- Amazon.co.jp ・本 (126ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003300114
作品紹介・あらすじ
一般に「花伝書」として知られる『風姿花伝』は、亡父観阿弥の遺訓にもとづく世阿弥(1364?‐1443)最初の能芸論書で、能楽の聖典として連綿と読みつがれてきたもの。室町時代以後日本文学の根本精神を成していた「幽玄」「物真似」の本義を徹底的に論じている点で、堂々たる芸術表現論として今日もなお価値を失わぬものである。
感想・レビュー・書評
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室町時代の能楽師・世阿弥が能を行うにあたっての精神や心得をその芸術論とともに家伝として遺し伝えられたあまりにも有名な秘伝書。
完成形は全7編によりなり、特に第7編目の『別紙口伝』は一代一人相伝と記されていて、例え一子であっても器量が無ければ伝えてはならないとしている。
全7編の概要は次の通り。
第1編『年来稽古条々』一人前の能芸者になるまでに辿るその年齢に見合った練習の仕方と境地を記載。
第2編『物学(ものまね)条々』女、老人、法師、修羅などその役柄に合わせた演じ方を記載。
第3編『問答条々』緩急や陰陽などを踏まえた演じ方や、相手に合わせた変化、慢心の禁止、花・幽玄・風情など世阿弥ならではの能芸術論を問答形式で論じる。
第4編『神儀云』申楽(さるがく=能)の歴史を記載。
第5編『奥儀讃歎云』本作を記すに到った背景を記載。本作を『風姿花伝』と名付けている。
第6編『花修云』能の極意を記載。優しい言葉を選ぶこと、珍しい風体になること、音曲と風情を合わせること、能には強き・幽玄・弱き・荒きがあり強きと幽玄を行うこと、稽古を重ねることで年老いても花は残るなど。
第7編『別紙口伝』能が目指すべきは花、そして毎回珍しいものを演じること、物まねはちょっとズラして真似た方が面白い、あらゆる物まね芸を修得すればそれは引き出しになる、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」、因果を知ること、など能の最終奥儀を記載。
有名な言葉「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」(パンチラのようなものか?)にもあるように、本書で世阿弥が能(申楽)に一貫して求めていたものは「花」である。美しい、珍しいといって観賞されるが、やがては散ってしまう花のようにあるべきだとする。また、そもそも芸能とは諸人の心を和らげて感動を与えるもの、寿命増長の基となるものであるとした上で、珍しい風体をして優しく柔らかく、時にはその役に相応しい強さをもって演ずれば観客に面白く受け入れられるとしている。
現代では古典芸能として知られる能(申楽)であるが、こうしてみると、いかにすると観客を面白さで惹きつけることができるかということがまず考えられていて、1人前のプロとして大衆心理を踏まえた演出と演技を求める内容が大半を占めているように思われる。その中で、世阿弥が考える芸の美学の追求としての「花」が結び付けられ、実際面として「幽玄」や「風情」「物まね」「珍しさ」「緩急」「陰陽」などのキーワードで彼なりの芸理論が語られるのである。
そして、舞台装置の妙や役稽古ついてや音楽と舞の同期合わせなども含め、ひたすら芸のあり方・やり方を熱心に考え、どうやって観客に面白がってもらおうかと考える姿は、時空を超えてとても真に迫って感じられるものであり、なかなか興味深いものであった。
本書の趣旨はこうした芸の奥儀を家伝として彼の家へ相伝することにあったが、あまりにも熱心に追求し過ぎたため、それが「花」という美学への昇華とか、パンチラの推奨や微妙にズラした物まねの方が面白いなど人間心理をつくものであっただけに芸術論にまで高めることができたといえる。しかし、こうして家伝として秘密に伝えられることになったが故に、時代の移ろいとともに大衆受けする芸能から切り離され古典芸能となったことは、世阿弥の芸術感性の確かさを表すとともに、世阿弥が目指した面白さの追求からはかけ離れることになってしまったともいえる。
世阿弥の芸に対しての強い想いの息吹が伝わってくるかのような作品である。
ところで、パンチラを技にできるなんて、あるいは美少年だった世阿弥だからこそできたともいえないだろうか?(笑) -
戦国炒飯テレビという番組のYoutube版でking能というユニットが歌う『風姿花伝』を聞いて気になって、購入してみました。もちろんKing Gnuのパロディです(https://youtu.be/DnvDpAwNgpA)。
非常にざっくり言えば、前半はどういう年齢でどういう稽古、心持ちをすべきなのか、後半はどの場面でどのような芸を披露すべきかといった論評になっています。大成した芸=「まことの花」はその時その時に場面に応じてたち現れるべきものであり、常にどの場面でも「これが最高の演目だ」と言えるようなものはないのだというのです。確かに、仕事をしていても、どんな些細な場面にも最高のスペックを求める人などあり、それが原因で反感を買ったり、逆に非効率になったりしていますね。
あるいはジェンダー概念と結びつけた論評も面白いかもしれません。性というのは同様に、固定化されるものではなく、その時その時でときと場に合わせたち現れてくるものだからです。芸事と違うのはこちらからそれを提供すべきなのかどうかということでしょうか、政策で考えるといいのかもしれません。常に細かいジェンダー分類をもとにした施策を考えるのではなく、あるときは二元論、またあるときは多元論、またまたあるときは連続論など……
さて、まことの自分とは何なのでしょうか(特に深く考えずに書き散らしてしまいました)。
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思っていたよりも読みやすかった!
