ラ・カテドラルでの対話(上) (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (640ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003279649

感想・レビュー・書評

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  • 「これまでに書いたすべての作品の中から一冊だけ、火事場から救い出せるのだとしたら、私はこの作品を救い出すだろう」

    そんな作者の言葉につられて気軽に読み始めてみたところ……まぁ~すさまじい展開にしばし呆然。

    ***
    ひょんなことからサンティアーゴはかつて父親の運転手をしていたアンブロ―シオと出会います。邂逅を祝して酒場で思い出話がはじまるのですが、これがまるでウナギの寝床。間口はごくごく狭く、その奥は深くて際限ない時空間が広がっています。これぞいい小説の予感! 冒頭からわくわくします。

    1940年代から8年ほど続いたペルーの独裁政権下を基軸に物語は展開します。ペルーの史実もよくわからないまま読み進めていたのですが、まことに興味深くておもしろい、さすが読ませます、ということで深淵なウナギの寝床は大きくわけると3つです。

    *裕福な家庭に育った秀才サンティアーゴは、親の望まない大学に進学し、家を飛び出してジャーナリストの道を歩みます。政界に隠然とした力をもつ富豪の父ドン・フェルミンとの確執に悩みながら、自分探しをはじめる苦い青春物語。

    *独裁政権下で権力を掌握した公安担当者ドン・カヨ・ベルムーデスとその愛人オルテンシアの盛衰物語。

    *愛人オルテンシアの女中アマーリア(インディオ系混血)とドン・フェルミンの運転手アンブローシオ(黒人系混血)との切ない恋物語。

    この3つのストーリーが入り乱れていて、その小説作法はすさまじく、時空は飛ぶ、語り手の視点は飛ぶ、一つの場面にいくつもの場面の会話が平然と挿入され、同時並行でストーリーは流れていきます。激流のような手法を駆使したこんな小説はちょっと見たことがありません、あのフォークナーも真っ青でしょうね。
    しばし圧倒されて目を白黒させていたのですが、慌てず落ち着いて読んでみると、しだいに作者とシンクロしてきます。そうなると理解するのはさほど難しくありません。ただ描写がぎりぎりまで切り詰められ、埋め草のようなそれはほぼありませんので、あまり気が抜けません。冗漫さとは無縁のぎゅうづめ羊かんのような濃厚な味わい♪

    腐敗しきった独裁政権下の民衆や学生たちの民主化運動は躍動感があっておもしろいですが、私がもっとも興味をもったのは、当時のペルー社会の人々の暮らしぶり、民族や人種の問題を物語の中にさらりと組み込んで丁寧に描写しているところです。

    解説によると、ペルーは全人口の45%が先住民、白人との混血(メスティソ)が37%、白人が15%、黒人が約1%という構成で、上位の人々がインディオと呼ばれているようなのですが、チョロやチョラと侮蔑的に呼ばれることもしばしばあり、民族や人種間の複雑な問題を孕んでいます。民主化の進まない不安定な世上にくわえ、人々の間には経済、学歴、貧富の格差も大きく、そのような複雑怪奇なところを臨場感とスピード感をもって体験できるのは痛快です。

    「諸国民の私的歴史を書くのが小説家であり、そのためには社会の全側面に目を配っていなければならない」
    という作者が引いたバルザックの一節をみごと体現するよう。サンティアーゴと父の確執、政界の男たちの尽きることのない権力欲と栄枯盛衰、儚い女オルテンシアの生きざま、地を這うように生きるアンブローシア……作者はその社会や時代背景の全側面に目を配りながら、私的歴史を奔放に語りつくしています。

    バルガス=リョサという一人の作家が、作中人物に化体しながら逃れようのない時代とその在りように悲嘆し、歯噛みし、慷慨し、あるいは嬉々としながら、こつこつ愛情込めて書き上げた本作を読了できたことは感無量。「火事場から救い出せるのだとしたら、私はこの作品を救い出すだろう」という彼の言葉は決してウソではないだろうな~と心から思えてくるから不思議です。

    作者の磁場世界に入るまで少し忍耐と時間を要しますが、作家の須賀敦子さんではないけれど、一トンの塩を舐めながら一人の作者を理解し、その小説芸術に感嘆し、その国の時代背景や文化や歴史を体験できるのは、まさに読書の醍醐味ですね。
    バルガス=リョサという作家にますます興味がわいて好きになりました。これからも少しずつ塩を舐めるように時間をかけながら彼の作品世界に遊びに行こうと思います(^^♪

  • 時期が違う複数のできごとが細切れに語られるので、とくに第一部はゆっくり読んだ。しかしそこはバルガス=リョサなので娯楽性が高く、先が気になるせいで一心に読まされることになった。手に入れたときは文庫サイズにはなかなかない分厚さに身構えたが、子供時代を終えるとなかなか出会わなくなる、終わってほしくない小説だ。

