遊戯の終わり (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003279021

作品紹介・あらすじ

肘掛け椅子に座って小説を読んでいる男が、ナイフを手にした小説中のもう一人の男に背後を襲われる「続いている公園」、意識だけが山椒魚に乗り移ってしまった男の変身譚「山椒魚」など、崩壊する日常世界を、意識下に潜む狂気と正気、夢と覚醒の不気味な緊張のうちに描きだす傑作短篇小説集。短篇の名手コルタサルの、夢と狂気の幻想譚。

感想・レビュー・書評

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  • たった3ページの短編だが、最後の文で現実と異世界とが交わる。
     最初はラストが近づくと「あと数行で終わっちゃうけどどうしたいの?」と思ったら、見事に繋がった。
     / 「続いている公園」

    セーターを着ようとしたんだよ。ところが片手が出ない、しょうがないから反対の手を出したらバケモノの手になってるじゃないか!慌てて頭を通したら出ないんだよ。どこをどう絡まったんだ、どうすればいいんだ?
     セーターを着ようとしたら絡まった、でホラー短編ができる作家精神が素晴らしい。かなりコワい話のはずなんだがどことなくユーモラス。異世界はすぐそこにある。
     / 「誰も悪くない」

    喧嘩すると君は"セーヌ河に飛び込んでやる!"と言ったね。
    でも気には隣で寝ている。シーツの中の君を抱きしめる。まるで溺れるようにもがいている君、桟橋に横たわる濡れたままの君を。
     / 「河」

    裏庭の蟻退治の殺虫剤散布と、少年の心の動きを書いた短編。
    「蟻退治」の部分は現実的な話かと思うが、両隣の家にまで続く蟻の穴の余りの広さがちょっと非現実的でもある。そんななかで、こっそりと恋している隣の少女が他の少年と仲良くなっていたことを知った少年は、殺虫剤散布機に大量の薬剤を入れて…。
    …庭に蟻が大量発生という現実の話なのだが、蟻の穴が両隣にまで行き渡っているという大袈裟さなど読んでいてちょっとした違和感がある。最後は思春期の恋心が破れて一瞬芽生えた殺意を見せる。
    / 「殺虫剤」

    ホテルの箪笥の裏に隠された開かないドア。夜な夜な聞こえるいるはずのない赤ん坊の泣き声。
    …初めは気味の悪かった異世界が馴染んでみると心地よかった、とはまさにコルタサルの小説を読んでいる私なんだが(笑)
    / 「いまいましいドア」

    そりゃあマエストロには感謝しているよ。この町に音楽と聴衆を作ってくれた。聴衆だって彼には熱狂している。でも今日の騒ぎはちょっと行きすぎでないか…?
    / 「バッカスの巫女たち」

    モーランとソモーサはギリシャ(の神殿?)で彫像を掘り当てた。ソモーサは彫像に取り憑かれたように複製を作り続ける。「こうやって一歩ずつ近づいていくと、相手が僕を認め始めたんだよ。」モーランはその手に斧を見る。そうか、それでその斧で僕を生贄に捧げようというのかい。次の瞬間、モーランはソモーサの死体を見下ろして準備をする。もうすぐ尋ねてくる彼女を迎えるために。斧を手にとって。
    …返り討ちにしたまでは事故なんだが、モーランが「服を脱ぎ始めた」というところで「あんたも取り憑かれちゃったのか!」とわかる、このさりげない異世界への転換の見事さよ。
    / 「キクラデス諸島の偶像」

    私たちは死なない運命なのですよ。それを知ったのは、私たちとは反対に死ぬ運命にある男にあったからですよ。彼は、自分と同じ輪廻を辿る人、つまりは自分の生まれ変わりに出会ったと言うんです。普通は死んでから生まれ変わるでしょ、そうすれば人は普遍だ。だが自分が生きている間に自分の生まれ変わりに出会ったら、その人は死ぬってことなんです。
    …違う人間で、違う事柄であっても、輪廻というところで同じものを繰り返すなら人は普遍であり…。こういう不死のテーマは、ボルヘスお気に入りの作家の誰かが書いていそうだ。
    / 「黄色い花」

    ブエノスアイレスのフェデリーコ・モラエスと、ロボス(ちょっと田舎?)のアルベルト・ローハス博士との書簡小説だが、二人の時間がズレている。
    モラエスからローハス博士へ夕食会の招待状を書いている。だがその日のうちにローハス博士から夕食会での出来事についての手紙が届いた。まだ夕食会を開いていないのに?しかし手紙の内容は、たしかにみんなで集まらないと知り得ない内ことが書かれている。
    書簡短編のため、どっちも事実を書いているということが分かりやり方だ。しかし一人は「夕食会はこれから開く」もう一人は「この前開かれた」という、なんか時間がズレちゃった不思議さ。
    / 「夕食会」

