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Amazon.co.jp ・本 (336ページ) / ISBN・EAN: 9784003316412
作品紹介・あらすじ
柳田国男・渋沢敬三の指導下に、生涯旅する人として、日本各地の民間伝承を克明に調査した著者(1907―81)が、文字を持つ人々の作る歴史から忘れ去られた日本人の暮しを掘り起し、「民話」を生み出し伝承する共同体の有様を愛情深く描きだす。「土佐源氏」「女の世間」等十三篇からなる宮本民俗学の代表作。(解説 網野善彦)
感想・レビュー・書評
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ブクログで「あなたへのおすすめ本」として勧められた本書。宮本常一。うん?これはもしや私がイザベラ・バードの「日本奥地紀行」のレビューを書いたとき、kuma0504さんがコメントで言及された民俗学者ではないか。来た来た!来ましたよ!kumaさん。
「忘れられた日本人」。なんて興味をそそるタイトル!そして、所々のボヤけた白黒写真!これだけでも哀しく温かい。
宮本常一氏(1907〜81)は昭和14年以来、日本全国をくまなく歩き、各地の民間伝承を克明に調査してきた。そして、この中に収められているのは、雑誌「民話」に「年寄りたち」と題して連載されたもので、各地の文化を築き支えてきた伝承者=老人達がどのような環境に生きてきたかを古老たちのライフストーリーを交えて生き生きとえがいている。
面白い!
まず、最初の「対馬にて」では長崎県対馬の北端に近い西海岸の伊奈という村での話なのであるが、宮本氏の滞在されていた期間は丁度村の「寄り合い」の時で、村の大事なことを何時間もかけて皆が納得がいくまで話しあっていた。例えば宮本氏が調査のために村の古い証文類を貸して欲しいとお願いすると、それを貸していいかを決めるために皆が納得するまで何時間もかけて話し合われのだ。ふつうの研究書なら「〇〇という文献によるとこれこれこういうことが分かった」で終わるところだが、宮本氏のこの文章ではその文献に辿りつくまでのその持ち主たちとのやり取りの様子が書かれることで、いかにその村ではどんなことでも皆の意見を聞いて進められてきたかという様子が分かり、その記録こそが研究であり、まるで文学のようだと思った。
お年寄り達のお話を聞かれるとその時代、その土地に住んでいた人ならではの知恵というものがあったことが分かる。例えば、対馬のように海沿いの土地の山間部を馬で移動する時には同行する人の姿が見えなくなってしまうことがよくあることであるが、そこでお互いの場所を知らせるために生み出された知恵が「歌を歌いながら移動する」ということであった。大きな声で歌を歌いながら移動すれば、村の仲間ならその声の持ち主が誰か分かるので、行方不明になっていても、「誰がどの辺りにいるか」だいたい分かるというのだ。
「寄り合い」について、もっと言及されているのであるが、宮本氏によると西日本では特にこの村の「寄り合い」が重視され、そこでは武士とか農民とかの階級を超えた民主的なものであったらしい。また、若衆だけの寄り合いグループ、娘たちだけの寄り合いグループ、隠居組だけの寄り合いグループなどがあり、それぞれの家の中では言えないこともその寄り合いの中で相談したり発散したりして、家の中や村の中の人間関係を円滑にすることに貢献していたらしい。例えば、年寄りばかりの寄り合いでは、村の中の人には言えない男女関係のもつれなど、公にすると大問題になってしまうことも「誰にでも誤りはある」と広い心でこっそり聞いて、相談に乗っていたらしい。また、女性ばかりの年寄りの寄り合いでは、「嫁さんのグチ」をそこで言って発散することによって、家で嫁いびりをせずに済むようにしていたらしい。実際にこのような地域では「姑の嫁いびり」は少なかったらしい。
