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Amazon.co.jp ・本 (420ページ) / ISBN・EAN: 9784003320518
みんなの感想まとめ
柔軟さと謙虚さを重んじる思想が詰まった一冊は、現代の忙しい日々に疲れた心を癒してくれます。特に「上善如水」の言葉は、多くの読者にとって人生の指針となり、心の軽やかさをもたらします。初めて全章を読み通し...
感想・レビュー・書評
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427P
足るを知る、上善水の如し、大器晩成は老子の言葉か
「世の中の人々は、みな美しいものは美しいと思っているが、じつはそれは醜いものにほかならない。みな善いものは善いと思っているが、じつはそれは善くないものにほかならない。 そこで、有ると無いとは相手があってこそ生まれ、難しいと易しいとは相手があってこそ成りたち、長いと短いとは相手があってこそ形となり、高いと低いとは相手があってこそ現われ、音階と旋律とは相手があってこそ調和し、前と後とは相手があってこそ並びあう。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
岩波の老子道徳経を読んだ。老子というのは実在の証拠もあやふやな幽玄な人物のようだが、その道を実践すればそうもあろうという普遍性の高い道徳観で、「論語」は知らないので比較できないが非常に飲み込みやすかった
amzn.to/4pJR7ub
「知っていても知らないと思うのが最上である。知らないのに知っていると思うのは欠点である。聖人に欠点がないのは、欠点を欠点とするからである。」(蜂屋邦夫訳注『老子』岩波書店、P323)
「老子」蜂屋邦夫訳注(岩波文庫)
足るを知る、無為自然、上善如水など聞いたことがあるフレーズが老子の言葉だとは知らなかったものも多かった。特に柔よく剛を制すは柔道の言葉だと思っていたが老子の言葉だったとは。何度でも繰り返し読みたいで読了
#老子
#岩波文庫
老子 蜂屋邦夫 #読了
81章から成る、老子が語ったとされる哲学を、解説を添えてまとめられた一冊。
「道」、「水」、「国家」について紐解かれている。
読み耽けながら、想像力豊かに、老子の言わんとする考えを吸収していった。
小説ばかりを読む日々だか、哲学も一読するのも無駄ではない。
「最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ。 身の置きどころは低いところがよく、心の持ち方は静かで深いのがよく、人とのつき合い方は思いやりを持つのがよく、言葉は信であるのがよく、政治はよく治まるのがよく、ものごとは成りゆきに任せるのがよく、行動は時宜にかなっているのがよい。 そもそも争わないから、だから尤められることもない。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
蜂屋邦夫訳『老子』は、無為自然を説く古代中国の哲学を現代語で分かりやすく解説。読むたびに新たな発見があり、人生の指針となる一冊。#老子
「老子」/蜂屋邦夫訳注
一応『史記』に記述があるものの伝説に覆われた存在であるという老子。自然科学者の眼、そして詩人の眼を持ち、「万物の奥深くにある大切なもの」を直観智によって感得している、その宇宙論に驚かされる。プラトンの「イデア」をも彷彿とさせられた。中国思想凄い。
#読了
「盈ちたりた状態を失わぬように保ち続けるのは、やめておいた方がよい。刃物を鍛えて鋭くするのは、長く切れ味を保てない。金銀財宝が部屋いっぱいにあるのは、守り続けることができない。富貴で驕慢ならば、みずから災難を招く。仕事をなし遂げたら身を退ける、それが天の道というものだ。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
…老子は「世の中でもっとも柔らかいものが、世の中でもっとも堅いものを突き動かす」(蜂屋邦夫訳)と説いた。…
2024.5.26.日本経済新聞1面〈春秋〉
『老子』蜂屋邦夫訳注
数ある老子を手にしてみたが、全体的なバランスが最も良好だと感じたのが、この岩波版の老子だった。レイアウトも見やすく、解説もバッチリ。老子を専門的に掘り下げる、研究するという訳でないのなら、この一冊で十分すぎるぐらいと思う。
#読書垢
#読了
【文芸・芸術YTの #名刺代わりの3選】
NO.1:老子/老子・蜂屋邦夫(岩波文庫)
歴史上には有名な賢者がたくさんいますがマイ・ベスト・賢者は老子です。生活が深まるほど受け取れるものが変わるどこまでも奥深い一冊です。
粘土をこねて器を作る。
その空虚なところにこそ、器としての働きがある。
小麦粉をこねてドーナツを作る。
その空虚なところにこそ、ドーナツとしての働きがある。
――――老子(訳:蜂屋邦夫)
「三十本の輻が一つの轂を共にする。その空虚なところにこそ、車としての働きがある。埴をこねて器をつくる。その空虚なところにこそ、器としての働きがある。戸や窓をうがって部屋をつくる。その空虚なところにこそ、部屋としての働きがある。 だから、形有るものが便利に使われるのは、空虚なところがその働きをするからだ。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
他人を知ることは知恵である 自己を知ることは悟りである
(老子、道徳経)
日常や読書から「人を思う心」「人間心理の洞察」を得て他人を知ることは、無味乾燥な知識を人間関係に役立つ知恵にしてくれます。それを敷衍して自分を知り俯瞰し洞察できるようになれば、それは悟りの境地と言えましょう。
#キーワードで学ぶ古代中国
その33
老子!!
