学問のすゝめ (岩波文庫)

著者 :
  • 岩波書店
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レビュー : 153
  • Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003310236

作品紹介・あらすじ

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」。著名なこの一文で始まる本書は、近代日本最大の啓蒙家である福沢諭吉(1835‐1901)が、生来平等な人間に差異をもたらす学問の意義を、平易な文章で説いた17の小篇からなる。西洋実学の批判的摂取をすすめ、明治の人心を啓発したその言は、今日も清新である。

感想・レビュー・書評

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  • 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」から始まる『学問のすすめ』。この言葉は、人の平等について述べたものではあるが、その主旨は、機会の平等であり、現実にある不平等は学問のありなしによるものであることを強調するためのものである。機会はすべてのものに平等に与えられるべきものであるが、学び続けなければその機会を捉えることはできないというものである。「人と人との釣り合いを問えばこれを同等と言わざるを得ず。ただしその同等とは有様の等しきを言うにあらず、権利道義の等しきを言うなり」と明言している。

    福澤諭吉は、欧米列強が世界に進出する中で世界の情勢をよく知っていたであろう。場合によっては植民地化される危機も現にあったであろう明治初期において、福澤の持つ危機感は、今から想像することも難しいものであったかもしれない。その思いは、「独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず」と書くときに、国の「独立」が持つ意味は今とは全く違ったであろうことを意識するべきである。福澤諭吉が「国内のことなればともかくなれども、いったん外国と戦争などのことあらばその不都合なること思い見るべし」というときには、その切実さに思いを至らせるべきだろう。「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛ものなり」というくだりについては、今の時代においても心しておかなければならないところである。

    また、「これをもって世の人心ますますその風に靡き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂い、毫も独立の丹心を発露する者なくして、その醜体見るに忍びざることなり」という言葉は、メディアにも当てはまることではあるが、自分も含めて多くの人に無関係なことではない。官よりも民というものは『学問のすすめ』の中ですでに徹底されているし、私学として慶應義塾大学を創設したその行動にも表れている。また外国がやっていることをそのまま信じるべきではないというところは、自分の仕事に照らすと、他社がやっていることや海外のメーカーから言われたことをそのままやるようなことはするべきではなく、きちんと自分の頭で考えよということにも通じるであろう。そのために常に学ぶ姿勢と、独立の気力が必要となるのである。

    『学問のすすめ』の中でも「電信・蒸気・百般の器械、したがって出ずればしたがって面目を改め、日に月に新奇ならざるはなし」と言われている。現代は当時と比べるとさらに秒進分歩くらいのスピードで世の中が変わっていることは間違いない。その変化が自らの有利に働くようにするためには、常に学び続けることが必要だろう。

    「学問の道を首肯して天下の人心を導き、推してこれを高尚の域に進ましむるには、とくに今の時をもって高機会とし、この機会に逢う者はすなわち今の学者なれば、学者世のために勉強せざるべからず」と言う。「学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等し」とするところは実用・現場に適用してこその知識という点でも重要である。

    最後には、立ち振る舞いや容姿、スピーチ能力についても言及をしており、非常にプラグマティックである。

    以下が、『学問のすすめ』の章立てである。女性の教育などについてもすでにリベラルで先進的である。
    それにしても明治の知識人の範囲は広い。


    初編: 端書「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」~
    二編: 端書 人は同等なること
    三編: 国は同等なること 一身独立して一国独立すること
    四編: 学者の職分を論ず 付録
    五編: 明治七年一月一日の詞
    六篇: 国法の貴きを論ず
    七編: 国民の職分を論ず
    八篇: わが心をもって他人の身を制すべからず
    九編: 学問の旨を二様に記して 中津の旧友に贈る分
    十篇: 全編のつづき、中津の旧友に贈る
    十一編: 名分をもって偽君子を生ずるの論
    十二編: 演説の法を勧むるの説 人の品行は高尚ならざるべからざる野論
    十三編: 怨望の人間に害あるを論ず
    十四編: 心事の棚卸し 世話の字の義
    十五編: 事物を疑いて取捨を断ずること
    十六篇: 手近く独立を守ること 心事と働きと相当すべきの論
    十七編: 人望論

