意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

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  • 岩波書店
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レビュー : 36
  • Amazon.co.jp ・本 (417ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003318522

作品紹介・あらすじ

東洋哲学の諸伝統の分析から得た根元的思想パターンを己れの身にひきうけて主体化し、その基盤の上に新しい哲学を生み出さなければならない。本書はこうした問題意識を独自の「共時的構造化」の方法によって展開した壮大な哲学的営為であるが、その出発点には自分の実存の「根」が東洋にあるという著者の痛切な自覚があった。

感想・レビュー・書評

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  • 帰省時に改めて読み直した。大学入って最初に読んだ本。半年かけて1/3くらいしか読めんくてそこで断念した。
    わかりやすいのに、1時間かけて数ページしか読み進められないっていう内容のその密度と伏線の張り具合に対して半年かけて戦ったおかげで、読書へのキャパシティが異常にあがった。そのおかげでそれ以降本読むこと自体のハードルが異様に下がった。
    無意識を通した文化、宗教、言語が人の捉え方にどう影響するかっていう内容自体、全て自明のもんだと思ってた自分にとって全て新しくて、それからの人の思考過程に対する興味はこの本が原体験になって派生した。
    東洋の思想が豊かだったっていう主張も、西洋が一番かっこいいし進化してるぐらいの知能やった自分にとって、目から鱗やったし、他の文化をもっと知りたいっていう志向性に繋がった。ひいては二元論的なものの見方を避けようと思うようになった。
    っていう色んな点で、自分の原体験の一つになってる。読んでよかった本ナンバーワン

  • この本に出逢って、どのくらいの時が過ぎただろう。

    ”写真を撮る”ということが自分の業で、それにはその対象の本質を掴むことが必要であるとの思いから、この本を読み始めた。

    井筒先生のことを司馬遼太郎は、「天才20人」が一人のひとに凝縮されたようなものだと語っている。

    この著作を読み進めるうえでは、少なくとも仏教、イスラム教、朱子学、言語学、現象学、西洋哲学といった思想・思考を知っておいたほうが良い。


    30カ国語ができた井筒先生は、そうした思想を原典で読んでいる。

    おそらく、メルロ=ポンティやハイデガーなどの著作はリアルタイムで読んでいる筈だ。

    基礎的な著作がひどいときには20年遅れで翻訳・出版されるこの国の文化程度を軽軽と越えていた人だ。

  • 「意識と本質」井筒俊彦

    事物の本質には二つの次元がある。一つはものの個体的実在性の結晶点。これは実在界に成立する。(個体的本質、フウィーヤ)もう一つは、ものの普遍的規定性。事実界の次元に成立する。(普遍的本質、マーヒーヤ)いずれを事物の真の本質と見るかによって、哲学の性格が大きく変わる。

    バガヴァッド・ギーターの認識の三段解説
    1.闇質的認識(ターマサ)。執心
    愛憎に縛られた沈重な意識。ある一つの対象に、まるでそれが全てであるかのごとく、ただわけもなく、実在の真相を忘れて執著する狭隘な認識。
    2.激質的認識(ラージャサ)。有心
    現象的多者の間に動揺ただならぬ意識。個々別々の様々なものを個々別々に識別する認識。
    3.純粋的認識(サーツトヴイカ)。無心
    全存在界を究極的一者性において眺める純粋叡智の煌々たる光。あらゆる経験的事物のうちに、唯一なる不易不変の実在を見、分節された全てのもののうちに無分節の実在を見る。

    人がある対象に愛着したり嫌悪を感じるのは、様々な事物が差別されて意識に映るからであり、事物が差別されるのは実在が様々な存在者として分節されるから。この見方は激質的認識。

    「執心」は「有心」の基盤の上に初めて生起する「有心」そのものの派生態にすぎない。

    「有心」は妄想分別、存在分節の境位。この境位に働く分節意識を人は「意識」と呼んでいる。存在分節は「有心」の決定的特徴であり、経験的事物を個々別々なものとして差別し、それらを個々別々に認識する意識。