と言ってももちろん、内容や文章が全部理解できたわけではなく、ぽつぽつ「こういうことを言っているのかな」と思ったってだけだけど。
同時並行で読んでいる『和泉式部日記』よりは断然わかりやすい。
もう手元には無いので、覚えている分だけメモ。
・誠の花
・花は心なり、種は態なり
・強き、幽玄、弱き、荒き
・陽気、陰気
・神楽→示す偏を取って「申楽」
・秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず
・人の心に思ひも寄らぬ感を催す手だて、これ花なり
他にもあった気がするけれど、とりあえず興味深い本だった! -
芸に生き、花を求めつづける世阿弥の姿。
ひとを写し取り、真似る能というもの。芸を志さねば、風の姿も、伝える花もいらない。芸とはそういうところにあるものだ。能について詳しくはないが、たくさんの芸術家がいた中で、彼だけがその本質を知りえていたに違いない。しかし、それをかつて達成したしたと思えるのは父、観阿弥のみであって、いかに道が険しいのかということを同時に知ってしまったにちがいない。門外不出にしたのもなんとなくわかってしまう。
美しさというもの、幽玄というものは決して弱々しいものではない。彼にとって強さとは、それがそれ自体で成り立つものだ。独立。現実現象。どのような場におおいても移り変わらぬもの。弱さ、荒さはそうでないもの。弱いのに強く見せる。もともと強いのに強く見せる。
しかし、それはおおよそ、ひとが手を加えて真似る能という芸術のあり方からすると、ほぼ不可能なのだ。物狂いや鬼を能として取り上げる以上、そこには、恐ろしさや狂気をそういうものとしてみせなけえればならないのだから。
それゆえ、場の空気やみせる順番、時節、文字の精神、稽古、技能というものがあるのだ。そうして、シテそれぞれの決して失われぬことのない「花」ができあがり、それが「風」となって伝わっていく。これは、いくら言ってもわからぬものだから、言わぬ。稽古の中で自らが知っていくものである。世阿弥曰く、そこまで至るのに30年。
それでも、花が続くかどうかは時の運次第だから、稽古はずっと続いていく。おそらく、この稽古というものは、舞台の練習にとどまらず、文字に触れたり、時節の移ろいに触れることなど、生活そのもののことなのだと思う。
能の始まりは、ひとの心を慰めたり、喜ばせたりするものだ。それをみたからって腹が膨れるわけでも、のどの渇きが癒えるわけでもない。けれどそれはずっと昔からひとに求められたから在る。なんと不思議なことではないか。始皇帝の生まれかわりとか、伝説のような能の始まりはたぶん、こういうひとの心性によっているんだと思う。
花とは、ひとが生きて在る、そのことだ。土を肥やし、適した時期にいい種を蒔く。どんな花が咲くかはわからぬ。そもそも、ちゃんと花が咲くかもわからぬ。それでも、種を蒔かねば花は咲かぬし、美しい花をみたいと望まれているから種を蒔くのだ。花は心。それは花となるひと、花をめでるひと、すべてに共通するものだ。心とは、思うと同時に行ってもいる。この風姿花伝は理論と実践というわけかたでは、決してない。便宜上、稽古とか技能ということばは使っているが。世阿弥にとってそれはどちらも同じことだった。それこそ、世阿弥によって咲いた花だった。 -
古典かつ平安でもない時代で読むのが難しすぎました。一般の方は現代語訳をオススメします
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なかなか読了まで時間がかかってしまった。
申楽の由来とか
神儀に曰くとからへんはスッと入ってきた。
インドでの言い伝え、日本での言い伝え。
能を鑑賞したい気持ちMAX!!!
