遠野物語・山の人生 (岩波文庫 青138-1)

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  • 岩波書店 (1976年4月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (330ページ) / ISBN・EAN: 9784003313817

みんなの感想まとめ

多様な民話や伝説が織りなす物語は、単なる昔話にとどまらず、深い社会的背景を持つ作品です。特に、閉鎖的な寒村に秘められた心の闇や、神隠し、母殺しといった衝撃的なテーマが交錯し、読者を魅了します。柳田国男...

感想・レビュー・書評

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  • 遠野物語:1910年(明治43年)。
    日本民俗学の開拓者・柳田国男の代表作。陸中遠野郷(岩手県の遠野盆地近辺)に口承で伝わる民話を柳田が編纂したもので、本邦民俗学の発展に多大な貢献をしたとされる名著である。民間伝承を、その原型を尊重し余計な装飾を排して聞いたままに記したとされるが、簡素ながらも気品のある美しい文語体で綴られており、日本民俗学の記念碑としてのみならず、その文学性も高く評価されている。

    土の匂いのする物語だ、と思った。混沌が、混沌のまま残されている。のどかな民話集かと思って読むと、結構な衝撃を受けるだろう。座敷童、天狗、マヨイガなどノスタルジックな怪異譚も多いが、神隠しの話などは超常現象ではなく何者かによる拉致監禁ではないかと疑われる節もあるし、息子による母殺しという明らかな刑事事件も混在しているし、お伽話として片付けるにはあまりに生々しく泥臭い。閉鎖された寒村の心の闇をのぞいてしまった気がして、ちょっと背筋が寒くなった。「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」という序文の言葉は、あながち誇張でもないようである。

    しかし、慣れてしまうと妙に心惹かれるものがある。お酒に例えるならば、泉鏡花などに代表される純文学としての怪異譚は大吟醸で、こちらは地元の民家で作られるドブロクという感じだろうか。最初は飲みにくいが、いったん慣れると癖になる。これが民俗学という学問の「味」なのかもしれない。好き嫌いが分かれると思うが、私はこの味が嫌いではない。それを発見できたのが本書を読んでのささやかな収穫だった。折をみて、この分野のほかの本も読んでみたいと思う。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「地元の民家で作られるドブロク」
      上手い表現ですね。
      学生の時、「宮澤賢治」「奥の細道」「遠野物語」を巡る旅を考えたのですが、纏まらずに断念...
      「地元の民家で作られるドブロク」
      上手い表現ですね。
      学生の時、「宮澤賢治」「奥の細道」「遠野物語」を巡る旅を考えたのですが、纏まらずに断念。今思えば欲張り過ぎずに、どれか一つにしておけば良かった。。。
      2012/04/12
    • 佐藤史緒さん
      文学を巡る旅は面白そうですね。確かに、学生で独身のうちしかできない贅沢な旅ですね。
      柳田国男の他の著作も読みたいですが、柳田とくれば折口信...
      文学を巡る旅は面白そうですね。確かに、学生で独身のうちしかできない贅沢な旅ですね。
      柳田国男の他の著作も読みたいですが、柳田とくれば折口信夫も読みたくなります。また、宮本常市の「忘れられた日本人]という名著もあるようなので、そちらも読んでみたいです。
      2012/04/21
    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「柳田とくれば折口信夫も読みたくなります」
      折口(チョッと難しい)、柳田、宮本は、文字に残されるような偉いコトをした訳じゃない私達庶民を書...
      「柳田とくれば折口信夫も読みたくなります」
      折口(チョッと難しい)、柳田、宮本は、文字に残されるような偉いコトをした訳じゃない私達庶民を書いていて素晴しいですよね。。。
      久々に「死者の書」読みたくなっている。。。
      2014/04/07
  • 1910年の『遠野物語』と1926年の『山の人生』を1冊にしたもの。

    桑原武夫が解説で指摘しているように、『遠野物語』はあくまでも「今日」や「近頃」の話として語られているのが、興味を惹かれる。実際、「西洋人」の風習や1896年の三陸大津波に関する話も収録されているし、マッチ工場も登場する。家産が傾く話も目立つが、これも明治期のことのように思われる。伝説や民話集としてだけではなく、幕末~明治期の急激な社会変動のなかでの人びとの記憶としても読める作品なのだろうと感じた。

