新訂 福翁自伝 (岩波文庫 青102-2)

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  • 岩波書店 (1978年10月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (330ページ) / ISBN・EAN: 9784003310229

みんなの感想まとめ

この作品は、福沢諭吉の自伝を通じて、彼の波乱に満ちた人生と時代背景を鮮やかに描き出しています。明治31年に65歳の福沢が語った内容を基に、彼自身が加筆したこの自伝は、江戸末期から明治にかけての歴史的出...

感想・レビュー・書評

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  • 氷川清話と同じく、「風雲児たち」(みなもと太郎著)、しいてはみなもと太郎先生のお陰で、「一万円札」という印象しかなかった福沢諭吉の前半生を知ることが出来ていたため、見た瞬間に簡単に手に取ることが出来た。
    福沢諭吉、その彼の父は、解体新書を訳した前野良沢がいた中津藩の下級武士であった。
    父、百助は謹厳実直な人間であったが、封建社会の壁により、心労が重なったのも相まってか、好きな酒によって死亡してしまった。
    福沢諭吉は子供時代、貧乏でありながらもいたずらっ子として、様々なことをしてきたと言う。
    例えば、木の上から枝に乗ったミミズを持ち、人が来たところを脅かす。
    神社などにあるご神体を石ころと取り換える。
    家にある神札にネズミの小便がかかっており、「本当に利益があるならこのような扱いはしないだろう」と思い、踏みつける(さすがに人前ではしなかった)など。
    私は、そんな子供時代を過ごした人物が、「学問のすゝめ」という本を書くなど、関連性が全く思い浮かばず、疑問に思うばかりでした。
    ですが彼に来た機転、それは長崎遊学、というもの。
    当時はペリーが来たばかりの時代、多くの若者が、言ってしまえばペリー病になり、砲術熱にとりつかれていた。
    その時に、兄の三之助は藩命で長崎遊学に行くこととなり、兄いわく、福沢諭吉が願い出るならば、行きたければ長崎遊学へ行くことを願い出ても良いという話である。
    福沢諭吉は恐らく迷わずに行くことにした。
    それは、その中津藩での封建社会で、平凡に封建社会の苦しみを受けながら生きていくことを拒んだからである。
    彼はその後大阪へ行き、緒方洪庵へ学びに行った。
    当時、緒方塾(適々斎塾、長ったらしいので適塾と言う)は、日本一の蘭学塾と言われており、そこに入っているだけで貫禄がつくのであった。
    しかし、福沢諭吉は全く知らなかったという。
    余談、適塾には手塚治虫(本名手塚治)の曽祖父、手塚良仙が居たらしい。
    とりあえず、蘭学界のトキワ荘へ入った福沢諭吉は、たちまち頭角を現した。
    その後、有名な4代目桂川甫周の曾孫、7代目桂川甫周の紹介で、彼は日本初の使節団、遣米使節団の一員としてアメリカへ行くことができた。
    どうも遣米使節団というと、勝海舟や、そして福沢諭吉、咸臨丸などを思い浮かべてしまうが、公式な遣米使節船は、黒船、ポーハタン号のみである。
    なお、正使は新見豊前守正興である。
    アメリカでの福沢諭吉は、かの有名な写真を撮ったり、ホテルの豪華な絨毯を土足で踏むことに躊躇したり、ガス灯の明るさに感心したりしているということを、当時の彼の友人が語っているのだが、本書では、「私は適塾時代に化学実験をいくつもしてきたから、それをちょっと大がかりにした装置なんかこっちはちっとも驚きはしない」と述べているため、少し信用できないところもある。
    ですが、単に記憶違いなだけかもしれませんし、そこを嘘ついているからと言って全てを信用しないのではなく、なぜこの本をここまで読む人がいるのか、ということ。
    私は、本書の一部分を言いましたが、少なくとも、これは私の人生に多大な影響を与えると思います。
    この本には、福沢諭吉を教育した、母、お順、つまり教育学。
    他にも科学、本人の体験、社会学、経済学、封建社会や、江戸時代、明治時代の情勢や、福沢諭吉の視点から見る偉人などが書き記されており、彼の人柄を知ることで、また新たな視点で本を読むことができると思います。
    本当に良い本でした!