「女の世間」では宮本氏の伯母さんの若い頃の田植えの時の様子を聞いておられるのだが、その頃、「苗取り」は腰掛けに腰掛けてするのが主流であったが、伯母さんは腰掛けなど使わず、水田の中で片膝をついてするほうがやりやすいと言う。何故かというと娘の時から「田植え」はみんなで競争しながらするもので、男性と仕事を分担しながらしていたが、男性の手が遅いと「この甲斐なし奴が!」とどなりつけたり、大の男を女性3人で田んぼの中に引きずりこんで泥を浴びせたり…とそれはそれで楽しい青春だったらしい。田んぼの畦で太鼓を鳴らしながら歌い、音頭をとって田植えがはかどるようにした面白い人もいて、何も楽しみの無かった時代、大規模な田植えは一大イベントだったそうだ。また、女たちばかり俯いて田植えをしながら、実は「エロ話」も結構していたそうだが、往々にしてそれは彼女達が明るく健康的であった証拠と見られる。機械化される前の田植えなど、「地獄のようにしんどかったんちゃうの」と勝手に決めつけていた現代の私は失礼も甚だしかった。
男女の性のあり方も時代と地域によって今では考えられないくらい解放的な部分があった。宮本氏が調査された昔の農村では、年頃の男性は目を付けた娘の家に「夜這い」をするのが良くあることで親も気づかないふりをして結ばれることは良くあることだったらしい。
しかし、その夜這いも「させてもらえなかった」若者もいた。「土佐源氏」で語る80歳超えの盲目の乞食の老人は、孤児で「ばくろう」(牛を交換して商売する人)だったそうだ。ばくろうというのは、たいしたことのない牛を「いい牛だ」と言って百姓が育てた良い牛と交換して歩いて、最終的に牛親方の所に高く売りつけるというヤクザな商売だったらしい。特定の集落に属していないので、若衆仲間にも入れず「夜這い」はさせてもらえなかった。相手になるのは、旅のばくろうを留める家の「後家」が多かった。ある日、その後家さんの娘と結ばれ、逃げて一度は堅気の商売を始めたのだが、商売で関わった良家の奥様と関係を持ち、隠れるように逃げて結局は元の商売に戻ったそうだ。妻には言えないけれど、同じような経験が他にもあったらしい。当の元ばくろうの老人の思いによると、その良家の奥様もばくろうも「寂しさ」というのが共通していたので、何も取り柄のないばくろうの優しさがその女性の心を動かしたらしい。あの「光源氏」とは似ても似つかない環境だが、何故か女性を喜ばせた「土佐源氏」。このばくろうの話がいい話だとか同情するとかは思わないが、特定の集落にも属さない、日本列島の山あいを毛細血管のように生きた男の生涯を生き生きと蘇らせて「土佐源氏」としてまとめた宮本氏の調査力と文学性には目をみはるものがあると思う。
昔のこと、地方のことというと「現代から見た昔」「中央から見た地方」「都会から見た田舎」という視点になってしまう気がするが(少なくとも私はそうだった)、宮本氏はどんな辺鄙な所でも実際に足を運んでその土地の老人の話を聞いて、日本の隅々に独自性があり、「日本は一つではない」ということを思い知らせてくれた。
大変興味深く、そして切なくなった一冊。だって宮本氏が必死になって、当時の地方の老人たちから聞き書きした「消えゆく文化」は既に70年くらい前のことであり、既にその多くが消えているだろうから。過去進行形で消えていった文化を書き留めた「文字」と宮本氏の研究姿勢はすごい。何かに行き詰まったとき、宮本氏の研究姿勢とこの本に書き留められた昔の人の生き方を思い出したい。
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記憶に残るようなニュース性のある大きな出来事だけが歴史ではない。そこで語られない大衆の生活も歴史の基本であり、それを研究するのが民俗学であり民俗史である。という事で、歴史関係の書籍から零れ落ちそうな真の日本人、忘れられた大衆に目を向けるのが本書、という内容で抜群に面白い。
ただ、非常にエロい。そうか日本人は性に開放的だったのかという事で、これは間違いでは無さそうだが、少し実体験に沿って考えてみる。
とある仕事の関係で、業界の会合の話を聞いた。そこは、同業他社が集結するため、いわゆる公正な取引に反しないよう「話してはいけない事」というルールが存在する。そうするとマーケットの話などは軽々しくできないので、自ずと仕事の話がしにくくなって、政治、芸能、スポーツなどの共通の話題を探さざるを得ない。しかし、いずれも好みがあるもので、贔屓のチームや政党と異なるリスクもあって、発言を慎重に選ぶ必要がある。そこで行き着くのが「猥談」なのだという。割と古い業界の会合では男性が多いので、共通の話題としてシモの方向に流れやすいのだ(それでも駄目だと思うが)。
