密林の語り部 (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003279632

作品紹介・あらすじ

都会を捨て、アマゾンの密林の中で未開部族の"語り部"として転生する一人のユダヤ人青年の魂の移住-。インディオの生活や信条、文明が侵すことのできない未開の人々の心の内奥を描きながら、「物語る」という行為の最も始原的なかたちである語り部の姿を通して、現代における「物語」の意味を問う傑作。

感想・レビュー・書評

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  • 文明を捨てアマゾンの密林で部族の語り部となって生きたユダヤ人青年の物語。言葉が存在を創り、世界を生み、物語ることによってばらばらな人々を繫ぎ留める。‘物語る’という行為と営為の根幹と真意を垣間見たようで、久しぶりに小説読んで心打たれた。
    何を読んでも響く作家がいる。読書家の方々なら頷いてくれると思うが、相性のいい作家がいる。馬が合うというか、肌が合うというか。どれを読んでも琴線に触れ、自身の座右の書となり得る書き手。ラテンアメリカ文学を読むきっかけとなった作家はガルシア・マルケスだが、マリオ・バルガス=リョサは自分にとってそんな存在の作家なのだとこの頃、気付いた。

  • 今年になって『大江健三郎往復書簡―暴力に逆らって書く』を読んで感激した私は、大江さんと書簡のやりとりをしている世界の作家たちの作品をちらほら眺めてきました。そんな感銘の旅の大トリを飾るのは、マリオ・バルガス=リョサ(1936年~ペルー、2010年ノーベル賞作家)! うれしい邂逅に心が躍ります!

    いや~さすが、面白く読ませますね。しっとり落ち着いた大人の作風で、その小説作法の美しさにもびっくりします。頭が尻尾をくわえたような冒頭と末尾の繋がり、その間をバルガス=リョサを思わせる「私」と、彼の古い友「サウル・スラータス」のふたつの視点で丁寧に紡いでいきます。ペルーの少数部族の野生に満ち溢れた神話的・呪術的な語り、かたや生の潤いを失いながら、物質的豊かさを誇る文明社会の悲哀……まるで秘めやかなシンメトリーの庭園をこそっ~とのぞくような心境です。

    アマゾンの密林に生きるマチゲンガ族の神話は、天地創造から愉しく生き生きとしていて、人間が虫やヘビやらに次々と転生していく変身譚などは、まるで自然との調和を重んじる古いケルト神話のようでびっくり仰天です。また未開の野蛮人だと切り捨てる文明社会に対する痛烈なサウルの語りはとりわけ印象的で、ペルーの少数部族を調査した経験をもつ作者の想いが秘められているようです。

    「結局、進歩とか、未開の人々の近代化とか、我々の勝手な言い分にすぎないんだ。それは単に彼らを滅ぼすだけさ。……君が尊敬、いやわずかでもいい、共感する気持ちで近づき、よく観察すれば、野蛮人だとか、遅れているとか呼べないことに気がつくだろう」

    密林に生きる少数部族の宇宙や自然との共生、動植物や薬草の深い知識にくわえ、緻密な観察と分析、細分化した分類、それらをあやまたず語り継いでいく驚異的な記憶力……本作を読んでいるうちに、ふとあの有名な人類学者レヴィ=ストロースのアマゾン密林に生きる少数部族のフィールドワークと重なってきます。そこでは近代科学・合理的論理的思考をあたかも至上とする文明社会に警鐘を鳴らしていて(難しいことはよくわかりませんけど)、彼の本をながめてみると、連綿と語り継いできた密林の人々の深い叡智には、度肝を抜かれたものです。

    「怒りは世界の不調和の種である。もし人間が怒らなかったら、人生はもっと素晴らしいものになる。<彗星――カチボレリネ――が天にあるのは、怒りに原因があるのだ、炎の尻尾を出し、駆け巡り、宇宙の四つの世界を混乱させる脅威になっている>と、彼は言った」

    ひどい悲しみからくる怒りの感情を抑えることができなかったカチボレリネは、竹の先に火をつけると、もう一方の先を尻の穴に入れて天に昇っていきます。それが彗星となって世界を混乱させているのだそう。

