「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

著者 : 九鬼周造
  • 岩波書店 (1979年9月17日発売)
3.61
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  • レビュー :117
  • Amazon.co.jp ・本 (211ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003314616

作品紹介

日本民族に独自の美意識をあらわす語「いき(粋)」とは何か。「運命によって"諦め"を得た"媚態"が"意気地"の自由に生きるのが"いき"である」-九鬼(1888‐1941)は「いき」の現象をその構造と表現から明快に把えてみせたあと、こう結論する。再評価の気運高い表題作に加え『風流に関する一考察』『情緒の系図』を併収。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)の感想・レビュー・書評

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  • 九鬼周造の『いきの構造』は 学生時代に 少し読んだが
    あまりにもつまらないというかよくわからないので、すぐに捨てた。

    そして、今頃になって 
    何か、気になり、読み始めた。

    言葉というのは 時代とともに 風化していくものである。
    そうであるがゆえに
    古い言葉、古典的な言葉、失われつつある言葉を
    蘇生させる作業が必要なのかもしれない。
    そのひとつに 『風流』 という言葉がありそうだと思う。
    それは、生活スタイルである。
    今で言う 『ロハスな生活』というアメリカから来た
    言葉を ありがたがるよりも 『風流な生活』のほうが
    よっぽどよさそうである。

    九鬼は言う
    風流とは 『世俗』を断ち切り、『離俗』することである。
    『風流人となるには 「心を正して俗を離れるほかはなし」』
    という。
    この言葉の 『心を正して』というくだりが
    なんともいえなく、崇高である。

    『世俗と断ち因習を脱し名利を離れて虚空を吹きまくるという気迫
    が風流の根底になくてはならない。』という・・・

    九鬼はつづけていう
    『風流のこの第2の契機を耽美ということができる。』

    ふーむ。
    精神生活の充実を 『耽美』に結びつけるのはよほどのことだ。
    九鬼の言う 『耽美』と 現在使われている 
    『耽美』とは、かなり距離がある・・ような気がする。

    その内面的な充実は つねに 革新されていく・・・

    『昨日の風は今日よろしからず、
     今日の風は明日に用いがたきゆえ』(去来抄)
    と 九鬼は引用するが・・・
    現在の 『空気を読む』につながる・・・
    そういえば、この『空気』という言葉も 
    古い言葉につながるが 新しい装いを持ち出した。

    九鬼は 風流の第3の要素が 『自然』をあげている。
    『離俗と耽美の総合として 自然に復帰すること』

    いやー。ロハス的になってきた・・・・

    九鬼は言う
    『自然美を包蔵しない芸術美だけの生活は風流とはいえない。』

    このことを実行するのは 並大抵のことでは、
    できないほどの 『風流な生活』なのである。

    『色ふかき君がこころの花ちりて身にしむ風の流れとみぞみし』
    という風流の方向・・・なのである。

    九鬼は言う
    『風流の滋味を味わう心は 
    また白露の味を味として知る心である。』
    という・・・

    まいりましたねぇ。
    『白酒』ではなく、『白露』なのですね。

    白露は季語で、秋の気配を感じさせる涼しさを象徴する。
    芭蕉は
    『白露もこぼさぬ萩のうねりかな』
    と50歳のときに詠んだ。

    万葉集には『白露』を詠んだ歌が多い

    九鬼が言う 『白露』 とは、一体どんな味なのだろう
    九鬼が引用している・・・・俳句
    『白露に淋しき味を忘るるな』・・・という

    白露とは 淋しき味 なのである。
    風流とは 淋しき味を かみしめること。

    この『風流に関する一考察』は
    風流を説明するために 対語を 明らかにする作業をしている。

    雪舟の水墨と又兵衛の濃彩
    伊賀焼きのさび肌と色鍋島の光沢
    謡曲の沈音と清元の甲声

    対立関係というのを 否定することによって、
    新しいものが生まれてくるという発想が
    西洋的な発想に基づいているのだろう。

    九鬼は言う
    『風流が「華やかなもの」と「寂びたもの」と「可笑しいもの」が
     とだけを自覚して「厳かなもの」の自覚を欠くならば
     日本人の精神生活にとって大きい不幸といわなければならない。』

