なにかいけないことをして、気が咎めているにちがいないと母さんたちは考えていた。

  • スペイン語の市民講座で使用したテキスト。先生からテキストをコピーした紙が渡された。

    短編の『続いている公園』のスペイン語原文テキストのコピーを渡された。

  • 「山椒魚」と「夜、あおむけにされて」は、いずれも「悪魔の涎」と同じく、主人公の視点が最後で転換(どんでん返しとはちょっと違う)してしまい、主体(見る側)と客体(見られる側)が一瞬にして入れ替わってしまう感覚が衝撃的でした。生きながら自分の生まれ変わりに出会う「黄色い花」、読んでいた小説と現実がメビウスリングのように繋がってしまう「続いている公園」、セーターを着ようとしただけなのに不条理な事態に陥るカフカ的な「誰も悪くない」、悪夢的な「水底譚」や「河」、偶然発掘した偶像に魅せられて狂気に伝染していく「キクラデス諸島の偶像」や、音楽に感動した聴衆の狂騒が恐ろしい「バッカスの巫女たち」、どれも日常と非日常の境界がふと曖昧になって、あちら側へすべりこんでしまう瞬間を捉えていて、独特の余韻が残ります。

  •  18編の短編を収めた短編集。
     やはりコルタサルの短編はずば抜けて面白い。
     日常の中に出現する非日常を描いたり、繊細な幼少時代の移ろいゆく心情を描いたり(「殺虫剤」は出色の出来だと思う)、後期ボルヘスのように、酒場にたむろしているようなチンピラを描いたり、結構色とりどりの内容になっている。
    「南部高速道路」に似た感じの「バッカスの巫女たち」(もちろん、状況も話も全然違うが、漂ってくる香りがそっくり)や話自体はベタなんだけど、書き方が秀逸で何度読んでも感心させられる「夜、あおむけにされて」、視点の移動の微妙さが「秘密の武器」を思いださせる「山椒魚」。
     しょっぱなに収められている「続いている公園」は「悪魔の涎」と兄弟関係にあるような作品だし、「誰も悪くはない」などは、ひとつ間違えればドリフのコントのようになってしまいそうな、それでも心底恐ろしい話になっている。
     ちなみに「山椒魚」となっているけれど、作品を読む限り「ウーパールーパー」みたいな両生類を思いだす。
     18編というヴォリュームなので、個人的に少し物足りない作品があったのも事実だが、やはりこの人の短編集は極上です。

  • 学生の頃に国書刊行会版を読んで以来だから、15年ぶりぐらいに読んだけど、破壊力がより増している感じがする。
    こんなに面白かったっけ?

    なにより「山椒魚」が白眉。
    描写することが対象に没入することと同義であり、ついには語り手がその対象自体に「変身」してしまうという徹底ぶり。論理的かつ官能的。語り手たるもの、すべからくこうでなければいけない。

  • 怪奇色の色濃いものからスラップスティック寄り、子供時代の仄かな思慕とその終わりを描写したもの等何とも掴み所のない18編。共通するのはそこに描かれた世界の“脆さ”“不安定さ”だったのでは……という印象。

    ・セーターを上手く着られず格闘する男。初期のツツイ作品のドタバタを想起せる(それだけにラストが余計印象的な)「誰も悪くはない」
    ・連泊するホテルの部屋の箪笥で閉ざされたドア。夜な夜なドア越しに聞こえてくるのは……。怪談または人怖系と見せかけて、の「いまいましいドア」
    ・ギリシアの島で発掘した彫像と男2女1の三角関係。怪奇色という点でもっとも濃い「キクラデス諸島の偶像」
    ・運河に水死体が流れてきたという夢。死体の顔を見て叫んで目が覚めたと男は語るが……「水底譚」
    ・同居する“あの子”を散歩に連れて行けと両親から命じられた少年。「昼食のあと」は少年が一貫して“あの子”と呼ぶ存在が何なのか明確に描かれないことで一層不穏な雰囲気。普通に考えれば幼い弟が妹なのだろうが、そう単純な話でもないようで
    ・バイク事故での大怪我で入院した男は、自分を狩ろうとするアステカ族から必死に逃げる夢を繰り返し見る「夜、あおむけにされて」。夢と現実、今はどちらなのかーという王道テーマ。

