善の研究 (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003312414

感想・レビュー・書評

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  • 難しい。読破したとは思えない。
    それでも、自分の世界観をガラリと変えた一冊。

    特に、「善」「悪」をという言葉を捉え直す彼の考え方は、今の思考に大変マッチしました。

    善を人間の本来の性質と定義するところから、悪とはなにかを改めて知ることができます。

    ルールを破ること、誰かに不正を働くことではなく、そういった段階からさらにもう一歩深めた価値観が生まれました。
    そもそも、善という言葉には本来道徳的な意味合いはなくて、『ためになる』というシンプルな意味合いだったそうですね(ギリシャ哲学だったでしょうか)私たちが持ってしまいがちな観念を1から丁寧に説明してくれます。

    「人格的要求」という言葉も好きです。
    言葉づかいは難しいけれど、その意味を想像するに、万物斉同、主客合一といった理想を思い描けるからです。

    アニメの例えで恐縮ですが、新世紀エヴァンゲリオンの「人類補完計画」にも通じるような考え方かもしれません(人類を全滅させる、という意味ではないですよ!)

    岩波文庫の哲学書、という風体から忌避しなくてよかったと、心から思える1冊です。

    子供にも読んでほしいけれど、自分も40年かかったので、彼女が読む頃には私は死んでるかもしれないなぁ・・・

    (追記)2021年8月に再読

    今回はノートを取りながら。
    前回は読み飛ばしていた部分にも意識を向けて熟読します。
    特に印象に残った点を3つお伝えします。

    1 西田は白黒思考をしない
    思惟と統覚、主観と客観、分化と統一といった言葉の違いを哲学者らしい緻密な言葉遣いで説明しながらも、全く違うものとは断じません。あくまで『程度の差』であり、最終的には同じものだとまとめます。
    一章から四章まで通じてこの言い回しを使うので印象に残りました。
    主客合一、物事は見方の違いで別物のように見えているだけ、という考えを体現しています。

    2 あたりまえの倫理感を疑え
    彼は紙面の一部を割いて、倫理の体系を比較検討しています。
    直感説、即ち倫理とは当たり前に思う良し悪しの判断である。
    権力説、即ち人に決められた良し悪しのルールである。
    合理説、快楽説、、、、

    特に私はストア派(禁欲的な考え方)に賛成しているので、倫理は合理的なものだと考えていました。
    自分で意識的に考えていただけに、彼が提唱する、活動説と呼ばれるものは目からウロコです。

    合理説がもっている、消極的な姿勢(~をしてはならない)という止める力ではなくて、目的をもって自らの行為を改める、変えることが善である。その積極性を強調しているからです。

    話の3つめは、その目的を抜き出しました。

    3 善(~のため)とは私たちの人格を目的とする、手段にしてはならない

    ラッセルが幸福論で『外への関心を向けよ』と言ったように。
    アドラーが『愛のタスクが最も難しい、それでいて最上のいきる意味である』と断言したように。
    自愛、他愛分けず、その合一を目的にして生きること。これを善とした西田の言葉に複雑な気分を隠しきれません。
    その理想の形に同意できつつも、これまでの経験を振り返って、いかにその善行為を避けてきたか。できそうな相手には発揮して、そうでない人々には無関心を決め込んでいたかが脳裏によぎるからです。
    さらに勇気が必要なことには、この善行為が、今ここから出来るという事実です。
    社会的地位、財力、出自を問わず実践できるだけに、誰でも善行為はできるわけですから。
    実践できるだけに、そうでない人は意識の有無に関わらず悪。心苦しいようであれば、悪よりの振る舞いを選んでいることになります。

    彼の言う善とは、今の自分に対する叱咤激励である。
    そう思えてなりません。

    以上、再読の感想をまとめました。
    この出会いを自分の人生観により働かせることを決意して、いったん感想を終えます。
    長文お読みいただきありがとうございました。

  • 明治44年に出版された本。日本人に哲学はできないと言われていた時代に著された本格的で体系的な哲学書。理解が容易な訳ではないが、実在、倫理、意志などを一つ一つ解きほぐす論理展開が明快で読みやすい。『善の研究』よりも相応しいタイトルはあったのではとも思うのだけど、このタイトルだったからこそ広く、長く読まれる本になったのだとも感じる。歴史的にも意義深い一冊。西田哲学自体はもっと後年の内容も知りたい。

    それにしても大学時代から読もうと思って機会を逃し続けた本をやっと読めて気持ちが良い。

  • 西田哲学については名前しか知らなかったけど、これを読んで少しわかった気がする!
    基本軸は純粋経験にあって、そこから主客がはじまる、みたいな?

