三酔人経綸問答(中江兆民) (岩波文庫 青 110-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (268ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003311011

作品紹介・あらすじ

一度酔えば、即ち政治を論じ哲学を論じて止まるところを知らぬ南海先生のもとに、ある日洋学紳士、豪傑君という二人の客が訪れた。次第に酔を発した三人は、談論風発、大いに天下の趨勢を論じる。日本における民主主義の可能性を追求した本書は、民権運動の現実に鍛え抜かれた強靱な思想の所産であり、兆民第一の傑作である。現代語訳と詳細な注を付す。

感想・レビュー・書評

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  • 時の政策を批判する時に、批判ばかりしていたのでは良くない。対案は持つべきではある。しかし専門家ではない市民の身、原発政策や経済面の複雑な論議に入っていくと埋没してしまって抜け出せなくなる。よって、一番根幹の論議とは何かを考える。根幹を押さえて置くと、結論は直ぐに出るだろう。すると、結局はアメリカとの関係をどうするのか、というところに行き着くのである。それは即ち日本の外交政策をどうするのか、というところに行くだろう。だから憲法9条をどうするのかということは、世の中ことを論ずる時には必要不可欠だし、中国脅威論云々というのは、基本的には決して無駄な論議ではない。

    しかし繰り返すが、専門家ではない市民の身、脅威論等の細かな軍事比較などしては居られない。良いのは、物事の最初に立ち返ること。グランドデザインを決めた明治の論議をみることだろう。

    格好のテキストがある。それが本書である。原文と現代語訳の両方があり、訳文は現在に至っても多分最高峰である。

    三者三様の立場から意見を闘わして方向を探るのは、空海の「三教指帰」から始まり良い方法である。

    紳士君は「民主政治」の立場をとる。(←共和主義に近い)そうなって「自由平等」になれば、軍備や戦争は必要ではなくなる。学芸も栄え、道徳も高尚になる。万一他国が攻めて来たら、主張すべきことは断乎として主張し、「弾を受けて死せんのみ」と答え豪傑君の失笑を買う。

    豪傑君はどうか。争いは動物にとっても人間にとっても避けられないものであるだけでなく、政治家や軍人にとっては楽しみである。恋旧家と好新家が対立するが、恋旧家は社会の「癌腫」だから、それらをアジアかアフリカの大陸に送り、小国を大国にする方法を構ずればよい。そのことにいま着手しなければ、欧州諸国はかならずアジア侵略を開始するだろう。という。

    詳しくは読んで頂くとして、現代の我々に最も傾聴に値する論は南海先生の論だと私は思う。

    専制から一挙に民主制にはならない。立憲制をとおるのが順序である。恩賜の民権を大切に扱い、回復の民権に変えていくのが進化の理法であるという。ここは、兆民自身が「いささか自慢の文章です」と書いているように、当時最も現実的なグランドデザインだったと思う。

    さて、外交である。「もし彼らの軍備拡張が小規模であるならば、あるいは爆発するかもしれないが、大規模に軍備拡張しているから、爆発することはあり得ないのです。」これは中国脅威論、昔ならソ連脅威論にあたるだろう。それでも、もし攻めてきたとしたら専守防衛に尽くすしかない。「わがアジア諸国の兵隊は、それで侵略しようとする時には不十分だけれども、それで防衛するには十二分なのです。」「二つの国が戦争を始めるのは、どちらも戦争が好きだからではなくて、じつは戦争を恐れているために、そうなるのです。」「要するに、外交上の良策とは、世界のどの国とも平和友好関係を深め、万やむ得ない場合になっても、あくまで防衛戦略を採り、遠く軍隊を出征させる労苦や費用を避けて、人民の重荷を軽くしてやるよう尽力してやること、これです。」

    この結論に対して紳士君、豪傑君共に「少しも奇抜なことはない。今日では、子供でも下男でもそれくらいのことは知っています」と笑ったが、果たして現代日本の若者はそういう水準だろうか。自衛隊は果たしてこうなっているか、知っているだろうか。(←じゃあ、お前は自衛隊を認めるのか、と聞かれたならば、私は「安保条約を廃棄し、自衛隊を一旦解体し本当の自衛隊になれば認める」と言おうと思う)

