「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

著者 :
  • 岩波書店
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感想 : 135
  • Amazon.co.jp ・本 (211ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003314616

作品紹介・あらすじ

日本民族に独自の美意識をあらわす語「いき(粋)」とは何か。「運命によって"諦め"を得た"媚態"が"意気地"の自由に生きるのが"いき"である」-九鬼(1888‐1941)は「いき」の現象をその構造と表現から明快に把えてみせたあと、こう結論する。再評価の気運高い表題作に加え『風流に関する一考察』『情緒の系図』を併収。

感想・レビュー・書評

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  • ただ単に「いき」ということを述べただけの本がなんでずっとここまで読み継がれているんだろうと不思議だったが、読んでみてびっくり、「いき」を定義するための多方面からの考察に、物事を立証するにはこう考えなければならないんだ、と学ばせてくれた本。
    もちろんその中身、「いき」という言葉がどういうことを表し、どう使われるかも面白いんだけど、それよりも学問としてのアプローチの仕方が大いに勉強になった。
    『風流に関する一考察』と『情緒の系図』も収められているが、風流についてこれ以上関心はなかったので『風流に関する一考察』は読まず、『情緒の系図』はもうちょっととっつきやすい感じだったのでこちらはまあまあ楽しめた。

  •  年末に、日本を考えるみたいな番組がNHKであって、そこで松岡正剛が取り上げていた。
     この本を読み終えた人は絶対に縦縞の服を着るようになる。これだけは間違いない。なんかわからんけど、縦縞の服着てる。色は茶色は青かねずみ色。私だったら着る。

     最初に、再三、九鬼周造が注意しているのが、「このイキって概念は、ヨーロッパとかにも共通していて、どこも精神は一緒なんだなぁ」という越境に流されるなということ。これは最初と結論部に言っている。

    【否、大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差し支えない】と。
     いきの本質を抜き出して、抽象化して、いきを自由自在に色々使えるようにするのではなく、まずはいきの実例や実際を文化・文学から解釈して、地に足をつけないとだめだ、というか、そうでないと「いき」は「いき」でなくなり横滑りすると述べている。で、そのうえで、いきの定義は何かといえば、それは「垢抜けて、張りのある、色っぽさ」であるという。それはどういうことかといえば、美しく非対称に崩れていてだからこそ完成されている無関心無目的な文句を言わせないパンチラインな動作と言えば良いか。こんなややこしい概念なので、「いきとは何か」はできず、「何がいきか」でしか無理なのだし、そうしたほうが良いと実は中盤でも述べている。
    【たまたま西洋芸術の形式のうちにも「いき」が存在するというような発見によって惑わされてはならぬ】と。
     西部邁の知性の構造が、思ったより、この九鬼周造のまんまで驚いた。少し違うのは、西部の場合は、この構造を動的に使用しているということか。だが結論は似ていて、結局思想することは偏執的(パラノ)に、保守的になるので、平衡感覚(九鬼で言えば、結論部の、曇らざる目や自由)を持つしかないというもの。

     この本は、ほかに風流や情緒についても、和歌や俳句を引用して、きちんとした論文として、それがいかなるものか書かれてある。解説にもあるように、日本の一部民俗学の本とは違うので、読み進めると自然と頭が整理され、普通に勉強になる。

     秋海棠 西瓜のいろに 咲にけり

     という芭蕉の句はこの本で知った。

     赤色とか派手なかっこいい色を着てはダメと体制に言われたのならば、地味な色こそかっこいいのだと大暴れする。どう規制しようとかっこよくしていく。それがイキであり、単なる反体制ではないのだ。

