意識と本質 精神的東洋を索めて (岩波文庫 青185-2)

  • 岩波書店 (1991年8月8日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (416ページ) / ISBN・EAN: 9784003318522

みんなの感想まとめ

テーマは、東洋と西洋の哲学や思想の相互作用を探求することであり、読者は新たな視点を得ることができる。著者は、井筒俊彦の深遠な思想を通じて、人間存在の本質や宇宙生命の根源に迫り、哲学や宗教、言語学などの...

感想・レビュー・書評

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  • 帰省時に改めて読み直した。大学入って最初に読んだ本。半年かけて1/3くらいしか読めんくてそこで断念した。
    わかりやすいのに、1時間かけて数ページしか読み進められないっていう内容のその密度と伏線の張り具合に対して半年かけて戦ったおかげで、読書へのキャパシティが異常にあがった。そのおかげでそれ以降本読むこと自体のハードルが異様に下がった。
    無意識を通した文化、宗教、言語が人の捉え方にどう影響するかっていう内容自体、全て自明のもんだと思ってた自分にとって全て新しくて、それからの人の思考過程に対する興味はこの本が原体験になって派生した。
    東洋の思想が豊かだったっていう主張も、西洋が一番かっこいいし進化してるぐらいの知能やった自分にとって、目から鱗やったし、他の文化をもっと知りたいっていう志向性に繋がった。ひいては二元論的なものの見方を避けようと思うようになった。
    っていう色んな点で、自分の原体験の一つになってる。読んでよかった本ナンバーワン

  • 井筒俊彦の文章が初めてわかりやすく感じて、何が書いてあるのか朧げに浮かび上がってきた。

    若松英輔が新聞の文芸欄で井筒の偉業を解説して、柳田國男や折口信夫の巫女や神話の話、言語のもつ霊性、アラヤ識、大乗仏教や空海、禅や無の思想などのことを書いていたのが印象に残っていた。自分の読書体験のなかでも井筒の東洋哲学や思想がいろいろなところで目につき気になって仕方がなかった。そうした経緯で彼の著書『イスラーム思想史』が重要な必読書となっていた。しかし哲学と宗教の専門用語と彼一流の深い表現についていけず何度となく途中で読むのを諦めた。彼の思想は難しくて自分には理解するのは無理だと思い込んでいた。
    なのに、古本屋で彼のこの本を見つけ思わず手に取った。潜在的な知りたい思いが相手を呼び込んだような気がする。
    結果、この本を読んでもっと難しい専門用語の羅列にもかかわらず、今までの彼の本の難解さが嘘であったかのように内容が理解できた。読んでいて驚きとともに気持ちよく何ともいえない喜びすら感じた。

    井筒俊彦は人間存在の本質を宇宙生命の根源にまで突き詰めて解明しようとする。哲学や宗教、言語学や認識論、人類学や社会学などあらゆる知を総動員する作業だ。彼は人間が生きて学ぶ目的とそのための課題と方法を示唆する。
    それは自分の濫読による知識の混然への啓示のようであり読書本来の目標や方法が示された気がする。真理への道筋を感受することはこれ程力を呼び起こすということを初めて知った。
    読みながら、力が湧いてくる経験をした。
    入り口に立てた気がする。

  • 河合隼雄さんののオススメの一冊なので読むことにしたが、数年来、途中で文章が入ってこなくなり読書が頓挫した、さすがに3度目のチャレンジで挫折したときは自己嫌悪になった。
    しかし、読む姿勢を変えて4度目で成功?した。
    その姿勢とは、宇宙の法則、つまりは「神の意志」と「人間の理性」の科学的な相関性について説いた「神々の沈黙 ジュリアン・ジェインズ」を事前に読んだからなのだ。実はこの本も河合隼雄さんのオススメ本。
    この本のおかげで、「意識と本質」の読者としての立ち位置を変えることができたので、やっと「意識と本質」を最後まで読むことができた。
    要は、この本のタイトルは「宗教の解体新書」なのだ。「神はいる」という前提がなければ読み進められない本なのだ。ブルーバックスを読むように理解するのではなく聖書をよむように信じることができなければ、跳ね返されてしまう。