    友サウルが転生したのは「密林の語り部」。彼が語る神話は奇想天外でユーモアにあふれ、じつに豊かで静寂です。自然の摂理の中で足るを知り、調和を重んじながらそれを畏怖し、生き物の生と死に想いを馳せる人々。かたや違法伐採、鉱物の採掘、再起不能になるほど自然の搾取や破壊を繰り返している抑制のきかない文明社会、いったいどちらが野蛮なのだろう? 科学的・合理的思考に偏れば偏るほど、どんどん人間が薄っぺらくなっていくような気がします。

    おもしろくて、あっというまに読み終えた本作は、また近いうちに再読したい魅力的な作品でした。作者の思慮深さや美しい庭園のような小説作法にも惚れ込んでしまい、もっと彼の別作品にも触れてみたくなりました(^^♪

    ***
    「抑制のきかないものには、知恵はないし、集中力もない。
     そして、集中力のないものには平和はない。
     そして、平和のないものに、どうして幸福があり得よう」(「マハーバーラタ」)

  • 岩波文庫にバルガス=リョサの著作が入っているのを見て「おおっ」と思った。岩波といえばやっぱり古典中の古典というイメージなので比較的新しい雰囲気のするものが入っていると「岩波さん頑張ってるなあ」と思ってしまうのである。そんな岩波さん(いつの間にか「さん」づけ)に敬意を表し『密林の語り部』を手に取る。

    『密林の語り部』は著者バルガス=リョサ自身を思わせる「私」と顔の半分に大きな痣を持つマスカリータと呼ばれる人物やその他研究者との会話、交流で構成される章と、アマゾンの部族の人たちの声や行動といったものを人称も時系列の感覚もなく、生きている人間と死んでいる人間の境も不明瞭な形で書き継がれていく章とが交互に出てくることで進んでいく。このうち後者であるアマゾンの部族の章は、声の主体を探そうとすると途方に暮れてしまい、あまり意味は追わずにどことなく雰囲気を味わいながら読むことになった。

    アマゾン部族の章を読みながら「マジック・リアリズム」といった言葉もよぎったが、そういう言葉を使ってしまうとなんとなく自身消化不良を起しそうな気がしたので、自分なりに書ける範囲で思ったことを書きとめてみたいと思った。

    アマゾンのとある部族の慣習についての記述を読み、ささいなこと(口論をしただけとか誰かに恨まれたりといったこと)がすぐに自殺に結びついてしまうことや、病気などになるとすぐに生きることをあきらめてしまう、という死生観、そして食人の文化など、全く想像しないわけではなかったが、こうして書かれているのを見ると純粋に驚いてしまう。そしてこのような人たちの世界観を表現するためにどのような言葉を費やすことが可能なのだろうか?と思ってしまう。われわれが日常使っているような言葉もしくは言葉の組み立て方では「それ(アマゾンの部族の世界観)」について書くことができないのではないのだろうかという思いがする。

    「それ」を書くためにはどうしたらいいのだろう。私は2つあるのではないかと思っている。
    1つは「それ」を語る人達の言葉に寄り添うこと。
    2つ目は「それ」ではないもの(要するに自分たちがいる側の世界)の言葉に揺らぎを与えてあたかも「それ」であるかのように感じ取れるようにしてしまうこと。
    1つ目が言語学者や民族学者の仕事で、2つ目が文学者の仕事なのではないだろうか、といったん定義してみたくなる。そうすると『密林の語り部』がとても巧みに構成されたもののように思われてくる。

    2つの世界を対比させて書くのはどういう意図があるのだろうか。そこに何か普遍的なものを見い出そうとしているとも読めそうな気がしてくる。語り部による「語り」という行為。「人が人へ語るとはどういうことなのか」という事柄に光をあてているような気もする。私からするととてもほのかな光で、自分がそれを掬い取ることができるのかどうかもわからないのだけれど。