    特に印象に残り愉しめたのは以上の6編だが、コルタサル作品が好みかと訊かれると正直……うーん、何とも。

  • コルタサルの描く世界、紡ぐ物語に終わりはない。
    もちろん、この短編集のなかにおさめられているどの物語にも結末はやってくる。鮮やかに。
    読者は読むことによって目撃者となり共犯者にもなってゆく。美しくも残酷な人の営みや感情をもひっくるめて、読む側は悪夢の世界へ一瞬で引きずり込まれてゆく。
    ひとつとして同じものがない短編集。天才!
    なんでも書けるのが凄すぎる。最後の短編、遊戯の終わりでは若い男女の純愛まで描けていてびっくり。

  • 書物をつらぬく無限大の解釈が読中感に忍び込み、ねずみ花火が理解の角度を回転するように、二つの違うものが出会い、明らかに一つの空間になって、閃きの可能性を秘めた苗を植えつけていった。著者の決定的な熱は散らばらず、読む者の魂を起動し、昂る身体はゆるやかな考えとともに風船のように膨らみ、誰かの待つどこかへ飛んでゆく。幻像的絵模様を萌え立たせ、言葉のゆれによって、存在しないことをより深く実在に浸透させようとする自分の芸術的感覚にゆらぎの走った瞬間は、いつまでもずっと続く。それがコルタサルの短篇を読むという自覚。

  • 一見粋でクールっぽいんだけどなあ。読み進めていくにつれて、村社会の下らない足の引っ張り合いや、女子学生同士のせこいマウンティングだとか彼の提供する「人間の厭らしさ」の距離の近さというか、肌着の中に潜んでる身近さというか。こういう何げない何でもないことを表現できてしまうことの恐ろしさ。こういうのは怖いね。あっさり100年とか読み続けられちゃう。 アントニオーニの「欲望」の作者のようでイタリア人と思ってました。しかも「欲望」を「太陽がひとりぼっち」と間違えてました。なのでモニカビッテイを想像して読みました。

  •  実のところコルタサルはあまり得意な作家ではなく、若いころに同じく岩波文庫の「悪魔の涎・追い求める男」や集英社文庫「石蹴り遊び」(しかしこういうどえらい作品を文庫で読めるとはなんという豊穣かと思いますよ)を読みはしたが、作品のできばえに比して深いところまで食いつかれてくるなという感じはしなかった。20年近くが経って新たに本書を読んではみたが、総じての感想はあまり変わらなかった。書かれていることの内実に比して、作風が端整すぎるからなのかも知れない。その点、臆面もなく衒学趣味に走りハッタリをひけらかすボルヘスはさすがである。そういった立ち位置の違いは、ボルヘスも好んで書いたアウトロウもの、「旧友」「動機」などを読んでみても明らかだと感じられる。
     もう一つ、コルタサルの得意とする視点の転換や現実の揺らぎといったようなテーマは、あんがい二十世紀の文学に限らず、特に映像作品が大いに得意としてさんざん深掘りしてしまったものだから、いま見てもいまひとつ新味に欠けるといった問題がありそうな気がする。むろんこれはコルタサルの問題ではない。それにしても「山椒魚」とか「夜、仰向けにされて」といったような作者の重要作はいかにも映像映えがするだろうなと感じられるし、そしてまた映像化してみたらあんがいそれだけの作品と感じられるのかも知れない。
     なお、本書の中でいちばん見事だと感じられたのは表題作の「遊戯の終わり」である。語り口、舞台に道具立て、物語の運びに結末に至るまで非の打ちどころがない。この技巧的な作家が実はふんだんに持ち合わせているリリシズムを存分に堪能できる。そしてまた、この作家の最良の部分はあんがいこのあたりにあるのではないかとも思わされる。

  • 奇妙でグラグラと揺れる現実と虚構。読みやすくさらりとした文章ながら不思議な手触りでうまく掴めない。そこもまた、味で醍醐味ではあるのだけれど。

  • 正直、「なんじゃこりゃ」って思うものと「おお、スゴイ」ってものが入り混じっていた。「スゴイ」の方は本当に面白かったんだけど、それ以外は読むのが苦痛になるものもあり…こういう作家の短編集にはそれも仕方なしかなと。
    以下面白かったもの。
    『続いている公園』『誰も悪くない』『いまいましいドア』『キクラデス諸島の偶像』『夕食会』『昼食のあと』『夜、あおむけにされて』『遊戯の終わり』
    とくに『続いている公園』はスゴイ。メビウスの輪を思い出させる不思議な小説(わずか3ページ弱なのに!)