  • 今回(2024年)1万円札が渋沢栄一氏に変わった。それでなんとなく、これまで万札のシンボルだった福澤諭吉さんの伝記を読んでみたくなった。「福翁自伝」には、「幼少の時」から「老余の半生」までが、徒然につづられている。

    両親から受け継いだ頭脳は、遺伝子的にも優れた頭脳だったんだろうなと思うが、その頭脳に本格的にスイッチがはいったのは、14~5歳のころという。それまでの読書嫌いが、漢書にハマってしまい、それまで眠っていた好奇心が一気に爆発する。経書、論語、孟子、詩経、書経、蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子、史記、前後漢書、晋書、五代史、元明史略などを次々と読破、特に左伝は全巻を11回読んで、ところどころをソラで言えるほどになったという。やはりただ者ではない。

    これを機に、学問一筋に進むのかと思いきや、この福沢諭吉という人は、そんな単純な人ではなかった。破天荒な自由人というのが印象だ。かと言って、決して自分というものを失わないし、結局のところ自身の信じるところを生涯貫いた人であったという印象である。

    青春期の21歳で、長崎遊学の際、洋学(蘭学)と出会う。これが福澤の人生の基盤となる。さらに学問を究めるため江戸進出を決意するものの、なぜか運命の女神は(女神は兄だったか)、彼を大阪にとどめる。彼は緒方洪庵の適塾に学ぶこととなるが、ここでの生活がまた福澤の人生の基盤を骨太にしていく。

    適塾での生活で、彼の破天荒ぶりは絶好調。特に彼の大酒のみは、この頃から定着しつつある。この時期のちょい悪武勇伝が自伝にもオンパレードだ。

    次の節目の歳=25歳では江戸へ出る。ここで関心は、蘭学から英語へとシフトしていく。彼の人生は、あたかも彼の成功の人生のためにあらかじめ計画されたようなプロセスで進んでいく(というより彼がそのシナリオを描いていったのだと思う)。

    英語をマスターすれば、次は海外視察の機会を得る。あの咸臨丸でのアメリカ渡航の一員として、乗船に加えてもらうチャンスをものにする。海外初渡航によりまだ見ぬ世界を見るという好奇心と、渡航に失敗して海に沈むかもしれないという恐怖心と、その二つのはざまに普通の人間なら葛藤があるかもしれないが、福澤にはまったく恐怖心なく、ただ好奇心が100%あるのみ。自ら乗せてくれと志願する。

    その後もヨーロッパ諸国へ出発する使節団の一人としても選ばれ、益々、見聞を大きく拡大する機会を獲得するのである。先進諸国の実態を目の当たりにし、何もかもが遅れている日本の実態を知ってしまい、ともかく当時の日本の鎖国思想や攘夷思想を徹底的に嫌悪するようになった。世界の実態を知ってしまった者の当然であろうと思う。

    こうしたなか、福澤は幕府軍か政府軍かという世間の動乱のさなかでも、むしろそような戦いに若者を巻き込ませたくないという発想から、若者に洋学の授業を進めていく(戦争中も休校なし!)。自身の価値観をしっかり持って、信じる道にわき目もふらず突き進んでいくというイメージだ。それが現在の慶應義塾大学へとつながっていく。

    生涯を通じて彼は、自分の心に忠実に生きたという感じがする。時勢に流されず、つくろわず、また人としての醜い部分に染まらず・・・と。彼は、権力というものが大嫌いだった。意味もなく偉そうにする役人の姿に嫌悪を覚え、彼は新政府の役人に推されても、絶対になろうとしなかった。

    彼の自伝には、非常に多くの人物が登場する。それだけ様々な人物との交際が広く活発だったということだ。しかもそれらの人々との接し方が、真に平等そのもの。上とか下とか、そういうものが彼には最初から存在しないかのようだ。この一点だけでも尊敬すべき偉大な人物であると思う。

  • 再読。福澤諭吉といえば今や一万円札の代名詞。『学問のススメ』を書いた人だというのは一般的に知られているだろうけど、それ以外のことはあまり知られていない気がする。というか、自分も二十数年前に幕末オタクの延長でこの本を読むまでずっと知らずにいた。天保5年、豊前中津藩(今の大分県中津市)の下級武士の次男として大阪(父親の勤務地)で生まれる。ちなみに幕末の有名人で天保5年生まれといえば新選組の近藤勇。坂本龍馬と土方歳三は一つ下の天保6年生まれ。