    映画を見るためにコンサートホールに入った男の目の前で演じられたのは素人集団の酷い楽想。終わってみれば笑い話なんだが、でもほんとうに起きたことなのか…?
    / 「楽団」

    チンピラ時代の友達が、殺す側と殺される側に回る。
    …ここからの三作品は南米の”男らしさ”(マチスモというべきか)を競う男たちの物語。ボルヘスもこのような作風はお得意ですね。
    / 「旧友」

    ヤクザ仲間が殺され、復讐のために犯人を捜し出そうとする男は船に乗る。犯人はこの中の誰だ?と、探ろうとしながらそこに女の取り合いが絡んでくる。殺人の動悸は仲間の復讐じゃなくて眼の前の面子。
    / 「動機」

    これもマチスモ物。ベッドの老ボクサーが、アルゼンチン人でチャンピオンであることを期待され、力がものを言った時代を振り返る。
    / 「牡牛」

    ちょっと散歩をしようか。死んだルシオとも散歩したんだよ。僕はルシオに夢の話をした。僕の夢で死体が流れてきたのはこの川だよってね。死体の顔は忘れてっしまったけれど。マウリシオ、銃ならあるからやればいい。思い出したんだ、あの死体は僕だってことを。もうすぐ正夢になり、月の光を受けあおむけになったまま流されていく僕の水死体を砂州や葦原がみるはずだ。
    …夢十夜の子供を背負う話とか、芥川龍之介「沼」に似ている感触。
    / 「水底譚」

    あのこを散歩に連れて行けと言われて、連れて行ったお話。なんだけど、なんでこんなに不穏なんだろう?「あのこ」とは別の何かを象徴しているの(ーー)??そのまま読み取れば問題のある弟とか妹を散歩に連れ出してこのまま置いていきたいとおもいつつ面倒を見て、というもの。しかしそんな直接的な出来事をこんな曇ったように書くか(ーー)??
    / 「昼食のあと」

    ぼくは人間だった。水槽の外から山椒魚を眺めていた。でも今は山椒魚だ。水槽の中からぼくを見ている。
    …いきなり「今では、そのぼくが山椒魚になっている」と言われたら「え??…ああ、わかりました」としか言えない 笑
    精神は人間のまま心が山椒魚に入り、水槽の中から今では「彼」になった以前の僕を見ている。精神が閉じ込められていて、以前の僕とは完全に離れてしまった。これも色々なものの象徴なんだろうけど…。
    / 「山椒魚」

    交通事故にあった男が、入院中の病室で夜な夜な見る悪夢。
    …これは嫌だ、本当に嫌だ、絶対嫌だ。現実が異世界に侵食される短編の中でも一番嫌だ~と感じる。ネットリした空気感、ジャングルの匂い、身を潜める男の息遣いまで感じる、追いつめられる焦燥感がたまらない。
    / 「夜あおむけにされて」

    三人の少女のお楽しみ。それは家の裏を通る列車の時間に合わせて彫刻ごっこをすること。ある日男子生徒から手紙が投げられたことが、彼女たちの少女時代の終わりのきっかけだった。
    …これは心に残る短編。障害ある者が家族の”女王様”になる。幼い頃は障害なんて関係ないし楽しく笑いに変えることもできる。だがある出来事で、表面的には何も変わらないが、内面がはっきり変わったと分かる。冒頭の無邪気な大騒ぎは映像が目に浮かぶし、それが何かを得て何かを失っていく心理描写がなんとも心に残る。
    / 「遊戯の終わり」

    ===
    この本で一番印象に残ったのは後書きで描かれている言葉なんですよ。
    <自分は悪夢を見ると、とりつかれたようになってどうしても頭から振り払えなくなる、それを払いのけるために短編を書いている、つまり、ぼくにとって短編を書くというのは一種の≪悪魔祓いの儀式≫なのです。P259>
    悪夢を払うのはもっと強烈な悪夢なのか。似たようなことはガルシア・マルケスやイザベル・アジェンデも言っていました。
    本を読んでいると「この作品は作者に憑りついている物を祓う行為だろうな」と思うことってありますよね。
    そしてコルタサルの短編小説が、ただでさえ合理的に説明の付かない悪夢の、さらに合理のつかない悪魔祓いなら、読者としては意味とか解釈とか深く考えず、「悪魔祓えたなら良かったね。私も面白かったです」と楽しめばよいのかなと思っています。