    また、バルガス=リョサは大統領選に出馬するくらい現実世界に目を向けている人というイメージも一方であって、その現実を見る厳しいまなざしがアマゾン部族の章だけでなく、現実世界の言葉をもって小説を構成する要因になっているのかもしれないという思いも一方である。

    いずれにしても一筋縄ではいかない小説だ。

  • 語り部パートのうねるような神話的な言葉が、それはわたしの生きる社会とはまったく違う論理で動く社会の言葉なのだけれど、幾つも幾つも胸に刺さった。「自分の義務を果たしているか?」という問いを自分に向けたことなんて、今までなかった。「やらないと怒られるから・困るからやること」以外の義務なんて考えたことがなかった。たぶんそれだから浮き草感覚が消えないんだな。これはもうちょっと考えてもいいことな気がする。

    語り部が語り部になっていった過程がギリギリと辛くて、でも語り部になったことで救われたことも伝わってきて、7章には実に揺さぶられた。語り部だけではなくて、どんなひとでも、自分がこの世界にいていいんだと思えるようになるまでの道のりはそれなりに長くて険しい。そう思えなくてつらいときは、この本を読み返そうと思う。

  • 2012.7記。

    「チボの狂宴」の著者バルガス・リョサ再読。ペルーの少数民族マチゲンガ族の「語り部」が伝える神話的記憶と、人類学者の考察やドキュメンタリー制作の描写が交互に描かれる。

    「木が血を流した時代」と語り部が呼ぶ、白人の過酷なゴムプランテーション経営による人口の激減、乱開発から滅び行く民族を守ろうと努力する同じ白人の人類学者たち。定住し農耕することを教え、人口維持に貢献する学者たちは、しかし同時に境界なく森を行き来する民族の誇りと文化を破壊したのだろうか?こうした問題を考えさせられながら、めくるめく神話の数々にも圧倒される。

    ところで、本作のハイライトである「大地の揺れ、怒りを鎮めるため突如姿を消す」マチゲンガの家族のシーンは、僕に村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」の冒頭部分を思い起こさせた。阪神淡路大震災の報道を一時もテレビの前を離れずに無言で見続けていた「妻」が、突然姿を消すところからこの小説は始まる。発想の源泉が偶々似ているのか、村上がリョサを読んでインスピレーションを受けたのか、とにかくいずれもとても印象的なシーンであった。

  • 神話や民話、民間伝承などが好きなので、語り部パートを特に面白く読んだ。
    不思議だなと思ったのは、マチゲンガ族の自殺率が高いということ。寒い地方は鬱が多く、自殺率が高いのも分かる気がするけど、アマゾンのようなただでさえ生存率の低そうな地域で自殺率も高いって…?しかも外敵に対し受け身で抵抗せず逃げるように移住するだけ。よくそれで部族が存続してきたなあ。
    とはいえマチゲンガ流哲学の中にはけっこうしっくりくるものもあった。怒りをよしとしないところとか、《人が何をし、何をしないかが問題だよ》とか。
    日本で語り部というと、自然災害や戦争の記憶を語り継ぐ人が真っ先に思い浮かぶけど、そういう特定の負の記憶だけじゃなく、歴史や伝承といった地域の多様な話をできる人ってもうほとんどいないよね。テクノロジーに頼れば頼るほど、失われていくものもあるんだな。

  • 小説なのか、ドキュメントなのか…。
    著者の一人称で回想される章と、アマゾンの密林で小さな家族単位で住処を転々と移しながら暮らす民族の「語り部」の言葉で綴られる章とが混じりながら物語が進みます。

    語り部の部分は、なじみのない言葉がたくさん出てくるし、時系列も、登場人物が多いのか少ないのかもよくわからない、独特の文章なので、慣れるまで少し苦労しました。が、徐々に慣れ、学問・啓蒙という名のもとに近代文明が密林の住人たちの生活にもたらした”破滅”の様子が少しずつ理解できるようになってきたことで、どんどん引き込まれてスピードアップ。後半は一気に読み切りました。

    アマゾンだけでなく、世界中のあちらこちらで文化の破壊が繰り返されていること、そして、”進化した”社会でぬくぬくと生きている私たちの生活はそうした経過を経てあるのだということを改めて思い知らされる本でした。