    序盤でいろいろなものごとが失われてしまったことが示されるので、下巻では破壊と喪失がどのように進み、主人公がダメになってしまったのかを読むことになるだろう。三十歳の自称ダメ人間の自己像をそのまま受け取る気もあまりないのだが。

  • 新聞記者のサンティアーゴは、野犬収容所に連れていかれてしまった愛犬を取り戻すべく出かけるが、そこで偶然にもかつて彼の実家で父の運転手をしていた黒人のアンブローシオと再会する。サンティアーゴは実はアンブローシオに対して後ろめたい何かがあるのだが、犬を取り戻し彼と一緒に飲みに出かけ、ラ・カテドラルという店で4時間も語り合う。基本的にこの長大な小説は二人がラ・カテドラルで語り合った思い出話。そこに他の登場人物の彼らの知らない物語も編み込まれており、時系列もバラバラ。

    1部はいきなり読み難い。再会した二人の交わした会話の合間に、その思い出話の回想が織り込まれ、数行おきに時間も場所も登場人物も複数の場面がくるくると入れ替わる。あまりのめまぐるしさに、慣れるまで大変だった・・・。ある程度リズムがつかめれば、こういうものだと割り切って読み進められるのだけど。ここで躓いたら永遠に先に進めなさそうなので、忍耐が必要。

    2部は1部ほど錯綜しておらず段落ごとに主要人物が入れ替わるだけなのでぐっと読みやすくなる。しかし上巻だけで600頁以上もあるので、質・量とも膨大。久しぶりに気の抜けない読書時間になりました。ひとまず上巻では、お坊ちゃんなサンティアーゴが自分を溺愛してくれている父親に反発、わざと庶民の大学へ行き、反政府活動に足を突っ込み、逮捕されるが父親に助けてもらい、しかしなおそれが気に食わず家出、伯父さんの紹介で新聞社で働き始めるまでと、アンブローシオとアマーリアのラブストーリー、アンブローシオが運転手をしていたドン・カヨがオドリア大統領の政権下で成り上がってゆくまで。

    とりあえず、これから読む方には当時のペルーの状況をざっくり把握しておくことをおすすめしておきます。緒言でリョサ自身が書いているように「一九四八年から一九五六年まで、ペルーはマヌエル・アポリナリオ・オドリア将軍を首班とする軍事独裁政権の統治下にあった」こと、そして「あの八年期のペルーにおけるシニカルで無気力な、諦念と道徳的腐敗の精神風土こそがこの小説の原材料であり、この作品はフィクションの特権を自由に使いながらも、あの陰鬱な年月の政治的、社会的歴史を再現したものである」という点を頭に入れておくこと。


    以下自分の備忘録・登場人物メモ(※下巻読了後ちょっと追加)

    <サバラ家の人々>
    ◆サンティアーゴ・サバラ(サバリータ)(ヤセッポチ):主人公、三十才。冒頭ではすでに既婚、新聞記者。お金持ちのお坊ちゃんで秀才だったけれど、どこかで道を踏み外す。この物語は彼が自分の半生をたどり「どこで駄目になったか」を探す物語でもある。
    ◆ドン・フェルミン・サバラ:サンティアーゴの父。一代で成し遂げた起業家で政府にも影響力のある経営者。次男のサンティアーゴを溺愛、期待している。
    ◆ソイラ:サンティアーゴの母。貴族の出でお上品。お高くとまっている。
    ◆チスパス:サンティアーゴの兄。わりとダメンズ。長男である自分を差し置いて父親から溺愛されている優等生の弟サンティアーゴには意地悪で辛辣だけど、意外とそんなに悪い奴でもない。
    ◆テテ:サンティアーゴの妹。チスパスと同じくサンティアーゴに辛辣だが、やっぱりそんなに悪い娘じゃない。
    ◆クロドミーロ伯父さん:ドン・フェルミンの兄。独身。家出してきたサンティアーゴに新聞社の仕事を紹介してくれる。
    ◆アニータ(アナ):サンティアーゴの妻、看護師。

    <ラ・クロニカ新聞社の人々>
    ◆バイェホ編集長:クロドミーロ伯父さんの友人で、サンティアーゴを雇ってくれる。
    ◆カルリートス:先輩記者、アル中で入院中。途中からサンティアーゴの話の聞き役となることもある。恋人のマンボダンサー・チーノに振り回されがち。
    ◆ベセラ(ベセリータ):警察担当記者。流血ページのエースと呼ばれるベテラン。
    ◆ペリキート:カメラマン
    ◆ダリーオ:運転手
    ◆アリスペ:編集長
    ◆ノルウィン、ミルトン、他先輩記者多数

    <サンティアーゴの友人とその周辺>
    ◆ポパイ・アルバロ(ソバカス):サンティアーゴの高校時代の友人。テテのことが好き。のち結婚。陽気でいいやつ。
    ◆ドン・エミリオ・アレバロ:ポパイの父。オドリア派の上院議員で、サンティアーゴの父ドン・フェルミンとも仲良し。
    ◆アイーダ:サン・マルコス大学でのサンティアーゴの友人、片思いの相手。コミュニスト。
    ◆ハコーボ:おなじく大学で出来た友人。親友だったがアイーダをめぐる三角関係に。