  • 「善の研究」西田幾多郎著、岩波文庫、1950.01.10
    254p ¥460 C0110 (2020.01.02読了)(2002.08.26購入)(1989.05.08/63刷)

    【目次】
    序  明治44年1月
    再版の序  大正10年1月
    版を新たにするに当たって  昭和11年10月
    第一編 純粋経験
    第一章 純粋経験
    第二章 思惟
    第三章 意志
    第四章 知的直観
    第二編 実在
    第一章 考究の出立点
    第二章 意識現象が唯一の実在である
    第三章 実在の真景
    第四章 真実在は常に同一の形式を有っている
    第五章 真実在の根本的方式
    第六章 唯一実在
    第七章 実在の分化発展
    第八章 自然
    第九章 精神
    第十章 実在としての神
    第三編 善
    第一章 行為(上)
    第二章 行為(下)
    第三章 意志の自由
    第四章 価値的研究
    第五章 倫理学の諸説 その一
    第六章 倫理学の諸説 その二
    第七章 倫理学の諸説 その三
    第八章 倫理学の諸説 その四
    第九章 善(活動説)
    第十章 人格的善
    第十一章 善行為の動機(善の形式)
    第十二章 善行為の目的(善の内容)
    第十三章 完全なる善行
    第四編 宗教
    第一章 宗教的要求
    第二章 宗教の本質
    第三章 神
    第四章 神と世界
    第五章 知と愛
    解題  下村寅太郎

    ☆関連図書(既読)
    「西田幾多郎『善の研究』」若松英輔著、NHK出版、2019.10.01
    (「BOOK」データベースより)amazon
    真の実在とは何か、善とは何か、いかに生きるべきか、真の宗教心とは―。主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する根本の問いを考え抜いた西田幾多郎(1870‐1945)。東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組そのものを問題にした本書は、百年後の今日まで日本の哲学の座標軸であり続ける。

  • 西田幾多郎『善の研究』(1911年)を20年ぶりに読みかえした。

    この本のポイントは、たぶん、「われ思うゆえにわれあり」の「われ」ってどこからでてきたんだ?それって妄想なんじゃねーのというところだろう。で、「われ」じゃなくちゃーなんだとなるが、もちろん、ほかの誰かさんとか、梵天さんの夢とか、そんなもんでもない。

     大ざっぱにいうと、「われ」というのは、一種の「まとまりかた」(統一)としかいいようのないもんだということになる。物もそのような「まとまり」で、空間とか時間とか因果とかは「まとまり」である「自己」が「物」を整頓をする形式なんである。で、この「まとまり」をだんだん大きくしていって、「自然」やら「神」やらが説明されていく。こういうのは活動する全体集合といったようなもんである。「西田は高等数学がわからんと理解できない」などといわれるけど、高等数学というのは、集合論とか射影みたいなもんじゃないかと思う。

     『善の研究』はメガネの外し方としては面白いし、ひざをうつところも多い。しかし、あんまり便利な言葉や、すべてを説明しようとする理論なんてのを考えるのは、それこそ「哲理を考えるべく罰せられた」(ヘーゲル)ところの呪われた行為なのかもしれんなーと思う。「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」というのも、なんだか禅が以心伝心を宗としたのを思いだしてしまう。悟りをふりまわす人も多いからじゃないかと思う。方以智にいわせれば、「機鋒を争う者が群起する」といったところかなー。

     神=自然とやるのは、まあいいとしても、人=神の部分集合とやると、その通りではあるけれど、悪用する部分集合がでてきて、「小さい自己を脱して大きな自己に生きろ」とほかの部分集合に言いはなち、くだらん戦争で突撃をするための飾りになってしまう。ほんらいなら、戦争なんかやめて家にかえって、部分集合としての自分をありがたく生きれば、それでいいんじゃないかと思う。西田さんもそう思っていたんじゃないかと思う。

