イスラーム文化 その根柢にあるもの (岩波文庫 青185-1)

  • 岩波書店 (1991年6月17日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784003318515

感想・レビュー・書評

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  • イスラム教への理解が深まる。宗教ではあるが、神学や哲学の分野でもある。著者の解説が分かりやすいので「信仰を解体して学ぶ楽しさ」を知るような読書になった。そもそも“解体して学ぶ“行為は、そのプロセス自体が会話や旅行のようでもあり楽しい。

    先ず、旅のポイントは意外性から。イスラムが商業的な教えを含むものだという点。コーランは人間が神に金を貸すというイメージで解釈される。「誰か神に素晴しい貸付けをする者はおらぬか。後で何倍にもしてそれを返却していただけるのだぞ。神はその掌をつぼめるも、ひろげるも、思いのまま。」いわゆる神の恩寵が金銭的に表象され、厳粛な最後の審判の日すら商人言葉で描かれるらしい。

    次に“言葉の限界“を見抜いていた点。「コーラン」は言葉である。神の言葉であるにしても、ともかく言葉であるには違いない。すべて言葉は、それが理解されなければ、その機能を果たすことができない。そして言葉を理解するとは、解釈するということ。「コーラン』という言語テクストが神の言葉であっても、解釈するのは人間の営み。だから私は信仰は必ずご都合主義で書き物は偶像と変わらないという思想を持つが、本書では「コーラン」をどう読むかは各人の自由で、その本来的自由性がイスラム文化の多様性、多層性の源になるのだと説く。

    え、そっちの態度で良いの?という新鮮な感覚。解釈の自由性ってある意味では無限に都合よくできそうだが。しかし、解釈は自由だが、その自由は常に責任・共同体(ウンマ)によって拘束されている。先ず論理的かつ実際的に可能性を認め、それを統制する仕組みを持つのだ。

    イスラムにおけるこの聖俗不分という考えも興味深い。政教分離はあり得ない。また、神と人との人格関係が、あくまで主人と奴隷との関係だという点も考えさせられた。人間は神の奴隷。私も考えた事がある。空腹があり生への執着があれば、神の奴隷として日々の運動が必要だ。

    ー 哲学的にはこのようなものの見方を一般的に非連続的存在観と呼ぶことができると思います。存在の根源的非連続性。もちろん時間的にばかりではなく、空間的にもです。空間的に世界は互いに内的に連絡のないバラバラの単位、つまりアトムの一大集合として表象されます。

    ー 哲学的には因果律の成立しない世界ということになる。因果関係で内的に結ばれているものは、この世界には何一つ存在しない。また、そうであればこそ神の全能性が絶対的な形で成立しうると考えるのであります。もともと因果律というものー原因があって、結果がある。原因になるものにある種の創造力があって、自分に内在するその力の働きで結果にあたるものを自分の中から生み出していくのでありまして、因果律というものを認めますと、それだけ神の創造能力が減ることになる。神に頼らなくても、事物がそれぞれ自分なりに働けることになるからです。とにかく事物に自分自身の力があって、それが独立で働くものであれば、神は無条件的に全能ではありませんし、世界は神の絶対自由空間ではなくなってしまうのです。

    上記は私が面白さを感じた極致。自然発生の連鎖だから自由意志は無いという考えもあるが、それだと神すら不要だから、神は場面場面の意思に介在するのだという因果律を否定するような考え方。だが、他力信仰で人間の自由意志を完全に否定するのではない。もし人間がまったく無力で、自由意志を欠くものであるなら、そんな人間が悪を為し罪を犯すのも彼の責任ではなく、すべては神の責任になってしまうはず。神の倫理性の根本原理である正義が成り立たない、という。予定(定命)を信じるのだ。

    他にも最期の審判や異教徒の扱いなど興味深い内容が続く。信仰せずとも宗教を学ぶ事は重要。当然ながら過去に遡り膨大な数の信者がいるのだから、人間はどんな理屈や絶対性を信仰し得るのかを観察するガイドにもなる。