    本書は明治30年64才のときの口述筆記。もとが口述なので口語文でとても読み易い。子供の頃からお酒が好きだったというのはちょっと驚き。芝居など遊行には興味なく、長じてからも女遊びの類は全くしなかったそうですが、お酒だけは幼少時から大好きでどうもこうもやめられないと(笑)意外な一面。逆に神も仏も子供の頃から一切信じないというのはいかにも現実的で、らしい。それでお稲荷さんなどのご神体を盗んで別の石にすり替えたり、他人が願掛けした内容を盗んできて読んで笑ったりなど、ちょっと罰当たりな悪戯も多々。

    次男の気楽さで19才で長崎へ遊学。藩のエライ人とそりが合わず国に帰らされそうになるが反抗して大阪へ。そこで蘭学者・緒方洪庵の適塾へ入塾。この適塾時代のエピソードも男子校の男子寮みたいなノリで面白い。もちろん勉強も一生懸命しているのだけれど、たとえば諭吉が禁酒を決心して我慢していると、まわりの仲間はなんとか挫折させようと誘惑してくる。あげく、禁酒してるなら代わりに煙草くらい吸えばと勧められまんまと乗ってしまった諭吉、嫌っていた煙草に嵌ってしまい愛煙者に、さらに禁酒も破れて酒は飲むわ煙草は吸うわで余計にダメ人間に。

    そうこうしているうちに藩命で蘭学塾を開くために江戸へ。安政7年(万延元年)、幕府の軍艦・咸臨丸のアメリカ渡航に同乗して、初のアメリカ旅行体験。有名な、可愛いアメリカの女の子(※写真館の娘だったらしい)と一緒に写ってる写真はこのときのもの。帰りにハワイでカメハメハ大王にも会うが野蛮人扱いで悪口しか書いてない(苦笑)半年弱で帰国したら井伊直弼が暗殺されて年号も変わってる・・・。

    しかしその能力を買われた諭吉は幕府の外国方(翻訳局)で採用され幕府お雇いの身に。文久2年には再びヨーロッパへ渡航。約1年後帰国したら、攘夷熱がさらに悪化して西洋帰りの洋学者というだけで攘夷浪人に命を狙われる日々。長州も薩摩も勝手に外国と戦争おっぱじめちゃうし、でも苦情は幕府に持ち込まれるしで、その諸々を翻訳しなくちゃいけない諭吉も大わらわ。そういえば渡欧先で外科手術の見学中に血をみて失神しちゃうエピソードは可愛かった。可愛いなどというと不遜だけれど、諭吉は血が苦手で解剖実験なども逃げ回っていたらしい。もし平気だったら当時蘭学を勉強するのはやはり医者が多かったろうから医者になってたかもね。

    慶応3年、軍艦ストーンウォール号の受け取りでまた半年ばかり渡米、戻ってきて明ければ慶応4年はもう明治元年。この頃に蘭学塾の名前が正式に慶応義塾となる。維新政府からは当然、政府で働かないかとお誘いがしつこくくるが、立身出世に興味がなく権威が大嫌いな諭吉は悉く断り塾に専念。この辺は本当に当時の人としては貴重な潔さ。

    そもそも中津藩は地味な藩ではあるが、幕末時期どこの藩も開明派と保守派で殺し合うようなことをしていた時期に、諭吉に藩内で出世したいという野心があればお殿様に取り入り改革を進めるなどということも不可能ではなかったわけで、そういうことに一切興味がなくただただ自分の勉強だけが大事という諭吉かっこいい。そもそも開国派の諭吉は攘夷浪人が大嫌い、では開国をすすめた幕府の肩を持つかというと門閥主義が大嫌いな上に幕府は実際には攘夷派、つまり勤王攘夷か佐幕攘夷かの違いだけで世の中ほぼ攘夷の時代、どちらの味方でも敵でもない。開国して勉強さしてくれればそれでいいというスタンス。

    幕末の有名人では、実は奥さん同志が遠縁だったという榎本武揚の助命にこっそり裏工作していたエピソードなどは意外だった。長州の大村益次郎、薩摩の寺島宗則などは長崎、適塾時代からの洋学仲間、ただ大村益次郎は長州が攘夷でやかましくなってからは別人のようになっていてショックだったらしい。明治14年の政変では大隈重信の黒幕と誤解されたが潔白を主張。政治的野心のなかったところが福澤諭吉の最大の魅力だと個人的には思う。