  • 100分de名著で「遠野物語」を読んでいる。その第二回について、こちらに書く。

    三人の女神が統べる遠野三山(早池峰山、石上山、六角牛山)は、女神の嫉妬を恐れて女性は登らない。反対に男性の成人儀礼の山となっている。

    面白いのは、他の山は男の神様が統べるようになっている。混沌とした神様の体系。ギリシャの神々ともまた、違う。恐ろしい部分と豊かな部分を見せる。まさに自然そのもの。

    里や家の中に神様がいる。
    オシラサマ、座敷童。
    家に福をもたらす神様。
    実際にあった豪農の盛衰を語る。孫左衛門の家のことが繰り返し語られる。

    柳田は神様は本当にいたと思っていたか。
    「不思議であることをそのまま認めていた」

    九六 遠野の町に芳公馬鹿とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。この男の癖は路上にて木の切れ塵などを拾い、これを捻りてつくづくと見つめまたはこれを嗅ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことしておりおりこれを嗅ぐなり。この男往来をあるきながら急に立ち留り、石などを拾い上げてこれをあたりの人家に打ちつけ、けたたましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすればその晩か次の日か物を投げつけられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度となくあれば、のちにはその家々も注意して予防をなすといえども、ついに火事を免れたる家は一軒もなしといえり。

    知的障害の人々にも人を超えた能力を持つ人がいる。経済原理のの中の合理主義ではなく、居場所をもたせる。この白痴の男の嗅覚は非常に高かったのか、それともたまたまいつもの奇行が火事の家に当たり、それに尾ひれがついたのか。それはどうでもいい。ともかく、それが人々に語り継がれて、「許されている」しかも本人が去年まで生きてる、ということに、日本人の「人智を超えたもの」との付き合い方がある。

    しかも、この男の能力は火事を防げなかった。人間の能力を超えたものは防げない。自然災害に対する日本人の諦めの良さはここから来ているだろう。

    自然に対する態度は、それでいいと思う。私だってミサイル程度で殺されるゴジラは見たくない。神々とつながる人々はどうか。白痴の男は、共同体の中では人智を超えた者になった。共同体の中の居場所を与えていることは素晴らしい。しかし彼は自然そのものではない。白痴の人間は、一方では毎日家族が世話をしていた人間だっただろう。しかし、遠野物語の中では自然そのもののように扱われている気がする。神々と人々との付き合い方ではなく、人々と人々との付き合い方はどうするか、その答えを求めるのは、遠野物語の任務ではないのかもしれない。

    明治から昭和にかけて、日本は史上稀に見る変革期を迎えた。政治体制の変化だけではなく、生活、民俗の変化が著しかった。その中で失われたものを大切にし、そのエッセンスはもしかしたら、現代に脈々と受け継がれているかもしれない。いや、受け継がれているのである。だからこそ、そこから得るものを探して行きたい。

    ずっと昔、常民文化研究会の指導教官だった高桑守史先生との「論争」を、今しきりに思い出している。
    (2014.6.17記す)

  • 河童とか座敷童のでてくる遠野物語読んでみたかったのですが早池峰山とかは一度登ってみたいとおもいました。

    山の人生の方は神隠しとか山の神に嫁入り、山姥とか奇怪な事例と考察があっが平地に暮らす人々とは違う文化や暮らしぶりが窺われた。サンカのことにも少し触れていましたが流浪の民が日本にもいたことにロマンを感じました。
    けれども飽きてしまい最後まで読めませんでした。

  • 前段の「遠野物語」はいつか読んだ。でも後段の「山の人生」と合わせて読むことで、改めて感心せざるを得ません。

    興味ポイントは2つあります。

    ひとつは、山に、実際に人がいたという事実。古くに渡来民族に追いやられたと思われる日本の先住民族ではないかという指摘です。彼らは顔赤く、背が高く、目が爛々と光る異人であった。
    かれらが、里人とある時には接触したり小ぜりあいを起こしたり同化したりしつつ、やがて「山姥」「河童」「デェラボッチ」「天狗」の伝説に昇華していったと推論するわけです。
    「山の人生」というタイトルはよくつけたもので、山にあった異形のものでも、それはかつて「普通の人間」であったという示唆ですね。