    語り部が伝える、太陽や月、流れ星、動植物をめぐるものがたりは、とても素朴で、以前に読んだ遠野物語にも、アイヌの人々の物語にも通じるものがあった気がします。

  • 現代の私が語る章と、密林の語り部が部族の神話を語る章とが折り重なるように繰り返す。語り部の章が断然よい。アマゾンに生きる少数民族の、いまを生きる神話が、まさに風前の灯の絶唱の如き生々しい生命力を感じさせる。

    解説によると、リョサの半生にまたがるテーマを具現化したものだそうだ。物語の出来上がりのレベルで考えれば、同じテーマの「緑の家」の方を上と見る読者が大半を占めると思われる。それでも、作者の思い入れが強い作品は別にある、ということは往々にしてある。

    リョサの作品としては読みやすい、入門の書として絶好。

  • ひどい痣を顔に持つ友人マスカリータ、「私」の思い、アマゾンの少数民族の世界、そこで語られる神話、彼らが「文明化」にさらされること。様々な要素が交錯して書かれている。
    逐一ガチガチに理解しようとするよりも、彷徨うように読み、何となく物語を感じながら読むことを選んだ。そういう楽しみ方をする本だと思う。
    「私」は密林に消えた友人マスカリータを追わずにいられない衝動をを持つが、明らかに別の立場と道を歩んでいる。マスカリータは正しかったのか、文明のありかたとは、などと色々と考えさせられるのだが、結論が出るものでもない。多くの人は「私」と同じ立場に留まり遠くから彼の地を思うことだろう。
    奮起して密林の部族の力になりたい などと思って行動すれば、必ず私たちはマスカリータが忌み嫌った言語学者やキリスト教の神父や研究者など、善意の悪者たちになってしまうのだ。

  • 難しい。

  • タスリンチとかキエンチバコリとかよくわからない。それが少なくとも私の知っていることだ。

  • ノーベル賞効果でリョサが文庫で読めて嬉しい限り。
    顔に大きな痣があるという肉体的欠陥を抱えるユダヤ人、ペルーの白人社会のマイノリティである主人公が、アマゾンの少数部族という更なるマイノリティの世界に惹かれ、身を投じる。リョサらしく、物語は複数の視点から描かれるが、さほど複雑ではなく、プロットは既視感もある。
    アマゾン、少数民族という「謎」を抱えたペルー社会、少数民族の独自の文化が白人の善意の布教によって崩壊する問題なども興味深いが、この小説の山場は語り手の物語るアマゾンの神話だ。神話?ほぼリアルな現実なのだ。天地は想像され、破壊される。人は(私は、あなたは)ワニの背に乗って河を渡り、鷺の首にしがみついて空を飛ぶ。ザムザのように目覚めるとセミになっている。孤独な旅の途中、ホタルと言葉を交わすようになる。ホタルは妻が星になった、と打ち明ける。

  • 私は怒りを感じる。〈車や大砲や飛行機やコカコーラがないからといって、彼らを滅ぼす権利があるとでもいうのだろうか?〉宣教師たけでなく民俗学者も悪だ。彼らと共に生活し、ジガバチが芋虫に産みつけた卵から孵る幼虫のように彼らの内部から破壊するのだ。マチゲンガ族はロマのように放浪する民。しなやかな強靱さをもつ。語り部は物語る、世界の生成、月と太陽、善き神と悪魔、死者の国、タブーなどを。顔に傷のあるカシリの偽りの光ではなくタスリンチに息を吹き込まれた真の光だった。密林から呼ぶ声がする。マ・ス・カ・リ・タ…

    〈聖書、二言語の学校、福音の指導者、私有財産、金銭の価値、商業、洋服…それらがすべて向上に役立つと言えるだろうか?自由で独立的な《未開人》から西欧化の戯画《ゾンビ》への道を進みはじめてしまったのではないか?〉これはマチゲンガ族だけの問題ではなく、北アフリカを除くアフリカやオーストラリア、オセアニア、東南アジアなどにも当てはまる。民族自決とはヨーロッパにだけ適用されるもの。ダブルスタンダードだ。なぜ彼ら自身に選ばせないのか。自分たちの経済システムに組み込み、収奪するためにほかならない。