日曜しか都合がつかない。
となると小学生の子どもがセット!
Youtubeで能をみせて興味をもたせようとするも
逆に「不気味。こわい。」と一蹴され
じゃあ勉強しておこうという思いで読みました -
ビジネスとアートの世界をどう両立させるのかについての示唆が得られる。
いわゆる素人ウケと玄人ウケをどう両立させ、
時流に乗るのかについてなど現代にも通づる
「見せ方」を学べた。 -
世阿弥による、秘伝の書。「秘すれば花なり」「初心忘るべからず」など。父から受け継いだ能の奥義が記されています。
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言わずと知れた、世阿弥が亡父の観阿弥の遺訓を元に書き記した能楽書。その中身は能だけの世界ではなく、芸術においても、はたまたビジネスにおいても、現代で重宝される人生論といっても差し支えない本になっている。そしてタイトルが良い。非常に美しい。
この岩波文庫は現代訳がついていないのだが、ゆっくり読めば書いてあることは分かる。何より、本書の文章は読んでいて気持ちが良い。滔々と綴られる能芸論は、それこそ花を見るかのように安心感がある。
なるほどと思った箇所は、「誠の花、時分の花」。誠の花とは稽古と工夫を極めたところに成立する、散ることのない花。時分の花とは若い時に現れ、年齢が過ぎれば散っていく花。つまり稽古と工夫を積み重ねなければ、20歳過ぎれば只の人ということだ。当然これは能だけではなくて、自分の現在の分野においても誠の花を咲かせられるように稽古と工夫をしよう。
名声の得かたについても面白いことが書かれている。目利きに対してだけではなく、目利かず(ものを見る目のない人)に対しても面白いと思わせなければならない。この工夫と達者を極めた人が、花を極めたと言える。この位になると、年をとっても若き花に劣ることはない。つまり、道を極めた人は、その分野に精通していないに対しても面白さを与えることが出来なくてはいけないということだ。行うのは非常に難しいが、確かにそれが出来れば名は広まる。
有名な一説である「秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」は奥が深い言葉だ。簡単に解釈すると、見た人を驚かせるには、これから驚くことしますよと言ったり思わせたりしてはいけない。全て心の内で閉まっておき、見ている人には心の内さえも感じさせずに驚かせる、となる。ただ難しいのは先の一説の後に「この分け目を知ること、肝要の花なり」と続く。何を秘するのか、その人にとっての花は何かで変わる非常に難しい奥義となる。
最後の別紙口伝では、花を知り、花を失う。「人々心々の花なり。いづれを誠にせんや。ただ、時に用ゆるをもて、花と知るべし」。良き悪しきは、何を持って定めるのか。用足るものを良きものとし、用足らぬものを悪しきものとする。その時の好みによって、花は代わり、それが良い花となる。 -
能の世界にはまったく無縁のわたしであるが、この世阿弥の芸人道の書には深い感動をおぼえた。
道を極めるという意味ではわれわれサラリーマンの仕事もまた同じである。
「花」というものは人を惹きつける力ということ。仕事をしていくうえでもこの「花」というのは必要である。ではこの「花」というのはどうすれば身につくものなのか。若者には「花」というのは備わっている。だがその「花」は「真(まこと)の花」ではなく、歳をとれば自然になくなってしまう「花」である。だから「真の花」を身につけろ。
世阿弥は、ただひたすらに稽古に打ち込め、と説く。理屈ではなく、理念でもなく、体で技で「花」のなんたるかを会得するしかないのだ。
社会に出てからただ愚直にひとつの仕事をこなしてきたわたしにはこの書に共感ができる。
【このひと言】
〇秘すれば花なり
〇初心忘るべからず
あまりにシュールな表現に、ドキッとしましたが、GOODです!
技とするなら、スマタじゃないですか?
あまりにシュールな表現に、ドキッとしましたが、GOODです!
技とするなら、スマタじゃないですか?
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/
ははは。イマジネーションの現実感としてはそうかも。(笑)...
コメントいただきありがとうございます!(^o^)/
ははは。イマジネーションの現実感としてはそうかも。(笑)
反面、技としては予定調和的過ぎるかもしれません。(笑)