    • ノブさん
      お読みになったことあるかもしれませんが、司馬遼太郎の「花神」で大村益次郎の洋学仲間として福澤諭吉も登場します。これがちょっと感じ悪いイヤな奴...
      お読みになったことあるかもしれませんが、司馬遼太郎の「花神」で大村益次郎の洋学仲間として福澤諭吉も登場します。これがちょっと感じ悪いイヤな奴として描写されていて、ひょっとして司馬遼太郎は福澤が嫌いだったのかなあ、と。笑。
      あくまで想像ですが。
      福翁自伝は未読なので、これを機に挑戦してみます。
      2018/04/12
    • yamaitsuさん
      ノブさん、こんにちは(^o^)
      司馬遼太郎の「花神」随分昔にですが読みました!福澤諭吉も登場していたのですね、もうあまりよく覚えていなかっ...
      ノブさん、こんにちは(^o^)
      司馬遼太郎の「花神」随分昔にですが読みました!福澤諭吉も登場していたのですね、もうあまりよく覚えていなかったです(^_^;)

      司馬さんはちょっと変人で極端なキャラクターのほうが好きな気がするので(大村益次郎はもちろん)要領が良く無難に生き延びた福澤諭吉のようなタイプはあまり好きではないかもしれませんね。
      2018/04/13
  • 濃い生涯だ。

    > 「語るに値する生涯が、自らその生理を生きた、すぐれた語り手によって語られるという点で、ここに滅多にない条件が揃っている。」
    >

    解説にあるこの言葉の通り、どうしてこうも詳細に人生について語れるのかと思うほどの分厚さだ。

    この本によく登場する言葉に『無頓着』『独立』というものがある。

    福沢諭吉は自分の興味があること、日本にとって必要だと思う学問に注力し、政治などには参画しないで自分の力を発揮する道を選んだ。

    自分のできることで世間を良くしようという姿勢は見習わなければならない。

    政治に対して「どうしてちゃんとやらないんだ」と憤る人は多いが、それはそうとして自分にも社会を良くする行動はあるのではないか?と考えることは大切だ。

    自分を持ち、社会の変化に流されず、愚直に磨き続ける。

    そんな風に自分も生きたいものだと本書を読んで思う。

    また、自分の人生をこうして書き残すということに興味を持った。

    良いことも悪いことも書き残し、誰の役に立つでもないかもしれないが、残してみたい。

    福沢諭吉ほど語るに値する人生ではないかもしれないが、書いてみたい。

  • この時代からロシアの危険性を認識していた福沢諭吉。

    先見の明がある。

  • 日本人の自伝では最高傑作でしょう。明治31年、福沢諭吉先生65歳の時に江戸末期から明治に掛けての出来事を速記者に話したお話しをベースに本人が加筆して刊行しています。
    約150年も前の事とは言え歴史に残る事件なども多数出てきて、諭吉先生の子供時代から青春時代、壮年までも飽きる事なく読み進められます。
    慶應義塾大学の創始者として有名な諭吉先生ですが、読めば読むほど、自分の好きな事だけやって、やりたい放題の超ヤンチャ人生です。
    この本を若い頃に読んで居たら慶應義塾大学に何がなんでも入りたいって思ったかもしれません。それくらいブッチャケた明るい等身大の言葉で、自分の事も、時代の事もめった切りします。
    子供の頃から何でも出来て、勉強も出来たが興味を持たない分野や持たない時期は敢えてやらなかった。でもその気になったらガンガン頭に入った。など天然なのか、、、恐らく高IQで反骨精神の強い変人だったのは間違い無いでしょう。
    封建制度の時代から鎖国から開国、文明開花まで、欧米へも翻訳者として留学したり、押しかけ的に同行して付いて行ったりしていたので有能で有名だったが、維新後の新政府、政治に頭を突っ込まなかったのは賢い選択だったでしょう。
    面白かったのは本人は恨みを買って無いと思っていたようだが、思った以上に饒舌だし舌鋒も鋭く、尚且つお酒も大好きな人だったので陰では相当恨みをかっていたのがうかがえます。
    一番の感想は若い頃に読みたかったなという一言です。

  • 時代の雰囲気が伝わってきて、とても面白い本です。読んでいて福沢さんが話しているように引き込まれます。陽だまりの木の中の元ネタとか結構確認できるので、手塚ファンにも楽しめると思う。
    思いの外幸運も重なって慶應大学は大きな学校になる事ができたんだなと感じる。

  • おすすめ。
    #興味深い #教養 #名文 #名著 #痛快

    書評 https://naniwoyomu.com/425/

  • ライバル校の創始者なの今まで読むのを躊躇っていたが、意外に読みやすく、福沢諭吉に親しみを感じてしまった。ユーモアのセンスが素晴らしい!諭吉さん、こんなにチャーミングで面白いおっさんだったのか。大酒飲みというのも親しみが持てる。当時の歴史を知るのにもいい一冊。