    もうひとつは、この書が書かれた大正から昭和にかけての時代…まだ神隠しやらが「実際に」起こっていた同時代に、伝承や民間の文書をたんねんに冷静に読み解くことで、その裏に潜む「事実」をあぶりだそうという、柳田国男の先見性というか、科学の萌芽への驚きです。

    *
    ところでちょっと突飛な連想ですが、次のようなことを思う。

    ときは現代。
    むかしのような迷信はなくなったろうか。実は今もあるんじゃないか。

    ある種の都市伝説とか、スピリチュアル系・宗教系のもろもろとか、あるいはチェーンメールとか、「祟り」のような不思議譚や恐怖譚は今も事欠きませんやね。

    そういう怪異系に限らず、インターネット上でささやかれる数多の情報、データ、ウワサは本当にそれと信じていいものかどうか。

    山の魑魅魍魎と、情報の海の魑魅魍魎…人間は大して進歩していないんじゃないかしら。

    それらを読み解くリテラシーというものを、当時の柳田国男以上に、現代人こそ持つべきなのかも知れません。

    • ayaさん
      考察が面白かったです(^^)
      人類の誕生した20万年前から、ヒトなんて大して変わらないだろうと私も思います。
      いくら科学技術が発展しようと、...
      考察が面白かったです(^^)
      人類の誕生した20万年前から、ヒトなんて大して変わらないだろうと私も思います。
      いくら科学技術が発展しようと、法が整おうと、残虐で動物的で、不可思議なことに惹かれる性質は変わらないですよね。
      妖怪や怪奇現象は、姿形を変えながら今もかわらず存在していると思います。

      長文失礼いたしました。
      2022/02/04
    • hy343さん
      aya様、ご高評ありがとうございます!
      aya様、ご高評ありがとうございます!
      2022/02/19
  • 一度読もうとして挫折した本。今回めでたく読了です。
    以前から、遠野物語には興味を持ってましたが、文語体の文章はスラスラとは読めません。勉強不足の自分の場合、理解するのに通常の1.5倍はかかりました。それと比較して「山の人生」は読みやすいうえに様々な伝承から理論的に推察し最終的に「山人」の存在を浮かび上がらせていくなど、非常に興味深く、面白かったです。
    個人的に印象に残ったのは2つ。一つは現在と近代化以前の庶民の感覚が全く違うこと。特に人の「死」に対する考え方がやはりというか、違うものだと改めて感じました。冒頭にある名文「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」。まさに戦慄を覚えた部分も多くありました。
    もう一つは終盤にある「これを下品だとして顧みないような学者は、いつまでも高天原だけを説いているがよい。」の文。今では、この高天原すら論ぜられなくなった現代。進みはしていいるものの、まだまだ埋もれたままの歴史を地道に掘り起こすことが大事なのかな、なんて思いました。

  • 我々が空想で描いて見る世界よりも、 隠れた現実の方が遥かに物深い。柳田国男『遠野とおの物語』1910

    諷刺の笑いというのは淋しいもので、それの出しゃばる時世はきっと明朗でないのだが、 また一方に牽制するところがあって、我がおろかを棚へ上げている者を自粛せしめる。柳田国男『不幸なる芸術』

    魂になってもなお、生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人である故か、私には至極楽しく感じられる。柳田国男『魂の行くへ』

    仏教が新しい考えを日本にもたらしたというより、日本固有のものが仏教に触れて変質していった。柳田国男

    ******************

    まれびと。海のかなた、別世界から村にやってきて人々に恵みを与えて去っていく。折口信夫おりくち・しのぶ『まれびと(稀人)の歴史』1929

    あの世は抽象的なものではなく、自分の生活している世界の「あの山」の向こう、「あの海」の彼方に聖なる世界(仏の世界)がある。▼「しぬ」の漢字は「萎ぬ」。生気が無くしなしなになること。その逆は活く(いく)。折口信夫『死者の書』1943