つまり、同一化されぬ部外者への伝承に際しては、そのサービス精神からも話題として「猥談」が選ばれやすいという背景はないのだろうか、という話だ。祭事、習俗、農作業なども含めた文化が日常生活に占める割合は大きいが堅苦しい。だからと言って、何か客人が喜びそうな話と言っても、これといってない。同根のことかと思うが、結局、集団が同質化していく過程でのシモネタと、部外者への伝承過程において選ばれるシモネタは、いずれもある種の娯楽性とサービス性において選択されがちなものである。という事で、民俗学はエロ本化していく・・(個人的見解)。
イザベラバードの『日本紀行』のように、そうしたシモネタが排除されて習俗が伝わる書籍もある事を考えれば、やはりある種の偏りが生じる事は仕方ないのかもしれないし、しかし、その偏りこそが面白いのかもしれない。
一応、私が一番面白いと感じたのはこうしたシモネタの部分もそうだが、「寄りあい」(まじめなやつ)の話だったという事は書き残しておきたい。 -
小学5年の初夏のことであった
おちんちんがとんでもなく腫れたのである
もうぱんぱんである
痛いし、痒いしでとてもじゃないが学校にも行けないということで2,3日休んで家で寝ていると当時一緒に住んでいた祖父が来て一体どうしたのかと聞いてきた
そこで実はこういう訳で学校も休んでいると答えると「お前どこぞで立小便をしてきたな」と言うのである
確かに立小便をしたと返すと「みみずに小便をかけるとちんちんが腫れるのだ」と言うのである
みみずの怒りを買ったのだと
しかし、みみずを見つけて、水できれいに洗ってやればみみずの怒りは収まり腫れはひくと続けるのである
そんな馬鹿なことがあるものかと思ったが、祖父が「年寄りの言うことは聞くものだ。大した手間ではないのだから騙されたと思ってやってみろ」と言うので、みみずを見つけて洗ってみると次の日の朝にはきれいに腫れがひいて元の粗ちんに戻っていたのである
不思議なことがあるものだ
本書の中でもこのみみずの話が出てくるが、日本各地でこのような伝承は残っているようである
って、誰が粗ちんやねん!( ゚д゚ )クワッ!!
*ちんなみに本書『忘れられた日本ちん』はクマちんにおすすめ頂いた
たいへんおもちんろかったです
ありがとうクマちん-
2024/10/06
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勿論ノンフィクションでしょう。
他の誰も、「ションベン引っ掛けたら⚪︎ん⚪︎んが腫れる」という事を言われた思い出を書いていないことに、私はシ...勿論ノンフィクションでしょう。
他の誰も、「ションベン引っ掛けたら⚪︎ん⚪︎んが腫れる」という事を言われた思い出を書いていないことに、私はショックを受けている。あれば全国的に流布されている民間伝承ではなかったのか?でも茨城と岡山で、同じ話が出ているということは全国的ということか。みんなよっぽど都会に住んでいたということか。尤も「洗えば治る」という話は初めて聞いた。
今頃読んでコメントしているのに、なんなんですが、土佐源氏の章がこの本の白眉です。ちょっとは出てくると期待していた私がバカでした。2024/10/12 -
クマさん
男にとって最も大切なものの話をしています
これぞ民俗学ですいやちん俗学です
土佐源ちんも良いですが、わいがそんな誰もが称賛するよ...クマさん
男にとって最も大切なものの話をしています
これぞ民俗学ですいやちん俗学です
土佐源ちんも良いですが、わいがそんな誰もが称賛するような話を書くわけないでしょうが2024/10/12
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-こうした貧農の家の日常茶飯事についてかかれた書物というものはほとんどなくて、やっと近頃になって「物いわぬ農民」や「民話を生む人々」のような書物がではじめたにすぎないが、いままで農村について書かれたものは、上層部の現象や下層の中の特異例に関するものが多かった。そして読む方の側は初めから矛盾や悲壮感がでていないと承知しなかったものである(「私の祖父」)
-村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片付けている。(「世間師(一)」)
-文字を持つ人々は、文字を通じて外部からの刺戟にきわめて敏感であった。そして村人として生きつつ、外の世界がたえず気になり、またその歯車に自己の生活をあわせていこうとする気持がつよかった。(「文字をもつ伝承者(一)」)