  • 3回の講演をまとめたもの、聴衆が一般人なのと、井筒さんも口語なので、とてもわかりやすい。
    岩波の担当者は、おそらく、井筒さんの一番やさしい論考をシリーズの1回目に置きたかったのではないだろうか。
    40年前のこの講演の時も現在もイランはシーア派政権だが、シーア派とはコーランに忠実で、それゆえに頑固で西洋的な近代化を拒む宗派であることがこの本でわかる。しかし、井筒さんはシーア派が悪いとは言っていない。逆に、その教説にはイスラム教の情念が宿っていると展開している。
    イスラムには僧侶はいなし、お寺もない。政治と宗教が一体化している。輪廻という考えはない、仏教を宗教とはおもえないのでは、などイスラムのなるほどな話題が多い。
    井筒シリーズの手引の本としてふさわしい内容だと思う。

  • イスラーム文化をイスラーム的にたらしめているものは何か

    イスラーム文化の独自性に迫る名著!
    イスラームというと、時局的な事件や歴史的背景の解説にとどまることが多いが、本書はその根本にあるイスラーム教そのものに光を当てている。

    キリスト教や仏教と並ぶ世界三大宗教の一つでありながら、現代でもたびたび社会を揺るがすイスラーム。その力強さの背景には、単なる信仰を超えて人々を動員する強大な教義がある。私自身、イスラームの「強さ」を人口増加や「子供を産み育てる」という行動様式に感じていたが、本書を通じてその一端に触れられたように思う。

    印象に残ったポイント

    1. 絶対帰依の宗教である
    イスラームをイスラームたらしめているのは「絶対帰依」。神に対する無条件の自己委託、絶対他力信仰の姿勢である。ムスリムという語そのものが「帰依する者」を意味しており、宗教の中核をなす。この徹底した信仰ゆえに、背信者やイスラーム法を破る者への処罰は厳しい。

    2. 世界性と強い共同体意識
    ユダヤ教やヒンドゥー教のような民族宗教と異なり、イスラームは普遍性を備え、血縁を超えてすべての人を受け入れる。そして契約によって結ばれた人々は、ムハンマドの権威のもと同胞となる。強い連帯意識を生み出す宗教である。

    3. 聖俗の区別を持たない
    キリスト教や仏教が「聖」と「俗」を区別するのに対し、イスラームは生活の隅々まで宗教が浸透する。コーランの教えはイスラーム法として人々を統治し、法を破ることは即ち神に背くことを意味する。政治をも包含する全生活的な宗教である。

    4. スンニ派とシーア派の違い
    スンニ派はイスラームの教えをもとに社会・政治体制を築く「外への道」。一方、シーア派は形而上学的な真理を探究する「内への道」として発展した。

    5. イラン政治の不安定さの背景
    シーア派思想は「絶対的な答えは存在しない」という前提に立つ。そのため人々は常に疑心暗鬼になり、政治的確実性を欠く傾向がある。イマームの意思を汲む哲人政治と、神から権威を与えられた王権政治の対立が繰り返され、その帰結としてイラン革命が起こったともいえる。

    イスラームの動員力の源泉は、神への絶対的信仰と、それを法のレベルまで具体化した点にあると実感した。個人の信仰から社会制度まで宗教が貫いている。なるほど、これでは強いはずだ!と腑に落ちた。

    時事的な説明にとどまらず、イスラームそのものを描き出す本として非常に貴重である。さらに、宗教書にありがちな著者の価値判断が極力排除されている点も好印象。入門書として最初に読むのに強く勧めたい一冊だ。

  • イスラム教がキリスト教やユダヤ教と同じ神を崇拝していることすら知らなかった私のような無知者でも一通りの知識は得られた(ような気がする)イスラム教の入門書。キリスト教ひとつとってもカトリック、プロテスタント、東方教会、西方教会、ルター派、カルヴァン派など様々な宗派が存在するのと同様に、イスラム教もまた同じ聖典「コーラン」からさまざまな宗派が派生し今日に至るまで闘争し続けている理由がよくわかった。おそらくこの先も統一されることはないだろうということも。