  • サブタイトルは精神的東洋を索めて。

    その精神的東洋について西洋という対象軸を明示しつつ論じている。今日的な通念=西洋的思考とは違う知の在り方が詳らかにされる。

    東洋を知ることで、私たち日本人がいかに言葉至上主義的なロゴス的な西洋的思考で世の中を見ているかを思い知ることができる。東洋に身を置きながら、東洋的な思考態度を削り取られていることに気づく。もちろん、そのエッセンスは私たちの内奥に伏在している。よくも悪くも借り物のモノサシを当てがわれている。
    イスラームがやはり自分としては興味深い。地球規模で考えるとおよそ4人に1人はムスリムという事実。これが何を意味するか。
    カッバーラーも面白い。

    西と東を縦横無尽に往来して知の舞台を賑やかに描き出してくれた著者に敬服。
    ★5つでは足りない。

  • かなり興味深く面白いものの、井筒さんの知識量と引用範囲が広すぎて、時々著書の趣旨を見失いそうになる。後半の8、9、10あたりはかなり難解だった。

    表層意識、深層意識。分節、無分節。などなど難しい言葉が結構出てくるものの、かなり丁寧に反復しながら言葉の説明をしてくれる印象。とにかく東洋思想の意識・本質の捉え方は、極めて多層的で反二元論的であることがわかった。サルトルの嘔吐、荘子の道など、読んでみたい本が多く出てきた。

    普段自分がどのようにして事物を捉えているのか。言葉無くしてその物の存在を証明することは可能なのか。その物を表す言葉(名前)は何を持ってそれになるのか。つまり言葉には必ず本質が求められるということなのか。

    謎は深まるばかり。

  • サルトルは嘔吐で、神降ろしに失敗して、それが"得体のしれない"ものに見えた。悟りや禊を終えてないものが、偶然、原初の存在を見せられるとどうなるかを示している。

  • この本に出逢って、どのくらいの時が過ぎただろう。

    ”写真を撮る”ということが自分の業で、それにはその対象の本質を掴むことが必要であるとの思いから、この本を読み始めた。

    井筒先生のことを司馬遼太郎は、「天才20人」が一人のひとに凝縮されたようなものだと語っている。

    この著作を読み進めるうえでは、少なくとも仏教、イスラム教、朱子学、言語学、現象学、西洋哲学といった思想・思考を知っておいたほうが良い。


    30カ国語ができた井筒先生は、そうした思想を原典で読んでいる。

    おそらく、メルロ=ポンティやハイデガーなどの著作はリアルタイムで読んでいる筈だ。

    基礎的な著作がひどいときには20年遅れで翻訳・出版されるこの国の文化程度を軽軽と越えていた人だ。

  • ギリシャ以東の様々な宗教・思想を原典から渉猟し、それらの前提となる東洋的な思想における意識の構造として、言葉により分節された世界からそもそもその分節を可能にさせる根元的な領域まで、複数の階層で成り立っていることを明らかにする。各層の存在論的な意味あいは宗教・思想により異なり、本書でいくつか取り上げられて明らかにされる。井筒は単にそれぞれを集約して理論的に構造化する、というだけではなく、自ら原典を読み、分節に至る意識の追体験を行う、というプロセスも経て、東洋的なるものの内側からの理解を試みる。東洋的などとひとくくりにすること自体、西洋的なオリエンタリズムであるという批判は当然ついて回るが、井筒は東洋の多極性への眼差しは失っておらず、東洋的なるものを解体してそれぞれの思想・宗教を研究するとしても、井筒の思考は常に手がかりになりうるだろう。

  • 2025年3月11日、グラビティで京大医学部目指してて京大理学部合格したと報告してる高三の子が投稿してた。試験問題を撮影した画像を載せてたらしく、京大入試問題だったのかな?

