ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫 青 302-1)

著者 :
  • 岩波書店
3.88
  • (60)
  • (41)
  • (54)
  • (5)
  • (5)
本棚登録 : 1032
感想 : 51
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003330210

作品紹介・あらすじ

『法句経』の名で知られる「真理のことば」(ダンマパダ)も、併収の「感興のことば」(ウダーナヴァルガ)も、ブッダの教えを集めたもので、人間そのものへの深い反省や生活の指針が風格ある簡潔な句に表わされている。「ウダーナヴァルガ」とは、ブッダが感興をおぼえた時、ふと口にした言葉集というほどの意味で、本訳は世界でも初めての完訳。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 「ダンマパダ」「ウダーナヴァルガ」を邦訳したもの。1987年に初版が出ているが、現代的に見ても非常に読みやすい。詳細な註解がついており、筆者が広く文献を渉猟したことがわかる

  • 私は嫌なことがあって、友達に愚痴ってもなお、気が晴れないときに、ぐっとこらえてこの本を読みます。やり場のない怒りも、お釈迦様にかかればポジティブに受け取れる。

  • 内容わかりやすく、何度も手に取って読みたい本。悩み克服のバイブル。心にスッと入ってきて、身も心も引き締まります。仕事でやる気が出ない人、恋愛の執着に悩まされている人など、あらゆる悩みを抱えている人に勧めたい本。仏教の教えを学ぶことで悩みを克服しやすくなると思います。

  • 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。造り出された現象が常住であることは有り得ない(255)。「一切の形成されたものは無常である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である(277)。

    情欲にひとしい火は存在しない。不利な骰(さい)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執(もうしゅう)にひとしい河は存在しない(251)。恐れなくてよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪(よこしま)な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく(317)。「一切の形成されたものは苦しみである」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である(278)。

    見よ、粉飾された形体を! それは傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない(147)。骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている(150)。この容色は衰えはてた。病いの巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する(148)。「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか(62)。子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。眠っている村を大洪水が押し流すように(287)。人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤おされる。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける(341)。「一切の事物は我ならざるものである」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である(279)。

    ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ(305)。愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?(212)。この身は泡沫うたかたのごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう(46)。

    『ダンマパダ』BC4世紀 ※パーリ語。
    ※ダンマ(真理)。パダ(言葉)。

    *****************

    舟から水を汲みだせば、舟は軽やかになる。情欲を断てば、安らぎにおもむく(26-12)。屋根を良く葺いてある家に雨が洩れ入ることがないように、心を修養してあるなら情欲が心に侵入することがない(31-11)。

    『ウダーナ・ヴァルガ』
    ※ウダーナ(感興のことば)。ヴァルガ(集まり)。

    無明によって生活作用があり、生活作用によって識別作用があり、識別作用によって名称と形態があり、名称と形態によって六つの感受機能があり、六つの感受機能によって対象との接触があり、対象との接触によって感受作用があり、感受作用によって妄執があり、妄執によって執著があり、執著によって生存があり、生存によって出生があり、出生によって老いと死・憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みが生ずる。

    『ウダーナ』 ※パーリ語

    ******************************

    自己の所有したものは常住ではない。この世のものはただ変滅する(805)。

    感受されたものはすべて苦しみである(思い通りにならない)(739)。いろいろと考えてみても、結果は意図とは異なり、壊れて消え去る(588)。精神と身体(名称と形態)に縁って接触が起こり、接触に縁って快・不快が起こり、快・不快に縁って欲望が起こり、欲望に縁って愛し好むものが起こる(872)。苦しみは識に縁って起こる。識が止滅されるなら、苦が生起することはない(735)。

    自分のものであると考える物は、その人の死によって失われる(806)。目覚めた人が夢の中で会った人をもはや見ることがないように(807)。世人は非我なるものを我と思いなし、精神と身体(名称と形態)に執著している(756)。世人は好ましく愛すべく意に適うものが安楽であり、それらが滅びることが苦悩であると考えているが、自己の身体を断滅することが安楽である(761)。神霊に供物や犠牲をささげている者は、生や老衰をのり超えていない(1046)。何ものにも動揺せず、望むことのない者は、生や老衰をのり超えている(1048)。喜びと執著と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな(1055)。

    いかなる所有もなく、執著して取ることがない、これが島(避難所)であり、老衰と死の消滅であり、安らぎ(ニルヴァーナ)である(1094)。所有欲を離れるだけでは安らぎに到らない。想うのでもなく想わないでもない境地(有無の差別を超えた境地)だけでは安らぎには到らない(874)。愛執の消滅を昼夜に観ぜよ(1070)。精神と身体(名称と形態)に対する貪りを全く離れた人には、死に支配されるおそれがない(1100)。子も、家畜も、田畑も、宅地も存在しない。すでに得たものもなく、未だ得られないものもない(858)。