    現代の生活は 
    「華やかなもの」と「寂びたもの」と「可笑しいもの」と「厳かなもの」
    のすべてをなくしているような気もする・・・
    それは、九鬼にとっては 精神生活が成り立たない
    と嘆いていることだろう。

    九鬼は 風流の産む美的価値の本質的構造の対立関係を
    第1組を 「華やかなもの」と「寂びたもの」
    第2組を 「太いもの」と「細いもの」
    第3組を 「厳かなもの」と「可笑しいもの」
    におき・・・

    『対立者相互の否定関係に基づいて
     第1組には斬新性が、第2組は不動性が、第3組が交代性がみられる』としている。

    これが、6つの頂点となり正八面体となる。

    これを九鬼は
    『昔の哲学者は 地、水、火、風の4原質のうちで、
    地の微粒子は正6面体を成し、水の微粒子は正二十面体、
    火の微粒子は正4面体、風の微粒子は正八面体を成す
    と考えたのであった。
    「風」の微粒子の形態とされていた正八面体が
    「風流」の価値体系を表しうることは、偶然ではあるまい。』

    この説明は まったく飛んでいる。
    この飛び方が 九鬼の知識の蓄積がなせるものかもしれない。

    この正八面体論は、
    今の言葉からすると 「太いもの」と「細いもの」
    が、あまりにも具体的過ぎて 言葉の広がりを失っている。
    「可笑しいもの」が、枕草子的な言葉から 現在の言葉には
    かなりの質的な変遷が起こっている。

    九鬼は言う
    『体中の「風」が呼吸を媒介として、
    碧空に吹く「風」に身を任すときに、風流の士となる。』

    あぁ。風流人とは・・・なんと自然なのだ。

  • 「いき」とは何か。江戸の名家に生まれ、留学などで哲学に傾倒した作者が、着物の色配合や、しぐさである、体の曲線美などで「いき」を説明した本。かなり深いところに行っているが、丁寧に読むと「へぇー」の連続である。日本の「いき」な第一人者。

  • 高校時代に買い、大学の哲学科を卒業して2年経った今日ようやく読了です。

    (日本人的)情緒論の『ティマイオス』、これがこの本の評として相応しいなと思いました。であると共に、日本の芸術文化に関する類稀なる良解説書でもあります。文句なしに名著です。ただ、残念ながら当の日本人が最も理解するのに困難を来す本だとも思います。

    『ティマイオス』とは、プラトンが自然について論じた対話篇ですが、この本の「風流に関する一考察」のp.125「昔の哲学者は、地、水、火、風の四元質……」の話は、まんま『ティマイオス』の話です(プラトンの名と書名を出さないで「昔の哲学者は……」とぼかす辺り、筆者の含み笑いとドヤ顔が想像されますね)。それはともかく、いきや風流といった情緒の「構造」を語る上で、筆者が幾何学的モデル化というのを意識したということがまず先進的ですね。そして、ここが最もこの本のすごいところなんですが、その幾何学的モデルで日本的情緒について明晰に説明し切ったところです。二項対立を一つの軸とした三次元立体空間の中で、様々な情緒の持つ質感をマッピングしたところに、幾多の感情に関する論の中でのこの本の白眉があります。こういうマッピングというのは、実は最先端の人文学でも思想をどう分析するかの手法として最近やられていることで、それを日本人の情緒で真っ先にやったのが九鬼周造だと言っても過言ではない。だから、凄い本です、これ。

    題材として扱われているものも、謡曲から江戸の文学、果ては詩歌と多彩ですね。情緒の構造を明確に捉えつつ、日本文化の芸術性というものもしっかり浮き彫りにしているように思います。日本文化論、芸術論として読むなら、『風姿花伝』に匹敵する面白さだと思います。

    まぁ、そうは言っても、難しい本です。そりゃ、哲学書ですから、専門家でない限り、全行一字一句の意味を取って吟味しようとすれば、著者九鬼周造の圧倒的知識量に屈服させられるだけです。文章の要点を取って読めば、決して難しい内容ではありません。国語でいい点数取れる人は十分読める本ですよ。国語の問題にしてもいい文章ですね(笑)
    むしろ、「いき」の質感を感じることが、今の日本人には難しい、そういう意味の難しさです。「粋だねぇ!」って日常的に言葉にする生粋の江戸っ子なんてもう絶滅種でしょう。「いき」自体がもう死語じゃないですか。対義語の野暮っていうのも使わなくなりましたねぇ。野暮な世の中になったものだと嘆くのは簡単ですが、もはや自分達は外国人になったものと思って、失われた情緒を取り戻すくらいに考えなければ、「ピンとこない難しい話」で終わるだけでしょうね。