    • マヤ@文学淑女さん
      フォロー、コメントありがとうございます!
      海外文学が好きなのですが、まだラテンアメリカにはあまり手が付けられていないので、淳水堂さんのレビ...
      フォロー、コメントありがとうございます!
      海外文学が好きなのですが、まだラテンアメリカにはあまり手が付けられていないので、淳水堂さんのレビューを参考に少しずつ読めたらと思っています(^^)
      コルタサルは全然知らない作家だったのですが、読んでみたらどの短編もおもしろくて。ラテンアメリカ文学の独特な雰囲気に最初は戸惑ったのですが、「悪魔祓いの儀式」という表現ですとんと腑に落ちました。淳水堂さんが一番嫌だ~とおっしゃる「夜あおむけにされて」が私はけっこう好きです。私も悪夢をよく見るので他の人の悪夢の話を読むと変に安心するんですよね~。だから幻想文学にはいずれハマる予感がします。空想癖もあるし…(^^;)
      これからよろしくお願いします♪
      2017/09/28
  • 「山椒魚」と「夜、あおむけにされて」は、いずれも「悪魔の涎」と同じく、主人公の視点が最後で転換(どんでん返しとはちょっと違う)してしまい、主体(見る側)と客体(見られる側)が一瞬にして入れ替わってしまう感覚が衝撃的でした。生きながら自分の生まれ変わりに出会う「黄色い花」、読んでいた小説と現実がメビウスリングのように繋がってしまう「続いている公園」、セーターを着ようとしただけなのに不条理な事態に陥るカフカ的な「誰も悪くない」、悪夢的な「水底譚」や「河」、偶然発掘した偶像に魅せられて狂気に伝染していく「キクラデス諸島の偶像」や、音楽に感動した聴衆の狂騒が恐ろしい「バッカスの巫女たち」、どれも日常と非日常の境界がふと曖昧になって、あちら側へすべりこんでしまう瞬間を捉えていて、独特の余韻が残ります。

  •  18編の短編を収めた短編集。
     やはりコルタサルの短編はずば抜けて面白い。
     日常の中に出現する非日常を描いたり、繊細な幼少時代の移ろいゆく心情を描いたり(「殺虫剤」は出色の出来だと思う)、後期ボルヘスのように、酒場にたむろしているようなチンピラを描いたり、結構色とりどりの内容になっている。
    「南部高速道路」に似た感じの「バッカスの巫女たち」(もちろん、状況も話も全然違うが、漂ってくる香りがそっくり)や話自体はベタなんだけど、書き方が秀逸で何度読んでも感心させられる「夜、あおむけにされて」、視点の移動の微妙さが「秘密の武器」を思いださせる「山椒魚」。
     しょっぱなに収められている「続いている公園」は「悪魔の涎」と兄弟関係にあるような作品だし、「誰も悪くはない」などは、ひとつ間違えればドリフのコントのようになってしまいそうな、それでも心底恐ろしい話になっている。
     ちなみに「山椒魚」となっているけれど、作品を読む限り「ウーパールーパー」みたいな両生類を思いだす。
     18編というヴォリュームなので、個人的に少し物足りない作品があったのも事実だが、やはりこの人の短編集は極上です。

  • 学生の頃に国書刊行会版を読んで以来だから、15年ぶりぐらいに読んだけど、破壊力がより増している感じがする。
    こんなに面白かったっけ?

    なにより「山椒魚」が白眉。
    描写することが対象に没入することと同義であり、ついには語り手がその対象自体に「変身」してしまうという徹底ぶり。論理的かつ官能的。語り手たるもの、すべからくこうでなければいけない。

  • 怪奇色の色濃いものからスラップスティック寄り、子供時代の仄かな思慕とその終わりを描写したもの等何とも掴み所のない18編。共通するのはそこに描かれた世界の“脆さ”“不安定さ”だったのでは……という印象。

