風土: 人間学的考察 (岩波文庫 青 144-2)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003314425

作品紹介・あらすじ

風土とは単なる自然環境ではなくして人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方に他ならない。この観点から著者(一八八九‐一九六〇)はモンスーン・砂漠・牧場の三類型を設定し、世界各地域の民族・文化・社会の特質を見事に浮彫りにした。

感想・レビュー・書評

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  • 高校生時代の「倫理社会」の先生が、”和辻哲郎の「風土」を読む”という課題を我々に与えたことを思い出した。先生の意図は全く覚えていないが、難しくて途中で投げ出したのは事実。それで今回リベンジのつもりで読みだしたものの、やはり今回も第三章まででリタイヤした。

    章立ては次の通り。
    序  言
    第一章 風土の基礎理論
     一 風土の現象
     二 人間存在の風土的規定
    第二章 三つの類型
     一 モンスーン
     二 沙  漠
     三 牧  場
    第三章 モンスーン的風土の特殊形態
     一 シ  ナ
     二 日  本
       イ 台風的性格
       ロ 日本の珍しさ
    第四章 芸術の風土的性格
    第五章 風土学の歴史的考察
     一 ヘルデルに至るまでの風土学
     二 ヘルデルの精神風土学
     三 ヘーゲルの風土哲学
     四 ヘーゲル以後の風土学

    著者は、この「風土」に関する考えを、ハイデッガーの「存在と時間」から発展させたようだ。同書を読んだことがないので、本当のところはよくわからないが、ハイデッガーは人の存在の構造を「時間性」として把握したのに対し、著者は「空間性」として把握することを試みたようである。

    本書で「風土」の定義は、「土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称」とされており、これが「時間性」に対する「空間性」を意味しているのだと思う。

    第一章からやや難解に感じた。「風土の基礎理論」であるから、これが本書の前提なのだろうと思うが、著者の個人的見解のようにも思えるし、理論というには一面的なとらえ方のようにも感じた。

    「寒さ」の感じ方を例にとって、人によって「寒さ」の感じ方が異なることを述べていたように思う。「寒さ」はデジタルに気温などで表現可能であるが、人によってその感じ方が異なる。しかし、同じ土地で暮らす人々=複数の人)に共通の感じ方(=共有できる感覚)があるということを述べる。

    自然科学的な実験結果として明らかになった「寒さ」というよりも、その土地の地味とか地形とか景観などが影響して、すなわち「風土」が影響して、その土地の人々に共通に感じられる「寒さ」である。このことを、本書では「風土における自己了解」と言っているようだ。

    ある地域の人間の「寒さ」に対する自己了解は、家屋の様式に現れたり、着物の形に現れたり、火鉢や炭焼きなど「道具」の形として現れるという。道具というのは、複数の人の感覚の共有の証明であるという。

    そして道具に見られるような「風土の影響による人間の自己了解」はさらに、文芸、美術、宗教、風習、あらゆる人間生活の表現のうちに見出すことができると述べている。

    ハイデッガーの考えも踏まえ、人間の存在構造を時間性のみならず空間性からも把握することを、「歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない。」と表現している。

    この考えを前提として、次章では、著者が主だった風土をもつ地域として3つのエリアを選定して述べている。
    それが「モンスーン」「砂漠」「牧場」のエリアである。これらの三つの風土から生まれる「人間の自己了解」とはいかなるものかの著者論を展開している。どのような文化が生まれ、どのような美術が生まれ、どのような宗教が生まれるのかをロジカルに述べている(ように思えるが、ロジックをとってつけたように感じる部分もあるのは私だけだろうか)。

    本稿は、昭和3年の執筆であるが、当時著者がこの代表的な風土を持つエリアを実際に訪れながら、人間学的観察をしたことをまとめたものと思われる。紀行文+地理学的な発想+民俗学的な発想をミックスして、エッセイに仕上げたという感じである。第一章よりは読みやすかった。

    モンスーンとは、夏に南西から、冬に北東から吹く季節風のことで、日本を含むその季節風の影響を受けるエリアの風土論を展開する。その特徴は夏の湿気に含まれる耐え難い不快感と、さらに一つは、台風、大雨、または洪水、旱魃などの人間が対抗できないような自然災害の多さである。

