詩という仕事について (岩波文庫)

著者 : J.L.ボルヘス
制作 : 鼓 直 
  • 岩波書店 (2011年6月17日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003279250

作品紹介

詩の翻訳の可能性/不可能性、メタファーの使われ方の歴史と実際、そして物語りの方法についてなど、フィクションの本質を構成する「詩的なるもの」をめぐる議論を分かりやすい言葉で個開する、ハーヴァード大学ノートン詩学講義(一九六七‐六八)の記録。

詩という仕事について (岩波文庫)の感想・レビュー・書評

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  • この本は、ボルヘスがハーバード大学ノートン詩学講義(1967年~1968年)でおこなった講義内容を編集したものです。イタロ・カルヴィーノやウンベルト・エーコのノートン文学講義もとても面白くて好きですが、ボルヘスの講義はもっとわかりやすくて、やはり素晴らしい!

    「私の信ずるところでは、生は詩から成り立っています。詩はことさら風変りな何者かではない。詩はそこらの街角で待ち伏せています。いつ何時われわれの目の前にあらわれるやも知れないのです」

    すぐれた詩人はみな同じようなことを言うのに驚いてしまいます。詩は作るものではなく発見するものだと。なんだか最近になって、やっと詩というものをことさら難しく考える必要はないのかもしれないな~なんて思えるようになりました。ふと目にする季節の移ろいや空のにおい、風や光の彩に揺れる木々や草花をとらえる目はきっと誰にでもあります。とりわけ子どもは詩人に近いかも。先日、枝一杯に膨らんだみごとな桜並木を眺めていた5、6歳の男の子、「ママ、雪のようだね~」と言いながら、そこら中を子犬のように飛び跳ねていました。詩を書かない詩人はまわりにたくさんいるのかもしれません。

    そういえばホメロスやダンテやアリオストといった多くの古典作家の作品は叙事詩で、たしかに詩でありながら物語でもあります。長い時と空間を超えて、いまだに美と叡智と感銘を与えてくれることが不思議でなりません。しかも言語の壁があっても、翻訳であっても、みずみずしく生き生きしていて、凝った文体や美文かどうかといったこととはさほど関係なく楽しめるのも摩訶不思議。それどころか、そういう作品は翻訳されてもなんだかとにかく美しいのですよね。う~ん……私がアバウトすぎるのかもしれませんが(汗)。

    「書物は物理的なモノで溢れた世界における、やはり物理的なモノです。生命なき記号の集合体なのです。ところがそこへまともな読み手が現れる。すると言葉たち――言葉たち自体は単なる記号ですから、むしろそれら言葉の陰に潜んでいた詩――は息を吹き返してわれわれは世界のよみがえりに立ち会うことになるのです」

    この本では、ボルヘスの言葉ひとつひとつが示唆に富み、目から鱗が落ちるようです。とても易しい言葉で詩や文学の楽しさを語っていますので、『七つの夜』とともにお薦めしたい一冊です♪

  • ボルヘスは決して多くのことを述べているわけではないが、示唆に富んだ事柄ばかりを述べるため、豊富に世界が拡大していく。
    ・生は詩から成る。
    ・リンゴと口の接触が必要。
    ・詩は一回限りの経験。
    ・書物は美の契機。
    ・詩とは何かを心得ているために定義できない。
    ・隠喩……人間は断定よりも暗示を信じる。
    ・数えられるパターンから無限に近い変奏。
    ・未来においては状況や歴史や詩人の名前や生涯よりも、美そのものに関心が向けられるかもしれない。
    ・日常的な言葉から、魔術的な源泉を、詩人は呼び出す。
    ・ストーリーは信じられないがキャラクター(存在そのもの)は信じられる。ドン・キホーテ。ホームズ。
    ・人間の一生は、自分が何者であるかを悟る一瞬につづめられる。→イエスにキスをするユダ。→裏切り者。
    ・言葉は共有する記憶を表す記号。→読み手に想像させようと努める。→一種の共同作業。

  • 明瞭かつ示唆に富む。
    詩の本源を捉えなおすには最良の契機をもたらす書籍だと感じた。
    いくらかの詩を読みこなした後、再び手にとりたい。



    私の信ずるところでは、生は詩から成り立っています。

    図書館は、死者らで満ち溢れた魔の洞窟である。われわれがページを開くと、生命を回復することが可能なのです。

    書物は、物理的なモノであふれた世界における、やはり物理的なモノです。生命なき記号の集合体なのです。ところがそこへ、まともな読み手が現れる。すると言葉たち‐言葉たち自体は単なる記号ですから、むしろ、それら言葉の陰に潜んでいた詩‐は息を吹き返して、われわれは世界の甦りに立ち合うことになるわけです。