    ******************

    庶民の生活を描き出すことで、今日の文化を築き上げてきた生産者のエネルギーはどういう人間関係や環境の中から生まれて出てきたのかを探る。宮本常一『忘れられた日本人』1960 ✳︎性に奔放な庶民の女性たち。cf. ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』1585

    ヨーロッパでは都市(生活領域)の中心に教会が建てられ、神がまつられる。日本では生活領域の端(自然との境界)に神がまつられる。山の奥(オク)と海の沖(オキ)はともに聖なる領域への志向性をあらわす同じ語源の言葉ではないか。オギュスタン・ベルク『日本の風土』1986

    ********
    ○付喪神つくもがみ。道具は長い年月が経つと精霊が宿る。神社で人形・もの供養をする。
    ○道祖神どうそしん。外から悪いもの入ってこないよう村を守る。

  • ごく短い物語ばかりたんたんと続くのだけれど、読み進むうちに不可思議な酩酊感に襲われる。文語のリズムが心地よい。京極夏彦のリミックス版と平行して朗読してみたら面白いかもしれない。例えば宮沢賢治との関連を読み解きながら。

  • 前々から読んでみようと思っていて、長らく手を付けてなかった。
    民俗学はキライではないけれど。
    今回読了に至ったのは、
    此度、父親の故郷である岩手県釜石市に父母が墓参りついでに観光で遠野迄足を伸ばすとのことで、急遽読んでみた次第である。
    遠野物語を読んでいて、佐々木姓がふんだんに登場したとき、岩手って、本当に佐々木姓が多いんだなと今更ながら思った。父は婿養子だが、婿養子になる前は佐々木姓である。
    繋がりがもしあるのであれば、辿るのも面白そうだと思うが、父の実家は既にない。おそらく家系図などもないだろう。歴史的背景を調べられないのは非常に残念だ。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「おそらく家系図などもないだろう。」
      戸籍(除籍)謄本を取り寄せて、調べると言う方法がありますが、、、役所って協力的かどうかは判りません。。...
      「おそらく家系図などもないだろう。」
      戸籍(除籍)謄本を取り寄せて、調べると言う方法がありますが、、、役所って協力的かどうかは判りません。。。
      2013/05/07
  • 遠野で起こった不思議な出来事が、柳田國男の美しい筆致で次々描かれている。
    先日、遠野旅行へ行ってきたので、とても興味深く読んだ。

  • 遠野だけが特別ではないのだろう。
    ここでもどこでも聞かれそうな話ではあるけれど、著者の書き様がとってもいい。

  • 「願わくばこれを借りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ」
    近代化への憂いと山人文化への期待が、序文のこの二文から強く感じられる。リズムもよくてとてもかっこいい!

    実際読んだのは青空文庫の序文だけで概要や時代背景は別の本や動画を参考にした。
    メモ代わりに投稿させてもらう

    結局山人文化の思想は崩れることとなったが、遠野で怪奇的な体験が生まれ、伝わり、広まったことは「現在の事実」だった。
    今もなお文化を継承したいという想いから遠野市で遠野物語が語られていることは、事実である。

    西洋文明が中心の現代でも、実証できない主観的なものは文明の発展に役立たずに思われてしまうがそうではないのだ。
    大切なものは合理性も客観性もないところにある。どんなに主観的であり得なそうな現象や想いにも、今を読み解くキーがある。
    人の想いだってほとんど主観的で自分から見れば他人は理解し得ないことばかりだが、他人を意味が分からないと撥ね退けることをせず、その人の主観に寄り添う生き方をしていきたい。

    世界は単純なものではなく、神秘的な偶然の出会いが常に作用し続けている。合理性よりも直観を大切に生きていきたい。

  • 中学校の修学旅行で岩手に行くことになり、事前に研究発表会が行われたとき
    発表内容に一部を調べるのに使ったのが遠野物語でした。
    様々なフィクションで、メタファーとして、目にしてはいましたが、きちんと通して読んだことがなかったので読んでみることに。