  • 「続いている公園」…うわぁ…メビウスの輪だ…!
    「誰も悪くはない」…最後何?どうしてそうなった!?
    「河」…この短編集怖い話しか入ってないのかな…。
    「殺虫剤」…前三作の流れからして、絶対に殺虫剤で子供が死ぬ展開だと思った。
    「いまいましいドア」…これはあまり怖くなかった。夜眠れない話けっこう好きなんだな。
    「バッカスの巫女たち」…とんでもない狂乱。ビートルズ来日公演で失神した女の子たちもこんな風に酔っていたのだろうか。
    「キクラデス諸島の偶像」…これテレーズとソモーサはデキてた?
    「黄色い花」…最後の「ぼくは勘定を払った。」がいい。
    「夕食会」…政治の話はよく分からない。
    「楽団」…現実がまやかしだと気づき、脱サラして外遊に出る青年。冒頭の「似たような出来事がもとで亡くなった」というのが気になる。
    「旧友」、「動機」…犯罪が日常である空気を感じる。
    「牡牛」…相撲や柔道は好きなんだが、ボクシングやプロレスは嫌いなんだな…。どうも馴染めない。
    「水底譚」…こわい。
    「昼食のあと」…これと「殺虫剤」、「遊戯の終わり」のように子ども視点の話が一番安心して読めた。
    「山椒魚」…人間以外に限らずとも、自分以外の生き物の目に世界がどう見えているのかは常に興味のある事柄である。
    「夜、あおむけにされて」…やっぱり眠りや夢のモチーフが出てくる作品が好きなんだな。これも怖いけど、この短編集の中で一番よくわかるし好きだ。怖い夢から覚めたくて目を閉じるのだけど覚めなかったり、せっかく覚めたのに寝始めたらまた夢の続きだったり。
    「遊戯の終わり」…アリエル…なんで?程度の低い一目ぼれに過ぎなかったのか?

    • 淳水堂さん
      コメントありがとうございます!

      「夜あおむけにされて」は、まさに夜の森の静けさや自分の吐息、追ってくる者の気配を感じる実にすごい描写で...
      コメントありがとうございます!

      「夜あおむけにされて」は、まさに夜の森の静けさや自分の吐息、追ってくる者の気配を感じる実にすごい描写で、この短編集では一番体験したくないお話です(~_~;)
      私も嫌な夢を見た時の感覚を思い出して、あそこから帰ってこられなかったらいやだ~~って。

      私はたまたま手に取ったラテンアメリカ文学に「こんなジャンル知らなかった!」と驚いて、そこから次々手を出して行っています。
      悪夢物もけっこうありますよ。

      コルタサルの言うように、書くことを「悪魔祓い」ってたまに聞く表現ですね。
      ラテンアメリカ文学だと、
      「お話には色々種類がある。話しているうちに現実そのものになるものもある。また、記憶の奥底に秘められているお話もある。時間がたつとともに、それらは悪夢の元となっていく。時々記憶から生まれる悪魔を祓うために、物語として話さなければならなくなる」と書いているのはイサベル・アジェンデ 。
      ガルシア・マルケス「百年の孤独」の研究本では「長い紆余曲折を経た後でなければ、少年時代に取りつかれたこの悪魔を巨大な言語的構築物として吐き出してしまうことは出来なかった」と分析されています。
      悪魔祓いを小説で表現する人もいるし、音楽で表現する人もいるし、映画を撮る人もいるし…。
      割と好きな漫画家で「描きたいわけでないが描かないと死んでしまう。作品はうんこに似ている」なんて言ってる人も(笑)

      しかしそういう昔は「表現しないと死ぬ」というインパクトがあった人がだんだん丸くなっていくと「この人はいまの生活が充実したんだろうなあ、本人は幸せだろうけど昔のような作品はもう作れないんだろうなあ」などと思ったり。
      2017/09/29
  • 子供の風景、ならず者やボクサーの独白、世界が悪夢に反転する幻想譚など、毛色の違う短編群で構成された短編集。「あちら側」と「こちら側」を滑らかにつなぐ話がコルタサルらしく際立っており、緊張感のある硬質な文章がとてもよく合っている。

    「河」「山椒魚」「夜、あおむけにされて」が特に好きだが、「山椒魚」の、世界が反転した後にも向こう側に自分がいるという構造が、ほかの作品の「入れ替わる」「反復する」悪夢にもうひとひねり加わっている感じでひときわ面白い。

    「誰も悪くはない」「バッカスの巫女たち」の嫌だけどくすっとしてしまう展開も、筒井康隆っぽくて楽しかった。

  • 夢と現実、日常と非日常の切替わりが、淡々とした筆致で描かれている。
    しかし、子供を主人公とした話ではその切替わりが見られない。夢か現実かという揺らぎが、外側に出ることなく身体の内側で起こっているように感じる。
    コルタサルは、「大人」と「子供」をはっきり区別して捉えているんだろうなと。
    そういう意味で、幼い自分との出会いを描いた『黄色い花』はキーになる話だと思った。