  • 諭吉の好きなことと嫌いなこととやった事が書かれた自叙伝。こんなに詳細に正確に数十年も前の過去を覚えていて言葉にできることがまず、凄いんだけれども、その人生もやっぱり破天荒で人間味溢れてて突き抜けてて凄い。

    ★嫌いなもの→封建の門閥制度、血、攘夷論、鎖国、(漢学)、借金すること、役人

    ★好きな物→酒、タバコ、勉強

    ★ モットー
    ・数理と独立
    ・倹約しろ。貸し借りは一切するな。
    ただ使う時は騙すなどせずにちゃんと使え。
    ・まず獣身を成して後に人心を養え。
    ・放任主義
    ・勉強よりも健康が大事。
    ・人間万事、停滞せぬように p308

  • 晩年の福沢諭吉が自分の人生を振り返って語ったことを文章にしたもの。ずっと積読本になっていたのを山から引っ張り出してきた。古文のような読みにくいものだと思っていたけれど、意外なほど読みやすい。

    慶應義塾を創った以外に何をした人か今ひとつ分かってなかったけれど、緒方洪庵の適塾にいて、オランダ語をマスターした後、横浜でオランダ語は通用しない、世界は英語だと知り、今度は苦労して英語をマスターする。咸臨丸に乗ってアメリカに行く。政治には関わらず、塾を通した教育の人だった。

    若い頃の恥ずかしい話なども惜しげもなく披露してくれており、何というか気持ちのいい読書ができた。時代の雰囲気もよく伝わってきた。

  • 本書で興味をもった点は3点。

    ①目的なしの勉強
    ここでは目的を持たずして勉強したことこそ仕合せであったと述べている。何々を成し遂げたいが故に勉強に励んでしまうと却って身構えてしまい修学することができないとのことで、身軽な状態で学ぶからこそ結果が出たとこの時は述べているようだ。

    ②一国の独立は国民の独立心から
    別の本で「国を支えて、国に頼らず」という言葉を福沢伝に付け加えていたが、まさにそのことを福沢自信が述べている。こういった心持を持っていたからこそ、教育者という身分であり続け、政治社会に足を突っ込まなかったようである。

    ③海臨丸での米国航海から
    米国渡航、欧州渡航についての感想を述べており、自分自身はこの点がとても興味深く読めた。当時の日本人がアメリカでのもてなしや風情に驚いている姿が見て取れが、これが後々の英語教育を推し進める源流になったのかと思うと、その経験たるや想像を超えたものなのだろうと。

  • *推薦者 (国教) N.W
    *推薦文 「一万円札」の福沢諭吉が生きた江戸末期から明治は西洋列強の動きを顧慮せずには何事も立ち行かない時代でした。福沢の生き方と日本の動向がこの伝記には反映しています。同様に,現代日本の課題「グローバル化対応」・「グローバル人材」・「国際コミュニケーション」能力の実践をここに読み取ることができると考えます。
    *所蔵情報 http://opac.lib.utsunomiya-u.ac.jp/webopac/catdbl.do?pkey=BB00091444&initFlg=_RESULT_SET_NOTBIB

  • 私がフランクリン手帳に忍ばせている“人生の100のリスト”の32番目には、

    「学校(大学)を作る」

    という夢が書いてあります。

    学生が1万人もいるようなマンモス大学とまでいかなくても、自分の信念や行き方が自分の死後も教育理念という形で後世に受け継がれ、それによって国家や人類の永続的な発展に寄与できれば、こんなにすばらしいことはないと思うからです。

    しかし、我ながら途方も無さ過ぎる夢なので、実現のためにまず何をやればいいかすら想像がつきません。

    そこで、現在の有名大学を作った人達は、何を思い、どのように学校を育てていったのかを知りたいと思ったのが、この本を読むきっかけとなりました。

    慶應大学の一般教養課程では、この本を使った授業も行われていると聞いたことがあります。

    残念ながら慶應義塾が成長する過程についての記述は少なかったのですが、福沢が日本の文明開化を推進しようとしたわけ、そしてその手段として彼がライフワークに選んだ学校運営・翻訳業においてどのような工夫をしたのかが描かれています。