宮本常一の民俗学の金字塔といわれる著書。
巻末の網野善彦氏の解説によると、宮本氏は、客観的なデータを整理・分析する従来の民族誌よりも、「生きた生活」をとらえることを目指したということで、分析的な記述よりも、地方村落のお年寄から聞いたことやフィールドワークの体験がそのまま記録されている。
太平洋戦争直後の昭和20〜30年代に調査は実施された。
東京の文壇ではちょうど同じ頃に小林秀雄が『ゴッホへの手紙』を書いたが、その当時の地方村落は、まだ中世のような生活だった。
地方の村落と言うのは、文明では都市部から100年近く遅れているようで、素朴なやり取りに、ほっこりと里山の空気を感じる。
動物や虫を支配するのではなく共に生き、性愛に風流を感じ、目に見えない神を尊ぶ、などが日本の特徴だろう。
西洋文明では、人は自然を支配し、純潔を重んじ、一神教、となる。
現代の日本が西洋と同じとは勿論言わないが、昔に比べてその傾向に近づいていることは間違いない。
科学技術や目に見える文化だけでなく、人間の頭の中もそのように変わるものだと改めて知った。
『源氏物語』の風流は、庶民にも存在したのかもしれない。
印象的だったのは、対馬である老人を訪ねた際のやりとりだ。
老人「あんたァどこじゃね」
宮本「東京の方のもんじゃがね…」
老人「へえ!天子様のおらしゃるところか。天子さまもこんどはむごいことになりなさったのう」
太平洋戦争敗戦について天皇を気遣う言葉だが、あっさりとどこか他人事のようで、自分が所属する国が他国との戦争に負けた、という実感は感じられない。
そもそも、「国家」というものが機能や組織として意識されていない。
都市部の戦争体験と言えば、空襲を受け、日の丸を掲げ、プロパガンダ新聞を読んで他国への憎悪を燃やす、と悲壮な画が浮かぶが、
それに比べて、「天皇かわいそうだったねー」というこの遠めの距離感。
国家や政府によって作られた物語に煽られず流されない、都市住民にはない素朴な人間の聡明さを感じた。-
「いいね」ありがとうございます。
日本人。
しっかり考えないといけない。
今こそその時代ですね。「いいね」ありがとうございます。
日本人。
しっかり考えないといけない。
今こそその時代ですね。2025/12/07
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何度も読み直したくなる一流のドキュメンタリー
前半は文字を読み書きできない老人たちを語り部とした、村における風俗史といっても差し支えない内容。口語調であるが故に容易に情景が浮かび上がります。中盤は氏の祖父の歴史、世間師、大工といった村と外部をつないだ人々の話から、いかに外部と交流することで変化していったか、が描かれる。
終盤は村におけるインテリ農民による記録から村の隆盛の過程を紐解いていく。。
それぞれが非常に面白く、想像力が掻き立てられます。
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しみじみと考えさせられた
著者が足を運んで聞き取りをしている
なにも歴史は中央や力ある者だけがつくっているものではない
地方で生きていた先祖らが
一生懸命に紡いできてくれたおかげだ
お金もうけだけに走らない人たちが
やはりいた、ただ素朴とか純朴というのではない人たち
東日本と西南日本の違いが興味深い
特に農家の女のひとの話しが
生き生きとしている
過酷な仕事に押しつぶされていただけじゃない
強さとユーモアを知る
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1960年(昭和35年)。
民俗学者・宮本常一の代表作。柳田国男が言及を避けてきた性風俗や被差別民について積極的な研究を行ったことで知られる。フィールドワークに裏打ちされたエピソードはとても興味深い。
特に印象に残ったのは「女の世間」と「土佐源氏」だ。「女の世間」は農村の女の話を採録したもの。いわゆる「エロ話」なのだが、実に開放的な話が多い。例えば、夜這いは日常的な習慣で、結婚前に処女喪失するのは珍しくもなかったという。また、自分の村しか知らない娘は「世間知らず」とバカにされて嫁の貰い手がない(!)から、若い娘達だけで見聞旅行に行く習慣があり、旅先で出会った男と夫婦になって戻ってくることもあったという。現代人も顔負けの奔放さだ。