    『誰も悪くはない』『殺虫剤』『バッカスの巫女たち』『黄色い花』『遊戯の終わり』がお気に入り。

  • 印象に残ったのは
    意識が山椒魚と入れ替わる不可思議な変身譚「山椒魚」、
    悪夢から目覚めて悪夢に落ちる日常と非日常の切り替わりが鮮烈な「夜、あおむけにされて」、
    そしてこんなに瑞々しくも切なく苦い物語も書けてしまうのかと驚愕した「遊戯の終わり」など。

    『居心地の悪い部屋』にこっそり並べても違和感ないんじゃないかと思える「誰も悪くはない」に
    ボクサーのモノローグなど、テイストもさまざまな短篇が収録されていて、
    次はどんな物語なんだろうと読み進めるのが楽しかった。
    「昼食のあと」「キクラデス島の偶像」も好き。

  • 幻想と言うよりは怪奇に近い作品が多く、現実からいつの間にか異界へと誘われていたという感覚が大変面白くて魅力的。ひとつの題材から立ち上る話がその要因が語られないことからさらに想像は膨らみ果てなく悪夢は続く…これは最高な短篇集。
    それぞれ掌握な短篇の中に、これほど場面から世界観がくるりと変わる巧みさ不条理さに魅了され、その翻弄され具合に心惹かれます。
    「続いている公園」「誰も悪くはない」「殺虫剤」「夕食会」「昼食のあと」「夜、あおむけにされて」「遊戯の終わり」などお気に入り。(2024年1月28日読了)

  • どこでいつ出会ったのかさえもはや思い出せないのですが家の蔵書として長らく置かれ、積読の状態でした。蔵書整理のために一度内容ぜんぶ読んでみようと思い立ち、2日かけて読了です。ちなみに、コルタサルはこの本以外読んだことがありません。

    最初の「続いている公園」でもうシビれてしまいます。ただ物語を読んでいるだけなのに気がついたら自分の置かれている現実に動揺が走る感じ。
    それから「いまいましいドア」「バッカスの巫女」「キクラデス諸島の偶像」……と読んでいてぞっとしなかったり物騒だったり血なまぐさかったり後味が悪くなったりする小説が何篇か続き、カフカ『変身』のようでいて違う味わいがある「山椒魚」などの作品が続きます。

    「メビウスの輪というのがある。細長い一枚の紙を一ひねりして、その両端を糊でくっつける。そして紙の上を鉛筆でなぞっていくと、紙の表と裏がひとつにつながっているのである。コルタサルの世界がまさにそれで、読者が紙の上に印刷された幻想的な物語を読みながら、心の底でここに書かれていることは自分とはかかわりのない世界の出来事だと思い込んでいると、いつの間にか自身の足元から現実世界が崩れはじめるのである」(訳者解説、p.254)
    評として実に的確だと思います。
    夢や幻想、狂気、異世界、異文化圏といった自分には遠い世界、異なる世界、向こう側の世界、したがって自分とは無関係な世界というものは、実は実体があるわけではない。もしそれらに実体があると信じようとするならば、メビウスの輪の上の一点だけに立ってどこまでが裏でどこまでが表なのかと問う愚かさ、過ちを(再)生産しているだけなのではないでしょうか。
    もちろんこうした発想は、いつだって安定して確固とした日常の中に、正気の中に居座っていたい私たちにとってはぞっとしない、悪夢のような体験かもしれません。しかし、その安定して確固としているからこそ、退屈でさして面白くもない世界でもあって、その外側へと開かれる通路は決して特異なものではないことも分かります。メビウスの輪の中をどこまでも進み、現実と幻想の区別を無効化すること。世界の表面をなぞりながらかつて表面と思っていたものの裏手の側に出ること。何周も経巡りながら、私たちの置かれている現実、リアリティのクオリアが何なのか絶えず問い直すこと。ここに、物語の可能性、文学が本質的に宿す効用のようなものがあると思いました。

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著者プロフィール

木村 榮一(きむら・えいいち):1943年、大阪市生まれ。神戸市外国語大学名誉教授。ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』『わが悲しき娼婦たちの思い出』、コルタサル『遊戯の終り』、リャマサーレス『黄色い雨』など訳書多数。

「2026年 『エレンディラ 新版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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