    私が一片の詩を読むたびに、その経験が新たに立ち現れる。そしてこれこそが詩なのです。

    プラトンはしきりに自問します、「さて、この私の疑問について、ソクラテスは何か言っているだろうか」というわけで、敬愛する師の声をもう一度聞くために、数多くの対話を書き留めた

    プラトンは書きながら考えているからです。最初のページを書いているとき、最後のページのことは何もわからなかった。

    書物はことさら取り上げて崇拝すべき不壊の対象ではなくて、むしろ美の契機である

    文脈がそれらの語ー引用ならばともかく、今日では誰も使おうとしない語ーに詩趣を添えるというわけです

    「私は夜でありたい。そうなれば千の目であなたの眠りを見張ることができる」。言うまでもなく、われわれがそこに認めるのは恋人のやさしさです。―「星たちは見下ろしている」。まじめに論理的な意味を追えば、ここにも同じ隠喩が見られます。しかし、われわれの想像力に及ぼす効果は、まったく違います。

    「時と河について」という単純な表題の小説もまた存在します。二つの単語を並べるだけで、隠喩になっているのです。

    もし「荘子が虎になった夢をみた」と言ったら、何の意味もないでしょう。蝶には繊細で、はかない印象がつきまといます。

    私の理解によれば、はっきりした物言いより、暗示の方が遥かにその効果が大きいのです。

    ある事柄が単に語られるか、あるいはーこの方が遥かに効果的ですー仄めかされたときには、われわれの想像力に好意めいたものが生まれ、喜んでそれを受け入れます。

    月を鏡になぞらえるのは結構なことですが、詩の観点からは、まったくどうでもいいことです。事実として月が鏡であるか否かということは、いかなる意味も持ちません。詩は想像力に訴えかけるものだからです。

    「時の鏡」として、月をじっくり見てみましょう。これは実に素晴らしい隠喩であると私は思います。まず第一に、鏡という概念が月の明るさと儚さを実感させてくれます。そして第二に、詩という概念が唐突に、われわれの眺める非常に明るい月がきわめて古い…

    戦いの隠喩。人間ども織物

    空の星のように、海は遠くも近くも船がちりばめられていた

    ギリシアローマの人間は、詩人‐【創造者】について語る場合、抒情的な調べを発する者としてだけではなく、一つの物語の語り手として考えました。人類のあらゆる声‐抒情的な声、物思いに沈んだ声、憂わし気な声などだけではなく、勇気や希望に満ちた声ーがそこに見出されるような物語。つまり私の言いたいのは、詩のもっとも古い形と思われるもの、叙事詩です。

    詩人たちは忘れているようですが、ある時期まで、物語ることこそが本質的なことであり、その物語を語ることと、詩を口ずさむことは別の事柄とは見なされなかったということです。

    聞き手たちは彼を、二つの仕事を試みる人間とは思わなかった。むしろ、二つの側面を有する一つの仕事をしている人間と考えた。

    ある物語を語るということと詩で歌うということが仮にふたたび一つのものになったとしたら、きわめて重大なことが起こる可能性がある。

    詩人はもう一度、いわゆる創造者になると信じています。

    人間の魂に許された最高の経験に達したのだと考えられます。法悦という経験、人間の魂の神格、神性、神との合一という経験。この言葉では表せない経験をしたあと、彼は何とかして、隠喩によってでもそれを伝えなければならないと思った。

    中世時代を通じて、人々は逐語的な移し替えとしてではなく、再=創造される何ものかとして翻訳を考えていたのです。ある作品を読んで、自分の力のおよぶ敢為で、自分の物した既知の可能性の中で、自分なりの作品を生んでいく、そうした仕事

    あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる。音楽は形式と内容が分けられないということでしょう。メロディー、あるいは何らかの音楽的要素は、音と休止から成り立っていて、時間のなかで展開する構造です。

    メロディーは構造であり、同時に、それが生まれてきた感情と、それ自身が目覚めさせる感情であります。

    歴史的に考えていくと‐もちろん、この例は適当に選んだもので、世界各地に類例が見いだせるしょう‐、言葉は抽象的なものとしてではなく、むしろ具体的なものとして始まったことが分かります。私の考えでは「具体的」というのはこの場合、「詩的」というのとまったく同じ意味です。

    ○○という語は雷を、そして神を意味する。その語を口にしたり耳で聞いたりしたとき、彼らは同時に、天空の鈍いとどろきを感じ、稲光を見、神の胸の内を察したのだと思う。言葉というものは魔術的なものを秘めている。確かな定まった意味を持ってはいないのです。