諸子百家の一つ、道家の祖とされている。老子は孔子と同時代とされるが正確な生没年は不詳。
儒家がどのように国と社会を治めるか、を論ずるのに対して、「無為自然」や「小国寡民」の思想を追求するのが特徴。
「幸福はなるものではなく、気づくものだ。」― 老子
『誰かに深く愛されることは、あなたに力を与え、誰かを深く愛することは、あなたに勇気を与えるでしょう 』
『Being deeply loved by someone gives you strength, while loving someone deeply gives you courage』
老子
正月の課題図書として老子を読んでるんだけどこの本はすごいな。
一般的な認識では道徳書だけどとんでもない。むしろ道徳を破壊するめちゃアバンギャルドな本。
「人生とは、その時々に自然に変化し、
移りゆくものだ。
変化に抵抗してはならない。
それは悲しみを招くだけである。」
ー老子
「千里の道も一歩から」(老子)
目標を立てて終わりにしない。まずは行動から。行動すると次の具体が見つかる。
【マンガ付き】争いは、収めるだけでなく無化することもできる 老子の問題解決法
老子の思想の根幹にあるのは、「すべてはひとつ」という考え方です。それを表すのが「道(タオ)」。道は万物を生み出す宇宙の原理であり、人為的な区別や対立を超えた自然の摂理を指します。
「目を凝らしても見えないもの、それを微という。耳を澄ましても聞こえないもの、それを希という。撫でさすっても捉えられないもの、それを夷という。この三者は、突きつめることができない。だから混ぜ合わせて一にしておく。 この一は、その上の方が明るいわけではなく、その下の方が暗いわけでもない。はてしもなく広くて活動してやまず、名づけようがなく、万物が万物として名づけられる以前の根元的な道に復帰する。これを状のない状、物のない象といい、これを惚恍という。迎えてみても頭は見えず、従ってみても背中は見えない。 いにしえからの道をしっかり持って現今のもろもろの事柄を治める。そのようにして、いにしえの始まりを知ることができる。これを道の法則というのだ。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
『老子』は人生経験が浅いと何書いてるかさっぱりわからんです。私も20代の頃に読んで「???」でしたけど、40過ぎになって読むとめちゃ心に染みるんです(笑
『老子』を乱暴に一言でまとめてしまうと、「肩の力抜いて生きろや、何気張ってんだYOwww」で、バカボンのパパが老子的理想に近いって感じかなと。
<上善は水の如し>
老子の言葉。理想の生き方は水のように、無理に主張せず、周囲に合わせ形を変え、争わず周囲を潤す。しかし、常に“上善”とはいかないのが人間です。冷え、熱くなり、染まり、濁り、凍り、蒸発するもの。体の6割前後を占める水。水の性質を思いながら、水分補給していきましょう。
「学ぶことをやめれば、憂いがなくなる。ハイと、コラと、どれほどの違いがあろうか。美しいのと醜いのと、どれほどの違いがあろうか。人々が恐れることは、恐れないわけにはいかない。 (道のありさまは)ひろびろとして、どこまでいっても果てしがない。 誰もがみな浮きうきとして、宴席の最高のごちそうを楽しむかのよう、春に高台に登って景色を眺めるかのよう。ただわたしだけが、ひっそりとして何の気持ちも起こさず、まだ笑いもしない赤子のよう。くたびれて、帰る家さえない者のよう。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「大いなる徳を持つ人のありさまは、道にこそ従っているのだ。 道というものは、おぼろげでなんとも奥深い。おぼろげでなんとも奥深いが、その中になにか形象がある。おぼろげでなんとも奥深いが、その中になにか実体がある。奥深くてうす暗いが、その中になにか純粋な気がある。その純粋な気はまことに充実していて、その中に確かな働きがある。 現今から古にさかのぼっても、そのように名づけられたもの、つまり道はずっと存在しつづけており、(道の活動の中に)あらゆるものの始まりが見てとれる。わたしは何によってあらゆるものの始まりがこのようだと分かるのかというと、このこと 道がずっと存在しつづけ、玄妙な生成の活動を行なっていることによってなのだ。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「つま先で立つ者はずっと立っては居られず、大股で歩く者は遠くまでは行けない。みずから見識ありとする者はものごとがよく見えず、みずから正しいとする者は是非が彰らかにできない。みずから功を誇る者は功がなくなり、みずから才知を誇る者は長つづきしない。 これらは、道の観点からいうと、余った食べもの、よけいな振るまいという。人々は、だれでもそれらが嫌いだ。だから、道を身につけた者は、そんなことはしないのだ。 企つ者は立たず、跨ぐ者は行かず。自ら見る者は明らかならず、自ら是とする者は彰われず。自ら伐る者は功無く、自ら矜る者は長しからず。 其の道に在る也、余食、贅行と曰う。物或いは之を悪む。故に有道者は処らず。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「すぐれた行き方をする者は車馬の跡をのこさず、すぐれた言い方をする者は言葉にきずをのこさず、すぐれた数え方をする者は計算棒を用いない。