    民俗学としてはもちろん、単純に、物語としてもとても面白いです。

    『遠野物語』が目当てでしたが、『山の人生』も非常に興味深い内容でした。

    様々な逸話を考え合わせて事実を突き止める作業にとてもロマンを感じます。

  • 伝承文学の原石そのままの魅力を抜き出したような(しかし実際には意図的に漂白された)遠野物語も素晴らしいが、柳田自身の考察が前面に出ている山の人生が抜群に面白かった。日本各地の地方に伝わる神隠しの口頭伝承、それと同時に山の人(つまり、仙人だ)について語られた説話を結び付け、山の人とは日本民族が定住する前からこの地に住んでいた先住民の末裔ではないかと推測するその論はとても刺激的だ。「我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い」という一言は、物語の起源に向き合い続けた者が持つ説得力がある。

  • 遠野物語より「山の人生」こそ日本人が読んでおくべきものかもしれない。

  • 日本に先住民がいたという前提で論を進めることで日本の民俗を分析していこうという書籍だと思う。
    非常に興味深く読むことが出来た。

  • 岩手県の沢内村といえば、太田祖電と深沢晟雄であるが、気になったのが「佐々木」という名前の人が何かにつけて目につくということだ。気のせいかも知れないが、深沢を助けたのは佐々木吉男だし、対滝閣の経営者も佐々木、そして遠野物語の語り手も佐々木鏡石だ。
    理由は、宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国に住み、佐々木姓を名乗り、その佐々木一族が源頼朝に従って奥州征伐に向かい、その後そこで暮したことから……らしい。

    閑話休題。遠野物語は一つの文学作品である。芥川が今昔物語に注目していて、その逸話と同じようなものがここにも感じられ、中世のあの混沌とした感覚が、リアルでつい最近までの山にもあるじゃん、それはとっても嬉しいなと絶賛したとか。

    私達の知らない日本人の姿の探求の書である。それは昔からあったであろうけれど、忘れられた。本来の日本人性の復権のようなものが、この本に潜んでいる。復権というよりは、外国に在る人に示す……外国とは、もちろんそのままの意味でもあるだろうけれど、近代化した日本人に示すという意味合いもあるだろう。「ガガはとても生かしては置かれぬ、今日はきっと殺すべし」というのを、三島が絶賛し、楢山節考とかもこの遠野物語にあってもおかしくないが、それよりもこういった、柳田という一人の役人が、報告書のようにたんたんと一つ一つ現代に蘇らせていく「報告書」感覚が、妙な臨場感を覚えさせる、そこがいいのだ。佐々木鏡石著、であれば、たぶん創作入っているだろうとかで、よくありそうな怪奇譚扱いだったろうが、柳田がやっていることによって、「よくありそうで、すませるな。ここには何かある……」となっているように思う。

    山の入り口に立つだけで、この山の中に何人いるのかとかがわかる人がすっかり少なくなったり、「日本人と山」というものが、いつからかよそよそしい関係になってしまっている、昔の人間にとって山とはなんだったのか、山人……彼らはもし真の人間であったとしたらあまりにも我々と遠く、もしまた神か魔物かだったというならば、あまりにも人間に近かったと評する柳田は、山に何を求めていたのか。

    村で子どもが行方不明になれば、奪還の儀式として「かやせー」と練り歩くこと。そこに何を見るのか。合理的でないその様を面白おかしく関心するのか。日本の先住民。その先住民は人権を求めたりなんかはしない。もう消えてしまったもので、それは何か野蛮なものや、アフリカの原住民とはまた違う、どちらかといえば、森の中の賢者であるフクロウや、ファンタジー世界のエルフのような、偶然性に依存した、ボーイミーツガールみたいな風に、山を見てしまう。
    そういった「見てしまう山」という、通常の感覚と異なる現在進行形を考えることが、日本人を考えることだ。自己は、非自己になってこそ生まれるものであり、日本国民は、非日本国民(外国人ではない)でもって、浮かび上がってくる。山の人は定まった場所に家がない。それでいて生きていけること。それは、毎日家にかえってマンションで団らんをしている私達の想像を超える。
    聞きたるまま書かれた、ではなく、感じるまま書かれたという、「感じ」に注目するが、そういった感性頼りが、小林秀雄のような文学の、学問ではないという批判として扱われるが、信ずること、考えることにある、ヒヨが鳴かなかったら発狂していたということや、何を信じ、何を考えるのか、そのスタイル、姿勢を見るというのは大事なことだと私は思う。
    一番気になるのは遠野物語の96、芳公馬鹿という白痴が石を拾い上げて家に投げつけて火事だ火事だと叫ぶと、ことごとく火事になる逸話だ。だって、こういう人、都会にもいそうでしょ。でもいない。でも、出会いそう。山の話が現代にもつながりそう。そんな「そう」の感覚から、どのように一歩踏み出すのか。それをフィールドワークとともに想像力と直感で補って神話的なものを生み出すのか、とにかく文献を持ち出して実証的に築きあげてレポートとしてまとめあげるのか、その境界線上で静かに決断すること、信じてやってみること、その始まりがこの本にあると思う。