  • とりあえず、読んでみたで終わる
    残念ながらほとんど理解できず、井筒さんの世界観や考え方を勉強してから再チャレンジしてみる

  • 東洋哲学の共時的構造化という壮大な試み。

  • 読もうとしたけど難解。専門用語に脳内支配されて断念。笑
    誰かの話からこの本の存在が出てきたが忘れてしまった。
    哲学にリンク

  • 意識とは何か?を知るに非常に勉強になりました。
    著者はイスラム哲学、仏教、禅、老荘思想、儒学、ソクラテス、プラトンのイデア論などのあらゆる角度から意識の本質を説明します。
    意識にも表層意識と深層意識があり、著者はこの深層意識に立ち現れてくる存在の実体と表層意識に現れる実体の違いなどを様々な思想をでかがりに、さまざまな角度から物の本質を媒介として意識の本質を説明します。
    説明された内容はすでに概念化されているため、この概念化を脱した脱概念のむき出しの実在の本質について解き明かします。なかなか面白く手応えがある読み物ですが意識を知るに大変参考になりました。

  • メモあり。

  • 19/07/05。

  • ITa

  • 「意識と本質」井筒俊彦

    事物の本質には二つの次元がある。一つはものの個体的実在性の結晶点。これは実在界に成立する。(個体的本質、フウィーヤ)もう一つは、ものの普遍的規定性。事実界の次元に成立する。(普遍的本質、マーヒーヤ)いずれを事物の真の本質と見るかによって、哲学の性格が大きく変わる。

    バガヴァッド・ギーターの認識の三段解説
    1.闇質的認識(ターマサ)。執心
    愛憎に縛られた沈重な意識。ある一つの対象に、まるでそれが全てであるかのごとく、ただわけもなく、実在の真相を忘れて執著する狭隘な認識。
    2.激質的認識(ラージャサ)。有心
    現象的多者の間に動揺ただならぬ意識。個々別々の様々なものを個々別々に識別する認識。
    3.純粋的認識(サーツトヴイカ)。無心
    全存在界を究極的一者性において眺める純粋叡智の煌々たる光。あらゆる経験的事物のうちに、唯一なる不易不変の実在を見、分節された全てのもののうちに無分節の実在を見る。

    人がある対象に愛着したり嫌悪を感じるのは、様々な事物が差別されて意識に映るからであり、事物が差別されるのは実在が様々な存在者として分節されるから。この見方は激質的認識。

    「執心」は「有心」の基盤の上に初めて生起する「有心」そのものの派生態にすぎない。

    「有心」は妄想分別、存在分節の境位。この境位に働く分節意識を人は「意識」と呼んでいる。存在分節は「有心」の決定的特徴であり、経験的事物を個々別々なものとして差別し、それらを個々別々に認識する意識。

    人間の意識は有心段階では、必ず分節的意識である。分節的意識が作用しだすやいなや、存在の真相は無限の彼方に姿を隠す。つまり、分節意識が経験世界における人の普通の心の状態であるからには、その人は存在の真相を全く見てないという事に他ならない。

    「至道は無難」では決してない。

    楞伽経の意識三相説
    1.転相
    分裂した存在の主体的側面と客体的側面とが、一方は我意識、他方は意識から離れ独立した対象的事物の世界として確立され、経験的世界が現象する意識。存在リアリティを様々に分節し、無数の分割線を引いて個々別々の事物を現出させ、個々別々なものとして認知されたそれらの事物の間を転々と動き回る妄覚。
    2.業相
    絶対無分節的意識に内在する存在分節の性向に促されている時、主客の対立が現れる意識。
    3.真相
    絶対無分節的に実在を見る境地。「起信論」はこれを「心真如」とも呼ぶ。

    禅は実在の無分節的真相を一挙に露現させようとする。

    分節的意識である有心を人間の一般的な心の働きだとすれば、無心はメタ意識。

    存在の絶対無分節と経験的分節との同時源成こそ、禅の存在論の中核をなす。

    分節1(有本質的)→無分節→分節2(無本質的)