すぐれた閉じ方をする者はかんぬきを使わないのに誰も開けられず、すぐれた結び方をする者は縄を使わないのに誰も解けない。 そういうわけで聖人は、いつでもうまく人々が活動できるようにするから、人々は見捨てられることがない。いつでもうまく物事が生かされるようにするから、物事は見捨てられることがない。このことを、道を知る明知にしたがう、という。 それゆえ、善人は不善人の教師であり、不善人は善人の手助けである。その教師を貴ばず、その手助けを愛惜しなければ、どんなに智者であっても、たいへんな愚か者である。このことを、玄妙な道理という。 善く行く者は轍迹無く、善く言う者は瑕讁無く、善く数うる者は籌策を用いず。善く閉ざす者は関楗無くして而も開く可からず、善く結ぶ者は縄約無くして而も解く可からず。 是を以て聖人は常に善く人を救う、故に人を棄つること無し。常に善く物を救う、故に物を棄つること無し。是れを襲明と謂う。 故に善人は不善人の師、不善人は善人の資なり。其の師を貴ばず、其の資を愛せざらば、智と雖も大いに迷う。是れを要妙と謂う。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「剛強なあり方を知りながら、柔弱の立場を守っていくと、世の中の人々が慕いよる谿となる。世の中の谿となれば、恒常の徳は身から離れず、純粋な嬰児の状態に立ちかえる。 賢明なあり方を知りながら、暗愚の立場を守っていくと、世の中の人々が仰ぎみる模範となる。世の中の模範となれば、その身は恒常の徳と違わず、極まりなき道の世界に立ちかえる。 栄誉あるあり方を知りながら、汚辱の立場を守っていくと、世の中の人々が慕いよる谷となる。世の中の谷となれば、恒常の徳はその身に満ち足りて、素朴な樸の状態に立ちかえる。 樸が切られると、役割を持った人材となる。聖人は彼らを用いて官吏の長とする。そこで、(樸のままである)大いなる制度には役割分担がない。 其の雄を知りて、其の雌を守らば、天下の谿と為る。天下の谿と為らば、常徳離れず、嬰児に復帰す。 其の白を知りて、其の黒を守らば、天下の式と為る。天下の式と為らば、常徳忒わず、無極に復帰す。 其の栄を知りて、其の辱を守らば、天下の谷と為る。天下の谷と為らば、常徳乃ち足りて、樸に復帰す。 樸散ずれば則ち器と為る。聖人、之を用いば、則ち官長と為す。故に、大制は割かず。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「天下を治めようとして、ことさらなことをするならば、わたしの見るところ、治められないのだ。天下というものは神聖な器であり、ことさらなことをして何とかなるものではない。ことさらなことをすると壊してしまうし、捕らえようとすると失ってしまう。 そこで、世の中の人々には、自分から行くものもあれば人の後に随うものもあり、おだやかに温厚なものもあれば激しく性急なものもあり、強壮なものもあればひ弱なものもあり、自愛するものもあれば自棄になるものもある。 そういうわけで聖人は、極端なことは止め、ぜいたくなことは棄て、驕ったことは行なわない。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「 大道は、あふれ出た水のように、左にも右にも行きわたる。あらゆる物は道を頼りに生まれるが、道はそれらの自生に任せるだけであり、造化の働きが成しとげられても、自分の所有だと言うわけではない。あらゆる物をはぐくみ養うが、しかし道はそれらの主人とはならない。いつでも無欲であるから、小と名づけることができる。あらゆる物は道に帰っていくが、しかし道はそれらの主人とはならない。大と名づけることができる。 そういうわけで聖人が大なるものとなりうるのは、そもそもいつも自分から大とはしないから、だから大なるものとなりうるのだ。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「すぐれた士は道のことを聞くと、力を尽くして実践する。中くらいの士は道のことを聞くと、あるときは実践し、あるときは忘れてしまう。くだらぬ士は道のことを聞くと、大笑いする。笑われないようでは、道とするには足らないのだ。だから、つぎのような格言がある。 本当に明らかな道は暗いように見え、本当に進んでいく道は退いているように見え、本当に平らな道はでこぼこしているように見える。 最高の徳は空虚なように見え、大いなる潔白は汚れているように見え、広大な徳は何か足りないように見える。 しっかりした徳を持った人は怠けているように見え、質朴な正しさを持った人は変わりやすいように見える。 大いなる方形には角がなく、大いなる器はでき上るのがおそく、大いなる音声は聞きとれず、大いなる象には形がない。 道は広々と大きく名づけようがないが、そもそも道だけが、(万物の生成を)よく手助けし、うまく成しとげさせるのだ。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「聖人は、いつでも無心であり、万民の心を自分の心としている。 善良な者については、わたしも善良とし、善良でない者についてもまた、わたしは善良とする。こうして万民の徳は善良なものとなる。 誠実な者については、わたしも誠実であるとし、誠実でない者についてもまた、わたしは誠実であるとする。こうして万民の徳は誠実なものとなる。 