  • 表題作は、東京生まれの哲学者で、西田幾多郎と同時期に京都帝国大学で講壇に立っていた(が、西田や田辺元を中心とした所謂「京都学派」にあっては飽くまで傍流であったとされる)九鬼周造(1888-1941)が、我々の文化に於いて「いき」と称されている独特な美意識の在りようを、西洋哲学の手法を援用しながら概念的かつ具体的に闡明した彼の代表的著作、1930年。その他「風流に関する一考察」「情緒の系図」所収。九鬼は東京帝国大学哲学科卒業後に独仏へ留学、ベルクソンの「生の哲学」に影響を受け、またハイデガーに師事し現象学を学んでいる。

    「「いき」の構造」の序に曰く、「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。・・・。現実をありのままに把握することが、また、味得さるべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である」

    "いき"には三つの契機が在るとされる、「媚態」「意気地[いきじ]」「諦め」。「媚態」とは、他者(本書では専ら異性とされる)との間に超越的な距離を措定し、その他者との(本書では情愛的な)合一を目的として追求しつつも、無限にその成就を遅延させ続けるような、成就の可能性を可能性のまま決して成就させることのないような、そんな二元的機制の緊張関係に自分と相手を付置する態度のこと。そんな媚態の機制の内に即物性という"野暮"が入り込んでその緊張関係を弛緩させない為に裏打ちされるのが、"無粋"としての即物性に反抗する自由性であり、その理想主義への気概が、「意気地」である。しかし、他者との合一と云う目的が飽くまで虚構としての目的・仮構された目的であるとするその【遊戯性】を維持し続ける為には、自己の運命に対する「諦め」の境地に達するを要する。それは、若い恋に破れて浮世の苦渋辛酸を嘗め、世の洗練を経て、"純朴な独り善がり"や"真摯な涙"から垢抜けることで、ようやく自己の運命への拘泥・執着から脱し得た、恬淡無碍の心である。こうして、散文的な現実性は超然と無視され、【完全に無目的な自律的遊戯】――「媚態のための媚態」――に興じる。これが"いき"である。曰く、「運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である」

    運命愛の中で興じる凛乎たるアイロニズム。

    様々な芸術分野に見られる"崩し"の文化を、ここで闡明した"いき"の構造から説明している点が興味深かった。各芸術の形式に於ける一元的平衡を敢えて崩し、その変移によって二元的機制の緊張関係=媚態が創出される。そして、その変移の度が過ぎて緊張関係が消滅してしまわないように、反即物性・反俗物性の意気地によって抑制される。こうして、現実の散文性を峻拒する【自律的遊戯】として、芸術に於ける"いき"が開花する。

    九鬼は、"いき"と云う語によって我々の内に漠然と普遍化されている美意識の典型を、化政期の江戸という歴史的にも地理的にも極めて限定された、しかも更にそのうちの遊里という特殊な文化を生きる者たちに見出した。本論考を読んでいると西洋に於けるダンディズムと云う美学が想起されるが、九鬼自身が指摘しているように、ダンディズムは殆ど男によって生きられた文化であったが、一方"いき"はと云えば落魄した"粋人"たる男たちだけでなく"苦界"に身を沈めた女たちによっても息されていたという点で異なると云える。

    私には、嘗て、場末のストリップ劇場に置き場の無い我が身を寄せていた時期があった。世間一般からは"セックス産業"(この表現自体、実に散文的であるが)と蔑まれている世界の中で、更に風前の灯の如く消滅寸前であったストリップ業界。しかし、劇場の中では、舞台と客席という形で画然と隔てられた二元的空間に於いて、彼女らの踊りが媒介となってその隔壁が溶解してしまったかのような錯覚を覚えてしまうほどに、彼女らが舞台上に創る世界に陶酔・没入・合一していた。世間から隔離されたその特殊な空間の中で、私の感性には確かに一つの美意識が刻まれたと断言できる。それと九鬼の謂う"いき"とは必ずしも同一ではないだろう。しかし、九鬼のこの論考が、何だか他人事とは思えない、と云っては妙だが、私にはとても生き生きと読まれた。"苦界"から普遍的な美意識を汲み取ってきたことを、率直に嬉しく思った。もう一度繰り返しておこう。「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」