    このような風土の特徴から、このエリアで生活する人々は、「受容的」であり「忍従的」であると著者は結論づける。日本人やインド人の受容性、忍従性から、どのような文化、どのような建物、どのような宗教が生まれたかについて述べていく。

    モンスーンという風土の代表として、日本人も含みつつ、インドの人々の特徴を考察し、戦闘よりも智慧の力を重視する性質、推理的ではなく直感による情的思惟(大乗仏教などに続く)、無抵抗主義的な闘争(つまりは非暴力・智慧の戦い)などが、この風土から生まれた特徴と述べていた。

    次に「沙漠」について。desertという言葉が表す「荒れ地的な風土」(必ずしも砂漠に限らず、海や山の荒廃した地形をも含む)を取り扱っている。この沙漠をイメージを著者は「死」のイメージでとらえている。

    沙漠(死)の中に存在する生との接点=オアシス的なものの獲得に、人々は命がけであり、その争奪のための部族間での戦闘が始まるという。従ってある部族という共同体に属するという行為は自身の生死を分けることに直結する。つまり、この風土に生きる人々は、その共同体への服従と、対立する部族との闘争という二つの側面をもつという。この風土における人々の性質は「服従的・戦闘的」の二重性格であるという。

    この風土の中から生まれたフィフィ教(回教)やユダヤ教は、絶対服従的・戦闘的な性質を含んでいるという。

    3つめの「牧場」について。著者は「一般にヨーロッパの人間の文化がいかに牧場的であるかを考察する」と述べている。

    著者がいうこの地の特徴は、「湿潤と乾燥の総合である」という。すなわち、モンスーンという風土の特徴と沙漠という風土の特徴の総合であると言っている。この地で暮らす人々は放牧やオリーブ栽培、ブドウ栽培などで、自然と融合しあいながら暮らしている様子を紹介している。その姿は、自然に忍従する必要も対抗する必要もなく、自然と融和しているイメージだ。

    ヨーロッパの「湿潤と乾燥の総合である」という特徴かから、古代ギリシャでは静的でユークリッド幾何学的、彫刻的、儀礼的な文化が生まれたといい、近代西欧からは、動的、微積分学的、音楽的、意志的な文化が生まれと述べている。

    3つの代表的な風土とそこで暮らす人々の性質、そしてまたそこから生まれた宗教、文化などには異なる特徴がみられるということを述べるとともに、相互の風土の短所・長所を自覚し、学ぶことによって、それぞれの風土の限界を超えて成長していくことができるのではないかと述べている。この目的観は良い発想であると思った。

    第三章では、「モンスーン的風土の特殊形態」として日本の風土について述べている。

    台風的忍従性として、「生への執着」からさらに「生への超越」の特徴を述べていた。桜のように散るという発想は、「生への超越」からくるものか。

    あるいは親のため、家族のために一生を犠牲にするというのも「生への超越」から来た特徴か。

    西洋の家の構造と日本の家の構造の違いの話が興味深かった。西洋では家族で住む家において、個室に鍵をかける。すなわち個人主義である。一方日本においては、家の玄関に鍵をかけるのであり、家の中は「うち」、家の外は「そと」という区分である。これは家族に個人が埋没した発想である。

    あるいはこの発想の発展系として、日本国民は一同に「うち」、外国は「そと」という発想に拡張することにより、国民を国家の犠牲と考えた時代があった。そういう発想に陥りやすい風土であるということであろうか。

    日本の歴史を振り返った記述があった。
    ①神話・伝説の時代(古墳時代)は、祭司の権力に個人は伏していた。
    ②大化の改新の時代は、天皇の権力に個人は伏していた。
    ③封建的組織の再興の時代は、君主の権力に伏する時代であった。
    ④戦国時代は、支配階級がくつがえされる時代であった。
    ⑤明治維新は、再び中央集権国家となり、天皇に伏する時代となった。

    本稿は、明治維新後、西洋文化を取り入れ、鉄道や自動車が日本で見られる時代となった昭和初期の執筆である。著者は、その光景を見て違和感を感じる。風土の異なる地域から、その風土の産物である道具としての電車や自動車を取り込んだことによる違和感であろう。