    詩は論理という一握りの硬貨を取り上げて、魔術に変換しようと試みるわけではない、むしろそれは言語をその源泉に引き戻そうとしている。

    言語は、むしろ、時間を、長い時間をかけながら農民によって、漁民によって、猟師よって、牧夫によって産み出されてきました。図書館などで生じたものではなく、野原から、海から、夜から、河から、明け方から生まれたものなのです。

    音楽においては音、すなわち形式と内容が分けることができないこと、それらは事実、同一のものであることについてお話をしました。詩においても、事情はある程度同じであると推測されます。

    智慧は愛より大切なものであり、愛は幸福より大事なもの

    抽象的なレベルでは、おおむね同じことを意味しているしかし心に訴えるところはまったく別です。

    意味は詩にとって御添えのものではないか。意味成るものを考える前に、われわれは詩編の美しさを感じるのだと固く信じています。

    月にかかる二輪の赤い薔薇 この場合、意味は単語によって与えられたイメージだといえる。しかし少なくとも私にとっては、明確なイメージはそこにありません。
    これらの詩行は何事も意味しません。何事かを意味するために物されたわけではないが、しかしそこに在る。美を現すものとして、そこに在る。少なくとも私にとっては、尽きることのない喜びなのです。

    肝心なのは、本当に意味があるのは、詩が生きているか、死んでいるか、ということであって、文体が平易か凝ったものであるかではない

    言葉はもともと魔術的なものであり、詩によってその魔術に引き戻されるのだという

    落日を「黄金に狂乱する、緑色の怒れる孔雀」と書いたとしても、そう似ていること、あるいは似ていないことを気にする必要はない。彼が落日によって刺激されたこと、彼がその感情をわれわれに伝えるのに隠喩を要したことを、われわれが感得することが肝要

    言語というものを、何かを語るためのもの、不平を訴えるためのもの、自分が喜んでいるとか悲しんでいるとか、そうしたことを伝えるためのものだと考えてきました。ところが、私は言語は、また音楽であり情熱であり得ることを知ったのです。

    自分の作品をいじるのはできるだけ少なくしなさい

    私は作品を書くとき、読者のことを考えません。また私自身に事も考えません。私が考えるのは何を伝えようとしているかであり、それを損なわないよう最善をつくすわけです。

    今の私は、表現成るものを自分はもはや信じていないという結論に達しました。私が信じているのは暗示だけです。結局のところ言葉とは何なのでしょうか。言葉は共有する記憶を表わす記号なのです。

    われわれは暗示することしかできない。つまり読み手に想像させるよう努めることしかできない。

    何かを書いている時、私はそれを理解しないように努めます。

  • 詩という形式が伝えてくれる美について、6回の講義に分けて語られている。

    「隠喩」、「物語ること」、「翻訳」など、それぞれの回にテーマが設けられているが、全体を通じて、
    ・詩は、それ単体が内包している論理によって何かを伝えようとするものではなく、言葉と人が触れあったときに立ちあがってくるもの
    ・詩は、自己の意識によって創作するものではなく、また分析したり解釈したりするものではなく、そこに立ち現われてくる美を「汲みとる」もの
    といったことであると感じた。

    さらに、さまざまな詩が引用されており、講義がボルヘス氏自身がそれらに対してどのようなことを感じ取ったかを語りながら進められていくため、それらの点が非常に豊かに伝わってきた。

  • ボルヘスによる詩に関する話。詩に対して共感できることがここにはある。詩のよさ本来の姿といってもいいと思う。ボルヘスが先導役ならきっと詩を書こうと思う人は増えると思うな。そんな気がした。

  • 物言い:明示<暗示

    定義できないものに関しての認識

  • 詩について、情熱あふれる豊かな語り口の講義。自分に英語の素養があったらもっと楽しめたかも。

  • 『7つの夜』もそうだったのだけど、ボルヘスの講演録は読んでいてものすごく心地良い。それは彼の書物に対する愛情、文化に対する敬意を言葉の端々から感じることができ、博覧強記なその知性が軽やかなステップを踏んで読み手を魅力するからだ。一言で表すならば、それは信愛なる美しさ。物語について、詩についての講演録である本作ではそんなボルヘスの美学が満遍なく語られながら、書物を超えた「言葉」が持つ美しさへとアクセスする。ボルヘスが盲目となりながらも書物へ、そして美しさへの敬意を失わなかった理由に触れることのできる一冊。

  • 詩と美と実感と情熱。おもしろかった。

  • ボルヘスにとっては言語自体が、その意味の多重性が、翻訳されるごとにその作品の置かれる位置づけが迷宮を構築していくのだなぁ。

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