    「結論」に於いて披歴されている学問論もまた、本論考の主題たる"いき"の構造――「それでもなお」と無限に繰り出すトーマス・マン的チェーホフ的な反語的機制(「諦め」と「意気地」によって裏打ちされた「媚態」と云う機制)――と明らかに呼応している。そこにはドイツ的な教養の影がはっきり表れていないか。

    「概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、越えることのできない間隙がある。・・・、「いき」の論理的言表の潜勢性と現勢性との間には截然たる区別がある」

    「しかしながら概念的分析の価値は実際的価値に尽きるであろうか。体験さるる意味の論理的言表の潜勢性を現勢性に化せんとする概念的努力は、実際的価値の有無または多少を規矩とする功利的立場によって評価さるべきはずのものであろうか。否。意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである」



    ところで、現代日本に於けるアイドルのファンは"いき"であるか。彼らには、アイドルの売る「夢」が嘘であることを承知の上でなおそれに騙された振りをしてはファンとして彼女らに魅せられてみるほどの雅量が、全く見出されない。アイロニーに悠然と戯れてみせる美学はその欠片も無い。彼らは、九鬼が美事に謳いあげた"いき"と云う文化様式を、生きてはいない。

  • 九鬼周造の『いきの構造』は 学生時代に 少し読んだが
    あまりにもつまらないというかよくわからないので、すぐに捨てた。

    そして、今頃になって 
    何か、気になり、読み始めた。

    言葉というのは 時代とともに 風化していくものである。
    そうであるがゆえに
    古い言葉、古典的な言葉、失われつつある言葉を
    蘇生させる作業が必要なのかもしれない。
    そのひとつに 『風流』 という言葉がありそうだと思う。
    それは、生活スタイルである。
    今で言う 『ロハスな生活』というアメリカから来た
    言葉を ありがたがるよりも 『風流な生活』のほうが
    よっぽどよさそうである。

    九鬼は言う
    風流とは 『世俗』を断ち切り、『離俗』することである。
    『風流人となるには 「心を正して俗を離れるほかはなし」』
    という。
    この言葉の 『心を正して』というくだりが
    なんともいえなく、崇高である。

    『世俗と断ち因習を脱し名利を離れて虚空を吹きまくるという気迫
    が風流の根底になくてはならない。』という・・・

    九鬼はつづけていう
    『風流のこの第2の契機を耽美ということができる。』

    ふーむ。
    精神生活の充実を 『耽美』に結びつけるのはよほどのことだ。
    九鬼の言う 『耽美』と 現在使われている 
    『耽美』とは、かなり距離がある・・ような気がする。

    その内面的な充実は つねに 革新されていく・・・

    『昨日の風は今日よろしからず、
     今日の風は明日に用いがたきゆえ』(去来抄)
    と 九鬼は引用するが・・・
    現在の 『空気を読む』につながる・・・
    そういえば、この『空気』という言葉も 
    古い言葉につながるが 新しい装いを持ち出した。