    <サバラ家の使用人とその周辺>
    ◆アンブローシオ:ドン・フェルミンの運転手。以前はドン・カヨの運転手をしていた。アマーリアに求愛し続け、紆余曲折の後に結婚。彼が旦那さんと呼ぶのはドン・フェルミン。坊ちゃんと呼ぶのがサンティアーゴ。実はドン・フェルミンとの間に秘密がある。
    ◆トリフルシオ:アンブローシオの父親だがずっと刑務所に入っていてほとんど会っていない。出所してから政治家たちの謀略に捨て駒的に利用される。
    ◆トマサ:アンブローシオの母。
    ◆アマーリア:小間使い。内緒でアンブローシオとつきあっていた。わけあって退職後、製薬工場で働いているときに知り合ったトリニダー・ロペスと結婚。

    <アマーリア周辺の人物>
    ◆トリニダー・ロペス:アマーリアの最初の夫。なぜか反政府活動をしているかのようにふるまいたがり、結果不幸な死を遂げる。
    ◆ヘルトルーディス・ラマ:製薬工場で働いていた頃の親友。
    ◆オルテンシア奥様:ドン・カヨの愛人。元・歓楽街の女王、歌姫(ムーサ)。トリニダーの死後、彼女が囲われている邸宅にアマーリアは雇われる。
    ◆シムラ:オルテンシアの使用人。
    ◆カルロータ:シムラの娘。アマーリアと仲良し 。
    ◆セニョリータ・ケタ(ケティータ):オルテンシアの友人の美女。どうやら二人はレズビアン。高級娼婦。
    ◆イボンネ:ケタの働く娼館の女主人。フランス人?
    ◆ロベルティート:イボンネの店の給仕兼用心棒。オネエ?
    ◆ドン・イナリオ・モラーレス:ルドビーコの親戚。プカルパでアンブローシオに仕事を斡旋してくれるはずが・・・。とんだクワセモノ。
    ◆ドニャ・ルーペ:プカルパ時代の良き隣人。アマーリアとアンブローシオの赤ん坊を引き取る。

    <その他政治に関わる人たちとその周辺>
    ◆ドン・カヨ・ベルムーデス:禿鷹とあだ名された高利貸しの息子。駆け落ちして勘当。アンブローシオと幼馴染で駆け落ちにも協力してもらった。のち政治家として成功してからアンブローシオを運転手として雇うことに。女性同士の絡みを見て興奮する性癖あり。
    ◆ローサ:ドン・カヨの妻。熱烈に求愛されうまいことドン・カヨと駆け落ちするが、結婚後どんどん醜くなり結局放置妻に。
    ◆エスピーナ(セラーノ)中佐→将軍:内務大臣。ドン・カヨの幼馴染。政治の世界に彼を引きこむが、逆にドン・カヨによって追放される。ドン・フェルミンとも仲良し。
    ◆ロサーノ氏:公安?ドン・カヨの下で働く。
    ◆イポリト:ロサーノ氏に使われているチンピラ。実はトリニダー・ロペスを殺したのは彼。
    ◆ルドビーコ・バントーハ:イポリトの相棒。アンブローシオと仲良し。のち正規採用となり警察官に。
    ◆アルシビアデス博士:ドン・カヨの腹心。
    ◆パレーデス少佐:オドリア大統領の甥。

    <作中当時のペルーの政治家と政党>
    ◆ブスタマンテ:1945~1948年の間のペルーの大統領。
    ◆マヌエル・アポリナリオ・オドリア将軍:1948~1956年の間のペルーの大統領。
    ★アプラ党(アメリカ人民革命同盟=Alianza Popular Revolucionaria Americana=略称:APRA):
    1924年に帝国主義や白人支配に反発したビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレが設立したペルーの政党。マルクス主義を標榜しペルーでの社会主義暴力革命を目指し、テロを繰り返す。

  •  語りの手の語る過去や心情と、まったくそれとは別の場面の状況などが入り混じった文章になっており、読み進めるのにはじめは戸惑った。しかし、全く別の場面が交錯する箇所で、どちらの場所での発言ととれるセリフなどが出てきて、こういう表現はドラマや映画的でおもしろいなと思った。
     始終ドタバタだが、最後の兄弟の束の間のやりとりにほっこり。下巻も早く読まなければ。

  • 久しぶりのバルガス=リョサさんの作品です。
    いつものように作品の構成は込み入っていて、登場人物の会話の合間に、過去や未来の会話が織り込まれたりしているので戸惑いました。
    しかし数多くのピースが集まって、次第に全体の姿が見えてくる面白さがありました。