  •  年末に、日本を考えるみたいな番組がNHKであって、そこで松岡正剛が取り上げていた。
     この本を読み終えた人は絶対に縦縞の服を着るようになる。これだけは間違いない。なんかわからんけど、縦縞の服着てる。色は茶色は青かねずみ色。私だったら着る。

     最初に、再三、九鬼周造が注意しているのが、「このイキって概念は、ヨーロッパとかにも共通していて、どこも精神は一緒なんだなぁ」という越境に流されるなということ。これは最初と結論部に言っている。

    【否、大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差し支えない】と。
     いきの本質を抜き出して、抽象化して、いきを自由自在に色々使えるようにするのではなく、まずはいきの実例や実際を文化・文学から解釈して、地に足をつけないとだめだ、というか、そうでないと「いき」は「いき」でなくなり横滑りすると述べている。で、そのうえで、いきの定義は何かといえば、それは「垢抜けて、張りのある、色っぽさ」であるという。それはどういうことかといえば、美しく非対称に崩れていてだからこそ完成されている無関心無目的な文句を言わせないパンチラインな動作と言えば良いか。こんなややこしい概念なので、「いきとは何か」はできず、「何がいきか」でしか無理なのだし、そうしたほうが良いと実は中盤でも述べている。
    【たまたま西洋芸術の形式のうちにも「いき」が存在するというような発見によって惑わされてはならぬ】と。
     西部邁の知性の構造が、思ったより、この九鬼周造のまんまで驚いた。少し違うのは、西部の場合は、この構造を動的に使用しているということか。だが結論は似ていて、結局思想することは偏執的(パラノ)に、保守的になるので、平衡感覚(九鬼で言えば、結論部の、曇らざる目や自由)を持つしかないというもの。

     この本は、ほかに風流や情緒についても、和歌や俳句を引用して、きちんとした論文として、それがいかなるものか書かれてある。解説にもあるように、日本の一部民俗学の本とは違うので、読み進めると自然と頭が整理され、普通に勉強になる。

     秋海棠 西瓜のいろに 咲にけり

     という芭蕉の句はこの本で知った。

     赤色とか派手なかっこいい色を着てはダメと体制に言われたのならば、地味な色こそかっこいいのだと大暴れする。どう規制しようとかっこよくしていく。それがイキであり、単なる反体制ではないのだ。

  • 「いき」とは「媚態」を根本として、それに「意気地」と「諦め」が加わった様子のことをいう。

    日本独特の美意識を、哲学の言葉で明快に書き表している。
    とはいえ、どんな言葉を使っても、こういう美意識をニュアンスまで完全に言い表すことはできない。このことを筆者自らはっきりと言っているところに、九鬼周造の哲学者としての覚悟のようなものが感じられる。
    残念ながら現代人の私には、現実で「いき」な人やものに出会う機会がないが、これを読むとなんとなく分かる気がするのは日本人だからなのか。
    ただ、本当に「いき」を理解するには、やはり自分には人生経験が全然足りていない。

  • 表題作は、東京生まれの哲学者で、西田幾多郎と同時期に京都帝国大学で講壇に立っていた(が、西田や田辺元を中心とした所謂「京都学派」にあっては飽くまで傍流であったとされる)九鬼周造(1888-1941)が、我々の文化に於いて「いき」と称されている独特な美意識の在りようを、西洋哲学の手法を援用しながら概念的かつ具体的に闡明した彼の代表的著作、1930年。その他「風流に関する一考察」「情緒の系図」所収。九鬼は東京帝国大学哲学科卒業後に独仏へ留学、ベルクソンの「生の哲学」に影響を受け、またハイデガーに師事し現象学を学んでいる。

    「「いき」の構造」の序に曰く、「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。・・・。現実をありのままに把握することが、また、味得さるべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である」