聖人が天下にのぞむときは、心おだやかにこだわりを持たず、万民のために自分の心から好悪の気持ちをなくしてしまう。万民は、みなその聡明さをはたらかせているが、聖人は、万民をすべて赤子のようにしてしまう。 聖人は常に無心にして、百姓の心を以て心と為す。 善なる者は吾れ之を善しとし、不善なる者も吾れ亦た之を善しとす。徳は善なり。 信なる者は吾れ之を信とし、不信なる者も吾れ亦た之を信とす。徳は信なり。 聖人の天下に在るや、歙歙焉として、天下の為に其の心を渾ず。百姓は皆、其の耳目を注ぐも、聖人は皆、之を孩にす。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「人は生まれ出て、そして死んでいく。生をまっとうする者が十分の三、早くに死ぬ者が十分の三ある。そして人民のうち、生きることに執着し、みだりに行動して死地に向かう者が、また十分の三ある。いったい、それはなぜか。生きることに執着しすぎるからである。 聞くところによると、うまく生命を守る者は、丘陵を通っても犀や虎を避けないし、戦においても甲冑や武器を身につけない。犀は角で突けないし、虎は爪で引っ搔けないし、武器は刃を加えられない、と。いったい、それはなぜか。そもそも死ぬいわれがないからである。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「而全作 「全」は、傅本、范本は「脧」、帛書乙本も同じ、甲本は欠字。「 」とするテキストも多い。楚簡は、諸説あるが「陽」に当てるのが妥当であろう。 「脧」 「 」 は異体字。「全」は「陰」の旁がくずれて変化したものという見方もある。「脧」と音が近いための借字であろう。 「脧」 には、スイ、サ、センなどの音もある。要するに、すべて男の赤子の生殖器のこと。 「作」は、帛書乙本は「怒」、甲本は欠字。楚簡も「怒」と解読されている。「作」は「起」「興」の意味。「作」も「怒」も勃起すること。「作」は次の文の「嗄」と押韻する。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「有国之母 「母」は国を治める根本の「道」のこと。『老子』では、大事なことは、よく「母」によって喩えられる。「有国之母」は『韓非子』「解老」 では「国を有つ所以の術」と説明され、それにも拠って、江戸時代の老子学以来、伝統的に「国を有つの母」と訓読されてきた。だが構文上は、やはり無理があるので、通常の訓読とした。ただ、「有国」は「保国」の意味を含有するという説明(陳鼓応『老子今注今訳』)が穏当で、いわば懸詞のような働きをもった句であると思われる。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「道とは万物の奥ふかくにある大事なもので、善人の宝であり、不善の人も道によって守られている。 立派な言葉は説得力が大きく、気高い行ないは人びとに影響を与えられる。人が善でないからといって、どうして見捨てられようか。だから、天子が即位して三公が任命されるとき、四頭立ての馬車に先だって、大きな璧玉が献上されるけれども、ひざまずいてこの道を献上することの方がよいのだ。 いにしえの人がこの道を貴んだ理由は何であろうか。求めればこの道によって得られ、罪があってもこの道によって免れる、と言うではないか。だから、世の中でもっとも貴いものとされるのだ。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「なにも為さないということを為し、なにも事がないということを事とし、なにも味がないということを味とする。 小さいものを大きいものとして扱い、少ないものを多いものとして扱う。怨みには徳でもって報いる。難しいことは、それが易しいうちに手がけ、大きいことは、それが小さいうちに処理する。世の中の難しい物事はかならず易しいことからおこり、世の中の大きな物事はかならず些細なことからおこるのだ。そういうわけで聖人は、いつも大きな物事は行なわない。だから大きな物事が成しとげられるのだ。 いったい、安うけあいすればきっと信用が少なくなるし、易しいと見くびることが多ければきっと難しいことが多くなる。そういうわけで聖人でさえ、物事を難しいこととして対処する。だから、いつも難しいことにならないのだ。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「知っていても知らないと思うのが最上である。知らないのに知っていると思うのは欠点である。 聖人に欠点がないのは、欠点を欠点とするからである。そもそも、欠点を欠点とするからこそ、それだからこそ欠点がないのだ。 知りて知らずとするは上なり。知らずして知るとするは病なり。 聖人の病あらざるは、其の病を病とするを以てなり。夫れ唯だ病を病とす、是を以て病あらず。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「この世の中には水よりも柔らかでしなやかなものはない。しかし堅くて強いものを攻めるには水に勝るものはない。水本来の性質を変えるものなどないからである。 弱いものが強いものに勝ち、柔らかいものが剛いものに勝つ。そのことは世の中のだれもが知っているが、行なえるものはいない。 そういうわけで聖人は、「国中の汚濁を自分の身にひきうける、それを国家の君主という。国中の災厄を自分の身にひきうける、それを天下の王者という」と言う。