  • 「ラ・カテドラルでの対話」(上)
    彼自身もペルーと同じなのだサバリータ、彼もまた、どこかの瞬間でダメになってしまったのだ。
    (p15)
    …と、この長編は始まる。ここの最初のページ、随分ダメになってるを連呼していて、その後も事あるごとに繰り返すのだが、作者緒言でも書いているように、この小説はマヌエル・アポリナオ・オドリア軍事政権(1948ー1956)の停滞時代を描いているから、まあ通奏低音みたいなものだろう。
    空は曇ったままで、空気はそれ以上になおさら灰色で、いよいよ霧雨まで舞いはじめたー肌に蚊が止まったみたいな、クモの巣が触れたみたいな感覚。いや、そこまですらいかない、もっとはかなく、もっと嫌な感覚。
    (p21)
    フンボルト海流の影響で南米西海岸はこんな日が多い…のかな。でも、蚊とかクモの巣とか、リョサも巧みだね。

    次はp24の最初の段落。この小説のエクリチュール見てみよう。基本的にはここまでは語り手=主人公(一応等号にしといて)のサバラ(サバリータ)が自分に問い掛けるようなちょっと性急さも目立つ語りなのだが、なんかいろいろな次元の語りが特に断りもなく混ざり込んでいる。そんな感じ。このp24では「彼らは何も話さなずに食事をする」とあるのだけど、その後普通に読んでるとなんかいろいろ話してる?ヒントは「ー」の使い方かな。この「ー」に挟まれた部分は別の語りが一つ(前より少し遠くからの視点?)挿入されているのでは。
    まったくもって時間というものは人間を気づかないうちに飲みこんでしまうものなのだった。
    (p37)
    コップを満たし、自分のコップをつかみ、話をしながら思い出しているのか夢見ているのか考えているのか、あちこちにクレーターができている白い泡の円を見つめる。そのクレーターの口は音もなく開いて、金色の気泡を吐き出しては、彼の手の中で温まっている黄色い液体の中に消えていく。
    (p38)
    安食堂でビールを飲むサバラと何十年かぶりに会うアンブローシオという先住民と黒人の混血の男。ビールの泡の描写が先の雨のところと並んでゾクゾクする、とともに、なんか彼とアンブローシオとの間にあった何か、それらさまざまな思いがクレーターのように生成し消えていく。前のページの時間論と合わせて、そこに並存していた時間も消えていく…

    こうして昨日までに第1章49ページまで読み進めたのだが、この小説、「ラ・カテドラル」という酒場で二人が話し合う対話によって進行する、という前情報しかなかったけど、そこまで至るのがなかなか。新聞記者のサバラは家に帰ると妻から愛犬を無理やり黒人2人組が連れ去ってしまったと訴える。野犬保管所に行き、愛犬見つけると、そういう街から野犬を連れて行く係の男と会う、それがさっき出てきたアンブローシオで、サバラと彼の父親との何か確執に何らかの関与をしているみたい。随分話していたみたいだけど、その内容には全く触れないで、最後は半分喧嘩別れになってしまう…このままでは対話小説にならないので、次の展開を期待…
    (補足その1、最後まで読んだのだけれど、時間がかなり遅くなった(そりゃそうだ1100ページ以上も語っている(違う対話や回想も含んでいるけどね)以外には、特に喧嘩別れする要素はなかったけどなあ、それともここには最大の謎が絡んでいて、そこにサンティアーゴが触れたためなのかな→それについては下巻の最後を見てね。
    (2020 03/18 補足終わり))
    何の根拠もなく「ラ・カテドラル」ってまあまあの高い酒場だと思っていたのが崩れるし、読者への情報提供管理が絶妙だし。これも引き込まれますね。って、次何を本命にすんの?これ?「巨匠…」?「案内係」?それとも今日買った何か…
    (2020 01/03)

    昨日
    下巻を段ボール箱から出してきて、解説読めば、第2章冒頭の(すなわちこれから読むところの)「自由間接話法」の詳しい説明が載っている。この「自由間接話法」とはフロベールの「ボヴァリー夫人」で使い始め、ウルフらを経て、この小説ではかなり多用されている。「」付きの直接話法ではなく、地の文にはめ込まれているけれど、言った言葉が割と残存しているのが特徴。
    ーちょっと来てごらんソバカス、少し彼ら二人で話をしようではないか。二人は仕事部屋に閉じこもり、上院議員が、彼はずっと建築を学びたかったのだろうか? そうなんだよお父さん、もちろんずっと学びたかったのだ。
    (p50)
    ここでソバカスと上院議員は息子と父親。最初のソバカスと呼びかけているところ、それからお父さんと呼びかけているところは「」はなくとも直接話法。でも「少し彼ら二人で…」の文は自由間接話法。現実に話されていたのはたぶん「少し私達二人で…」だろう。地の文にするなら「彼ら二人で話をしようと提案した」くらいかな。
    次の「彼はずっと」のところもそう。最後の文は時制が「たかったのだ」と上の話し言葉的なのと混ざり合っている。
    人称にしても時制にしても、今までの翻訳だと、日本語ではここに挙げたように結構違和感あるので、意訳していたことが多かった。でもこの翻訳では、旦氏の決断により、この小説の構造と効果の根本であるこの自由間接話法を解消する方向にはしないこととなった。フロベールの小説を読んだ時に当時の読者が新しい技法に出会ってとまどった感触を味わってほしい。という方向。味わってみれば、新鮮で視線が激しく入れ替わり面白く読めるのだった…
    あとp59とp84ー85のアンブローシオ(p84はサバラ)の言葉は、何気なく挿入してあるけど、前の第1章、要するに「ラ・カテドラル」酒場での外枠の語りが紛れこんでいる。ただp60のアンブローシオの言葉はチスパス(サバラの兄)への言葉だから、これはまた違う時点の会話。
    …と、なかなか複雑なのだが、話自体は前読んだリョサの「子犬たち」みたいな馬鹿馬鹿しい青春性体験物語。この落差がまた魅力。
    (2020 01/04)