    生物多様化、進化論が正しいとするならば太古の昔から生命は常に進化してきた。ならばなぜ進化の頂点とされる人類に一元化されないのか。それは多様化により様々な環境に適応し、分科することにより絶滅することを防いでいるのではないかと思う。人類も居住範囲を拡大し、環境に適応して多様な文化を築いてきた。大航海時代より近代社会への転換をせまられるようになった。現代はさらに経済システムまでもグローバルスタンダードの名の元に一元化されようとしている。それは人類の滅びへの道ではないのか。

    マチゲンガ族は決して怒るなと言う。〈《大切なことは、焦らず、起こるべきことが起こるにまかせることだよ》と彼は言った。《もし人間が苛々せずに、静かに生きたら、瞑想し、考える余裕ができる》そうすれば、人間は運命と出会うだろう。おそらく不満のない生活ができるだろう。だが、もし急いて苛立ったら、世界が乱れるだろう。〉これが彼らのしなやかな強靱さの秘密だ。西洋哲学や仏教などに勝るとも劣らない哲学ではないだろうか。

    ストーリーと語り部の物語が対位法により交互に語られる様はバッハのトッカータやフーガのようだし、フィレンツェと密林もまた対応関係にある。『ドン・リゴベルトの手帖』はこの発展系かもしれない。さりげなく?カフカを織り込んであるのも見事。ダンテやマキャベリにも言及されそれぞれ照応関係にあるようだ。カルペンティエル『失われた足跡』と読み比べてもおもしろいかもしれない。『緑の家』とも関連があるようだ。

  • バルガス=リョサは最も好きな作家の一人だ。今まで読んできた彼の作品はどれも、近代的社会と前近代的な文化という二つの世界を対位法的に描くことで世界の可能性を暴き出しながら深い感動へと導いてくれる。密林の向こう側から紡がれる物語はかつて語る事が社会そのものであったという事実を私たちに突き付け、それをこちら側の世界から懸命に語ろうとすることでその可能性を乱反射させる。例えそれが解読困難な呪文の様なものであろうとも、遠い世界に手を伸ばそうとする事を決して諦めてはいけないと思わさせてくれる素晴らしい読後感であった。

  • アマゾンの奥地のある部族にまつわるお話。なんだか南米版「ビルマの竪琴」みたいな印象。

  • おそらくリョサ自身であるところの主人公と、タイトルにもなっている未開の部族の「語り部」の語りの章が交互になっています。序盤一見接点のなかった両者の繋がりが徐々に見えてきて、ついに語り部の正体が明らかになった瞬間のカタルシスが素晴らしい。ちょっと泣きそうになりました。全体の構成を無視して、語り部パートだけ読んでも、部族の神話や言い伝えが十分面白いです。

  • 何か物足りなさを感じた。
    『緑の家』のような複雑に絡む物語と同じ手法を取っているのだけど、登場人物が少ないので平易に理解することができる。
    しかしながら物足りなさも感じた。
    そこまで面白い話ではなかったというか。
    自分の読解不足かもしれないが、語り部がそこまで重要な人物であるのかがどうも掴み切れなかったので。
    秘密の存在ならば他民族が語り部になりえるのだろうか、という疑問ばかりが残ってしまった。
    青春小説として自分は読んだというのが正直なところ。
    ジャンルは違えどもクラカワー『荒野へ』にも似た読後感があった。
    青春・自我・文明の間で煩悶する青年像は優秀な人材にのみ許された特権だと思う。
    ただそれも古臭い感は否めないのだけど。
    またこの作品の場合、きっちりと現代文明を描写していることから、その対比としてのマジックリアリズムが鮮明になっており、そういった意味で非常に分かり易くなっている。
    バルガス=リョサはこの作品に随分執心しているようだけど、そこまでのものかなと個人的には思ってしまった。
    その辺を踏まえて読むとまた違った味わいが出るのかもしれない。