正しい言葉は、常識に反しているようだ。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「老子という人物は、濃いもやに包まれている。その実在さえ疑われているが、少なくとも我々が『老子』と呼んでいる書物の書き手が、一人か複数かはともかくとして、存在したことは確かである。中国古代の人物については、前漢の司馬遷(前一四五年ころ? ~?)が書いた『史記』に伝記がのっていれば、それを第一の資料にするのが普通であるが、その「老子伝」でも一人の人物に絞りきれず、候補者として三人の伝を記している。すでに司馬遷の時代に、老子は伝説のベールに覆われていたわけである。 三人のうち、もっとも有力なのは老耼である。『史記』によれば、老子は、姓は李、名(諱、本名)は耳であり、耼とは字である(一説に伯陽が字、耼は諡とする)。老子とは号(通称)のようである。「耼」とは耳が長いという意味で、古代中国人は身体の特徴を字に付けることがあるので、老子は耳の長い人であったようだ。また、耳と耼のように、諱と字が関連してつけられることも多い。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「観察者の立場に立ったということは、老子には、いわば自然科学者的な目があった、ということである。『老子』中には「欲」が否定される箇所が多いが、「欲」の否定とは客観的立場に立つことを意味する。ちょうど物理学や数学の理論形成の場に「欲」の入りこむ余地がないようなものである。一章の「常に欲無くして以て其の妙を観」るとは、そういうことを言ったものであろう。その客観的立場から、老子は四十章や四十二章などで天地自然の生成や万物の生成を論じた。二十五章の「物有り混成し、天地に先だちて生ず」云々の文言は、宇宙の発生を論じた天文学の理論かと見まごうほどである。古代中国の思想家たちが生みだした思想は、大部分が人間社会に関する理論や具体的政治問題に関する理論である。その中にあって、老子の思想にだけ宇宙論的な発想が認められるのは、この、いわば自然科学者的な面があったからである。もちろん、それは科学ではなく、直観にすぎないものではあるけれども。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「現実的な儒家から見れば、老子の思想などは、後ろむきの無用のものにすぎない。そこで、『荀子』「天論」 には「老子は屈従的でのびのびしておらず、貴賤の分別がない」という批判が見え、後漢の合理主義者の王充は、『論衡』「定賢」 で、恬淡無欲で出仕をせず、自分の身を保全することに熱心な者は、孔子や墨子のように世の中の困難を救おうとした賢者と違って、老子と志操が同じであり、「賢」とは言えない、と批判している。これらは、老子の思想の本質を正しく理解しているとは言いがたいが、当時の知識人の立場としては、もっともな批判である。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「世界史上もっともよく読まれた書物は、西では『聖書』、東では『論語』であろう。その点は誰にも異存はないと思うが、二番目となるとむずかしい。ただ、西ではどうだか知らないが、東では『老子』ではあるまいか。中国の知識階級の人々のうちには、二千年以上にわたって、公的には儒教思想によって生き、私的には道家思想によって生きる、という人々があった。もちろん、誰もがそうであったというわけではないし、儒教思想と道家思想の関係も複雑なものがあるが、道家思想を説いた代表ともいうべき『老子』は、けっして世を避ける隠 者の専有物ではなかった。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
「中国古代の社会に深く根ざした『老子』は、熾烈な戦国時代を生きぬく処世の知恵であり、一種独特の統治理論であって、特殊中国的なものであるが、それと同時に、世の中と人間についての深い洞察力によって、人類の教科書と言ってもよいほどの普遍性も持っている。あるいは『論語』よりも普遍的と言えるかも知れない。なぜなら、『論語』に見える思想には中国社会の政治的かつ人倫的な秩序を保とうとする意志が顕著であるが、『老子』の方は、世の中から一歩身を引いて個人の内面的な充実を求めたり、あるいは自然的世界について洞察する面が際だっているからである。『老子』のそうした特色は、時代や地域の制約をこえて、人々の心に直接働きかける力を持っている。」
—『老子 (岩波文庫)』蜂屋 邦夫著
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「柔軟で謙虚」という自分が理想としている考え方がそのまま詰まった、まさに一生モノのバイブルに出会えた。世間の「頑張りすぎること」や「ギラギラすること」に少し苦手意識があったが、そんな自分の思いを丸ごと肯定されたような気がして心がとても軽くなった。特に「上善如水」の言葉は深く胸に刻まれ、人生で初めての座右の銘になった。現代の忙しい日々に疲れたとき、何度も読み返したい大切な一冊である。
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「僕は“老子派”です。」
人と話していて、生き方やライフスタイルの話になると、僕はいつも、老子のように生きたいと言っていました。