    第3、4章。
    第3章はオドリア政権支配者側の二人(この二人とアンブローシオは昔チンチャ(太平洋側の町)で仲間だったという。ここも(というかずっと?)、第1章外側のラ・カテドラル対話がところどころに埋もれているのだが、その「坊ちゃん」という呼びかけとは別に、もっと大きな割合を占める外側の語り「旦那」というのはどこの誰との会話だろう。アンブローシオが語っていて、相手はドン・フェルミン(サバラの父親)?
    (補足その2、下巻にある第4部後半で、アンブローシオとケタが対話しているのだが、そこでアンブローシオはドン・フェルミンに迫られることの繰り返しの中で、たまには?それなしで話だけする、アンブローシオにも話させることがあった、とケタに語っている。たぶんその時の語りなのだろう、ここは
    (2020 03/18 補足終わり))
    第4章は、またサンティアーゴの青年時代、わざと?庶民が通う学校に行ってコミュニスト仲間に入る。第3章の父親に反抗して「乳搾りの娘」と結婚したドン・カヨもそうだったけど、この反抗はこの小説の大きな主題であることは確かだろう。
    要するに人間誰しも、自分の置かれた境遇に満足できないわけですね
    (p156)
    (2020 01/07)

    「すると」
    「巨匠とマルガリータ」を読み終え、久しぶりにこっちに戻って来て、昨日は第5章。昔アンブローシオと「何か」あったアマーリアと「思い込みのアプラ党主義者」トリニダーとの悲恋物語。この章入って、エクリチュールのダイナミズムは増し、一段落、一文ずつ視点が変わっていく。
    …でもそのうち許してくれるわよ、と彼女を慰め、またあんたのことを求めて来るわよ、すると彼女は、あんなのもう大嫌い、死んでも仲直りなんかしないから、するとアンブローシオは、じきに彼らは喧嘩別れしたのだった、坊ちゃん、アマーリアは勝手に出ていって、その辺でまた男を作ったんです、するとサンティアーゴは、ああそうだ、アプラ党員だよね、するとアンブローシオは、それからだいぶ後になって、まったく偶然に二人は再会したのだった。その日の午後、リモンシーヨの家に帰ると、叔母は彼女のことを、ふしだら、非常識と呼び…
    (p166ー167)
    ここに引用した部分の最初と最後は、さっき書いたアマーリアとトリニダーの話なんだけど、「すると」の畳み掛けのうち、2番目の「すると」からは、酒場でのアンブローシオとサンティアーゴとの対話が表筋に出てきている。まあ、こういう外枠組みによる表筋の中断自体はままあるけど、一文の途中で入れ替わり、自由間接話法も織り交ぜられると、どちら側の臨場感も増す。それにじっくり読まないとどの時点の話なのかわからなくなってきて、上の文でも「まったく偶然に二人は再会したのだった」というのは、アマーリアともう一人が、アンブローシオなのかトリニダーなのかここだけだとはっきりしない…(通常読みだとトリニダーなんだけど、まだここまでの段階では、アマーリアとアンブローシオの間に何が起こったのか開示されてないから、アンブローシオなのかも)
    (ブクログの他の人のレビューで「落ち葉の堆積のような重層構造」ってのが書いてあったけど、全く巧い言い方だと思う)
    表筋では、もうトリニダーが病気で寝込んで嘔吐を繰り返すようになってから、前よりアマーリアのトリニダーに対する愛情が強くなった、というのが、ちょっと不思議で印象的。あと、トリニダーと妊娠してた子供の二人を相次いで亡くして(後者は死産)から、ゆっきり立ち直り始め、町の世話役みたいなおじさんの部屋で話をし始めるとかいうあたりも。
    (2020 01/26)

    第6章はサンティアーゴのサン・マルコス大学生活続き。
    マルクス主義活動にのめり込んでいくサンティアーゴだけど、同時にそれに浸り切れない自分を見ている。
     その二年目だったんじゃないだろうかサバリータ、マルクス主義は学ぶだけじゃダメで、信じる必要があるんだと気づいたときだったんじゃないだろうか? たぶんおまえは、信じることができなかったせいでダメになったんだサバリータ。神様を信じることができなかったせいですか坊ちゃん? 何も信じることができなかったということなんだアンブローシオ。
    (p204)
    この章の、また小説冒頭にも出てくる「サバリータ」という問いかけ、そして小説冒頭につながる「ダメになった」という認識だけど、ここの「たぶんおまえは・・・」の文だけはひょっとしたらサンティアーゴではなく父親のドン・フェルミンの言葉なのかもしれない。このちょっと後には明らかにドン・フェルミンの語りが挿入されているし。
    (2020 01/30)