    "いき"には三つの契機が在るとされる、「媚態」「意気地[いきじ]」「諦め」。「媚態」とは、他者(本書では専ら異性とされる)との間に超越的な距離を措定し、その他者との(本書では情愛的な)合一を目的として追求しつつも、無限にその成就を遅延させ続けるような、成就の可能性を可能性のまま決して成就させることのないような、そんな二元的機制の緊張関係に自分と相手を付置する態度のこと。そんな媚態の機制の内に即物性という"野暮"が入り込んでその緊張関係を弛緩させない為に裏打ちされるのが、"無粋"としての即物性に反抗する自由性であり、その理想主義への気概が、「意気地」である。しかし、他者との合一と云う目的が飽くまで虚構としての目的・仮構された目的であるとするその【遊戯性】を維持し続ける為には、自己の運命に対する「諦め」の境地に達するを要する。それは、若い恋に破れて浮世の苦渋辛酸を嘗め、世の洗練を経て、"純朴な独り善がり"や"真摯な涙"から垢抜けることで、ようやく自己の運命への拘泥・執着から脱し得た、恬淡無碍の心である。こうして、散文的な現実性は超然と無視され、【完全に無目的な自律的遊戯】――「媚態のための媚態」――に興じる。これが"いき"である。曰く、「運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である」

    運命愛の中で興じる凛乎たるアイロニズム。

    様々な芸術分野に見られる"崩し"の文化を、ここで闡明した"いき"の構造から説明している点が興味深かった。各芸術の形式に於ける一元的平衡を敢えて崩し、その変移によって二元的機制の緊張関係=媚態が創出される。そして、その変移の度が過ぎて緊張関係が消滅してしまわないように、反即物性・反俗物性の意気地によって抑制される。こうして、現実の散文性を峻拒する【自律的遊戯】として、芸術に於ける"いき"が開花する。

    九鬼は、"いき"と云う語によって我々の内に漠然と普遍化されている美意識の典型を、化政期の江戸という歴史的にも地理的にも極めて限定された、しかも更にそのうちの遊里という特殊な文化を生きる者たちに見出した。本論考を読んでいると西洋に於けるダンディズムと云う美学が想起されるが、九鬼自身が指摘しているように、ダンディズムは殆ど男によって生きられた文化であったが、一方"いき"はと云えば落魄した"粋人"たる男たちだけでなく"苦界"に身を沈めた女たちによっても息されていたという点で異なると云える。

    私には、嘗て、場末のストリップ劇場に置き場の無い我が身を寄せていた時期があった。世間一般からは"セックス産業"(この表現自体、実に散文的であるが)と蔑まれている世界の中で、更に風前の灯の如く消滅寸前であったストリップ業界。しかし、劇場の中では、舞台と客席という形で画然と隔てられた二元的空間に於いて、彼女らの踊りが媒介となってその隔壁が溶解してしまったかのような錯覚を覚えてしまうほどに、彼女らが舞台上に創る世界に陶酔・没入・合一していた。世間から隔離されたその特殊な空間の中で、私の感性には確かに一つの美意識が刻まれたと断言できる。それと九鬼の謂う"いき"とは必ずしも同一ではないだろう。しかし、九鬼のこの論考が、何だか他人事とは思えない、と云っては妙だが、私にはとても生き生きと読まれた。"苦界"から普遍的な美意識を汲み取ってきたことを、率直に嬉しく思った。もう一度繰り返しておこう。「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」

    「結論」に於いて披歴されている学問論もまた、本論考の主題たる"いき"の構造――「それでもなお」と無限に繰り出すトーマス・マン的チェーホフ的な反語的機制(「諦め」と「意気地」によって裏打ちされた「媚態」と云う機制)――と明らかに呼応している。そこにはドイツ的な教養の影がはっきり表れていないか。

    「概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、越えることのできない間隙がある。・・・、「いき」の論理的言表の潜勢性と現勢性との間には截然たる区別がある」

    「しかしながら概念的分析の価値は実際的価値に尽きるであろうか。体験さるる意味の論理的言表の潜勢性を現勢性に化せんとする概念的努力は、実際的価値の有無または多少を規矩とする功利的立場によって評価さるべきはずのものであろうか。否。意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである」



    ところで、現代日本に於けるアイドルのファンは"いき"であるか。彼らには、アイドルの売る「夢」が嘘であることを承知の上でなおそれに騙された振りをしてはファンとして彼女らに魅せられてみるほどの雅量が、全く見出されない。アイロニーに悠然と戯れてみせる美学はその欠片も無い。彼らは、九鬼が美事に謳いあげた"いき"と云う文化様式を、生きてはいない。