    相関図を書かなきゃ分からなくなるくらい複雑ではあるけれども、キーワードが明示されているので整理すれば非常にわかりやすい説明になっている。


    文化というものは個人の思考を消し去り、集団を闘争に導くほど強い影響力をもっている。自分の知らない文化を生きる人たちがどういう価値観で行動しているのか。グローバル化が進む中で避けては通れない知識になると思う。

  • イスラム教の根本背景を知ることが出来た。かなりの良書だと思う。

  • ◯イスラーム文化を理解するための入門書。
    ◯大学受験で世界史を選択した者であれば、おおよそ知っている話が多いが、その文化や精神世界を改めて論理的に説明されると、なるほど、理解が深まり、面白い。
    ◯歴史的なイランとイラクの相克や、トルコやエジプトに関するイスラーム世界での立ち位置なんかも知ることができる。
    ◯現代の中近東における国際政治の動向を知る上でも、導入書としてオススメの一冊。

  • 井筒俊彦氏(1914~1993年)は、日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行した、イスラーム学者、言語学者、東洋思想研究者。アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語、ギリシャ語等30以上の言語を流暢に操る語学の天才と言われ、多くの著作が英文で書かれていることから、欧米での評価も高い。
    本書は、1981年に著者が行った講演を基に同年に出版された作品を、1991年に岩波文庫から再刊したものである。
    本書は、副題に「その根柢にあるもの」と付けられているが、その意図について著者は、「「根柢にあるもの」と申しますのは、教科書風、あるいは概説書風に、イスラーム文化の全体を万遍なくひととおりご説明するのでなしに、ひとつの文化構造体としてのイスラームの最も特徴的と考えられるところ、つまりイスラーム文化を他の文化から区別して、それを真にイスラーム的たらしめているものをいくつか選びまして、それを少し掘り下げて考えてみたいということでございます」と言い、①イスラーム文化の宗教的基底、②イスラームの法と倫理、③イスラームの内面への道、という3つの側面についての考察を語っている。
    そして、講演を基にした滑らかな文章を読み進めるうちに、コーランとは? ユダヤ教・キリスト教・イスラームの関係は? イスラームの神アッラーとは? ムハンマドとは? イスラーム法とは? メッカ期とメディナ期(の違い)とは? 共同体(ウンマ)とは? ハディースとは? ウラマーとウラファーとは? シャリーアとハキーカとは? スンニ―派とシーア派(の違い)とは? イマームとは? イスラーム神秘主義(スーフィズム)とは?。。。等の、イスラームのポイントが次々に明らかにされ、まさに「イスラームとは?」が浮かび上がってくるような気がするのである。
    近時、イスラームに関する書籍は数多出版されているが、イスラームの根柢にあるものをこれほどわかりやすく、かつ簡潔に語ったものは少ないのではないだろうか。
    30年以上前の著作であるが、イスラームを理解する上で比類ない良書と思う。
    (2018年4月了)

  • これまでに10冊ぐらい読んできた様々なイスラム教/ムスリム文化の解説書の中では一番読みやすかった。文庫サイズでここまで理路整然と論を展開する本に出合えるとは思っていなくて、嬉しい喜び。

    アラブのスンニ派とイラン人(ペルシア人)のシーア派は対照的な信仰体系を持ち、内的矛盾を抱えているものの、その矛盾も包括して全てを統一しているのが「コーラン」であること。

    コーランは神の言葉であるがそれを解釈するのは人間的な営みであり、どう読むかは個人の自由に任されていること。それによりイスラムの多様性、多層性が生まれていること。

    コーランにおいては聖俗の区別はなく、すべての営みがイスラームの範囲に入るため、生活のすべてが宗教になること。そのため、協会と世俗とを切り離すキリスト教とは、ルーツを共有するにも拘らず決して相いれない対立が生じること。

    イスラーム発祥の時期のアラビア世界において常識だった「血の共同体」を破壊することによって、単なる「アラブの宗教」だったイスラム教が一般性・普遍性を獲得できたということ。