    しかし時代とともに、電車や車の違和感はなくなった。もはや風土的特徴をもつ道具ではなくなったということだろう。

    著者の考察は、一見独断的なように見えるけれども、例えば代表的な3つの風土に暮らす人々の性質は、妥当であるようにも感じられ、しかも現代においても通用するようにも感じられる。国民性といわれるものに近い、地域性のようなものだ。

    少々記述が古くて、現代に当てはめて考えることが難しいと感じるが、文化等の発祥の考え方としては面白く読めたと思う。

  • 民俗学を勉強し始めて、地理に関する考察も必要とわかってきたところに読んだのが本書。
    風土や地理によって歴史を見る、文化の発展を考察する。
    自分は民俗学の勉強を深めるために読んだが、どちらかというと比較文化の方が近い。あと哲学的要素も多く、文体も哲学っぽい。認識論とか形而上学とか…。

    ○自分の住む世界がどういうところなのかという認識は、他の地域・世界を旅してこそ認識できる。→たくさん旅をして最後に故郷に戻り故郷と感じた坂口安吾と通じるものを感じた。

    ○それぞれの民族部族は、そこに生きる土地、風土でその性格が規定せられる。生き方、文明、文化の生まれる素地もどのような風土で生きているかで決まる。
    →私自身としては、部族とか民族とかそういうものに自分が所属しているような認識はないけれども、個人としても集団としても、そこに生まれた土地に縛られるということは今も変わらないと思う。例えば田舎か都会か、など。

    ○ 風土がその民族の性格を決定するという基礎に基づいているが、ちがう性格の民族から良いところを学び自らに取り入れることはできる。しかし住む土地は変わらない。

    性格とは何か。生きるためにどう自然と付き合うか或いは克服・征服するか。寒さをしのぐであるとか、食べ物を求めて遊牧し他国を征服するとか。風土に応じた自然の克服の仕方を通して文明や芸術がうまれる。

    ○うちとそと 家内とか宅という家と家の外=世間とを分けるのは日本の特徴。家の作りも襖で仕切るのみ。うちとそとの分け方では個人の区別は消滅する。(ヨーロッパは自室に鍵をかけるが家自体の出入りは開放的なので個人という区切りの次は家ではなくもっと開かれた地域)
    →外に対しては必ず戸締りをする…と述べているが田舎だと戸締りしないし近所の人も敷地内には気軽に入ってくる話を聞く。戸締りをしない村落は村の中での区別が消滅する単位になるということか?と解釈してみる。

    ○日本人の性格を表す言葉としてしめやかな激情。と表現している。
    →特攻をした兵士、天皇万歳で自殺した人、国歌斉唱を拒んで自殺した人、切腹した武士それぞれに通じるものなのかと読んでいて感じた。

    ○これも日本人の特徴として、社会のことは自分のことではないのである。公共的なるものをよそものとして感じている。
    →日本人の政治への関わり方としてなるほどと思った。けして満足してはいないが投票率は高くない。外国で見られるような大規模なデモは起こりにくい。

    ○人間だけではなく、大地も生である。地球は絶えず変化し、大地が変わればそれは人の生活にも影響する。
    後半では筆致がダイナミックというか人の感情に訴えかける書き方で印象に残る。

    結び…民俗学で地理風土の重要性はよく認識できた。文化の規定についてはそれは飛躍してないか?って思ったところもいくつかはあった。

  • 時間性が人間の志向性に大きく影響を与えたとのハイデガーのアイデアをヒントに、空間性も人間お志向性に大きく影響を与えたのではないかという仮説をもとに、世界を「モンスーン(アジア)」「砂漠(アラビア)」「牧場(ヨーロッパ)」に区分してそれぞれの風土がもたらす人間の志向性を解説した著作。

  • 情報を読む力 学問する心などリファレンス多数。「寒さ」「冷たさ」などの言葉に人が反応する感覚は、単に気温が低いというのもあれば、風が強い、乾燥している、雪が冷たいなどそれぞれが在り得るわけで。

    その他にも「神」や「芸術」など、こうした言葉と感覚のもつギャップを、主にシルクロードを遡る形で拾い集めていく本書を通じて著者が浮き彫りにしたかったのは、日本の四季が、我々にもたらすものが如何に多様かという点ではないだろうか。