  • ヨーロッパ哲学的な言葉で、日本の言葉・表現を腑分けしていく。論理自体はヨーロッパ的というよりは普遍的なものだろうし、読んでいてすごく説得力がある。
    この感情とは何か、この感性とは何か、そういった問いへの一連の強力な答えになるだろうし、これによって比較文化的通路が生まれうるだろう、という感じです。

    P.88
    しかしながら概念的分析の価値は実際的価値に尽きるであろうか。体験さるる意味の論理的言表の潜勢性を現勢性に化せんとする概念的努力は、実際的価値の有無または多少を規矩とする功利的立場によって評価さるべきはずのものであろうか。否。意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさにまさの学の意義は存するのである。

  • およそ「いき」の現象の把握に関して方法論的考察をする場合に,…(中略)…「いき」を単に種概念として取扱って,それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直感」を索(もと)めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は,具体的な,事実的な,特殊な「存在会得」でなくてはならない。

    (『「いき」の構造』九鬼周造)

    *******************


    18ページ目でいきなり刺激的だぜ,九鬼せんせー。
    つか,あのドイツ人が言ってたことと似てる気が・・

    (本棚ガサガサ)


    *******************

    …本書において分析し且つ歴史的に究明すべき対象をあらかじめ確定しておくべきであるとするならば,その場合問題となりうることは,概念的な定義ではなくて,さしあたりここで資本主義の「精神」とよんでいるものに対する最小限度の暫定的な例示に止まらねばならない。

    (『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』M.ウェーバー)

    ********************


    ビンゴ!!


    会ったこともないはずのふたりが,ここまで正確に全く同一のことを言うという奇跡が起こるのはなぜか。それは,(語義矛盾を許してもらえるなら)それが奇跡ではないからです。



    時代的にも空間的にも断絶した場所に生きた九鬼とウェーバーの言葉に,口裏あわせしたとしか思えない符号が可能になるという事態を必然にするのは,「愚かさのあり様は無数にあるが,賢さのあり方はひとつかない」という命題だ。


    それ以前に論じられたことのない概念,もしくは論じられたことがあっても議論が錯綜している概念(「いき」@九鬼だったり「資本主義の精神」@ウェーバーだったり,「超人」@ニーチェ)を扱う場合,


    その概念の定義を,立論に先立って事前に確立し,それを現象にあてがっていくというスキームをとることはできない。(だって,概念がなんであるか,まだ誰も分かってないんだから)


    世界史的に頭がいいと言われるためには,そのような取り扱い注意の概念を扱う際に,軽率に定義を確立するという誘惑に禁欲を貫くタフさを備えていなければならない。


    「おおまか」なアウトラインを使って,現象の例示をもって,ひとつづつアプライし,事後的に定義に跳ね返ってくるという方法論。具体と抽象を浮遊する肺活量。


    要は,「○○がなんであるか分からないけど,○○について論じる」というとてつもない知的な負荷に耐えられる人だけが,賢者の系譜につらなることを許されるのだ。


    因みに,『「いき」の構造』が提供してくれる読書の妙は,最終的に「いき」が何であるか余計分からなくなる点です。

  • 心の中で「へぇ〜」を連発しどおし。
    江戸の気っぷの良さを感じられました。(関西は「いき」ではなくて「すい」の文化)
    私の着物の趣味は全然「いき」じゃないわ……。

    「いき」は媚態、意気地、諦めの三徴表。
    そして二元的可能性。
    姿勢を軽く崩すことが「いき」、抜き衣紋が「いき」(西洋のデコルテとは大違い)、うすものを身に纏うことが「いき」、緊張と弛緩が混ざった表情が「いき」、素足が「いき」。
    二元性模様である縞、それも縦縞が「いき」。
    色合いは第一に鼠色、第二に褐色系統の気柄茶と媚茶、第三に青系統の紺と御納戸。

    その他、「風流に関する一考察」、「情緒の系図」。
    情緒の系図のほうは新万葉集の歌から見る、感情の考察。

    松岡正剛の千夜千冊での解説
    http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0689.html

  • 吉田真生
    「甲は甲である」という必然性よりも「甲は乙で有る」という偶然性に引かれたのが九鬼だった。
    日経新聞夕刊 プロムナード 2017年12月28日

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