「土佐源氏」は、乞食として最底辺の生活をおくる老人の生涯を綴ったもので、小説として成立しうるほど文学的完成度が高い。この翁は親に望まれぬ子として生まれ、ヤクザ稼業をしながら放蕩を重ねた挙句、乞食に身を落とした駄目男である。だが、その女性遍歴の原動力は母性に対する憧憬であり、自身も弱者であるがゆえに弱者たる女の哀しみを知り抜いたこの男に、満たされない心を抱える女達が次々と身を任せてゆく。この乞食男に「源氏」の名を与えた著者のまなざしに、深く頭を下げるばかりだ。
なお、本書で取り上げられているのは主に西日本の村落である。これは、当時の民俗学の研究対象がほとんど東日本に限られていたことや、東京を中心にモノを見たがる学会のありように対する、著者の異議申し立てでもあったらしい。
<一つの時代にあっても、地域によっていろいろの差があり、それをまた先進と後進という形で簡単に割り切ってはいけないのではないだろうか。またわれわれは、ともすると前代の世界や自分たちより下層の社会に生きる人々を卑小に見たがる傾向がつよい。それで一種の非痛感を持ちたがるものだが、御本人たちの立場や考え方に立って見ることも必要ではないかと思う。>(p306)
この意見は、1960年代に西洋思想史を刷新した文化人類学者レヴィ=ストロースが展開した西欧中心主義批判と符合する。本書の執筆時点において、宮本氏が西欧の新思想についてどれほどの知識を得ていたのかは不明だが、「無字社会の生活と文化」という共通テーマを研究対象とした両者の辿り着いた結論が同じだというのは、とても興味深いことだと思った。 -
宮本常一という民俗学者が日本全国を旅しながら、その土地のお年寄りから聴いた話をまとめたもの。
明治、大正を生き抜いたある意味自分の祖父母の若い時代はちゃんとしっかり若者で、自分の足で様々な所に旅したり、出稼ぎに出たり、ずっとアクティブだったんだと実感。
性に関しても現代よりもずっと奔放な感じでそんなエロ話が田植え中の奥様たちがとても健康的に語る姿にクスッと笑ってしまいました^_^ -
・面白い!
・西日本が記述の中心であることが、なんとも嬉しい。
・もとは「年寄たち」という総題が想定されていたのだとか……「忘れられた日本人」は同じ意味だが、より大上段に構えた表現であって、もとの素朴な想定のほうが内容にフィットしている。
・寄合とか地域会とかめんどくせぇと肌で嫌悪するシティボーイなので、興味を持ったのは多くの人と同じく「土佐源氏」が、結構作者による創作なのだという事情を聴いてから。
・が、むしろ冒頭の「対馬にて」「村の寄りあい」あたりで、記述内容と、地の文の文体と、差し挟まれる聞き取り引用会話文の面白さが、「女の世間」を経て「土佐源氏」で大爆発する、という構成の妙に強烈に引き込まれた。
・その頂点が、148p「(略)つい手がふれて、わしが手をにぎったらふりはなしもしなかった。/秋じゃったのう。/わしはどうしてもその嫁さんとねてみとうなって、(略)」。
・「人のぬくみ」を思い出す「私の祖父」や、「非農民の粋」を語る「世間師」、そして貴重な取材源を疎かにしない「文字をもつ伝承者」が後半にくる、やはり構成の妙味。
・隙のない連作短編集の構成だ。
・奥さんをないがしろにして「助手」を伴って取材旅行に出ていた自身の「いろざんげ」を、「土佐源氏」に代弁させたのだ、という読み解きも、実に文学的でぐっとくる。
・ちくま日本文学022の文庫解説では石牟礼道子が解説を寄せているのだとか。確かに、石牟礼道子、森崎和江、上野英信、谷川雁らサークル村の活動と、近接する研究だ、とは思う。が、敢えて露悪的に言えば、根本に左翼思想を置いて、日本の原郷を目的として探る、という活動と、宮本常一の活動は、因果が逆なのだと感じた。宮本の左右政治思想は知らない、が、この本を読むと、思想より人への興味が先行しているように思えるのだ。
・また、被差別部落に生まれ落ちたことを根拠に文筆活動を組み立てんとする中上健次に対して、「中上健次の同和理解は暗くて浅い、私の理解ではもっと明るくて深いものだ」と言ったという。勝手な推測だが、路地出身とはいえボンボンのインテリに過ぎなかった中上の近代性を、むしろ前近代性から批判し得る見聞をたくさん仕入れている、ということなのだろう。「山に生きる人々」にて、ある種の作家(三角寛とか?)のサンカ幻想を意に介さない記述があるらしいが、うーんたとえば吉本隆明に「どういうことですか」と質問を繰り返した岸田秀のごとき、カラッとした鷹揚さが感じられるのだ。