    外面にある共同体を探求する道と内面にある密教的な要素とが混在する中で、外面を探求する側が体制派となり内面的イスラームであるシーア派が迫害に晒され、それが現在も続く禍根となっていること。
    こうした、外面を辿る顕教的要素と内面を突き詰める密教的要素とが緊張感をもって混ざり合うことで、多層的な文化を織り成すのが即ちイスラームであること。

    ほかにも、書ききれないほど多くの「イスラム教の基礎知識」が解説されています。これまで、いろいろと呼んでみてもイマイチしっくり理解できなかったシーア派とスンニ派の対立の軸や原因が、この本でだいぶ腑に落ちました。
    イスラム入門書にもなりえるし、自分のようにいくつか読んでみたら余計わからなくなったという人の論点整理にも使える本だと思います。

  • 『後記』にあるが、本書は1981年に著者が行った3回の講演を文字起こししたものにペンを入れたものである。本書冒頭の『はじめに』は講演の導入部であり、本書の構造については触れていないので、読み始めると「口頭発表みたいな口調(の文体)だな」と思うかもしれない。

    本書は40年以上前の古いものだが、当時の時流を追う内容ではないため現在でも十分に読む意味はある。私は本書をイスラーム文化を教養程度に知る目的で購入したが、冒頭の『はじめに』を読むだけでそれ以上の価値があったと思うことができた。

    『はじめに』では『あかの他人』であるイスラーム文化を知る意味について述べられている。
    カール・ポッパー(ポパー)の文明間の邂逅・衝突とそれによる文化的危機により「自身の属する文明をはじめて批判的に見る視座を持つ」ことや「その視座を持つことによって、相手も自己も超えたより高い次元への跳躍も可能になる」という内容からや、あるいは「グローバルでなければいかに自己のルーツを知ったとて死物を抱えているのと異なるところがない」という叱咤からも、縁遠く、とっつきにくいものを深く知ることが大きな創造へとつながることを説いている。
    新型コロナウイルスの流行やウクライナ紛争以降、世界の雰囲気は変化してしまったように思う。あちこちで保守、保護主義、自国優先政策が台頭している現在だからこそ異質な文明(これはもっと小さなスケールで”他者”と置き換えても良いと思う)を知ることの意義を訴える本書の序文は心に響くものがあった。
    また、この『はじめに』の内容は、こちらからの一方的な学びであっても相手方の文化(本書でいえばイスラーム文化側)にも、「自分たちだけでは決して見ることのできない視点から新たな気づきを得られる」という恩恵があることを示してもいる。これは私が読んできた書籍で意識した「非キリスト教圏から見たヨーロッパ(:日本人がヨーロッパを研究する意味)」や「西洋から見た東洋」という見方にも通じる考え方であった。


    第Ⅰ部へ進んで早速びっくりするのはコーランの文言はだいぶ俗物だという点。商業に関する表現が非常に多いようで、イメージしていたものと大きく違った。
    他の宗教との違いも所々で示されるが、預言者の存命中に信仰の中心となる聖典を確定しておくことができたことが、イスラームが他と決定的に異なる部分だと感じた。やはり後発は強い。
    それでもムハンマドの死後、イスラームは速やかに分派していくのだが、それはムハンマドの後継をめぐる考え方の違いのほかにコーランやハディースの解釈をめぐってでもあった。
    この”聖典の解釈が執拗に行われる”ことにはかねてより疑問があったのだが、本書で「聖俗の区別がない」「日常生活の隅々まで宗教が浸透」という、他の宗教との大きな違いを知ることで、生活の変化に対する聖典の解釈の必要性が理解できた。
    また、他の宗教を引き合いに出すことで、全く同じ神を信仰するはずのキリスト教やユダヤ教と決して相容れないイスラームの物の見方(立場)というものを理解することができた。穏健派ならば付き合えると思う反面、この違いを絶対に譲らない原理主義者とはわかり合えないことも理解できた。

    ところで、(本質とは関係ないが)第Ⅰ部のなかで特別に印象に残っているのが74-77ページの内容で、読みながら「量子重力理論!?」と驚嘆した。時間の存在性や連続性は今でも先端物理のテーマであり、それがイスラームや仏教の話で出てきたことには非常に驚いた。長い時間をかけた哲学的な思索の果てに得た境地と量子論が開いた世界の表皮をめくった先の世界は一致しているのだろうか?