  • 予想外のおもしろさでした。例の「天は人の上に~」で始まる有名な本書ですが、月並みな良い方では、現代でも全然古くないように思います。

    ただ、文章は文語なのですこし難しいかもしれません。ただ、明治時代に書かれたものなので、平安時代に書かれた「古文」と比べれば、はるかに現代語に近いので、あまりそこは気にしなくてよいと思います。

    唯一、現代ではあまり使われない二重否定の表現さえ気をつければ、変な誤解は防げると思います。「せざるべからず」みたいなのね。こういう部分は気をつけて「しないべきではない」だから、「するべきだ」という風に読んでいくとよいと思います。

    さて、「学問のすすめ」というタイトルですが、その目的は「独立」ということなのだと思います。この「独立」ということも、ただ単に生計を成り立たせるということではなく、明治新時代にふさわしい、近代国家にふさわしいというような意味です。これも本書に詳しく書いてあります。つまり、「独立」を成し遂げるためには、学問をしないといけませんよ、とそういうことなのだと思います。

    また、福沢は、日本の「独立」についても、とても気にしています。当時の緊迫した国際状況がひしひしと伝わってくる部分です。実際に海外を見て回った経験のある福沢だからこそ、危機感も強かったのだと思います。

    本書の最大の魅力は、福沢の舌鋒というか筆鋒の鋭さだと思います。特に儒者への批判はなかなか痛快で、たとえば孟子が(親)不孝には3つあるが後継ぎがいないことが最も不孝であるとしたことに対して、「天理にもとることを唱うる者なれば、孟子にても孔子にても遠慮に及ばず」といって「罪人と言って可なり」とまで言ってこきおろします。こういう歯に衣着せぬ物言いも楽しいところです。

    私はまだ福沢に追いついてないと思います。学問を進めなければなりませんね。

  • 学問に対する心構え・とらえ方に一石を投じる本。

    「天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」という有名な出だしから始まる本。
    人は生まれながらにして根源的には同じであるが、結果的に差がつくのは学問の量というわけ。

    いわゆる「社会的地位」の「高い」といわれる仕事、これは「高貴」だからつけるのではなく、学問の積み重ねによるもの。
    つまり医者・学者・政治家・官僚・大企業の経営者・弁護士…確かに勉強してるわな。

    そしてここでいう「学問」とは、人生に彩りを添える文学のようなものだけではない。
    当時「学問とは教養、もっといっちゃえば机上の空論」とみなされていたのだが、
    (田舎じゃ「百姓が字なんか覚えなくていい」って言われてたみたいだしねw)
    諭吉いわく「実生活で役立たなければ学問にあらず」と。
    だから当然、百姓であれ商人であれ、学問は必要であると。
    ここでもう、学問とは何かという今までのとらえかたに変化を加えたねー。


    面白いのは政治に対するとらえ方。
    文明を進めるにあたり、政府が政策を打ち出しているが、
    国民1人1人の意識が変わらなければ、文明開化などしないのではないかということ。
    (「タコツボ理論」:友成真一「問題はタコつぼではなくタコだった!?」参照 と、まんま言っていることが同じ…)
    そして物事を成し遂げるには、政治家だけに任せてはいけない、国民1人1人が国のために何かをしなければ。と。
    なぜなら職業は違うけれど、みな日本に住む人間なのだから…と。


    あと「独立」についても随分書かれているけれど、ぐさっときたのは
    「衣食住を自分でまかなっても、独立とはいえない」ということ。
    自分の餌をとってこない動物なんていない。
    だから自分の食いぶちを稼いでいるだけで満足しているうちは、別に悪くはないけれど、蟻と一緒である・・・と。
    したがって、人間であるからには、世に何かを残すくらいでなければ「独立」といえない、と。

    はー、これ脳天打ち砕かれたねー。
    自分の食いぶちを稼ぐのは蟻と一緒って(笑)
    生きている証を時代に打ちつけたいよね・・・・


    また男女平等について、これが書かれた時代を考えると、諭吉はやはりとても合理的な人だと思う。
    根源的には同じ人間なのに…と女七大学を批判。
    力の強い者が弱いものを屈伏させるのはおかしいよね!!