・左翼ー日本探求という点では、宮崎駿も同じ文脈に入れるべき。文芸や表現が、左翼的心情を出発点にしたりモチベーションの源にしたりするのはありうべきことだが、主張の道具に、作品や研究が使われてしまう可能性もあるのだな、とここ数年の石牟礼ー森崎読書で知った。いやむしろ石牟礼ー森崎は、谷川ー上野のその傾向に抗しているのかもしれない……今のところは想像するばかり。そこに思春期に熱中した中上や大江も加わってきたり、いずれ読みたい柳田国男や折口信夫や南方熊楠もきっと関わってくるんだろうと想像されるが、何かしらのストッパーとして、宮本常一を憶えておきたい。
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柳田国男・渋沢敬三の指導下に,生涯旅する人として,日本各地の民間伝承を克明に調査した著者(一九〇七―八一)が,文字を持つ人々の作る歴史から忘れ去られた日本人の暮しを掘り起し,「民話」を生み出し伝承する共同体の有様を愛情深く描きだす.「土佐源氏」「女の世間」等十三篇からなる宮本民俗学の代表作. (解説 網野善彦)
目次
凡例
対馬にて
村の寄りあい
名倉談義
子供をさがす
女の世間
土佐源氏
土佐寺川夜話
梶田富五郎翁
私の祖父
世間師(一)
世間師(二)
文字をもつ伝承者(一)
文字をもつ伝承者(二)
あとがき
解説(網野善彦)
注(田村善次郎) -
知ってるようで知らない日本
でもなんだかこの雰囲気
身体が感覚として
覚えているような気がする
現代の価値基準からいくと
猥雑だったりプライバシーの事で
「昔は良かった」なんて
100%言えないけれど
「生き物」として考えた時
現代よりも過去の生き方の方が
現代の価値基準より
圧倒的に強いなぁと思う
hennbooksにて購入 -
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江戸後期〜明治〜大正〜昭和初期のころの日本の原風景を切り取ってきたような書籍です。田舎の村々での百姓の暮らしぶりが、とてもよくわかります。百姓の日常や村人たちの当時の暮らしっぷりを知ることができます。今より、性に対してゆるい社会で村の中で夜這いも日常的にあったようです。あとは、動物たちとの関わり方が、私はとても興味を持ちました。ミミズにションベンをかけてはいけない、こととか、可愛がっていた犬が山で迷っていた時に助けてくれたり、亀との逸話や狼との対話など当時の人々の考え方と、動物との関わり方がおもしろく感じました。八百万の神を感じながら自然とお付き合いしていた様子が伺えます。貧しいながらも懸命に暮らしていたこともわかります。今の豊かな暮らしに感謝しつつ、そう遠くない時代に生きた人々の息遣いを感じることができました。
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第二次世界大戦後まもなく、対馬や四国、愛知県などの農村/漁村を訪ね、昔の生活を人々に聞いてまわる。
歌を愛し苦労を癒す農民たち、貧しく苦しい生活、夜這いの慣習、ハンセン病を患い差別された旅人との出会い、盲目の乞食、各地の復興を飛び回った大工、心優しい祖父と亀を助けた話、農家の元気な女性たち、
文字を書けない人も多く登場する中で、後半に紹介される二人の文字を知る農民(田中翁、高木翁)の姿には感銘を覚える。農家の立場を誇りに思いながら変わっていく世間への目線を持ち、その村の発展に貢献しようとする。
ここで取材されたのがほんの70年前、というのは不思議な感覚でもある。日本の明治時代からの変化の激しさがわかる。結構近い時代までフリーセックスに近い慣習が多く残っていたというのも驚き。
「昔の人は良く働いた」というのがよくわかる。健康な人がハードに働かないと、立ち行かない時代だったし、それが難しい人は苦しい目にあっていたんだろう、と思う。
この本が出版された1960年頃、すでに”忘れられた日本人”と冠される人たちだった。今ではこのような人たちは絶滅しているだろうか?