    九鬼は 風流の第3の要素が 『自然』をあげている。
    『離俗と耽美の総合として 自然に復帰すること』

    いやー。ロハス的になってきた・・・・

    九鬼は言う
    『自然美を包蔵しない芸術美だけの生活は風流とはいえない。』

    このことを実行するのは 並大抵のことでは、
    できないほどの 『風流な生活』なのである。

    『色ふかき君がこころの花ちりて身にしむ風の流れとみぞみし』
    という風流の方向・・・なのである。

    九鬼は言う
    『風流の滋味を味わう心は 
    また白露の味を味として知る心である。』
    という・・・

    まいりましたねぇ。
    『白酒』ではなく、『白露』なのですね。

    白露は季語で、秋の気配を感じさせる涼しさを象徴する。
    芭蕉は
    『白露もこぼさぬ萩のうねりかな』
    と50歳のときに詠んだ。

    万葉集には『白露』を詠んだ歌が多い

    九鬼が言う 『白露』 とは、一体どんな味なのだろう
    九鬼が引用している・・・・俳句
    『白露に淋しき味を忘るるな』・・・という

    白露とは 淋しき味 なのである。
    風流とは 淋しき味を かみしめること。

    この『風流に関する一考察』は
    風流を説明するために 対語を 明らかにする作業をしている。

    雪舟の水墨と又兵衛の濃彩
    伊賀焼きのさび肌と色鍋島の光沢
    謡曲の沈音と清元の甲声

    対立関係というのを 否定することによって、
    新しいものが生まれてくるという発想が
    西洋的な発想に基づいているのだろう。

    九鬼は言う
    『風流が「華やかなもの」と「寂びたもの」と「可笑しいもの」が
     とだけを自覚して「厳かなもの」の自覚を欠くならば
     日本人の精神生活にとって大きい不幸といわなければならない。』

    現代の生活は 
    「華やかなもの」と「寂びたもの」と「可笑しいもの」と「厳かなもの」
    のすべてをなくしているような気もする・・・
    それは、九鬼にとっては 精神生活が成り立たない
    と嘆いていることだろう。

    九鬼は 風流の産む美的価値の本質的構造の対立関係を
    第1組を 「華やかなもの」と「寂びたもの」
    第2組を 「太いもの」と「細いもの」
    第3組を 「厳かなもの」と「可笑しいもの」
    におき・・・

    『対立者相互の否定関係に基づいて
     第1組には斬新性が、第2組は不動性が、第3組が交代性がみられる』としている。

    これが、6つの頂点となり正八面体となる。

    これを九鬼は
    『昔の哲学者は 地、水、火、風の4原質のうちで、
    地の微粒子は正6面体を成し、水の微粒子は正二十面体、
    火の微粒子は正4面体、風の微粒子は正八面体を成す
    と考えたのであった。
    「風」の微粒子の形態とされていた正八面体が
    「風流」の価値体系を表しうることは、偶然ではあるまい。』

    この説明は まったく飛んでいる。
    この飛び方が 九鬼の知識の蓄積がなせるものかもしれない。

    この正八面体論は、
    今の言葉からすると 「太いもの」と「細いもの」
    が、あまりにも具体的過ぎて 言葉の広がりを失っている。
    「可笑しいもの」が、枕草子的な言葉から 現在の言葉には
    かなりの質的な変遷が起こっている。

    九鬼は言う
    『体中の「風」が呼吸を媒介として、
    碧空に吹く「風」に身を任すときに、風流の士となる。』

    あぁ。風流人とは・・・なんと自然なのだ。

  • 「いき」とは何か。江戸の名家に生まれ、留学などで哲学に傾倒した作者が、着物の色配合や、しぐさである、体の曲線美などで「いき」を説明した本。かなり深いところに行っているが、丁寧に読むと「へぇー」の連続である。日本の「いき」な第一人者。

  • 哲学の本を読んでいたので、前よりは読みやすい。

    粋な人になりたいなぁと思って手に取った。

    いきとは垢抜けて(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)だという。

    古今東西様々な文学作品に現れるいきの例に楽しませられながら読めた。

  • ・九鬼周造は、江戸の美意識であった「粋(いき)」の意味を哲学的に探り、恋愛にある緊張感や儚さ、近松や西鶴の描く、心の交情。その本質的なところに「いき」があると云っています。


     「いきの第一の徴表は、相手に対する媚態である。

     関係が、いきの原本的存在を形成していることは、いきごとが、いろごと、を意味するのでも分かる。


     媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が、極限に達せざることである。

     いきは媚態でありながら、なお相手に対して、一種の反抗を示す強みを持った意識である」


                 (九鬼周造)