    まだまだ書きたいけど、続きはぜひ本物を読んでください!笑

  • 冒頭が有名な本。とても読みやすかった。明治一桁台に書かれたとは思えないほど現代の万人に通じ、学問の大事さを啓蒙する。
    学問をするのは実生活で使うため、それがないのは「飯を食う字引」と同じ、働き生活を独立させ家族を持つのは月並みで、世のため人のためになってこそ初めて人様に褒められるべき、疑いを持ってこそ発展あり、人の権利と幸せの尊厳は親子男女職業の貴賎なし、、、
    福沢諭吉は政府の存在意義、人々の平等などかなり先進的な考えを持っていたことに驚いた。当時の人々は自分の仕事の役割や姿勢に疑いを持って客観的に考えたことなんてなかったんじゃないだろうか。

  • 教科書に載っていて(特に冒頭の一文を)誰もが知っている、この一万円札の人の名著、初めて全編読んだ。私のようにあまり古文が得意でなくても十分理解できる文章。
    人は生まれながらにして貴賤、貧富の別なし、と断定するこの思考は、古日本的な、共同体や世間=世界=社会と分離し得ないものとして規定された主体の未分化状態から、「独立」したものとして「人間」を取り出そうとしているように見える。このような、西欧式の「人間」の発明は、それまでの日本には全く無かったというわけでもなかろうが、明治初期=近代の曙において言説が出版され、極めて広範な層に渡って読まれたという事実は、やはり歴史上非常に重大なできごとであったろう。
    福澤諭吉は何よりも「国の独立」を案じていた。それは時代の空気であったに違いない。
    日本は幸運だったのか、国土に誰も魅力を感じなかったのか、古来占領されたことはなくもともと「独立」していたものだったが、鎖国が解かれ凄まじい勢いで「西洋文化」が流入し、突如大洋の中に投じられた者のように「日本」が認識された当時の状況が、こうした言説を生んだものと思われる。
    国が「独立」しなければならない、という焦燥感が、ただちに「個人」が独立しなければならない、という説諭に転じる。
    おもしろいのは、人を裁くのは政府の領分であり、仇討ちなどのような「私裁」は非難されるべきである、忠臣蔵などもってのほかである。そのように「個人」のテリトリーと「政府」のテリトリーは区別されるべきであって、それが「国民と政府との約束」だ、という考え方。
    近代法治国家の原思想みたいなものだが、このようにして国民(個人)は保護され・制限されつつ、学問を身につけることで独立し、ひいては国家の独立をまっとうすべし、というのが福澤の思想である。
    この本に鼓舞されたような形で、つまり西洋的に「人間の独立」がその後進んだのかというと、現在の日本を見てもどうやら怪しい。「日本的体質」はやはりそういう方向には激変しなかった。
    「個人の自立」は、現在はただ消費社会・情報過多社会によって「みんなバラバラ」「価値観が多様な無縁社会」「病んだ個人の急増」というかたちとなって、皮肉にも実現しているにすぎない。
    病んでいない面においては、会社もお役所も政治も、どこか「個人の独立」とはちがう空気をはらんでいる。
    たとえば以前、たまたま見た「ショムニ」という変なTVドラマの最終回でOL(江角さん)が「会社は社員のためにあるのよ!」という不条理で奇怪な、反-資本主義的な決めぜりふを発したとき、私はかなりの衝撃を受けたのだが、このように社員=個人がいつまでも会社=共同体に依存し続けているというところが、あまりにも日本的な世界観なのだ。
    そういうわけで、福澤諭吉が論じた「独立」論はついに完徹されなかった。だから、今読んでみても古びていないのだとも言えるだろう。