人に歴史あり、を強く感じる一冊で、淡々とした語りだけど面白かった -
1955年あたりから、村々の年寄りから、聞き集めた伝承をまとめたものです。幕末から、戦後まぎわあたりの話で、まさに忘れられた日本人の姿が、老人たちの口から語られています。
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とても興味深く読んだ。しばらく前に100分de名著で放送されており、その際に面白そうと思って購入していたが、読めずにいた。今回、機が熟して読んでみたが、想像以上、期待以上に面白みを感じた。
東日本で育ち、東日本を出たことのない身としては、違和感があったがそれも、東と西では違う、とのことで納得。伝承者、というにはあまりにおおらかな土地の人々の話は、つい笑顔になってしまうような話が多くあった。
油を売る、という言葉が当時当たり前だったけど、それを文字で説明することの意義。そんなところで、ふと、子供の頃、トマトに砂糖をかけて食べる、ということを職場で話した際の皆の反応が面白かったことを思い出した。私にでさえ、既に記憶の中だけの風習、習慣ってあるものだ。それを学問にするかどうかは別として、私たちと同じように一生懸命に生きて亡くなっていった人々がいて、今の私たちが存在するのだと当たり前のことだけども、感じた。
文字を知る人と知らない人とでは話し方、考え方が違うということも興味深かった。もはや、日本に住む私たちは文字を知らない人と話す機会はほぼない。ということは、文字を知らない人たちの思考も知らぬままに生きていくのだ。それは誇りでもあるし、私自身が書くこと、読むことで人生を豊かにしていることを考えると複雑な気持ちになるのだが、多様性といいつつも、つまらぬ時代だなと思う。
民俗学というと、柳田國男のイメージでほんわかとしていたが、もっと知りたいと思うようになったし、時代を書き記すことの意義を強く感じられた。 -
人類学者宮本常一さんの一冊。読み終わって感じたのは、現在自分の頭の中にある"日本人"という言葉の持つ曖昧さ、残酷さ、虚しさです。そして様々なレイヤー(切り口、断面、側面、肩書き)で自身を認識することの必要性を認識しました。
本で紹介されている"日本人"の多くは、現在一般的に持たれている日本人のイメージとは離れているように感じました。そう感じたのは以下の2点です。1.性に関する大らかさ、2.家庭で主導権を握る女性の在り方。
まず性に関する大らかさです。男性が夜暇になり寂しくなったら隣町までも歩いて行き好みの女性に夜這いをかけることが当たり前となっている村社会。そしてそれを良しとし、黙認する女性とその両親の話。また田植えをしながら性に関する歌を歌ったり、女性が逆に男性に対して露出することにより男性が逃げるという、逆痴漢的な話。加えて一年に一回、村の誰とでもセックスをして良い日がある村の話など。よく今の若い世代は性に対してだらしなく、昔(イメージでは1930年~60年代に生まれた方々)は性に対してもっと厳格で、婿入り嫁入り前の男女が肉体関係を持つことに抵抗感があり、性に対してもっと誠実だった、という話をよく聞く気がしますが(映画『風立ちぬ』にもそういうシーンがありますが)、宮本常一さんがその時代(1940年から60年ぐらい?)に回った西日本の各地域では、性に対して所謂"今時の若者"のイメージよりもさらに解放されていた方々がいたんだという話に、とても衝撃を受けました。当たり前かもしれませんが、日本の地域や時代によってその生活スタイルや「当たり前の感覚」は全く異なるのだと、思いました。
次に主導権を握る女性の在り方です。本のある場面で女性中心で作業が進み、男性がそれを手伝うシーンがあります。女性は男性をこき使い、男性が女性に作業中からかわれたりします。日本は家父長制が強く、男性が家のトップというイメージが強かったのですが、(もしかすると本で紹介されている村もその作業中のみの話かもしれませんが)、女性が男性に対して主導権を完全に握る人たちがいた(もしくは期間があった)という話は、元々頭の中にあった日本の家父長制のイメージを一部破壊してくれました。
以上より感じたのは"日本人"という言葉の持つ限界でした。たしかに日本人という言葉で括り、日本人が自身のアイデンティティーを語ることは一部可能であり、時として強い力を持ちますが、それだけで自身を十分に説明し、個人のアイデンティティーの安定を保つことができるものではないと、改めて強く感じました。