     まず第一に、「いき」には「媚態」があり、相手を惹き付けようとする色気こそが、いきの大前提なのだそうです。
     そして、恋愛には、緊張感が大切で、いざ深い仲になってしまうと、その媚態は消え去り、いきではなくなってしまうのだそうです。
     近づきたいから生まれるのが、いき。しかし、近づきすぎてもだめ……。この微妙な距離感でないと、いきにはなりません。そこで、生まれたのが、意気地(いきじ)という反抗的な態度です。たとえば、武士は食わねど高楊枝、宵越しの金は持たぬ、というどこか突き放したやり方も、いきといわれる所以です。

     また、運命を受け入れる、諦めの気持ちもいきには必要といいます。
     恋愛においては、相手を好きになっても構わないけれど、そのことで束縛や、未練があるなら、それは断つ(諦める)のだそうです。好きだとしても、相手に縛られるということは、「いき」ではなくなってしまう。好きでありながらも、その支配下には入らない、のが良いそうです。


     この、媚態、意気地、諦観、の三位一体がいきの定義としていて、成る程と興味深いのですが、ここで、九鬼自身が実例として挙げているのを見ると、いき特有の複雑さが分かります。


    (九鬼の女性観に対するいき)

     「只、まっすぐ立っているのではなく、

    少し姿勢を崩し、姿はほっそり柳腰。丸顔よりも、細面が宜しい。

     目は、流し目。過去の憂いを感じさせる光沢。軽やかな諦めと、凛とした張りがあること。


     口は、緊張と緩みの絶妙なところが好い。憂いを感じさせて、厚化粧は野暮である。

     髪形は、きちっとさせないつぶし島田など、少し崩したものがいきである。


     着物は揺れる物で、襟足を見せるように引き下げた抜衣紋(ぬきえもん)が色っぽい。

     湯上がりのような上気した肌に浴衣を羽織って解れ髪。こういうのがいきである……」




     個人的に思うのは、アメリカなどでは、胸が大きければ大きいほど良いというのがアメリカ人のエロスの考え方ですが、うなじがなんとなく、見えたり見えなかったりするのが色っぽい、エロスだ、というのは、アメリカ人の感覚にはないです。

     「いいな」「いきだな」、と思う日本人の振るまい、生き方に蓄積されていったものを知れると同時に、国際的な第三者の考えでいうと、あまり意味のない「一体なにしているんだろう」、とも思ってしまいます。
     直接的すぎてはいけないし、直接的じゃなくてもいけない。
     かっこいいだけではなくて、けれどかっこ悪くてもいけない。そのあいだの微妙なところを歩いていくのが、「いき」であり、日本人の美徳だと九鬼は述べています。

     江戸時代、江戸っ子が蕎麦の汁をちょっとしか浸けないで食べるのは、いきなことだと云われていましたが、それは確かにかっこよくもあり、また変な人だとおかしくもあります。

     つまり、江戸時代の人たちのメンタリティは、外からの敵がいない状況のなか、かっこよさとおかしさが、複雑に、そして独特に絡み合い、しかもその絡み合いの概念が、「いき」と人々の間で共有されてしまっていました。それは、異分子(諸外国)から見ると、考えられない光景でした。

     九鬼は、いきをさらに明らかにしようと、他のさまざまな言葉と、どんな関係にあるのかを探り続けました。
     「この時のいきは何かである」と言わないで、その「何か」というのは、常に他のものとの関係性で、はじめて出てくるいきであり、曖昧なものでも、曖昧なもののまま、追求はできるのだということを、一手に引き受けて論じてくれました。

     好む、や好奇心を持つなどの、「好き」は、髪を梳く、紙を漉く、土を鋤く、風がすく、透き通る、ということの「数寄」に由来していますが、この「いき」も、何となく曖昧に揺れ動く「好き」に近いです。

     現代のいきは、決して日本人だけのものではなくて、色々なところに伝わって語っていける、いきな、恋心であり、いきな、かっこよさになっていけたらいいなと思いました。

     