    第Ⅱ部は冒頭から第Ⅰ部の続きのような話が続く。イスラーム法の話が出てくるのは145ページからになる。
    イスラーム法の細かさを不思議に思っていたのだが、聖俗の区別がないことが生活の上での広範な規定を必要とすること、コーラン(とハディース)からそれを規定するために言葉の解釈が猛烈な発達を見せたこと、がうまく説明されており納得できた。
    ところで、神の言葉という「絶対のものに基づく法律」という稀な存在は、科学(;科学も絶対の真理に基づく。そのため理系分野のバックグラウンドを持って法曹界へ入り込むと、心理も含んだ軸のブレに苦しむ場合も多いと聞く)を思わせた。そう考えると、科学はイスラーム法のイジュティハードに相当するものは全く自由である(;事象に対する新しい解釈(とそれを支持する新たな実験・観測)により新たなパラダイムが打ち立てられ、学説の転換が起きることが常にあり得る)ので、逆説的に、イジュティハードが禁じられると発展が停滞することは想像できた。本書には書かれている内容ではないが、オリエントを席巻しヨーロッパにも侵攻したイスラーム勢力が、西欧諸国に科学、哲学を学ばれ、やがて追い越されていく(振るわなくなっていく)という世界史的な大きな流れもイジュティハードの門が閉ざされたことに一因があるのかもしれないと思った。


    第Ⅲ部はスンニ派以外の考え方についてなのだが、これまでの内容と毛色が変わるのでこの短いページ数では2派の良さが分からなかった。
    ここまでの二部を読んでスンニ派の論理性に親近感を覚える私としては、シーア派はだいぶ異端だと感じた。ところどころでコーランの教えを破っているようであり、それを万人が追試験ができない『内面世界』で答えているところがいかにもカルトっぽい。妙な理屈でアリーの一族だけを持ち上げたり、組織化しているのも印象が良くない。(コーランからは逸脱していそうだが)血筋を問わず、人数も限らないスーフィーの方がこの点は潔く見える。歴代の為政者が迫害したくなるのもよくわかる。
    スーフィーはスーフィーで「彼らの思想は神の絶対性を否定しているのでは?」という疑問が湧いた。現世が根源的な悪であり神の意志が実現されない場所だと言うなら、「(そんな場所を残して)神は何やってるんだ」となる。「絶望的な世界に捨て置かれている人間は神に見捨てられているのではないのか?スーフィーは無駄な修行などせず自殺でもして現世を去ったらいいのでは?」という極端な結論も考えてしまう。こちらは異端というより邪教であるという感想を強く感じた。
    スーフィーに関しては疑問だらけで、読みながら細かい疑問や反論が次々に出てきて共感することはできなかった。
    我を消すということは子供も作らないのだろうが(神が人間の子を望むか?)、ならばなぜスーフィーは絶えないのだろうか。
    『我こそは神』『自己がそのまま絶対者』という言い方が実に傲慢で、自己を消しきれていないとも感じた。人間が迫れるのは「自我の奥底に座す神を知り、そこに触れた」程度で、どこまで行っても自我を消すことはできない(限りなく漸近することはできてもゼロにはできない)だろう。もし、我と神が同義なら預言者を超えることになるし、それなら人間の肉体はなんなのかということになる。

    結局、第Ⅲ部の内容はページ数(= 講演時間、回数)が足りなかったのだろうと思う。駆け足で2派を取り扱ってしまったが、内面世界の概論と、それぞれの派で2〜3部が必要だったのだろう。丁寧な解説があれば印象が変わったかもしれないとは思う。