    『スッタニパータ』 ※パーリ語
    ※スッタ(経)。ニパータ(集まり)。

    *********************

    物質的なものや肉体と精神の働き(感受・表象・形成・識別作用)は、常住不変の主体・自分の本性(アートマン)ではない。清らかな行いを実践し、道を修めた者に死の恐怖はない。病気が癒えた時、死の恐怖がないように。『テーラ・ガーター』

    『テーリー・ガーター』
    『ジャータカ』

    **************************
    ブッダが亡くなられたとき執着を離れていない修行僧は両腕をつき出して泣き、砕かれた岩のように打ち倒れ、のたうち廻り、ころがった。愛執を離れた修行僧らは正しく念い、よく気をつけて耐えていた。およそつくられたものは無常である。どうして滅びないことがあり得ようか(24-10)。

    『マハーパリニッバーナ・スッタ』BC4世紀 ※パーリ語。
    ※マハーパリニッバーナ(大いなる死)。スッタ(経)。

    **************************

    冷たさ・暖かさ・飢え・渇き・大便・小便・怠惰と睡眠・老いること・病気・死は、身体に付随して生じる。執着を断ち生死を離れた者の心は身体に依存して作用するが、身体に対して命令を発し、主宰することはない。生きとし生けるものはすべて、地に依存して歩き、生活し、行動するが、かれらが地に対して命令を発し、主宰することがないように(2-6-7)。▼執着を断ち生死を離れた者は、身体の苦しみを感受するが、心は動かない。大樹が風の力に打たれたとき、枝は動いても、幹は動かないように(2-6-7)。解脱した人でも肉体的な苦しみが生ずる因縁は休止しないので肉体的な苦しみは感受する。しかし解脱した人は心的な苦しみが生ずる因縁が休止しているので心的な苦しみを感受しない(1-2-4)。出家者は身体に執着しないが、清浄なる修行を成すために身体を保護する(倫理的な行為の主体としての自己は肯定)(1-6-1)。

    身体に縁って、脳に縁って、感受作用によって、表象作用に縁って、識別作用によって、(例えば)「ナーガセーナ」という名称が起こる。人格的な個体は存在しない(1-1-1)。部分の集まりによって"車"という言葉があるように、五つの構成要素が存在するとき、"生けるもの"という呼称がある(1-1-1)。(例えば)眼と色と形(縁えん)によって眼の識別作用が生じるのであり(1-3-6)、個我(霊魂)は存在しない(1-7-14)。▼現在の名称と形態(精神と身体)(人格的固体)が次の世に生まれるのではなく、現在の名称と形態(精神と身体)の行為(業)によって、他の名称と形態が次の世に生まれる(1-2-6)。名称と形態に業は随伴している(1-5-8)。輪廻の主体が1つの身体から別の身体に転移するのではない。例えば、ある灯火(ともしび)から火を点ずる場合、火が1つの灯火から他の灯火へ転移したわけではない(1-1-5)。個人存在は現に存在しつつ生起する(1-3-5)。無我は輪廻の観念と矛盾しない(1-2-1)。▼輪廻の流れに入り、生存を繰り返すことは苦しみである(2-4-5)。執著ある者は次の世に生まれる。執著のない者は次の世に生まれない(1-1-7)。

    現象世界は輪廻する。輪廻とは魂(実体的な核)が器(身体)を変えながら受け継がれることではなく、現象世界(無常・苦・無我)が業(後に結果をもたらすはたらき)によって繰り返し起こること。

    『ミリンダ王の問い』BC1世紀
    ※ギリシア人ミリンダ王(メナンドロス1世)と仏教僧ナーガセーナの問答。
    ※パーリ語

    ********************************
    (悪魔)子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の喜びは、執著するよりどころによって起こる。執著するよりどころのない人は、実に、喜ぶことがない。(ブッダ)子ある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。人間の憂いは執著するよりどころによって起こる。実に、執著するよりどころのない人は、憂うることがない。

    欲楽に耽(ふけ)るな。また自らを苦しめるな。真理の体現者はこの両極端に近づかないで中道を選ぶ。

    現象世界は、条件付けられている(有為・縁起)ため、常に移り変わり続ける(無常)。常に移り変わり続けるのであるから、自分の心と肉体は思い通りにはならない(苦)。思い通りにならないのであるから、自分の心と肉体は「私のもの」ではなく、常住不変の主体・自分の本性(アートマン)ではない(無我)。自己そのものを否定しているのではなく、自己の所有を否定している。常住不変の実体を否定している。常住不変の自己の本質を否定している。