    発刊と同時に批判があったという点も、一般化という観点から言えば頷ける部分も多いにあるが、それは本書を単なるフィールドワークと履き違えているが故であろう。

    本書が指すのは、文化風俗の形成プロセスに対する仮説という、科学的アプローチと言える。

  • 日本文化論の古典。著者自身がヨーロッパ留学時に見聞したさまざまな土地の気候・風土とそこに住む人間が相互に形成しあう関係にあることを、著者の持つ天才的な詩人的直観によって捉え、そこから翻って日本の風土と日本文化との関係がもつ特色を描き出そうとする試み。

    著者は本書の冒頭で、「この書の目ざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである」と述べており、けっして「自然環境がいかに人間生活を規定するかということが問題なのではない」、「ここで風土的形象が絶えず問題とせられているにしても、それは主体的な人間存在の表現としてであって、いわゆる自然環境としてではない」と断っている。

    とはいえ、本書の第2章に示された「モンスーン」「沙漠」「牧場」という三つの類型についての具体的な叙述が、自然環境が人間生活を規定するという思考方式からほんとうに解放されているかは疑問である。他方、もし本書が著者の意図するように「人間存在の構造契機としての風土性」についての考察となりえているとするならば、今度は戸坂潤が批判したように、観念論の立場に陥っているのではないかという疑念も生じてくる。まして本書の第5章で、著者がドイツ観念論の系譜における風土と歴史についての考察をたどりながら、新たな風土学の展望を開こうとしていることを思えば、戸坂ならずとも上のような疑念を抱かざるをえないだろう。

    こうした問題を孕んでいるとはいえ、本書が重要な洞察を含んでいることを否定することはできない。和辻は、本書の叙述が主観的で一面的な印象に基づいていることを、むしろ本書の積極的な意義として捉え返そうとしている。彼は、この本がある短い期間だけ他の風土に生きる「旅行者」の立場から書かれたものだということを明瞭に自覚していた。じっさい彼は「人間は必ずしも自己を自己においてもっともよく理解し得るものではない。人間の自覚は通例他を通ることによって実現される」と記している。

    もし、こうした議論のもつ積極的な意義を救い出そうとするならば、自分自身が住まう風土から他の風土へと越境するという行為は、双方の風土と人間の特性についての理解が成立する可能性を開く振舞いだという考えを、和辻の方法論的な構えとして理解することもできるのではないか。

  • 風土は歴史であり、歴史は風土である。外の世界にある何かを見ているときは、そこに映っている己を見ているのである。風土とは自己了解の表現である。・・・和辻先生は今も頭の片隅に住み続けている。

  • その名は昔から聞いていた名著

  • もう少しわかりやすく書ける筈だと思う。九鬼周造などのがわかりやすい。やはりモンスーン・砂漠・牧場と分けたコンセプトが秀逸で、それ以外はどうなのか。中国論や日本論は時代を感じさせる。一部は極論と思うし、稲作を指摘しないのも確かに片手落ちではないか。

  • 風土が人間にどんな影響を与えるかを考察した本。実際感覚的にはなんとなく当たってると今でも思うところがある。

  • 地誌学の目指すべき姿。既存タグに民俗学とあるが、せめて民族学なら理解できる。個人的には、四章が興味深い。庭園芸術の比較、日本庭園における釣り合いの連関および組織的統合と、五章で比喩された個々の文字と単語の関係、つまり意味を持つのは文字ではなく単語であるという表現は示唆的だ。外に現れた姿で内なるものを示す、文字の連結から意味を理解する方法が、本書の立場と言えば分かりやすいかもしれない。表音文字ではない表意文字である漢字を組合せている我々の仕方は、日本庭園の釣り合いの構造と連関すると言えるだろう。

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著者プロフィール

和辻哲郎

明治二二(一八八九)年、兵庫県に生まれる。哲学者・文化史家。大正元(一九一二)年、東京帝大文科大学哲学科卒業。一四年、京都帝大助教授、昭和六(一九三一)年、同大教授。八年には、東京帝大倫理学科教授となり、戦後の昭和二四年に退官する。二五年、日本倫理学会初代会長、三〇年、文化勲章受章。三五(一九六〇)年没。主な著書に『古寺巡礼』の他、『日本古代文化』『風土』『倫理学』(全三巻)『鎖国』『日本倫理思想史』など、また『和辻哲郎全集』(全二五巻 別巻二)がある。

「2020年 『和辻哲郎座談』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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