    人間の意識は有心段階では、必ず分節的意識である。分節的意識が作用しだすやいなや、存在の真相は無限の彼方に姿を隠す。つまり、分節意識が経験世界における人の普通の心の状態であるからには、その人は存在の真相を全く見てないという事に他ならない。

    「至道は無難」では決してない。

    楞伽経の意識三相説
    1.転相
    分裂した存在の主体的側面と客体的側面とが、一方は我意識、他方は意識から離れ独立した対象的事物の世界として確立され、経験的世界が現象する意識。存在リアリティを様々に分節し、無数の分割線を引いて個々別々の事物を現出させ、個々別々なものとして認知されたそれらの事物の間を転々と動き回る妄覚。
    2.業相
    絶対無分節的意識に内在する存在分節の性向に促されている時、主客の対立が現れる意識。
    3.真相
    絶対無分節的に実在を見る境地。「起信論」はこれを「心真如」とも呼ぶ。

    禅は実在の無分節的真相を一挙に露現させようとする。

    分節的意識である有心を人間の一般的な心の働きだとすれば、無心はメタ意識。

    存在の絶対無分節と経験的分節との同時源成こそ、禅の存在論の中核をなす。

    分節1(有本質的)→無分節→分節2(無本質的)

    第一段階でそれぞれの分節に「本質」を与えられ、第二段階で分節も本質も全て奪われ、第三段階では本質のない分節が戻ってくる。

    分節2である道元の「而今の山水」は現にそれぞれ山と川として分節されているにも関わらず、山である事、川である事から超出して自由自在に働いている(本質がない)。

    我々が常識的に現実とか世界とか読んでいるものは、表層意識の見る世界であり、それが世界の唯一の現れ方ではない。深層意識にはそれ独特の全く別の見方があり、それは表層意識を狼狽させるような異様な形相で存在世界が現出する。

    深層意識の存在分節は表層意識のそれとは全く違う。この深層意識の存在分節の基礎単位を「元型イマージュ」と言う。

    普通の人は曼荼羅等の深層意識的絵画を見てもそれを表層意識で受け止め、理解するだけであり、たとえ鑑賞したとしても表層意識的に感激するだけ。深層意識の感応、協和は起こらない。

    言語アラヤ識からのイマージュ生起を深層意識的事態として受け止められる人は、創造的想像力を持つ。

    ヘブライ語では、言葉とモノは同じ。深層意識ではもともと一つと考える。カバラは存在世界の深秘構造を考える。

    曼荼羅とは、正覚を得た人の深層意識に現れた一切存在者の真の形姿の図示。全存在世界の本質的元型的構造を形象的に呈示する深秘の象徴体系。

  • 極めて難解。降参。「本質」について、東西や古今の宗教・哲学・様々な文化の立場から、どう捉えられていたのか、どう位置付けられていたのかが解説されている。人間はそのものの本質に基づいて、物を認識し、評価しようとするとうことか???背景となる仏教や哲学を理解しないとこの本はわからない。

  • 以前読んだ『マホメット』『イスラーム文化』の著者であり、東洋哲学者。また、イスラム研究家でもある井筒俊彦さんを読む。
    他の方のレビューを拝見するととても評価が高くきっと素晴らしい本なんだろうと思い、つい手にとってしまったが、極めて難解である。
    どれ程の知識を持ってすればこの様な本が書けるのか、改めて著者の天才ぶりに脱帽す。
    本質は西洋哲学が有であるなら東洋哲学は無であり、それぞれは背景にある宗教的は排除出来ない。
    p233より、
    「ア」(a-)はサンスクリット語では否定を表わす接頭語である。「非×」、「不×」、「無×」、どんなものをもってきても、「あらず、あらず」とそれは言う。経験的事物、事象の一切をあますところなく否定する「ア」は、確かに無的、無化的性格をもつ。