    そんな福沢の生き様から、やはり人間が偉業を成し遂げる原動力は、大志なのだと再認識しました。

    福沢自身の口述を速記したものがベースになっているので、文章が非常に生き生きとしているのが特徴です。

  • 本書を一言で表すなら、「無頓着」ではないかと思う。著者である福沢諭吉は九州は中津藩の武士の子として生まれ、貧窮に喘ぐ幼少期を送った。そして青年期を大阪は適塾にて過ごし、同窓生たちとの切磋琢磨と戯れを重ね、紆余曲折のうちに幕臣となる。それ以降の物語は本文に譲るとして、本書から私が得られたものを稚拙ながら述べたい。以前に学問のすゝめと文明論之概略を読んだ事があり、諭吉は学問をアプローチとして社会をどう捉えたか、文明とはどのように考えているのかは少なからずイメージがあった。一方で本書を読めばそれらの書籍に至るまでの福沢諭吉という傑物の価値観を知ることができると言ってもよいと思う。変化の激しい時代にあって、諭吉自身も海外へ渡航したり、暗殺者から逃げ回ったりと波乱万丈な日々を送っていたが、その根底で通奏低音の様に流れているものは先に述べた様に無頓着という言葉で表されるものではないかと私は思う。身辺はつねに質素で倹約を重んじ、名誉や富といったものも一蹴する。金も借りないし、恩着せがましいことは許さない。諭吉が変化の激しい幕末、維新を生き抜くことができた要因の一つとして普通の人なら執着してしまいそうな名誉、金、娯楽というものからの誘惑を断ち切ったからではないだろうか。そもそも本人は努力してそれらを断ち切ったという気持ちさえないようである。諭吉にとってはそれらの物事は特段頓着して足るほどの価値がなかったというそれだけのこととして捉えられていたように思われる。つまり本当に大切なもの、価値のあるものが名誉や金、娯楽の類ではないことを諭吉は知っていた。そしてそれらに固執することが別に面白いことでもない事も。
     本書を通じての一番の魅力は何遍も振りかかる困難にあっても、笑い飛ばしてしまうほどの一種の滑稽さえも感じる福沢諭吉の生き様を自己投影の中で体験できることではないかと思う。その体験をする中で気付いた諭吉の考え方、物のとらえ方は私にはない磊落さがあった。少しでも諸事を笑い飛ばせるようになればいいな。
     最後にこれを書いてる途中で思い出した暗殺者から逃れ回り、恐れおののく諭吉の存在を思い出し、無頓着さの反証を見つけてしまった事を報告したい。やはりいかに無頓着な人間といえども、自分が価値を認めたものには頓着するしかないようだ。もちろん当たり前のことである。

    追記
    本書中にもp298に無頓着という言葉が出ており、その言葉から着想を得た。

  • 福沢諭吉さんの颯爽とした生き方が、本人による軽やかな口調で語られている。
    読むと「学問の神様」をとても身近な存在に感じる。
    偉ぶらない、媚びない、まさに自立した人だったんだな。

  • ●近代日本の激動期に福沢諭吉が何を考え、どう生きたのかを記した自伝。

  • 福沢諭吉の著作といえば学問のすゝめが有名で、これはこれで読み応えもあり、勉強のモチベーションが下がった時に読み直したくなる名著なのですが、この福翁自伝も面白い。
    何事もズバズバと物申していく様や若気の至り?での後悔など、エピソードが盛りだくさん。口語体で読みやすくわかりやすい。

    節々に才覚を発揮する天才エピソードもあり、さすがだなぁと思いつつ、どこか共感できる節もある一冊

  • 福沢諭吉の好きな所は漢文とか文系の学問だけじゃなくて数学とか物理も大事なんだって言った所かな。こういう所が教育者の鑑だと思う。所謂有名な学校創設者の中で一番好き。

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著者プロフィール

1935~1901年。豊前中津藩(現・大分県中津市)下級藩士の次男として生れる。19歳の時、長崎に蘭学修行におもむく。その後、大阪で適塾(蘭方医、緒方洪庵の塾)に入塾。1858年、江戸で蘭学塾(のちの慶應義塾)を開く。その後、幕府の使節団の一員として、3度にわたって欧米を視察。維新後は、民間人の立場で、教育と民衆啓蒙の著述に従事し、人々に大きな影響を与えた。特に『学問のすすめ』は、17冊の小冊子で、各編約20万部、合計で340万部も売れた大ベストセラー。その他の著書に『西洋事情』『文明論之概略』『福翁自伝』など。

「2010年 『独立のすすめ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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