  • 高校時代に買い、大学の哲学科を卒業して2年経った今日ようやく読了です。

    (日本人的)情緒論の『ティマイオス』、これがこの本の評として相応しいなと思いました。であると共に、日本の芸術文化に関する類稀なる良解説書でもあります。文句なしに名著です。ただ、残念ながら当の日本人が最も理解するのに困難を来す本だとも思います。

    『ティマイオス』とは、プラトンが自然について論じた対話篇ですが、この本の「風流に関する一考察」のp.125「昔の哲学者は、地、水、火、風の四元質……」の話は、まんま『ティマイオス』の話です(プラトンの名と書名を出さないで「昔の哲学者は……」とぼかす辺り、筆者の含み笑いとドヤ顔が想像されますね)。それはともかく、いきや風流といった情緒の「構造」を語る上で、筆者が幾何学的モデル化というのを意識したということがまず先進的ですね。そして、ここが最もこの本のすごいところなんですが、その幾何学的モデルで日本的情緒について明晰に説明し切ったところです。二項対立を一つの軸とした三次元立体空間の中で、様々な情緒の持つ質感をマッピングしたところに、幾多の感情に関する論の中でのこの本の白眉があります。こういうマッピングというのは、実は最先端の人文学でも思想をどう分析するかの手法として最近やられていることで、それを日本人の情緒で真っ先にやったのが九鬼周造だと言っても過言ではない。だから、凄い本です、これ。

    題材として扱われているものも、謡曲から江戸の文学、果ては詩歌と多彩ですね。情緒の構造を明確に捉えつつ、日本文化の芸術性というものもしっかり浮き彫りにしているように思います。日本文化論、芸術論として読むなら、『風姿花伝』に匹敵する面白さだと思います。

    まぁ、そうは言っても、難しい本です。そりゃ、哲学書ですから、専門家でない限り、全行一字一句の意味を取って吟味しようとすれば、著者九鬼周造の圧倒的知識量に屈服させられるだけです。文章の要点を取って読めば、決して難しい内容ではありません。国語でいい点数取れる人は十分読める本ですよ。国語の問題にしてもいい文章ですね(笑)
    むしろ、「いき」の質感を感じることが、今の日本人には難しい、そういう意味の難しさです。「粋だねぇ!」って日常的に言葉にする生粋の江戸っ子なんてもう絶滅種でしょう。「いき」自体がもう死語じゃないですか。対義語の野暮っていうのも使わなくなりましたねぇ。野暮な世の中になったものだと嘆くのは簡単ですが、もはや自分達は外国人になったものと思って、失われた情緒を取り戻すくらいに考えなければ、「ピンとこない難しい話」で終わるだけでしょうね。

  • 「いき」とは「媚態」を根本として、それに「意気地」と「諦め」が加わった様子のことをいう。

    日本独特の美意識を、哲学の言葉で明快に書き表している。
    とはいえ、どんな言葉を使っても、こういう美意識をニュアンスまで完全に言い表すことはできない。このことを筆者自らはっきりと言っているところに、九鬼周造の哲学者としての覚悟のようなものが感じられる。
    残念ながら現代人の私には、現実で「いき」な人やものに出会う機会がないが、これを読むとなんとなく分かる気がするのは日本人だからなのか。
    ただ、本当に「いき」を理解するには、やはり自分には人生経験が全然足りていない。

  • ヨーロッパ哲学的な言葉で、日本の言葉・表現を腑分けしていく。論理自体はヨーロッパ的というよりは普遍的なものだろうし、読んでいてすごく説得力がある。
    この感情とは何か、この感性とは何か、そういった問いへの一連の強力な答えになるだろうし、これによって比較文化的通路が生まれうるだろう、という感じです。

    P.88
    しかしながら概念的分析の価値は実際的価値に尽きるであろうか。体験さるる意味の論理的言表の潜勢性を現勢性に化せんとする概念的努力は、実際的価値の有無または多少を規矩とする功利的立場によって評価さるべきはずのものであろうか。否。意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさにまさの学の意義は存するのである。

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