    専制から立憲君主制に移り、やっと民主制に移りつつある現代(移ったとは決して言えない)、最も現実的なグランドデザインはこうだ、と私も思う。現実的だけれども、未だ現実化されていないのが、日本の不幸なのである。

  •  明治20(1887)年に刊行された中江兆民の代表作。本書は、西洋近代思想を理想主義的に代表する洋学紳士、膨張主義的国憲主義を代表する豪傑君の二名が、理想を持ちながらも現実主義的な立場を取る南海先生を訪れ、酒を酌み交わしながら日本の針路を論じるものだ。

     洋学紳士は徹底した民主化と軍備の撤廃といった急進的改革を主張し、豪傑君は大陸侵攻とそれをてこにした国内改革という強硬策を求める。これらに対し、南海先生は、対外的には過剰な危機感を抑制して国際協調を大切にし、国内的には「恩賜的民権」を徐々に「恢復的民権」に近づけていく持続的な努力の必要を説く。

     南海先生によって示される、次の恩賜的民権と恢復的民権についての言及を、兆民は「此一段の文章は少く自慢なり」と述べる。
    「且つ世の所謂民権なる者は、自ら二種有り。英仏の民権は恢復的の民権なり。下より進みて之を取りし者なり。世又一種恩賜的の民権と称す可き者有り。上より恵みて之を与ふる者なり。……若し恩賜的の民権を得て、直に変じて恢復的の民権と為さんと欲するが如きは、豈事理の序ならん哉。嗚呼、国王宰相たる者威力を恃みて、敢て自由権を其民に還さず。是れ方に禍乱の基にして、英仏の民が其恢復的民権の業有りし所以なり。若し然らずして、君主宰相たる者、時を料り勢を察し、其民の意嚮に循ひ、其民の智識に適することを求め、自由権を恵与して、其分量宜を得るに於ては、官民上下の慶幸、何事か之に踰ゆる有らん。危難を犯し死亡を冒して千金の利を攫むは、坐らにして十金を受るに如かんや。且つ、縦令ひ恩賜的民権の量如何に寡少なるも、其本質は恢復的民権と少も異ならざるが故に、吾儕人民たる者、善く護持し、善く珍重し、道徳の元気と学術の滋液とを以て之を養ふときは、時勢益々進み、世運益々移るに及び、漸次に肥腯と成り、長大と成りて、彼の恢復的の民権と肩を並ぶるに至るは、正に進化の理なり。」(p.196-197)

     また、南海先生は次のように述べる。
    「然ば則ち進化神の悪む所は何ぞや。其時と其地とに於て必ず行ふことを得可らざる所を行はんと欲すること、即ち是れのみ。」(p.195)
    「政事の本旨とは何ぞや。国民の意嚮に循由し、国民の智識に適当し、其れをして安靖の楽を保ちて、福祉の利を獲せしむる、是なり。若し俄に国民の意嚮に循はず、智識に適せざる制度を用うるときは、安靖の楽と福祉の利とは、何に由て之を得可けん哉。試に今日、土耳其(トルコ)、白耳失亜(ペルシヤ)の諸国に於て民主の制を建設せんには、衆民駭愕し喧擾して、其末や禍乱を撥起して、国中血を流すに至ること、立て待つ可きなり。且つ紳士君の所謂進化の理に拠りて考ふるも、専制より出でゝ立憲に入り、立憲より出でゝ民主に入ること、是れ正に政治社会行旅の次序なり。専制より出でゝ一蹴して民主に入るが如きは、決て次序に非ざるなり。」(p.196)
    「亦唯立憲の制を設け、上は皇上の尊栄を張り、下は万民の福祉を増し、上下両議院を置き、上院議士は貴族を以て之に充てゝ世々相承けしめ、下院議士は選挙法を用ひて之を取る、是のみ。若夫れ詳細の規条は、欧米諸国現行の憲法に就て、其採る可きを取らんのみ。是は則ち一時談論の遽に言ひ尽す所に非ざるなり。外交の旨趣に至りては、務て好和を主とし、国体を毀損するに至らざるよりは、決て威を張り武を宣ぶることを為すこと無く、言論、出版、諸種の規条は、漸次に之を寛にし、教育の務、工商の業は、漸次に之を張る、等なり。」(p.205)