    第一段階でそれぞれの分節に「本質」を与えられ、第二段階で分節も本質も全て奪われ、第三段階では本質のない分節が戻ってくる。

    分節2である道元の「而今の山水」は現にそれぞれ山と川として分節されているにも関わらず、山である事、川である事から超出して自由自在に働いている(本質がない)。

    我々が常識的に現実とか世界とか読んでいるものは、表層意識の見る世界であり、それが世界の唯一の現れ方ではない。深層意識にはそれ独特の全く別の見方があり、それは表層意識を狼狽させるような異様な形相で存在世界が現出する。

    深層意識の存在分節は表層意識のそれとは全く違う。この深層意識の存在分節の基礎単位を「元型イマージュ」と言う。

    普通の人は曼荼羅等の深層意識的絵画を見てもそれを表層意識で受け止め、理解するだけであり、たとえ鑑賞したとしても表層意識的に感激するだけ。深層意識の感応、協和は起こらない。

    言語アラヤ識からのイマージュ生起を深層意識的事態として受け止められる人は、創造的想像力を持つ。

    ヘブライ語では、言葉とモノは同じ。深層意識ではもともと一つと考える。カバラは存在世界の深秘構造を考える。

    曼荼羅とは、正覚を得た人の深層意識に現れた一切存在者の真の形姿の図示。全存在世界の本質的元型的構造を形象的に呈示する深秘の象徴体系。

  • 極めて難解。降参。「本質」について、東西や古今の宗教・哲学・様々な文化の立場から、どう捉えられていたのか、どう位置付けられていたのかが解説されている。人間はそのものの本質に基づいて、物を認識し、評価しようとするとうことか???背景となる仏教や哲学を理解しないとこの本はわからない。

  • 以前読んだ『マホメット』『イスラーム文化』の著者であり、東洋哲学者。また、イスラム研究家でもある井筒俊彦さんを読む。
    他の方のレビューを拝見するととても評価が高くきっと素晴らしい本なんだろうと思い、つい手にとってしまったが、極めて難解である。
    どれ程の知識を持ってすればこの様な本が書けるのか、改めて著者の天才ぶりに脱帽す。
    本質は西洋哲学が有であるなら東洋哲学は無であり、それぞれは背景にある宗教的は排除出来ない。
    p233より、
    「ア」(a-)はサンスクリット語では否定を表わす接頭語である。「非×」、「不×」、「無×」、どんなものをもってきても、「あらず、あらず」とそれは言う。経験的事物、事象の一切をあますところなく否定する「ア」は、確かに無的、無化的性格をもつ。

  • 分厚い氷の上を滑るようだ。
    p41 我々が何故に本質を求めるのか。もの事に同一性を認めることによって、既知とする。これによって、再利用が可能となり、(ある程度の)予知が可能となる。
    p241 「神は世界を創造した」というのは、言語によって世界を表現したという理解でよいのか。世界を記述する表現の無限性、あらゆるものを内包しうる事を神性に喩えるということだろうか。
    前段に、「文字の組合わせ」を変えると世界が変る、とあった。
    「太始に」とは時間的始まりを意味しない。〜どの一点を取って見ても、そこに必ず太始がある、これは道元の世界にも通ずるか。

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著者プロフィール

1914年、東京都生まれ。1949年、慶應義塾大学文学部で講義「言語学概論」を開始、他にもギリシャ語、ギリシャ哲学、ロシア文学などの授業を担当した。『アラビア思想史』『神秘哲学』や『コーラン』の翻訳、英文処女著作Language and Magic などを発表。
 1959年から海外に拠点を移しマギル大学やイラン王立哲学アカデミーで研究に従事、エラノス会議などで精力的に講演活動も行った。この時期は英文で研究書の執筆に専念し、God and Man in the Koran, The Concept of Belief in Islamic Theology, Sufism and Taoism などを刊行。
 1979年、日本に帰国してからは、日本語による著作や論文の執筆に勤しみ、『イスラーム文化』『意識と本質』などの代表作を発表した。93年、死去。『井筒俊彦全集』(全12巻、別巻1、2013年-2016年)。

「2019年 『スーフィズムと老荘思想 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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