     西田さんはきちんと座禅をした人なんだが、明末あたりの中国思想じゃ、禅は異端だったり、過激思想で「アカ」扱いだったりする。王陽明も若いころ禅にころんだらしいが、結局、「現実の起伏に即した」(荒木見悟)把握をめざすことになる。儒家にいわせると、禅師なんてのは、世の中の経営の苦労をバカにして、思わせぶりで、悟りを鼻にかけて、まったく気にくわない人たちじゃなかったのかなと思う。禅宗の内部でもインスピレーションだけじゃだめだよということで、祖師をきちんと学ぼうという動きがあって、『宗鏡録』をよめといってみたり、戦乱下の民衆の救済を考える社会派の禅僧(覚浪道盛)なんて人もでてくる。

     だけど、儒家がやっている君臣だの、親子の関係のあるべき姿だのが、禅にくらべて、せせこましくみえるのは否定できない。だけど、こういうせせこましいところに、みんなが通る道があって、現実に即して考えることもいっぱいあって、あんがい奥深いんだぜというところが理解してもらえなかったりする。そこがつらいところなのかもね。

     『善の研究』をほんとうに生かせば、こういう儒家の立場もはいってくると思うし、ほんとうに面白い本である。「我々の神とは天地これに由りて位し万物これに由りて育する宇宙の内面的統一力でなければならぬ」(第四編第二章)なんてのは、これ『易』の「太極」だよなーと思う。『易』はいちおう儒家がおもんずる古典なんである(道家も『易』は好きだけど)。方以智は『易』が中国最初の以心伝心であるといっている。

     西田さんも『善の研究』で終わったわけじゃないから、つづきをよまないといかんなーと思う。ということで、つぎは『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』なのである。「場所」は一回読んだけど、もちろん忘れている。なんともこまったもんである。

  • 西洋人の形成力は、理論一つにしても、まるでそれぞれのものに実体があるかのような精巧さがある一方、多面性に欠ける。一面的な効用を主張するあまり、本質の性質に欠落が生じる。やがて見落としてきたものたちが問題となって噴出する。

    我々は意思に従うよりも原理・法則に則る方がより大きな自由を得られる。

    この世にはある一つの統一意志が働いており、万物はその意志の発現による産物である。そして、事象の発現に伴い、必ず二つのものが生まれる。例えば無から有が発現する場合、何もなかったはずのところに有の発現と同時に無という概念も発現する。これはすなわち、有と無は独立した別の働きがあるのではなく、有を生むという統一意志が働いた結果、同時に相反する無も露わになる。

    一つの統合に向けた作用は分化発展を繰り返す。西洋はこの発展の一面、言わば「有」ばかりを見て主張する。この見方では個の事象が隔離され孤立させられる。これはすなわち個の事象を限定するという事。だから一見発展しているようでも実態は同じ次元を延々とめぐる事になる。

    今の風潮はあたかも自然は独立した客観的存在、まるで機械のようなものであり、人間の技術が主観的なものであるという考え方をしているが、自然と精神は同一のものであり、万物とは程度の差による違いが発露したものたちにすぎない。

    我々がモノを知るという事は、自己とモノが同一となる事。

    優れた創造物にはモノの本性が矛盾なく表出されている。

    我々が意志だと思っているものは、実は身の回りの環境、自然の作用である。

    精神とは自他を区別し、自己を自覚する意志活動の事であり、人間はそうした自然の意志・精神を自らに取り込む事で自己を形成する。我々がいわゆる人格と呼ぶものも、自己と自然との遭遇、純粋経験の積み重ねによって作られる。

    道徳観の共通点は、義務で自己の要求や活動を制限してしまう事。だが、このような自己の抑圧をしない事こそが真の「善」である。

    自己が世界と不可分な状態にある時、自己は世界の秩序に取り込まれ、そこに自立した意志が働く必要はなくなる。我々が我々である為には、常に自己と外界との衝突がつきもの。各人が完璧に整った環境に生まれ発展しても何の個性もない。各々ユニークな環境下において、絶えず自己の分化発展を続ける事。