     こうして見てみると、南海先生が想定しているのは、イギリス流の立憲君主制なのではないだろうか。立憲君主制を前提としながら議会政治を確立し、国民の諸権利を保障する。そして、政治的な改革は、急進的にではなく漸進的に行うべきことが述べられている。
     しばしば、中江兆民は「東洋のルソー」と評され、フランス急進主義の流れを汲む代表的論客と位置付けられている。しかし、実際のところは、彼自身はフランスの共和政治ではなく、イギリス流の安定した君民共治の立憲君主制を模範としたのではないだろうか。

     他の著作において、兆民は次のようにも述べている。
    「いやしくも政権を以て全国人民の公有物となし一二有司に私せざるときは皆『レスピユブリカー』なり。皆な共和政治なり。君主の有無はその問はざる所なり。……即ち見今仏国の共和政治の如きもこれを英国立君政体に比するときは、共和の実果していづれにありとなさんか。これに由りてこれを観れば共和政治固よりいまだその名に眩惑すべからざるなり。固よりいまだ外面の形態に拘泥すべからざるなり。試に英国の政治を観よ。その名称その形態並に厳然たる立君政治にあらずや。しかれどもその実についてこれを考ふるときは毫も独裁専制の迹あることなく……」(「君民共治の説」)
    「英国杯は昔より王家の御姓が屡屡革まりたることにて我国と較ぶ可きには非ず。……我国の天子様は御位の尊きこと世界万民其例無き者なれば……」(『平民の目ざまし』)

     兆民は政治形態としてはイギリスの立憲君主制に範を求めたが、その基礎には尊皇を前提とした仁政の発想があったのではないだろうか。
     それにしても、本書では三名が自然な形で政治について語り合うものかと思っていたら、物語が始まるなり、洋学紳士が延々と自説を述べ続ける(約50ページ分)。全く現実的でないものも多く、これには少々うんざりした。

  • 100年以上前の議論が、今でもそのまま通用するという凄さ。

  • 洋学紳士、豪傑君、南海先生。中江兆民ひとりの手によって描かれたこれら3人の議論が順に展開していくことによって、立憲主義もリアリズムも、現実路線も活き活きと語られる。

    これほど異なった視点から時局を見ることができることを、大局を捉える力というのではないかと思う。

    先に登場する洋学紳士、豪傑君の二人の論は極論のように思えるが、一つの考え方を突き詰めて考えることで、その論が持っているゲームチェンジャー的な可能性が見えてくることもある点が、面白い。

    本書の書き方が一問一答のような形ではなく、両者にある程度たっぷりと論じさせているからこそ、そこまで話が展開できたのだろう。

    南海先生が最後に指摘するように、現実は直線的ではなく紆余曲折しながら進んでいくが、ただ中庸を行くだけではなく、このようは広い視点から状況を捉えたうえで進んでいくべきだということを教えてくれる本だと感じた。

  • 中江兆民が明治時代に出版した本ではあるが日本の政治のあり方についてどうあるべきかと言うことをある3人の人物を登場させて語り合いの中で論じているが、今の時代においてもなかなか参考になる本と言える。
    今の時代において政治は社会はどうあるべきか、考察に値する内容である。

  • 訳文がなかなかの名調子。

  • 2019年夏現在のトランプ政権の経済エゴ丸出しのディール外交や、Brexitで綱引きするポピュリズム、きな臭いアジア地政学リスクなど、本書で議論されている登場国の役割が変わっているだけで、およそ何が議論の争点となりうるのかの本質は中江が捉えていたものとあまり変化がない。むしろまさに現在こそ、三酔人が問答していたことを外挿して再考出来るのではという気もしてきます。