  • 「flier』

    「学』に人生を捧げた人だけあって、人間社会をよく理解している。

    なぜ義務教育で学習させないのかと思うぐらい。

    有名な名言から諭吉をバカにする人いるだろうが、彼が目指した世界は単純な考えで構想できるものではないと思う。

    政府や文明への言葉からして、良い悪いではなく、それらを包括する意味で正しい考えだと言える。

    何の偏見もなしに本書の内容を語れる諭吉は、本当に聖人のように思えてくる。

    日本のために尽くした、真の日本人ではないだろうか。

    でなければ、彼の理想を素晴らしいなんて言えるわけがない。

  • ・独立を促すために、学問の大切さを説く。
    ・人間は元々平等であるが、学問をしない事によって格差が生まれてくる。

  • 平等といふこと。
    冒頭のことばは、決して人間はみな分け隔てなく同じであるといふことを述べてゐるのではない。かしこいひともゐれば、愚かなひともゐる。豊かなひともさうだといふのに、ひとが平等であるはずなどない。
    しかし、人間が「存在する」といふことにかけて、存在してゐるといふことにかしこい-愚か、豊か-貧しさなどまつたくもつて関係がない。存在に軽重などなく、それ以上でもそれ以下でもなく、そして、そのことに違ひはないと当り前なことを宣言したのだ。ひとがひとであるといふことを自覚してしまつたのだ。
    この大前提にたつた上で、国とは一体何であるかを考へてゐるのである。
    ひとである以上、存在といふ点で違ひはないのだから、国を治め、支配するといふことに血統など関係ない。まして初めから決められてゐるわけなどない。
    それ故に、合意の下法律を定め、共に考へてゆかねばならぬ。生きてゐないひとは存在しないのだから、国法を定めるにあたつては、その生活を鑑み、知らねばならぬ。国法が生活から乖離したものであるなら、遠慮なく変へてゆかねばならぬ。決められた国法を守らねばならぬといふことは、決して教義的に与へられる義務ではなく、論理的な当然の帰結だ。国法に従はないことよりも、従ふことの方が「善い」ことだからである。
    かうしたひとの意志の総体である国が「存在する」といふこともやはり、違ひなどないのである。たしかに、豊かな国もあれば貧しい国もある。狹い国もあれば広い国もある。だが、すべての国はこの点において平等なのだ。裏返せば、すべての国が平等であるのは、この点においてしかない。
    国が存在するといふことにかけて、それを勝手に作り出すことやそれを侵害するあらゆる建前など本来存在するはずなどないのだ。仮に創り出せたとしても、私が私であるといふこと同様、その国はその国でしかない。
    この点から彼自身日本と呼ばれる国を見渡した時、支配する側もされる側も、同じ存在で、どちらも生活していく上で責任があるといふことの気風が欠けてゐると言はざるを得なかつたのだ。この気風とは、ひとびとの意識といふ観念でもあり、またひとびとがとつてきた行動といふ実体でもある。さうした気風をもつひとびとが集まれば、国も気風もまた同じである。この気風のままでは、存在するといふ当り前を踏みにじられてしまふのだ。
    学者の役割とは、かうした観念と実体を明らかにして、導いていくことに他ならない。学者は何も官庁や大学だけの存在ではない。生活してゐるそれぞれのひとが、それぞれの生活の学者だ。かうして私が私であるといふ当り前を知る。さうしたひとが集まつてゐる国だから、国もまた独立してゐる。
    もしもこの独立を踏みにじられて生きるといふなら、よほど死んだ方がましなのである。善く生きられないなら、毒杯を仰がねばならぬ。それが正義である。忠臣蔵の義士も金を落とした下人もこの正義にかけて同じである。殉教以外の死は愚策でしかない。
    一方、ひとが生まれなど関係なく、存在してしまふといふことは、ひとはその都度協力する必要があるといふことでもある。自分ひとりで生活のすべてを賄ふことなど不可能。しかし、独立したひとといふのは、独立してゐるといふことをひとの中で確認するより他ないのだ。それを無視して生活することは、相手の独立存在を無視してゐることに他ならない。国の行き来が盛んになつた以上、ことばだなんだと言つて避けるわけにはいかない。自分たちの生活を伝へ、また相手方の独立した生活を知らねばならぬ。さういつた意味で、少なからず似通つた言語で似た生活を行つてゐた相手だけでなく、全く異なる地盤で生活する相手との協力を求められてきてしまひ、より一層、ひとがひとであるといふ大前提のもと、学問―知るといふこと―に自覚的である必要がある。