  • 分厚い氷の上を滑るようだ。
    p41 我々が何故に本質を求めるのか。もの事に同一性を認めることによって、既知とする。これによって、再利用が可能となり、(ある程度の)予知が可能となる。
    p241 「神は世界を創造した」というのは、言語によって世界を表現したという理解でよいのか。世界を記述する表現の無限性、あらゆるものを内包しうる事を神性に喩えるということだろうか。
    前段に、「文字の組合わせ」を変えると世界が変る、とあった。
    「太始に」とは時間的始まりを意味しない。〜どの一点を取って見ても、そこに必ず太始がある、これは道元の世界にも通ずるか。

  • サブタイトルは精神的東洋を索めて。

    その精神的東洋について西洋という対象軸を明示しつつ論じている。今日的な通念=西洋的思考とは違う知の在り方が詳らかにされる。

    東洋を知ることで、私たち日本人がいかに言葉至上主義的なロゴス的な西洋的思考で世の中を見ているかを思い知ることができる。東洋に身を置きながら、東洋的な思考態度を削り取られていることに気づく。もちろん、そのエッセンスは私たちの内奥に伏在している。よくも悪くも借り物のモノサシを当てがわれている。
    イスラームがやはり自分としては興味深い。地球規模で考えるとおよそ4人に1人はムスリムという事実。これが何を意味するか。
    カッバーラーも面白い。

    西と東を縦横無尽に往来して知の舞台を賑やかに描き出してくれた著者に敬服。
    ★5つでは足りない。

  • 何かの雑誌でオススメとなっていたので興味をもち、図書館で借りてみたものの、難解過ぎて投げ出した。。

  • 圧巻。まさしくこの書物を読むことが、想像力の領域に蓄積されているものを呼びさましていく作業であって、イメージ言語そのものだと思った。神なき時代の信仰は他者としての「コトバ」によりて成立する。

    想像力というのは、イメージとしては「川」のようであって、それを個々の深層に潜む「無」の自己展開による奔流として捉えれば、想像力というのは、限りなく人間が呼吸することや、「いのち」の語によりて名づけられるものに接近していく。そして経験的世界、現実世界において、その「川」の営みを統合していくことが、漸次的に「神」を現出させ、また「神」を展開させていくこととなろう。そしてその際に、必要になることは、想像力の領域に漂い現出を願う「他者=神」を、「コトバ」によりて掬いだすことだ。そこに現れる『コトバ』こそ、「神的言語」であって、それは即ち、「存在」としての「言語」として定着する。おそらく「言語」とは、突き詰めていけば、神の自意識ということに話は収束するだろう。


    ●以下引用

    シンボルとは、神の内面が外面に現れるに際して取る根源的イマージュ形態を、人間が、人間の側から眺めたもの

    マンダラとは、「正覚」を得た人の深層意識に現れた一切存在者の形姿の図示

    神のコトバー神である言葉

    神秘の世界としての存在世界は、神のコトバの世界、紙の根源的創造力である神的言語の自己展開に他ならない

    どの一点をとってみても、そこに必ず『太始』がある。神の創造の業は、時々刻々に新しく、しかも同一の過程を通って、吾々の前面に、そして我々自身の内部に実現している。

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著者プロフィール

井筒 俊彦
1914年、東京都生まれ。1949年、慶應義塾大学文学部で講義「言語学概論」を開始、他にもギリシャ語、ギリシャ哲学、ロシア文学などの授業を担当した。『アラビア思想史』『神秘哲学』や『コーラン』の翻訳、英文処女著作<i>Language and Magic</i> などを発表。
 1959年から海外に拠点を移し英文で研究書の執筆に専念し、<i>God and Man in the Koran</i>, <i>The Concept of Belief in Islamic Theology</i>, <i>Sufism and Taoism</i> などを刊行。
 1979年、日本に帰国してからは『イスラーム文化』『意識と本質』などの代表作を発表。93年、死去。『井筒俊彦全集』(全12巻、別巻1、2013年-2016年)。

「2018年 『イスラーム神学における信の構造』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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