    自分の中の虫
    しゃべっているのは別の人だったな、と彼は考える、おまえじゃなかった。前よりも少ししっかりした声、より自然な声だったなサバリーター彼ではなかった、彼ではありえなかった。中立的な高みから、理解し、説明し、アドバイスしていて、これは僕じゃないと彼は考えていた。彼は何かもっと小さな、いじけたもの、その声の下で小さく縮こまっているものであって、その場を抜け出して走って逃げ去ろうとしているのだった。
    (p221)
    この文章の前の数ページに渡って、彼の中の小さな虫という表現が数回現れて、このアイーダのハコーボからの告白を告げる言葉を聴いているシーンでまた現れる。
    ここの文章は、人称代名詞がころころ変わって畳み掛けているのだけれど、結局語っているのは、いつの時点の語りかは混在しているが、サンティアーゴ一人。めまぐるしさがリズムからも伝わるような。
    それから、このページの最後の行の「当然だ」というドン・フェルミンの言葉、それから次のp222のアンブローシオの「見捨てるんですね」という言葉は、どの文脈から来ているのだろうか。逃げ去ろうという辺りからの連想で挿入されているようだけど。
    (2020 02/01)

    第7章。
    移行的な章なのか。断片が行ごとに入れ替わり立ち替わり、どこの話なのか手探りで読み進める。でもおぼろげにわかってくる。中心の筋はトリフルシオという男が刑務所を出所して、チンチャに働き口を紹介されて向かう。そこには、彼の妻であったトマサとその間の息子アンブローシオ(そう、このトリフルシオというのはアンブローシオの父親なんだ)に会う。アンブローシオはちょうど仕事探しに首都に向けて出発するところで、2リブラお金を父にあげたあと、リマに出て第3章にあったようなつながりで、今は政府内部に入りこんでいるドン・カヨの運転手になる…というもの。
    (2020 02/03)

    第8章
    この国じゃ、ダメにならなかった人間は、他の人間をダメにする側にまわる。だから僕は全然後悔してないんだよアンブローシオ
    (p289)
    その点でも、オレとおまえはちがっている。若いころにこの身に起こったことなんか、オレの中からはもう消えてなくなっていて、オレにとって一番重要なことはこれから起こるんだ、とオレは確信している。おまえさんの場合、まるで十八歳のときにもう生きるのをやめてしまったみたいだ
    (p299)
    これはカルリートスがサンティアーゴに話している言葉…なんだけど、カルトーリスってどんな人物だっけ?

    第9章
    「ラ・カテドラルでの対話」は大統領選の前と後の交互進行に、前の章にあったトリニダーへの拷問と外枠対話等が絡む章。なんかドン・フェルミンが誰かの泣いてるのを聞いているのはどういう話なのか、まだよくわかっていない…
    (2020 02/08)

    第1部ラスト、第10章
    ここは物語が割とストレートに進む。これまでの筋がなだれ込む。そのメインはサンティアーゴとその仲間の逮捕と(サンティアーゴのみの)釈放。もちろん、父親ドン・フェルミンの仲介で(そこで父親の隣にいるドン・カヨの姿をサンティアーゴは初めて見る)、なのだが、「陰謀企だてる時にはもう少し利口にやれ」などとドン・フェルミンは言う。随分余裕あるというか寛大な父親の言葉だな、と思っていたら、「家の電話が盗聴されていたのはサンティアーゴの一件の為ではなかった」という。その夜に父親の部屋に入ったサンティアーゴはドン・フェルミン自身がオドリアとドン・カヨを陰謀で遠ざけようとしていたことを話す。この一件でそれが立ち消えになったことも。
    ここで、父と子は和解したように思えるのだが、これまでの章で切れ切れに語られてきたことから見て、その和解が続かなかったという展開になるのだろう。
    とにかく、この380ページくらいまでで、全体の1/4…
    (2020 02/09)

    アマーリア、ドン・カヨ、サンティアーゴ…
    「ラ・カテドラルでの対話」第2部第1章。4部ある部ごとに手法を変えている、とあったけど、第2部入ったらこれまでの細切れ挿入の重なり合いとは違い、3人の視点が、上でタイトルに挙げた順番で交代で語る。アマーリアが働く家の女主人オルテンシア(カヨの愛人)の入浴しているときろに立ち会う場面は、「継母礼賛」をちょっと思い出させる。肉体の感覚を大事にする作家でもある。
    (2020 02/12)