  • 諭吉自伝を読んだ勢いで諭吉著書も再読。明治5年~9年にかけて不定期に発行された小冊子にして当時のベストセラーを1冊にまとめたもの。ざっくりいうと「民主主義の啓蒙書」というところかしら。初読の時の若かりし自分は随分感銘をうけたようであっちこっちにラインが引いてあってビビる(苦笑)

    内容的には特に「学問」を「すすめ」ているわけではない。というか本を読んで頭に詰め込む類の学問を推奨してはいない。勉強だけ出来ても米の相場を知らなければ商売はできないしそんなもんは役に立たないと、むしろ頭でっかちを戒め、実用、応用、収入源として活用できなければ意味がないから本だけ読めばいいってもんじゃないという趣旨の話が多い。いわく「学問の要は活用に在るのみ。活用なき学問は無学に等し」

    あとは政府と国民の関係、法治国家の意義、なぜ学問が必要かをわかりやすく説いていて、まだ江戸の封建制度の名残りもある明治時代、国民全体がもっと賢くならなくては、という切羽詰まった背景があるからこそだろうけど、現代の惰性に堕ちた国民、個人の金儲けにしか興味のない政治家など、今こそ初心に帰ってこの本を読む意味がある気がした。

    時代が変わっても現代人にとっても為になる部分がたくさんある。男尊女卑とか男女平等という言葉は諭吉は使っていないが「男も人なり女も人なり」と男女が人として対等であることを言い、江戸時代の女性の教科書とされた『女大学』の内容の女性に対するあまりの理不尽さに「男子のためには大いに便利なり。あまり片落ちなる教えならずや」と批判している。明治前半ではこの意見は珍しかったんじゃなかろうか。

    あと現代風に言うならコミュニケーションの重要さについても説いており「人類多しと雖も鬼にも非ず蛇にも非ず~(中略)恐れ憚るところなく、心事を丸出にして颯々と応接すべし」「人にして人を毛嫌いするなかれ」というあたり、むしろ現代人こそ参考にすべきという気がする。

  • マイブーム「読書とはなんぞや」を知るための読書、第八弾。

    読書も学問の一手段でしょ?
    ということで、古本屋で買って来た。

    「学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き子分を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。(中略)さらば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべき人間普通日用に近き実学なり。」

    福沢諭吉は、実学の例として、読み書き算盤、地理学、究理学、歴史、経済学といったものを挙げている。
    文学を否定しているわけではないが、実学の方が大事だよと。

    私自身は、8割賛成。
    確かに、実学の方が役にたつ。
    体系化された、根拠のあるデータの力は絶大だ。
    しかし、想像力を養うためには、実学よりも、文学かなと。
    要は、バランスなのかなと、落とし所を見つけた。

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著者プロフィール

1935~1901年。豊前中津藩(現・大分県中津市)下級藩士の次男として生れる。19歳の時、長崎に蘭学修行におもむく。その後、大阪で適塾(蘭方医、緒方洪庵の塾)に入塾。1858年、江戸で蘭学塾(のちの慶應義塾)を開く。その後、幕府の使節団の一員として、3度にわたって欧米を視察。維新後は、民間人の立場で、教育と民衆啓蒙の著述に従事し、人々に大きな影響を与えた。特に『学問のすすめ』は、17冊の小冊子で、各編約20万部、合計で340万部も売れた大ベストセラー。その他の著書に『西洋事情』『文明論之概略』『福翁自伝』など。

「2010年 『独立のすすめ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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