  • バルガス=リョサの文章は私にはちょっと読みづらいのだが、この小説は未開社会/西洋型社会間の落差の問題をテーマとしていて、興味深かった。バルガス=リョサはペルーの作家だが、アマゾンの密林内における部族社会にたいへん興味をもち、いろいろ調べたようだ。
    最初の2つの章での一人称「私」と、3章に出てくる「私」は別人であり、この2つの主体が交互に語りをつむいでゆく。前者の「私」は、訳者解説によるとバルガス=リョサ自身。後者は、学生時代の友人で、顔半分をアザで覆われた「有徴」のユダヤ人、サウル・スラータスである。
    サウル・スラータスはアマゾンの部族社会に魅了され、専攻した民族学の域を超えてのめりこんでゆく。やがてすべてを捨てて出奔し、マチゲンガ族の中に飛び込み、その部族の神話的核心を成す「語り部」になるのだ。
    スラータスが若い頃愛読していたカフカの『変身』のグレゴール・ザムザのように、彼はまさしく「転身」するわけだ。
    作者自身を投影していると思われる前者の「私」はスラータスの考えを追い、ラテンアメリカにおける未開文化についてあれこれ考え、部族の物語をつむぐ者である「語り部」という存在にも深く考え込む。
    16世紀にスペイン人によって侵略されたインカの民は、おおむねペルーで白人に隷従することとなったようだが、西欧文化の手の届かなかったアマゾンの奥地では、まだオリジナルの文化を守り続ける「未開人」たちが残っていた。彼らを西欧的に「文明化」するのが正しいのか、放っておいて自滅を待つのか、なかなかに難しい問題が考察されるが、結局、ユダヤ人スラータスが「むこうがわ」に溶け込んでゆくことによって、力強く生き続けるマイノリティの生命力が、輝かしい印象となって残される。
    たしかに、どの文化が正しいと言うことはできないはずだし、幸せなどというものはそもそも一体なんなのか、誰も明言することはできない。この小説では、未開社会をあんまり「美化」しているわけでもなく、西洋社会への批判もほとんど出てこないけれども、異文化間の軋轢、はざまで動揺する心は、見事に描き出された。
    「怒ることは世界の調和を破壊し、地震や病気などのわざわいをもたらすから、怒ってはいけない」
    このマチゲンガ族の素朴な信仰と倫理は、人工物だらけの「豊かな社会」における個人主義的自由のなかでストレスに身もだえし、由来の判らぬ苛立ちに日々悶々としている私たちにとって、なかなかに痛切である。

  • 「密林の語り部」(バルガス=リョサ)を読み終わりました。私は静かに目を閉じて密林に差し込む月の光を想い、密林に降る雨を想い、マスカリータを想い、そうして少しだけ悲しくなった。近代化という大きなうねりの中でしだいに失われていく神話や知恵について、痛みに似た喪失感を伴う静かな物語。

  • 密林では、引っ越すことで生活環境が健全なものとなる。語り部になってしまった知り合いを訪ねても、もう引っ越してるんだ。それにしてもあの彼が語り部になってるとはねぇ。

  • 真に他者、異文化を理解することと、それと同化することの間に大きな隔たりがある。理解は対象を分析し自身のコードに合わせて再構築すること。同化は自身がそれまでに得た世界観を捨て、生まれ変わること。同化には完全な理解は必要ないのかもしれない。サウルはマチゲンガ族が不具の子供を殺す理由を理解できなかった。

    サウルは西洋的な価値観は捨てたが物語は捨てなかった。カフカやユダヤ教、キリスト教の物語。サウルは密林の物語の中に自身の物語を自然に織り交ぜて同化した。これは宣教師や学者の理解とは違う。

  • ひとつの文化に魅せられ、回心してその内部へと踏み込み"語り部"となるサウルと、文化を外側から物語にしようと試みる筆者(?)の2人の物語が交互に折り重ねられている。