    ・セーターを上手く着られず格闘する男。初期のツツイ作品のドタバタを想起せる(それだけにラストが余計印象的な)「誰も悪くはない」
    ・連泊するホテルの部屋の箪笥で閉ざされたドア。夜な夜なドア越しに聞こえてくるのは……。怪談または人怖系と見せかけて、の「いまいましいドア」
    ・ギリシアの島で発掘した彫像と男2女1の三角関係。怪奇色という点でもっとも濃い「キクラデス諸島の偶像」
    ・運河に水死体が流れてきたという夢。死体の顔を見て叫んで目が覚めたと男は語るが……「水底譚」
    ・同居する“あの子”を散歩に連れて行けと両親から命じられた少年。「昼食のあと」は少年が一貫して“あの子”と呼ぶ存在が何なのか明確に描かれないことで一層不穏な雰囲気。普通に考えれば幼い弟が妹なのだろうが、そう単純な話でもないようで
    ・バイク事故での大怪我で入院した男は、自分を狩ろうとするアステカ族から必死に逃げる夢を繰り返し見る「夜、あおむけにされて」。夢と現実、今はどちらなのかーという王道テーマ。

    特に印象に残り愉しめたのは以上の6編だが、コルタサル作品が好みかと訊かれると正直……うーん、何とも。

  • コルタサルの描く世界、紡ぐ物語に終わりはない。
    もちろん、この短編集のなかにおさめられているどの物語にも結末はやってくる。鮮やかに。
    読者は読むことによって目撃者となり共犯者にもなってゆく。美しくも残酷な人の営みや感情をもひっくるめて、読む側は悪夢の世界へ一瞬で引きずり込まれてゆく。
    ひとつとして同じものがない短編集。天才!
    なんでも書けるのが凄すぎる。最後の短編、遊戯の終わりでは若い男女の純愛まで描けていてびっくり。

  • 書物をつらぬく無限大の解釈が読中感に忍び込み、ねずみ花火が理解の角度を回転するように、二つの違うものが出会い、明らかに一つの空間になって、閃きの可能性を秘めた苗を植えつけていった。著者の決定的な熱は散らばらず、読む者の魂を起動し、昂る身体はゆるやかな考えとともに風船のように膨らみ、誰かの待つどこかへ飛んでゆく。幻像的絵模様を萌え立たせ、言葉のゆれによって、存在しないことをより深く実在に浸透させようとする自分の芸術的感覚にゆらぎの走った瞬間は、いつまでもずっと続く。それがコルタサルの短篇を読むという自覚。

  • 一見粋でクールっぽいんだけどなあ。読み進めていくにつれて、村社会の下らない足の引っ張り合いや、女子学生同士のせこいマウンティングだとか彼の提供する「人間の厭らしさ」の距離の近さというか、肌着の中に潜んでる身近さというか。こういう何げない何でもないことを表現できてしまうことの恐ろしさ。こういうのは怖いね。あっさり100年とか読み続けられちゃう。 アントニオーニの「欲望」の作者のようでイタリア人と思ってました。しかも「欲望」を「太陽がひとりぼっち」と間違えてました。なのでモニカビッテイを想像して読みました。

  •  実のところコルタサルはあまり得意な作家ではなく、若いころに同じく岩波文庫の「悪魔の涎・追い求める男」や集英社文庫「石蹴り遊び」(しかしこういうどえらい作品を文庫で読めるとはなんという豊穣かと思いますよ)を読みはしたが、作品のできばえに比して深いところまで食いつかれてくるなという感じはしなかった。20年近くが経って新たに本書を読んではみたが、総じての感想はあまり変わらなかった。書かれていることの内実に比して、作風が端整すぎるからなのかも知れない。その点、臆面もなく衒学趣味に走りハッタリをひけらかすボルヘスはさすがである。そういった立ち位置の違いは、ボルヘスも好んで書いたアウトロウもの、「旧友」「動機」などを読んでみても明らかだと感じられる。
     もう一つ、コルタサルの得意とする視点の転換や現実の揺らぎといったようなテーマは、あんがい二十世紀の文学に限らず、特に映像作品が大いに得意としてさんざん深掘りしてしまったものだから、いま見てもいまひとつ新味に欠けるといった問題がありそうな気がする。むろんこれはコルタサルの問題ではない。それにしても「山椒魚」とか「夜、仰向けにされて」といったような作者の重要作はいかにも映像映えがするだろうなと感じられるし、そしてまた映像化してみたらあんがいそれだけの作品と感じられるのかも知れない。
     なお、本書の中でいちばん見事だと感じられたのは表題作の「遊戯の終わり」である。語り口、舞台に道具立て、物語の運びに結末に至るまで非の打ちどころがない。この技巧的な作家が実はふんだんに持ち合わせているリリシズムを存分に堪能できる。そしてまた、この作家の最良の部分はあんがいこのあたりにあるのではないかとも思わされる。

  • 奇妙でグラグラと揺れる現実と虚構。読みやすくさらりとした文章ながら不思議な手触りでうまく掴めない。そこもまた、味で醍醐味ではあるのだけれど。

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