    著者の別著『イスラーム思想史』が面倒(:イスラームの用語がポンポンと出てくるが、巻末に用語集も無いので自作しながら読み進めないと内容についていけない。だが、理解が浅い段階での自作が非常に面倒)で、いつまでも読めないままとなっている。それを補おうとより簡易な本書を購入したのだが、家で両書を並べた際に同じ著者だと気付いて愕然とした。
    書店で軽く目を通しているので大丈夫だとは思いながらも「同じような書き口だったらどうしようか」と戸惑いながら本書を読んだが、著者が円熟した頃に書かれた文章(;本書で『若気の気負い』とも述べている『イスラーム思想史』は著者が20代で書いた文章を元に増補したもののようだ)ということもあって、非常に読みやすかった。懸念していたイスラーム特有の用語については、文中の各所で出てくるが、その数は抑えられており、前提となる知識が無くても十分に追っていくことができる。
    ページ数も少なく読みやすい、イスラームの考え方を知るための入門書として良い一冊だったと思う(本書の元となる講演から40年以上、もうすぐ半世紀が近づいているなかで、当時と同じように日本人が『あまりにも無関心』なままでいることは著者としては不本意かもしれないが・・)。

  • 二十数年前と同じく、読むには読んだが、理解は出来ていない。

  • 図書館で借りた。
    イスラム学者が書く、イスラーム文化とはを文庫で短くまとめた本。イスラム教と簡単に言うが、それはどんな世界観なのかを学べる。講演を聞く感覚で通勤時に読み終えた。
    私にとってはある程度他の本などでイスラムに関する知識の下積みは得ていたつもり、その上で深掘り・深みを得るには丁度良かった感触。満足。

    「予言者」と「預言者」の違いはハッとさせられた。
    イスラムとムスリムは同じ語源で、語形変化であるというのは知らなかったので驚き。

  • 非常に読みやすい

  • 第14回アワヒニビブリオバトル「根」で紹介された本です。
    2016.06.07

  • “言い換えますと、イスラーム法とは、神の意志に基づいて、人間が現世で生きていく上での行動の仕方、人間生活の正しいあり方を残りなく規定する一般規範の体系でありまして、それに正しく従って生きることがすなわち神の地上経綸に人間が参与することであり、それがまた同時に神に対する人間の信仰の具体的表現となるのでありまして、その意味でイスラーム法がすなわち宗教だといわれるのであります。“

    例えば日本文化について3つのテーマから述べよ、と言われたら、仏教や神道などの宗教をテーマの一つに選ぶことはあるだろう。
    しかし、法について、というのはどうだろう。
    ちょっと思いつかない。
    漠然とした「文化」なるものをどう切り分けるか、そこに各文化の特色が表れているとしたら、私たちの文化とどう異なっているのか、というのが本書を手に取った動機だった。
    テーマは別れているが、副題の「その根底にあるもの」についての切り口が異なるだけで、常にイスラーム文化の核を見定めようとする姿勢は一貫しているのだと読み始めて気がついた。
    期待以上の内容。


    読書メモ
    ① 宗教
    001 イスラーム文化の国際的性格と複雑な内部構造
    002 「砂漠的人間の宗教」という誤解
    003 商業専門用語に満ちた聖典
    004 商業取引における契約との類似
    005 アラブ(スンニー派的イスラーム)とイラン人(シーア派的イスラーム)
    006 すべてのイスラーム的なものを集約する聖典『コーラン』
    007 イスラーム文化は究極的には『コーラン』の自己展開である
    008 『コーラン』と『ハディース』、第一の啓示と第二の啓示
    009 『ハディース』というプリズムを介した『コーラン』の解釈の多様化
    010 『コーラン』の解釈学的展開こそイスラーム文化の形成史
    011 『コーラン』の特徴①神の言葉のみを綴った単一構成の書物
    012 その②聖俗不分、「神のものは神のもの、カエサルのものも神のもの」
    013 坊主のいない宗教
    014 神と人の垂直関係と「預言者」という中間項
    015 「イスラーム」=「絶対依嘱」
    016 「子もなく親もなく、これとならぶもの絶えてなし」
    017 非連続的存在観と原子論的存在論、因果律の存在しない世界