しかし、実は“老子”を最後まで読み通したことはなく、ちょっとだけ知っていた“無為自然”の思想がしっくりきていたのと、幼少時からの僕のヒーロー、ブルース・リーの名言「水になれ(Be water)」の流れから、老子も「上善は水の如し」って言っていたし、「推しが言ってることと似てるから、きっと合うはず!」という単純な理由で、諸子百家の中では老子を推していました。
そして今回、初めて老子の全八十一章を読み通し、分かったことが二つ。
一つは、「やっぱり僕は老子が好き!」ということ。
三十六章、四十一章、六十三章に通ずる“弱いは強い”という思想なんかは、ビジネスにもライフスタイルにも含蓄があって好きだし、結局は訳注者の蜂屋邦夫さんが巻末でおっしゃっていた、“外面的には水のように柔弱にして謙遜、内面的には自己を空虚にして、人々とも物事とも争わない”という老子思想の根本概念がカッコよすぎた。これに尽きますね。
いくつになっても僕が何かを選ぶ基準は、“それに僕がシビれたか”、言い換えるならば、“カッコいいと思えるか”。
そしてもう一つは、とはいえ、「老子の思想を完璧に体現するのは難しすぎる。というか無理!」ということです。
客観的立場に立つことを意味する“欲の否定”も、まだまだ欲しいものがたくさんある自分には困難な道のりだし、八十章の“便利な道具はあっても使わない”も、スマホを本当は手放したいけど、現実的に手放せない現代人にはなかなか難しいのではないかと思います。
ですので、自分がシビれた、カッコいいと思えた部分からつまみ食いしつつ、他の諸子百家や西洋の哲人たちの思想もモグモグしていきたいと思います。
母なる水のように優しい老子さんなら、そんな僕の未熟さも笑って流してくれますよね? -
解説がないと、今の自分ではまだ本質を理解できていない。
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当時の感想
再読したら腑に落ちた。自分の思想にあっている。 -
老子は、欲に囚われた人間たちについて、落ち着けと説いています。本当の幸福や平和は、人間が創り出した良いもの(権力や知識、富など)を捨て、自然つまり何も手が加えられてないあるべき姿に同化することで見つけられるかもしれません。権力や知識、富があればあるほどよかったり、価値があるように見えるのは、そういうふうに私たち人間が周りとの人間の摩擦や刺激により、不自然に作り出しているからかもしれません。全て欲捨ててヒッピーになりたいと思うことはよくありますが、少し悩んだり苦い思いをしても、広域の都会で暮らし、刺激的な人生がいいなとは思いました。そのために、やはり、欲に溺れて自滅しないためにも常に自己分析をして己を客観視していく習慣は大事だと思いました。
【メモ】
道(老師)
→タオと読む
→ 老師は天地万物が存在する以前に天地の母と呼ぶべき存在があると仮定
→人間の五感では捉えられない超感覚的な実在のこと
→形を与えることも言葉で表現することもできない絶対的なものでこの天地万物よりも先に存在していた、根源的な筋道や秩序そのものを表す
道(孔子)
→物事の規律や礼節などを重んじるいわゆる実践道徳
無為自然
→無理に物事を動かそうとするのではなくあるがまま自然のままに任せる事を言う
→無為:作為的なことをしないこと
→自然:おのずからしかりすなわち地から何の影響を受けることがない状態のこと
→私たち人間も大自然(人為的でないもの)の一部として、その采配を受ける運命にあるため作為的なことをせずあるがままに生きることが大切と考えた
道徳教育(儒教)
→社会秩序を保つため
→こういった作為的な家族や礼儀文化などは人を偽善者にしたり堕落させたりする
→なので、絶対的な秩序である道に従うべき
→道は、社会的に弱い立場の人の、精神的な拠り所として発展していった。
小国寡民
→住民の数が少ない小さな国家のことで、理想郷である。
→国家のサイズをコンパクトにし、人間が使用する道具も必要最低限にする。さらに、地域間での交流も避けるべきと主張
→余計な財産、道具、情報、人との関わりがあるおかげで、人間の欲求は余計に刺激され自分たちの生活や文化に満足できなくなる
→結果、余計な争いが生まれる
→村落共同体を積み上げる事で、理想的な「大国」を目指していたと言う説もある
道に従う人、道から外れる人
→これが道であると説明できるような道本物の道ではない、これが名前だと呼べるような名前は本物の名前ではない、道にはもともと名前がないがこれこそ万物の根源であり天地が生じ万物が生まれたのである。
→道に従うものは目的を果たすだけである。目的を果たせばそれ以上自分の才能を誇ったり自慢をしたり強さを見せつけたりしないのである。
→つま先で立ち自分を大きく見せようとするものは長く立ち続けることができず大股で歩き、焦って先を急ごうとする者は遠くまで行くことができない。
→これと同じように自分の行動を良しとするものはかえって世の中から遠ざけられ、自分を正しいと言い張る者はかえって正しいと認められず、才能を過信する者はかえって長続きしない者である。
→学や知識も余計なもの。学を捨てれば憂いなし。
→余計な知識を捨て去れば余計な悩みがなくなり、人間は本来の自然な生き方を取り戻せる。
すぎた穴を及ばざるが如し
→あり行きすぎることや度がすぎることは足りないことと同じくらい良くないことである。
いしひっけつ(囲師必闕)
→敵を倒したら、完全に退路を立つのではなく必ず相手が逃げられる道を作っておく。