  • 中江兆民「三酔人経綸問答」青110-1 岩波文庫

    本著はもともと漢文で書かれており、前半は現代語訳文、後半は原文といった構成になっています。

    民主制を訴える洋学紳士、侵略主義を唱える豪傑君。血気盛んな二人の成年は、政治と哲学の師である南海先生のもとを訪れる。盃を交わし、両者の熱い弁論は平行線を辿る。酒も回ってきた頃合いに、南海先生が口を開く…。

    互いに足らぬところ、行き過ぎた部分を指摘し、両者の思想は違えど、実はその根源は同じであると諭す。しかし、あくまで道理を示すまでにとどめ、特定の政治目標へ導くことはしない。
    その南海先生のスタンスこそ、まさに本著の目的でもある。

    南海先生は政治の本質についてこうも述べている。
    「政治の本質とはなにか。国民の意向にしたがい、国民の知的水準にちょうど見合いつつ、平穏な楽しみを維持させ、福祉の利益を得させることです。」

    まさに両者に欠けている部分でもあり、これは今にも通ずるのではないでしょうか。

    非常に面白い一冊でした。

  • 面白かった。
    と、言えるほど読み砕けてはいない…。

    酔っぱらうと国家を天の視点から語りだす「南海先生」の家に、民主守備の理想を説く「紳士君」と、領地拡大により大国に伍することを語る「豪傑君」が訪れ、日本の行く末を酔っ払い3人、大いに語る。
    前進か、後進か。両極端を語る2人に対し、中道を説く南海先生。明治のこの頃には、巷でこんな議論が繰り広げられてたんだろうか。みんな、国家百年の大計を考えて。
    読み解けてはいないが、また読みたいとは思った。僕にも国家百年を論じたいと思える日は、、来ないと思うが。

  • 日本にルソーを紹介した民主主義者・中江兆民の著。1887年出版。 現代語訳だけ読んだ。

    進歩的理想主義者「洋学紳士」と保守的軍国主義者「豪傑君」がそれぞれリベラリストとナショナリストの立場から国家論を展開。中道的リアリストの「南海先生」が聞き手に回るという内容。 三人とも酒を呑みながらしゃべる。

    洋学紳士も豪傑君も極論。どちらも理解できる部分があるし、いやそれは違うだろ、という部分もある。最後に二人をいさめつつ議論をまとめ上げるリアリスト・南海先生のくだりのカタルシスが素晴らしい。

    「政治の本質とはなにか。国民の意向にしたがい、国民の知的水準にちょうど見あいつつ、平穏な楽しみを維持させ、福祉の利益を得させることです。」(南海先生、p97)

    「紳士君、紳士君、思想は種子です、脳髄は畑です。(中略)今日、人々の脳髄のなかに、帝王、貴族の草花が根をはびこらせているまっ最中、ただあなたの脳髄にだけ一つぶの民主の種子が発芽したからとて、それによってさっそく民主の豊かな収穫を得ようなどというのは、心得ちがいではありませんか。」(南海先生、pp99-100)

    南海先生の言が中江兆民の考えていたことだとすれば、明治時代としては、おそらく最も先進的な政治思想にふれていた中江兆民が、意外なほど現実的で、かつ、百年先の未来を見据えてコツコツと啓蒙するしようと決心していたのだなと感じた。

    かくして、「とりあえず立憲制度、上下両院を置いて下院は選挙による、海外の法律を参照しながら良いところは取り入れる、外交は平和友好を原則とする、言論・出版の規制は少しずつ取り払う」という南海先生の凡庸な結論に、洋学紳士も豪傑君も肩透かしを食らうのであったw
    「今日では、子供でも下男でもそれくらいのことは知っています」(p109)

    まあしかし、明治にすでに進歩的な国家のビジョンを作り上げた思想家がいたのに、日本は随分と遠回りをしてきたものだなぁ。

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著者プロフィール

1847年、高知県生まれ。思想家。フランス留学後、仏学塾をひらき、新たな教育や自由民権思想の啓蒙につとめた。門下に幸徳秋水がいる。著作に『三酔人経綸問答』があるほか、訳書に『民約訳解』がある。1901年、没。

「2021年 『三酔人経綸問答 ビギナーズ 日本の思想』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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