    ②法と倫理
    018 「コーランの歴史」20年、前期メッカ期と後期メディナ期
    019 「神の倫理学」
    020 メッカ期の不義不正を罰する復讐の神
    021 「怖れ」=「信仰」
    022 メディナ期の慈悲と恵みの神
    023 「感謝」=「信仰」
    024 イスラーム教徒、嘘つかない
    025 実存的宗教から社会的宗教、個人から共同体へ
    026 砂漠的人間の精神(血の連帯感)の廃棄
    027 「物を盗んではいけない」は神がそれを悪いことと決定したから
    028 「最後の預言者」の死と「ハディース」による補完
    029 神の言葉という非合理的な啓示を合理的思惟によって解釈する
    030 神の言葉そのものではなく、それを理性によって合理的に解釈したものこそがイスラーム法である
    031 我々の法律は普段法の網の中にいることを意識せず、法が出張る事態となって初めてその存在に気がつく
    032 イスラーム法は規範として常に意識される
    033 自由解釈の禁止
    034そしてイジュティハードの門は閉じる

    ③内面への道
    035 二つの「知者」、ウラマーとウラファー
    036 ザーヒリー的イスラーム、バーティニー的イスラーム、顕教と密教
    037 シャリーアとハキーカ、イスラーム法と内面的実在性
    038 二つの「内面への道」
    039 シーア派的イスラームと神秘主義的イスラーム(スーフィズム)
    040 シーア派のイマーム=内面的預言
    041 外的啓示は終わったが、内的啓示は続いている
    042 十二代目イマームの蒸発
    043 「小さなお隠れ」と「大きなお隠れ」
    044 不可視の次元、精神の王国の支配者

  • ドゥテルテがほんとに大統領になったら、フィリピンのイスラムとの関係はどう変わるんだろうねえ、なんていう仕事での絡みは少し薄くなった今日この頃。でも不勉強はいかんと「世界的権威がやさしく語った、知っておくべきキホン」と帯にあったこの本を。とはいえ、「第一にシャリーア、宗教法に全面的に依拠するスンニー派の共同体的イスラーム、第二に、イマームによって解釈され、イマームによって体現された形でのハキーカに基づくシーア的イスラーム、そして第三に、ハキーカそのものから発出する光の照射のうちに成立するスーフィズム、この三つのうちどれが一体、真のイスラーム、真のイスラーム的一神教なのか。それぞれが自分こそ真のイスラーム的一神教を代表するものだと主張して、一歩も譲りません。イスラーム文化の歴史は、ある意味ではこれら三つの潮流の闘争の歴史なのです。」という感じなのでまだまだ「理解」には程遠いです。

  • 井筒俊彦は中沢新一の評論の中でたびたび引用されるイスラーム学の第一人者という認識でしたが、実際はそれ以上に言語学の権威として知られている天才です。この「イスラーム文化」というのも引用された文献だったので積読していたのだと思います。それぐらいの興味だけだったのですが、ここ数年のISなどのイスラム原理主義者を名乗る組織の過激な行動に世界的な危機を感じざるをえず、さらにはシリアを中心として多くの難民が世界中に流入しようとしている世界情勢の中で、そろそろ本当に日本人もイスラム圏のことを他人事で済ましてはいけない時期に来ていると思うのです。

    それを口実に読みだしたのですが、この評論は1981年に刊行されており、つまり35年も前の言説でありながらすでに現代を予見しているかのような危機感を井筒俊彦は語っていることにまず驚くばかりです。当然ながら35年という時代の流れでイスラムの文化も変わっているでしょうし、井筒俊彦の思想も現代思想からするとそれなりに古くはなってきているでしょうから、それは当然考慮した上で、しかしながら世界的に権威のある天才学者の言説が簡単に老朽化するわけはなく心に響くはずなのです。

    難解な内容を予想していましたが、この書籍は1981年に一般人向けに行われた講演をテキスト化したものだそうで、そのため非常に平易な内容となっており井筒俊彦の入門書には打ってつけでした。この後に「意識と本質」が控えているのですが・・・。

    今回遅ればせながらイスラームという宗教についての比較的詳細な内容を知ることとなりその内容に非常に驚きました。キリスト教ともかなりの違いがあり、日本人のぼくには理解し難い隔たりを感じました。

    まず神と人間の関係が主従関係にあるということ。キリスト教では親子関係にありますが、イスラームでは主人と奴隷の関係でそこには商売をモチーフとした労働対価としての幸福を約束しているようにも取れます。キリスト教的な慈悲や慈愛とは少し違う感覚があるように感じました。