最も理想的なリーダー
→賢いものを尊重しなければ民は争うことがなく、財貨を貴重品としなければ民は盗むようなことがなくなる、また欲望を掻き立てるようなものを見なければ民の心は乱されない。従って、聖人が国を統治する場合は民を無知無欲にすること
→大国を作るには小鮮を烹るが如し
→天下を取ろうと発信作為的な行動をとる者がいるがそんなことでは願いは成就しないだろう。なぜなら天下と神聖な器であり、色々と企てたところでどうにもならないからだ。何かを成そうと働く者はかえって天下を壊し、何かを捕まえようとするとするとかえってそれを失うだろう。
→ 世の中に禁止事項が多くなればなるほど、人民は離れていく。世の中に武器が増えれば増えるほど、国家は混乱する。世の中の技術が進化すればするほど、犯罪は増える。世の中の法律が細かくなればなるほど、盗賊はたくさん現れる。だから聖人は言う。わたしが何もしないことで、むしろ人民は自ずと治まる。わたしが静かにしていると、人民も自ずと正しくなる。わたしが事を起こさないと、人民は自ずと豊かになる。わたしが欲を持たないと、人民は自ずと素朴である。と。
欲望の罠
→器にいっぱいの水を注ぐように何事も満たし続けることはやめたほうがいい。刃物を限界まで鋭くしようとすれば、かえって折れやすくなる。
→これと同じように富も蓄えれば蓄えるほどそれを守らなければならないと心配事が増え地位や名誉にこだわればほど、自分の身を滅ぼすことになる。
→自分の仕事を成し遂げたと思ったのならすぐに身を引きなさい。これこそが天の道。
引き際で失敗する理由
→一度獲得した者は手放したくない
→自分自身を客観的に評価できない
本当に優れている人物像
→他人のことがよくわかるものは優れた人物だが、自分のことをよくわかっているものはさらに優れた人物である。
→また、人に勝つものは力のある人物だが、自分に勝つものは本当に強い人物である。
足るを知る
→全て満たそうとするのではなく、自分にとっての適量が満たされていれば十分
水のような生き方
→ 最上の善とは水のようなものである。
水は、万物に恵みを与えながら、争うことがなく、皆が嫌だと思うような低いところに落ち着く。だから水は「道」に近いのだ。
身の置き所は低いところが良い。心の持ちようは静かな方が良い。人との付き合いでは思いやりを持つのが良い。言葉は誠であるのが良い。政治はよく治るのが良い。物事は成り行きに任せるのが良い。行動はその時に適切なものであるべきだ。
これらは全て「水」が教えてくれる。
水は争わないから、咎められることもない。 -
かなり読みやすい本だった。
しかし、この本に書かれていることを実行に移すのはかなり難しい。というか、無理。
老子は、理想が強すぎると感じた。
気に入った文
第一章
第三十三章
他人のことが分かる者は智者であり、自分のことが分かる者は明者である。・・・自分のいるべき場所を失わない者は長続きし、死んでも、滅びることのない道のままに生きた者は長寿である。p.156
老子のいう、『道』というものについて考え、自分なりの答えを出したいと思った。 -
NHK教育「100分de名著」に触発されて「老子」を読了。いくつか訳者による版があるのですが、せっかくなので番組にコメンテーターとして出演している蜂屋邦夫氏が訳した岩波文庫版にしました。
「無為自然」をテーマとし、有名な言葉に「上善は水の如し」「柔よく剛を制す」「天網恢恢疎にして漏らさず」「千里の道も一歩から」といったものがある一方、「之を縮んと欲すれば必ずしばらく之を張れ」「大国は下流なり」といったはかりごとの章もあって意外に曲者。ただ、全体のトーンを意識しながら読むと、「無為自然でいるのが一番だし、あくまでそこを目指すべきなんだけど、それだけじゃどうにもならないだろうから、ね」という老子の声が聞こえてくるような気がしないでもない。
個人的にはやはりというか「上善は水の如し」の一説が気に入った。
ちなみに、書の中で「『礼』とか形式ばったことを言ってるから本質が見えないんだ」というような儒教批判がいくらかありますが、当の儒家からは「『小国寡民』とか隠遁者のネガティブ思考。現実的じゃないし卑屈」という批判を返されていたそうな。どれが正しいかはさておき、考え方は色々知っておくに越したことは無いでしょう。 -
これは世界最古の「働きたくないでござる」もとい「何かをなすとは、何もなさぬことである」といった逆説を多用することによって、論語が薦める義務的生き方とは正反対の何者にも捕われない生き方を提示する。しかし老子の言葉が心地良くても、これを実践するにはかなり骨が折れることに。それは現代がせせこましく何かの役に立つことを強いようとする余裕のない社会であるのが理由の一つだけど、何より問題なのは、老子の思想が何者にも捕われないということはつまり、ここにある老子の言葉にも捕われてはいけないということを意味しているからだ。ここに収められた81章に続く82個目の言葉を日々の生活から紡ごうとすること、それが老子の思想に触れるということなんだと思う。
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自分が大学生時代に初めて知った中国語が道(タオ)だった。
孔子の処世術もいいけど、老子の根源的教えが好きだな。 -
最近、論語に関する本が流行ってるみたいだけど、今の人たちはむしろこっちを読んだほうがいいんじゃないかな?