    個人は自主独立している。有を離れた無は真なる無ではないように、一切を離れた一もまた真なる一ではない。個人が個人によった働きをするからこそ世界は豊富深遠となる。

    万物は神の発現であるならば、宗教による個人の目的は神との合一にある。ただ個人の欲求のままにあるのではなく、世界との合一をはかる事。自己の統一と発展が不可分なく行われる事が、真に生きた宗教である。現代の宗教は自己の安心や小欲無憂が最上であると誤認されている。

    本来、世の全ては善である。仮に悪が存在しようが悪には悪の役割があり、因果がある。

    キリスト教の信条は「愛」。相手との共有や同化を求める情動。仏教の信条は「知覚」。知とは主観を限りなく客観へ向ける為、無我が求められる。この二つは、自己を限りなく外に向ける点では、まったく同じ性質を秘めている。

    日常の全てが自己の統一活動の場。

    我々は、宇宙こそが唯一の実在だと考えているが、自己とは宇宙精神の実験のように思える。

  • 金沢に越してきたので読んでみた。純粋経験の概念は興味深い。門外漢としては非常に新鮮だった。最終章の愛と知についての話もわりと好きだった。

  • 難しい。
    とにかく難しいです。
    前半の内容が特に理解不能で、純粋経験なるものを解説していますが一知半解…。主観と客観の超越とか言われても今一つピンときません(笑)
    本書後半からがタイトル通り『善の研究』について述べています。こちらの方が分かりやすい。ただ、これといった知識を得られないまま読み終えてしまい(これは僕の理解力不足にある)、また歳を重ねてから読むといいのかなと感じました。
    上記引用を見れば分かる通り、本質の本質を掘り下げようとする姿勢には感服です。『なぜ地球が自転しているのか』『なぜ私が私であるのか』『なぜ殺人を犯してはならないのか』『インセストタブーの普遍性』…例えを挙げればきりがありません。しかしこの根本的な質に、明快で説得力のある答えは未だかつて出されたことはありません。

    人格の実現が善ならば、突出した、つまり何かに秀でたものがある人が良い、と。個々人の突出したものが総体として民主主義につながっていく、あるいはそれらが互いに刺激し合って多様な社会・文化を育んでいく…。

    読後感としては『すごい』の一言に尽きます。日本にはこれほどの哲学者がいるのかと、驚愕しました。
    純粋経験(主客合一)の視座を築き、さらに実在論や神についての考察はまさに圧巻です。

    本書の最後、

    主観は自力である、客観は他力である。我々が物を知り物を愛すというのは自力をすてて他力の信心に入る謂いである。人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、我々は日々に他力信心の上に働いているのである。学問も道徳も皆仏陀の光明であり、宗教という者はこの作用の極致である。学問や道徳は個々の差別的現象の上にこの他力の光明に浴するのであるが、宗教は宇宙全体の上において絶対無限の仏陀その者に接するのである。
    (―中略)
    而してこの絶対無限の仏もしくは神を知るのはただこれを愛するに因りて能くするのである、これを愛するが即ちこれを知るのである。印度のヴェーダ教や新プラトー学派や仏教の聖道門はこれを知るといい、基督教や浄土宗はこれを愛すといいまたはこれに依るという。各自その特色はないではないがその本質においては同一である。神は分析や推論に由りて知り得べき者でない。実在の本質が人格的の者であるとすれば、神は最人格的なる者である。我々が神を知るのはただ愛または信の直覚に由りて知り得るのである。故に我は神を知らず我ただ神を愛すまたはこれを信ずるという者は、最も能く神を知りおる者である。


    上記引用は秀逸。鋭い洞察力と言えます。『知を愛する』という単語(フィロソフィア=哲学)があるのを知ってか知らずか、それを神と結び付ける技、巧みな論考には驚きです。

    と、素晴らしい本だと褒め称えたいのですが、恐らく本書の半分も理解していないだろう僕の頭では、『面白いけどもっとわかりやすく解説して!』と心の中で叫んでいるので(笑)評価をA―にします。

  • さすがの密度。読み慣れないので骨が折れるが、一章一章で他の本なら一冊分くらいの内容がある。日本最初の哲学書が分別の還元なのも面白い。

  • 東洋思想と西洋思想をより根本的な地点から融合させようとして、
    それを「絶対矛盾的自己同一論」と発展させた彼の思想は面白いなぁ。

    行動と思想は分けて考えることができない。

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