    『サンユッタ・ニカーヤ』 ※パーリ語

  • T図書館+youtubeアバタロー氏
    1978年出版
    現代語訳の本
    訳注は巻末にまとめてある

    ゴータマ・シッダールタ 
    5~6世紀生まれインド北部のシャカ族国家の王子
    宗教的関心が強く出家しようと思っていた少年、29才で出家
    6年費やした後、菩提樹で7日目にして悟りを開き、会得してブッダになった

    《感想》
    身近な仏教だから読めば納得できる内容
    合理的なことが書かれているので性格にあっていた
    あとがきを見ると、学術的に様々な訳があり苦労した点がうかがえた

    《内容》
    真理の言葉
    訳注
    感興の言葉
    訳注
    あとがき

    〇苦しみがついてくる人の特徴
    あらゆるものは一定ではなく絶えず変化しているという心理を理解すれば苦しみが遠ざかり、心が安らいでいくというわけだ=諸行無常
    思い通りにいかないと執着が生まれ、生きるのが苦しくなってしまう
    子どもも自分の所有ではない

    〇賢い人と愚かな人の違い
    努力している人は些末なことにとらわれず本当に大切なことに集中して生きている
    誰とでも仲良くするのではなく、賢者と交流し、愚かな人とは距離を置くべき

    四法印
    一切皆苦:この世の一切は苦しみだ
    諸行無常:この世は移り変わる
    諸法無我:すべての物事は関係の中で成り立っている
    涅槃寂静:煩悩が消滅した心安らかな境地

    〇心を整える合理的な方法
    他人に注目するな
    自分がしたことしなかったことを見る
    無駄を1000回やるより目的に叶ったことを1つしよう
    勝ち負けにこだわらない
    恨み嫉妬怒り悲しみがついてくる
    客観的で合理的な見方を身に付けよう

  • ◯他のお経と比べると、文章の一つ一つが単独で成り立っているため、文章の意味がこぼれ落ちてしまう。やはりストーリーや、ある種の流れ、論理性によって説得的になるのも、こういった経典においても同様なのだと実感した。(単純に自分の集中力の不足もあると思うが…)
    ◯感興のことば後段に出てくる、対比と類似の文章の流れは、是非原文の音読によって音として体感することも必要だと感じた。ただ、文字だけでは伝わらない部分があるとしても、文字の並びは壮観であった。
    ◯この辺は般若心経でも重要視されている音自体に意味があることにつながってくるのかと思うと、また面白い。

  • スキャンしました、、

  • 原始仏教の教えがまとまっている詩集。

    本書はパーリ語とサンスクリット語の同じ経典を
    セットにした内容らしいので、内容は被っているが、
    後の時代に書かれたからか、感興のことばの方が
    分かりやすくまとまっているように思う。

    この世界は基本的に、
    諸行無常で一切皆苦で諸法非我であり、
    苦しみから逃れるには執着や欲望を
    捨てて善を為す事を繰り返し説いている。

    何でもかんでも救ってくださる
    優しい仏様だと思って近づくと、
    私のような欲望にまみれた凡夫にとっては、
    ブッダの説くところはなかなか厳しい。

  • 関西外大図書館OPACのURLはこちら↓
    https://opac1.kansaigaidai.ac.jp/iwjs0015opc/BB00133521

  • ブッダが直接語ったとされる阿含経である「ダンマパダ(法句経)」と感興を覚えた時に口にしたという句「ウダーナヴァルガ」を収めている。

    本書の半分くらいは注釈なので、案外ボリュームは少なく、読みやすい。

    仏教の根本的な思想が、教典のような格式ばった感じでなくすぐ横にいる人がつぶやくように発せられているので、親しみやすいと感じた。

    特に、生きる事に正面から向き合っているような本なので忙しくて自分を見失いそうなときにまた読み返したいと思う。

    悪い事をするな。
    自分を大事に生きよ。
    良き友が得られなければ一人で往け。
    怨みは怨みのないことにより止む
    花を摘むことに夢中になっている人を死がさらう
    謗りを忍ぶひとにこそ勝利がある
    我がものはなし

全51件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

新潟大学人文学部准教授
1977年、東京都八王子市生まれ。1999年、東京都立大学人文学部史学科卒業。2009年、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学、博士(史学)。
八王子市総合政策部市史編さん室専門員、獨協大学法学部特任助手を経て現職。
著書・論文に、『東京の制度地層』(公人社、2015年、共著)、『新八王子市史 通史編5近現代(上)』(八王子市、2016年、共著)、『新八王子市史 通史編5近現代(上)』(八王子市、2017年、共著)、「1930・40年代日本の露店商業界紙『関西俠商新聞』・『小商人』・『日本商人』について」(『資料学研究』12号、2015年)、「戦災の記憶の継承と歴史資料――長岡空襲の事例に即して」(『災害・復興と資料』8号、2016年)など。

「2018年 『近現代日本の都市形成と「デモクラシー」』 で使われていた紹介文から引用しています。」

中村元の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
フランツ・カフカ
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×