論語との違いから老子の思想を説明すると、論語の根底にある考え方は用をなすのは表象のみという考え方なのに対して、老子は無ということの役割を説いている。論語がソリッドなのに対して、老子はダイナミック。
現代人の悩む所の根底には、満たされることを渇望しながら、いくら消費行動に走っても満たされない事にある、と僕は考えている。だからこそ、無、もしくは虚の積極的役割を説いた老子こそ読まれるべきなんだ。
『―故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。』 -
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稀に見る訳注の丁寧な中国古典の書籍。あとがきを含めて453ページの厚みになったのは、その注釈の丁寧さにある。解説に、楚簡『老子』と帛書『老子』の比較についての言及もある。
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道理をみきわめ、そこから外れないことが大事、という思想。道理として扱う範囲は、自然だったり、人間だったり、組織であったり。
道理を探す。そこにあわせる。
これにより、無理なく最小の努力で効果を出す。
と理解した。
論語は、とにかく、政治を対象として、理想を過去に求める。この理想のすばらしい政治が道であり、そのために、勉強して、知識と道徳を身につけ、思いやりと勇気を持って実行する。という思想と理解した -
1993年に出土した最古の書を踏まえた最新の老子。
講談社学術文庫の金谷先生の訳とこちらを読んだが、
金谷先生の方は内容に対する解説が有り解りやすく、
こちらは訳に対する解説が有り学術的で、
春秋戦国時代の原本の内容を加味しているので、
老子という書の本来の姿はこちらの方が近いと思われる。
始めて読む人はあちらを読んで内容を把握し、
二回目以降はこちらというのが良いのでは無いだろうか。 -
老子の核心は、「低く、静かに、欲を離れてこそ本質が見える」という一点に収斂する。水のように争わず、与えても所有せず、成長させても支配しないという姿勢は、力ではなく“在り方”によって周囲を導く。知恵で操作しようとするほど物事は乱れ、へりくだるほど人も力も自然に集まるという逆説も示唆的である。恒常性=和の状態を基盤に、執着と過剰な欲を手放すことが、真に大きな影響力や徳に繋がるという教えとしてまとまっている。
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2025.11.29
いろんな部分に結びつけられそうではあった
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老子を知りたくて読んだが……印象はさかしくなるな!なんかするな!便利な道具使うな!天に沿って生きろ!道に沿って生きろ!となんというか難しいね!
頭いいことをもてはやすと、さかしい奴が増えて国が不安定になるとか、世の中見てるとわからんでもないなと思うが、指導者も人民も無知無欲であれはなかなか現代では難しい話ね。
本自体は作者がマニアック過ぎたというほど注釈がついていて、注釈の注釈がほしくなるほど。老子の言葉以外に老子の成り立ちや歴史もあり、内容の充実ぶりはスゴイ!たださらりと知りたい人とかは全然向かない。この本で同作者の図解版をオススメしてるのでそっちでもうちょっと優しく学んだほうがよかったかも。
ナインソールで道教に興味を持ち、そのトップである老子に興味をもったが、道教は老子を神格化し民間信仰やらなんやらと結びついたものらしいので、老子を読んでゲームの解明度はあんまり上がらなかった -
NHKラジオの『#絶望名言』で頭木さんのお話を聞いてから『老子』を読み返している。
なにも為さないということを為し、なにも事がないということを事とし、なにも味がないということを味とする。
何かを成し遂げなくても生きていていいんだと、今の僕を励ましてくれる言葉
#読了 #君羅文庫 -
訳も分かりやすく原文も載っているので満足。いろいろな解説本があると思うけど、原文を読んで自分なりの解釈なり考えなりに耽りたい。
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訳注が丁寧で、訳文も平易で分かりやすい。しかし内容はやはり、老子。この時代に無為自然…自ずからそうなると言う思想は、非常に実行が難しい。
老子ならずとも、私が実行している事は非常に簡単な事だが、実行できる人は殆どいない。と言わざるを得ないだろう。 -
孔子とはまた違った老子の教えは非常に柔らかい印象を受ける。だからといって弱いわけではなく道は険しい。ルソーに通じるものがあると思う。ルソーは老子を知っていたのかな? と思ったりもする。足るを知りつつ素朴に生きる感じとか。直感的に人が感じる理想はある程度共通するのではないかなと思った。ひとつひとつの章はとても短いので手の届くところにおいておいて時折読み返すといいと思う。
この本が好きな人におすすめの本
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