  • 柳田国男の代表作の一つ、東北の遠野地方に伝わっていた伝説や民話などを集めたもの。その地方出身の知人から聞いて書いたということで、内容は(当時からみて)割と最近に起きたらしいことも含まれている。今から見ると全て遠い過去の話だが…。

    かつて読んだケルトの妖精物語などに近い印象。読んでいて、向こうのものと似たようなエピソードもあり、日本ではこういう解釈、アイルランドではああいう物語になるのか、などと想像して面白かった。

    同時収録の「山の人生」について。こちらのサイトで「山の人生」が面白いという意見を多く見かけたので、この岩波版を読むことにしたのだが、確かに面白かった。こちらは、神隠し、天狗、山姥などの日本全国の山にまつわる伝説や物語、地方に伝わる習慣や祭などから、山に住んでいた(とされる)人々についての全体的な考察をエッセイとして纏めたものとなっている。

  • この『山の人生』という本も、改めて読み返してみるとつくづく不思議な本です。論文とも、エッセイとも、ルポともつかぬ捉え所のなさを感じます。

    昔の人は発狂して山に姿を消すことがあった、そしてその人は何年も後に一度だけ人里に姿を現して、後はそのまま完全に行方不明になってしまうのであった…これは遠野物語の「サムトの婆」を思い出させる物語ですが、こういう物語が全国に共通してある。

    ではそうした物語に込められた、人々の精神構造とは一体どんなものなのか――。少々単純化して言えば、この本はそういう問題意識から出発して書かれたもののようです。

    では作者の柳田國男はどういうスタンスでその問題に解答をあたえようとするのか。

    最初、その視点は、いわば現象学的です。そういう物語が現実に有り得たのかどうか、という科学的な視点でもなく、単なる物語の歴史的系譜の分析に留まるでもないのです。

    柳田の視点は、その物語が生まれた世界、あるいはその時代に生きていた人々にとってその物語はどういうものであったのか…を探ろうとする視点に他なりませんでした。

    ところが読んでいくうちに、だんだんその視点もおかしくなっていきます。古の人々の心情がどうとかいう以前に、柳田自身が物語世界に首まで漬かってしまっているのです。

    本の中で紹介されている「山に消えた人々」に関する昔話や伝承が、いつしか全て実際にあった出来事のように語られ出しているのです。

    だからと言ってこの本は論旨や趣旨が破綻しているかというとそうではなく、むしろこのような奇妙な歪みやブレが、この本を魅惑的なものにしています。

    そこに、かつて「山人」の存在を証明することを夢見てそれに挫折してしまった柳田國男という学者の姿を透視することは簡単です。しかしそれは、この本の魅力を理解するためには補足的な要素でしかありません。

    『山の人生』は、かつて「山」という異世界に惹かれ、呑み込まれていった人々が存在していた(らしい)という伝承を通して、一人の詩人が自らの中にある詩情を吐露している。そんな印象を受ける本であります。

  • オシラさまとか、中国から伝わって定着した民話って多いよなと思います。

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著者プロフィール

1875年(明治8年) – 1962年(昭和37年)。兵庫県生まれ。日本民俗学の開拓者である。
代表作に『遠野物語』、『蝸牛考』、『桃太郎の誕生』『海上の道』などがある。

「2025年 『大活字本シリーズ柳田國男⑤ 雪国の春』 で使われていた紹介文から引用しています。」

柳田国男の作品

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