    しかし、結局行くことはなかったんだよサバリータ、で今ここでこうして、まるで妊婦みたいに腹がよじれて、じたばたしてるってわけだ。沈没して《ラ・クロニカ》にたどり着く前、おまえは何になろうとしてたんだい?
    (p442)
    第2部、2、3章。上の視点にドン・カヨの運転手兼下働きになったアンブローシオの視点も加わる。
    オルテンシアとセニョリータ・ケタはどうやら同性愛関係でもあるらしく、そこにアマーリアをも引き込もうとする。ドン・カヨの筋では新聞の責任者に脅しをかけていて、解雇させると約束させていた記者というのが、サンティアーゴなのかカルリートスなのか、とその次のサンティアーゴの筋に緊迫しながら読んでいくと、それはカルトーリスの前歴だったことが判明する。この4つの筋は同時進行ではなく、斜めに歪んでいるわけだ。アンブローシオのは、他のドン・カヨの手下ともに言うこと聞かない人を殴ってる…なかなか登場人物も一筋縄ではいかない。
    で、前に「カルトーリスって誰?」って書いたけど、ここでいろいろわかってくる。この小説はサンティアーゴとアンブローシオの外枠の対話がある(この第2部では忘れかけた頃に時々挟まれる)のだが、その内側の対話として、《ラ・クロニカ》の記者仲間のこの二人の対話が機能している。詩を書いていたというカルトーリスは、この対話の現在、詩はやめて、パリにも行くことはなく、アル中と麻薬中毒で沈んで行く。この小説内で強烈に印象的な場面になりそうだ。
    (2020 02/16)

    「ラ・カテドラルでの対話」第2部第5章
    アンブローシオがオルテンシアのところにいるアマーリアに逢いに来た場面から。
    彼は叱責される危険を冒してわざわざ会いに来ているのだが、おまえはそういう態度をとるのかいアマーリア。昔あったことはもう終わったことでありアマーリア、もう消え去ったことなんだ。最近知りあったばかりなんだって思ってくれればいいのにアマーリア。
    「同じことをまたあたしにするつもりなの?」とアマーリアは、自分が震えながら言っているのを聞いた。「そうはいかないわよ」
    (p494)
    この章が始まってからずっとアマーリアの視点で描かれてきて、「彼は…」という文もアマーリア側からの文だと思って「おまえは…」というところもアマーリアの内面独白なのかと思っていると、次々現われる「…アマーリア」のリフレインはアンブローシオの言葉が地の文で現れている…から、何処から反転したの。果たして「おまえは…」の箇所はどっち?それとも双方に被っている?
    続いての「」付きのアマーリアの言葉では、自分が言っているのを聞いた、と他人行儀な文になっているのが効果的。恐らく、さっきの「おまえは…」と同じで、アンブローシオを断っているアマーリアを認めない別のアマーリアがいるのだろう。
    「君の親父さんには、凡庸さに対する恐怖感があるんだよ」とクロドミーロ伯父さんは笑った。「僕と頻繁につきあっていると、伝染病がうつると考えているんだろう。…
    (p511)
    また別の対話相手、クロドミーロ伯父さん(たぶんソイラ夫人の兄だと)。自分も含めて実際に凡庸かそうではないかは別として、そういう凡庸恐怖感というのは誰にでもあるのではないかと思える。
    というのも、ときどき、僕も考えてみるんだが、僕には重要な出来事の思い出というのがひとつもないんだ。
    (p511)
    自分にも…というのはともかく、あれ、これに似たようなこと誰かが言ってませんでしたっけ。p299のカルトーリスの言葉かな。でも、サンティアーゴとカルトーリスとクロドミーロって、微妙にそれぞれ違っているようで。この辺は(も)後の展開に期待、要深読みポイント。
    ちなみにこの第5章での並行筋のうち、ドン・フェルミンとドン・カヨの筋は他の筋より時間的にかなり前の筋のもよう。このねじれ感覚が快感になれば、この小説の流れにはまったといえるのだろう。
    (2020 02/19)

    もう一箇所ちょっと引きたいとこあったんだけど…
    全身の毛穴が燃えあがるのを感じるのだ、肌の幾百万という極小の噴火口がじくじくと膿を吐き出しはじめるのを感じるのだ。
    (p572)
    相変わらずこういう肉感的な表現巧いんだけど、ここの節にはドン・カヨの公生活と私生活が裏表立ち替わり織り込まれている。読んでいてここもスリリング。他の節ではアマーリアとアンブローシオの結びつきとか、サンティアーゴの下宿を訪れた兄チスパスとか、それぞれに展開する、その背景にアレキパで起こった革命騒ぎが焦燥感を煽る。
    (2020 02/25)