もう一点、日本人に対するイメージの話からは少し外れますが、本で紹介されていた村の「寄合」にはとても興味を持ちました。別に何を話してもよく、トピックも飛びまくり全く収集がつかない話し合い。しかしそれが定期的に実施されることにより村人が村の全体像をなんとなく把握しコミュニティを形成する、というのはとても面白かったです。現在はいかに論点を整理し、限られた時間のなかで議論をピンポイントで深く行うかが重要とされている気がしますが、そもそもそれはいい事なのか、というのは、とても考えさせられました。
"日本人であること"について考える際の材料として、おすすめの一冊です。 -
名もない人々の日常を聞き書き。
人びとの生きた記録が、文学作品のような読み応えになる。
土佐源氏は読んでしばらく噛み締めちゃった。それから94pからの、和さんのエピソードがとても好き。
他の方も感想に書いてるけど、昔の日本人の意識って「女の子は慎み深く」「嫁いり前なんだから不用意に男の人とお話ししちゃいけません」みたいなものだと思ってたけど、思った以上に強くておおらか(?)で意外だった。思えば民謡の歌詞とか聴くとわりと大らかで下ネタも満載だから、まあ、そういうものなのか。この辺のことは地域や時代、社会的立場も関係するのかな。
聞き書きの良さを感じたものの、同時に思うのは、どの程度、開示されるのだろうか、という事。姑のイビリはそんなに無いという話のところでふと思ったんだけど、他所者にどの程度、自分たちの事情を話してたんだろう。
嫁イビリがそんなに発生しない理由は読み進めるとちゃんと説明されてるので、まあ、そうかもね、と思うものの。レアケースな割には世に嫁イビリの話や唄があるのはなんでなんだろう。 -
この本にはたくさんの昔の言葉や地域での言葉が出てくる。これらをググってもこの本への参照としての検索結果しか出てこない。インターネットは世界のほんの一部しかカバーしていないことがよくわかります。
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再読。
柳田民俗学が風俗や風習に焦点をあてた横串の民俗学だとすれば、宮本民俗学はひと一人ひとりの個人史を追う縦串?の民俗学だ。でもそんなことはどうでもよい。
宮本常一の聞き取る古老たちの、あるいは村の生活史は、一つ一つがおとぎ話みたい。村の名士も、橋の下の乞食(本人がそう名乗る)も、それぞれの時代を自分なりに精一杯に生きた。 楽しいばかりでも、哀しいばかりでもない。それらが縦横に入り組んで織りなす人生の物語は、どっしりとした重量感がある。
後の世に伝わるのは王様や天才や豪傑の名前だけれど、本当に歴史を作るのは、大勢の名もないただの人たちだ。著者が残そうとしたのは、語らぬ人々の語る声。
「無名にひとしい人たちへの紙碑の1つができるのはうれしい」 -
日本のこと、それもそんなに昔のことではないのに、異なる世界のことを聞いているようだ。今の私はなんなのか。どこからきたのか?連続性が全く見いだせない。振り返るとどの話も魅力的だが、読み通すのは骨が折れた。現代の文脈で推し量れないからだろう。しかし、前例のない、離れたきら星のような本だった。あとがきを読んで、その評価が一段と高まる希有な学術書でもあった。
・論理ずくめでは収拾がつかない。自分たちの体験にこと寄せるのが聞き手、話し手双方にとってよかった。
・女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福であることを意味している。
・落書きは庶民のレジスタンスとしてさかんに利用された。
・文字を知らない世界では人を疑っては生きてはいけない。
・文字を知るものは時計を見る。時間に縛られる。
・親と何十年も一緒に暮らしても、その全てを伝承できるものではない。
・嫁の姑いじめ。
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わたしの大好きな民俗誌をご紹介ありがとうございます♪
こんな文学性をも伴ったお話が民俗学の魅力です。
今ならば、まだ...
わたしの大好きな民俗誌をご紹介ありがとうございます♪
こんな文学性をも伴ったお話が民俗学の魅力です。
今ならば、まだ驚くような民俗誌もまだ可能ではないかと思うのですが、あまり出てきていません。
本当に民俗学の魅力の一つは文学性なのですね。名も知らない村の(あるいは村にも属さない)名もなき一人一人の生涯がこんなに...
本当に民俗学の魅力の一つは文学性なのですね。名も知らない村の(あるいは村にも属さない)名もなき一人一人の生涯がこんなにも文学性があるとは思っていませんでした。
あと、文系の学問というのは机上の学問ではなく、理系の学問と同じように手足を使う「人文科学」だとはっきり分かりました。