    またその関係において神は日常的に人間の生活に存在し信仰し続けなければなりません。そのため朝起きて夜寝るまで神への信仰心は忘れてはならず神へのおつとめも日常的に行われなければならないのです。さらにこの日常は神が非連続的にいまも創造しており、その創造を止めた途端に世界は無に還る、そのためにも毎日の神へのおつとめは欠かせないのかもしれません。そしてさらに違和感を感じたのは、主従関係における奴隷の立場をあえて強固にするために人間を完全な無力の存在として置いた他力信仰がベースとなっているということです。また、先祖代々受け継がれる血縁の関係を無効とし、信仰における神との主従関係に基づく宗教的共同体としての関係に重きを置いていることも非常に理解し難い考え方です。ともすれば新興宗教にありがちな危険な感じも受けます。

    とここままでは、実はサウジアラビアを中心として信仰されている正統派いわゆるスンニー派の説明となっており、3回目の講演においていよいよイランを中心として信仰されているシーア派の説明を行ないます。

    このふたつの宗派の大雑把な違いはスンニー派が実存主義的、現実主義的であるのに対してシーア派が神秘主義的、超現実主義的であるということらしいのですが、本当はもっと奥が深い、ネイティブでないと分からないような違いがあるのだと思います。でなければ宗教戦争にまで発展しないでしょうから。そしてさらにはシーア派の先に「我=神」を標榜するスーフィズムという究極の第三極があり、スンニー派、シーア派、スーフィズムの三つ巴的な争いがいまも続いているようなのです。

    井筒俊彦はこの三つ巴こそがイスラームの文化を構築している要素であるということで締めくくっていますが、そのように相反する宗教的理念がひとつところで纏まるはずもなく、だからこそいまもなお燻っているのがイスラーム文化なのでしょう。

    まあとにかく非常に読みやすく読み応えのある逸冊でした。

  • イスラームの根源的なところを知ることができる。同じイスラームのなかにある、スンニ派、シーア派そしてスーフィズムの対極的な思想がどのように成立し、今に至るのかということを理解することに一助してくれる。また、現在のアラブの抱える問題を理解するうえでも、重要な書物であると思う。

  • -------------------
    2回目読破。
    何度読んでも分かりやすいが、シーア派のところとかはいろいろと名前を覚える必要がある。なんとなくイスラムと言うと、苛烈なイメージを持ちがちだけれども、宗教の血塗られた歴史というのは、おそらく、どんな宗教でも似たようなもんなんだろうな。もっと言えば、最近は殺し合いの責任を宗教ばかりに投げつけるのも、なんだかおかしいような気がしている。

  • 今から40年以上前のものであるため、現代のイスラム世界とは少しずれる部分もあるかもしれないが、総括的に著者がイスラム世界にある歴史的な経緯や思想をまとめてくれているので非常に参考になる。

  • マギを読んだので、イスラーム文化・世界について知りたくなり買った
    かなり発見はあった
    入門ではないって、最初にかいてたのに見逃してた
    また入門書とか読みたい

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著者プロフィール

1914年、東京都生まれ。1949年、慶應義塾大学文学部で講義「言語学概論」を開始、他にもギリシャ語、ギリシャ哲学、ロシア文学などの授業を担当した。『アラビア思想史』『神秘哲学』や『コーラン』の翻訳、英文処女著作Language and Magic などを発表。
 1959年から海外に拠点を移しマギル大学やイラン王立哲学アカデミーで研究に従事、エラノス会議などで精力的に講演活動も行った。この時期は英文で研究書の執筆に専念し、God and Man in the Koran, The Concept of Belief in Islamic Theology, Sufism and Taoism などを刊行。
 1979年、日本に帰国してからは、日本語による著作や論文の執筆に勤しみ、『イスラーム文化』『意識と本質』などの代表作を発表した。93年、死去。『井筒俊彦全集』(全12巻、別巻1、2013年-2016年)。

「2019年 『スーフィズムと老荘思想 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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