    行きの電車内で上巻読み終わり…
    彼はため息をつき、オルテンシアをどけて、立ち上がると、彼女らを見ることなしに階段をのぼった。突然実体をもった幽霊が、背後から飛びかかって、人を突き倒すのだ
    (p614)
    この文章こそ「突然」現われる。いきなり挿入されるここはドン・カヨの追放を暗示しているようにも思えるが、それ以外にもあるような。
    女たちは口をきかなければいいのに、と彼は考え、決意をこめて鋏を握りしめ、静かな一切りで、チョキンと、二つの舌が床に落ちるのが見えた。彼の足下に、ぴくぴくともだえる二つの赤くて薄べったい小動物が転がって、絨毯を汚していた。
    (p620)
    オルテンシアとケタの同性愛はこの作品のテーマの一つなのだが、最初は気づかれないように、しかし第2部の終わりのこの辺りまでくるとかなり大胆に中心に居座ってくる。で、第2部はいろいろな時点のいろいろな視点が並行して始まったのだが、最後はドン・カヨの追放・ブラジルへの逃亡(オルテンシアにも前もって知らせることはなかった)に焦点を合わせてくる。
    (2020 02/26)

  • 幾重にも落ち葉が積もって、美しい落葉の風景が広がるように、物語が進む。
    ウィリアム・フォークナーのように文字フォントが変わるわけでもなく、一行ごとにといっても過言でないほどに、話し手や時代が変わる。テンポになれるまで、なかなか物語を掴みづらいのは事実。
    しかし、少し辛抱して読み進めると、積もった葉が総体となって大きな景色を作りあげていっていることに気づけるはず。

  • いつも沖縄に出張にいくときにラテンアメリカの文庫を携えるようにしているが、最初、上巻だけ持って行った。
    面喰らいながら書いたメモが、以下。


    複数の会話が入り乱れる。時間の混乱。しかし似たトピックを話していたり、連想的に響きあったりすることもある。
    地の文においては、彼がいうのだった、と人称の妙。
    地の文は会話文で中断されなければ原則的に改行なし。
    おまえは何々だったなサンティアーゴ。と、作者の声なのか、サンティアーゴの自問自答なのか、も地の文に紛れ込む。
    地の文においても、たとえば208ページ、もちろん構わないのよ、いいことだと思っているのだった。と、直接話法?と間接話法?が入り混じる。

    自分(そして国)はダメになってしまった、遡ればいつからだったか?あのときだったのだろうか、と話しながら度々考えている。
    全体小説を書きたいと思った時、こういう文体と形式を選ばざるを得なかった。ボヴァリー夫人なんかは単純で純朴だ。
    ところで、アンブローシオが坊ちゃんに話しかけるだけでなく、旦那さんにも話しかけているが、誰?=たぶんフェルミン>108p。

    ※もっと分析を頑張るならば、地の文でこういう話、そこに混入するのは誰と誰の会話でどういう内容か、まで。
    また、各人物ごとにエクセルなどで時系列のマトリックスを作るのもおもしろいかも。


    上巻を読み終えてから下巻の訳者解説を読んで、面喰うのも無理はないと納得した次第。
    読み終え、各章ごとのあらすじをまとめ、登場人物の表(B5にたっぷり!)を作り、もっと分析したいと思いつつも果たせないので、いったんここで感想を書くことにする。

    ざっくり言えば、過去を悔いている(自分は、そして国は、いつから駄目になってしまったのだろう、という問いへの執着ぶりが独特)青年が、かつての実家の使用人と再会し、ラ・カテドラルという酒場で飲みながら対話する、という大枠。
    四方山話噂話過去話などなどが入り乱れ入り混じり読者は渦に巻き込まれていくが、中心にあるのは「(息子にとっての)父を巡る謎」。

    視点人物であるサンティアーゴの父は、政治にどっぷりの商人だが、ある種のセクシャリティを隠しており、ある殺人事件を機に息子が探り合ってしまう。(「間抜けのふりをするのはやめてくれ」「二人で率直に、ムーサについて、父さんについて、話をしようじゃないか。彼に命令されたのか?父さんだったのか?」という序盤の台詞が、後半に効いてくる)
    次の視点人物であるアンブローシオの父は、ムショ帰り。青春期の息子がいる家に帰り、息子の性格を曲げてしまう。
    さらに政治的重要人物であるカヨも、禿鷲と綽名される金貸しの父を持つがゆえ、独特なセクシャリティを持つ。

    というように、父ー息子ー政治や権力ー性、というテーマがあり、そこにアンブローシオの妻となる使用人のアマーリアや、差別意識の強いサンティアーゴの母や、カヨが囲う愛人のオルテンシア(=ムーサ)やが緊密に絡んでくる。もちろん性がかかわれば男女両面ひっつくのは当然なのだが。
    政治劇と個人劇がつながるのが性、というのは、下衆だが、吉本隆明や埴谷雄高を連想したりもした。

    ネットで感想を漁っていると、火サスをタランティーノやゴッドファーザーPART2っぽく書きました、という例えがあって、膝を打つ。
    「緑の家」と較べるとスケールの小ささは否めないが、むしろ日本の学生運動を連想したり、家庭の権力性を考えたり、と、自身に引き付けて考えるきっかけになるのは、こちらかなと思ったりもした。

  • 独裁社会についての予習をはじめる。
    1-VIは大学の話。

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