    初め語り部の物語が始まった時、なれない情景や言葉に戸惑いつつも引き込まれている自分がいた。

  • ルソーの絵がまた良い。ふと、池澤夏樹のマシアス・ギリの失脚を思い出した。リョサの、楽園への道もおすすめ。

  • 現在と神話が混在したような、不思議な作品でした。
    自分たちの価値観が絶対的なものなのかという疑問、密林を放浪する部族とユダヤ人の連想、自然と共存した生き方など、さまざまなことを考えさせられる作品でした。

  • アマゾンの密林に暮らす原住民に溶け込んで「語り部」として、民族の日常や伝説や神話を語り聞かせるユダヤ人青年のことを回想する部分と、語り部が聞かせる物語が交互に展開する。
    物語部分では、民族独自の世界認識が、奇想天外ではあるが生き生きと語られる。あまりにも荒唐無稽で面食らったが、これが彼らなりの原始的な世界認識なのだと理解し、坦々と読み進めた。
    回想部分はずっとリアルで、ユダヤ人青年が都会を捨てて語り部となった経緯に迫っていく。そこには自分の顔の痣とキリスト教社会でのユダヤ人という二つの意味でのマイノリティとしての苦悩が発端となっている。そこから、原住民を強制的に文明社会へと取り込むことへの反感が生まれたようだ。ペルーの国内事情としては、広大なアマゾンを原住民だけのものにするのではなく、原住民を取り込んでアマゾンを開発しようという方向なので当然対立することになる。ユダヤ人青年は対立運動などを起こすのではなく、原住民に溶け込むことを選んだが、もはや原住民と運命を共にする以外に自分にできることはないと思ったのかもしれない。
    一つの国の中にこれだけ文化の違う人間が存在しているということは、日本で言えば群馬の山奥に文明に接触したことのない民族がいるようなものなので、ちょっと想像することが難しい。

  • 南米文学の「普通」に慣れるにはまだまだ読書量が足りません。。南米文学自体がもはや密林。歩き回ってぐるぐる迷っているような、濁流に豪快に流されるような。

  • この小説を読んでいるときたまたま映画「アポカリプト」を観た。我々文明人は多くの不幸に苛まれながら日々生きているわけだが、あのような未開人に比べればましだと思った。

    語り部が語る物語もファンタジー色が強すぎていまいち面白くなかった。むしろ文明人の物語の方が面白かった。

  • 2011-12-8


  • 命題は 「宗教やイデオロギーを超える精神的糧、刺激、人生の理由づけ、責務は あるか」

    率直な感想は 「面白かったが、それを伝えるのに 330ページ必要か?220ページまで テーマが 全くわからなかった」

    時間、場所、ストーリーテラーが 章ごと 変わる。視点を変えられるのに 慣れてくると、語り部が 密林で 物語る章は 本の中に異空間を演出している 著者の意図が 見えてくる

  • ノーベル文学賞を取ったバルガス・リョサ氏の作品「密林の語り部」を読了。南米ペルーのウルバンバ川流域に住むマチゲンカ族のジャングルでの放浪の生活の物語が話の大筋かのように書かれてはいるが、いつは主人公の友人であるペールに住むユダヤ人であり、生まれながらに顔に大きな痣があるという聡明な青年の語り部の口を通して繰り広げられる、彼らの転生・放浪の物語が巧妙に織り込まれている。途中で読んでいて語りの主人公が変わっている事に気付き、それがああやはりペールから消えたと言われていた友人だということに気付く事ができる仕組みになっている。その仕組みをはっきりと意識し読み込みたかったので、本当に久しぶりに続けて二度読んだ。だから難解な本という事ではない。グローバル化の中での自国の文化をいかに守るのかという事に関しても考えさせてくれる内容だ。そんな骨太の南米文学を読むBGMに選んだのはMiles Davisの"The compete Live at the Pluged Nickel"。5枚組でライブの全容が聞けるのがすごい。疲れるけど。"Four and More"もいいけど。僕はこちらの方がより高いテンションのグループが聞けるから好きだ。https://www.youtube.com/watch?v=nyAO3twW_Mk

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