日本的霊性 (岩波文庫)

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  • 岩波書店
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レビュー : 35
  • Amazon.co.jp ・本 (276ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003332313

作品紹介・あらすじ

現代仏教学の頂点をなす著作であり、著者が到達した境地が遺憾なく示される。日本人の真の宗教意識、日本的霊性は、鎌倉時代に禅と浄土系思想によって初めて明白に顕現し、その霊性的自覚が現在に及ぶと述べる。大拙(1870‐1966)は、日本の仏教徒には仏教という文化財を世界に伝える使命があると考え、本書もその一環として書かれた。

感想・レビュー・書評

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  • 戦前戦後の仏教学の第一人者だった著者の代表作。大学の恩師に著者の思想を紹介されて、興味を持ち読んでみました。
    序盤で霊性を「宗教意識」だと定義した著者は、その上で興味深い論を展開していきます。すなわち古代日本に霊性と言えるようなものは存在しなかったこと。それが初めて自覚されたのは鎌倉時代に入ってからであること。その粋は、浄土思想と禅に見出すことができること。などなど。私は本書を読んで浄土思想のとらえ方を180度改めさせられたように感じます。浄土を求めることはつまり現存在の否定であり、そのプロセスを経てさらに自己を超越し「超個己」にならなければ霊性は得られないとする著者。頭でっかちな私はその主張を理屈でしかなぞろうとすることができませんでしたが、親鸞のいう「ただ一人(いちにん)」という言葉になぜか涙が出そうになりながら、ああ、悪人正機とはそういうことだったのか、と、すこし納得できたような気がしました。
    そもそも「霊性」とななんなのか。霊性という語は一般にspiritualityの訳語として用いられます。WHO憲章の健康の定義にも含まれるほどに重要視されるこの概念は、どうも私も含めた日本人にはぴんと来ないイメージがあります。しかし、本書を通して著者が伝えるメッセージは、それが、個人が個人を超えたところで得る強烈な体験であることを教えてくれます。最近よく使われる「スピリチュアル」という言葉よりもずっとしっくりとした、馴染みやすいもののように思えるのです。そして本書の最後で紹介される市井の仏道求道者、浅原才市の歌の数々には圧倒されるばかり。彼のいう「あなたのこころがわたしのこころ わしになるのがあなたのこころ」とは、どんな心境なのでしょうか。「ただ一人」という独我論的体験と、彼のいうような自らと世界と仏とが一体となる体験が同居する世界。本書の後半はそれをわずかでも感じることができます。
    著者は現代の神道には霊性がまるでないと批判を加え、神道が霊性を持ちうる可能性として鎌倉時代の伊勢神道を挙げています。地に足のついた宗教意識ははたして神道でも実現できるのか。私はその可能性を信じたいところですが、どうでしょうかね。

    (2008年9月入手・2009年1月読了)

  • 引用メモ。

    自分の主張は、まず日本的霊性のあるものを主体に置いて、その上に仏教を考えたいのである。仏教が外から来て、日本に植え付けられて、何百年も千年以上も経って、日本的風土化して、もはや外国渡来のものでなくなったと言うのではない。初めに日本民族の中に日本的霊性が存在していて、その霊性がたまたま仏教的なものに逢着して、自分のうちから、その本来具有底を顕現したということに考えたいのである。ここに日本的霊性の主体性を認識しておく必要が大いにあると思う。(p.65)

    今までの日本的霊性は、伝教大師や弘法大師やそのほかの宗教的天才によりて幾分か動き始めていたことは確かであるが、まだ十分に大地との関連をもっていなかった。即ち十分に具体性をもっていなかった。個己が超個己との接触・融合によりてみずからの存在の根源に目覚めていなかった。それが親鸞の世界で初めて可能になった。彼はいくらかは公卿文化の産物ではあったが、彼の個己は越後でその根柢に目覚めたのである。京都で法然上人によりて初めの洗礼を受けたのであるが、それはまた超個己の【人】には触れていなかった。後者は彼が京都文化のまだ到り及ばなかったところに定住したとき、初めて働き出したのである。彼が、具体的事実としての大地の上に大地と共に生きている越後のいわゆる辺鄙の人々のあいだに起臥して、彼らの大地的霊性に触れたとき、自分の個己を通して超個己的なるものを経験したのである。法然によりていかほどの信心を喚起したにしても、京都文化以外に出る機会がなかったなら、他力本願の親鸞も伝教・弘法以上に出られたかどうか、甚だ危ぶまれるのである。「親鸞」はどうしても京都では成熟できなかったであろう。京都には、仏教はあったが日本的霊性の経験はなかったのである。(p.90)(引用者注:【】は傍点部、以下同。)

    彼(親鸞のこと)は実に人間的一般の生活そのものの上に「如来の御恩」をどれほど感じ能うものかを、実際の大地の生活において試験したのである。ここに彼の信仰の真剣性を見出さなければならぬ。(p.95)

    霊性は、上記四種の心的作用(感性・情性・意欲・知性のこと)だけでは説明できぬ【はたらき】につける名である。水の冷たさや花の紅さやを、その真実性において感受させる【はたらき】がそれである。紅さは美しい、冷たさは清々しいと言う、その純真のところにおいて、その価値を認める【はたらき】がそれである。美しいものが欲しい、清々しいものが好ましいという意欲を、個己の上に動かさないで、かえってこれを超個己の一人の上に帰せしめる【はたらき】がそれである。この【はたらき】は知性の能くするところであると考える者もあろうが、知性は意欲に働きかける力をもたぬ。知性はかえって意欲の奴隷に甘んずるものである。 …(中略)…
    しかし霊性の【はたらき】は、これだけではすまぬ。もしこれだけのものなら、日本的霊性ということはできぬ。霊性は大円鏡智で妙観察智たるに止まる。一般普遍性のものは白か黒かの素地を作るだけで、海のものにも山のものにもなる。従って海のものでも山のものでもない。霊性には仏教の語彙で言えば、成所作智がある。ここに日本的と言い得る霊性の特殊を認めるのである。即ち日本的にはたらき出るのである。この【はたらき】の現われをどこに認得するかというと、話は今までのと違った方向に転じなくてはならぬのである。大円鏡智を霊性の知的直覚というなら、成所作智はその意的直覚である。霊性の【はたらき】の二方面は、知的直覚と意的直覚とであるというと、前者は感性と情性の上に働き、後者は意欲の上に働くと見ておきたい。(pp.115-116)

    この世の生活が罪業と感ぜられる。そうしてその罪業がなんらの条件もなしに、ただ信の一念で、絶対に大悲者の手に摂取せられるということを、我らの現在の立場から見ると、その立場がそのままそれでよいと肯定せられることなのである。即ちこれは自然法爾である(p.117)

    何ゆえに神道的直覚は情性的であるかというに、それはまだ否定せられたことのない直覚だからである。感性的直覚もそうであるが、単純で原始性を帯びた直覚はひとたび否定の炉韛(ろはい)をくぐってこなければ霊性的なものとはならぬのである。否定の苦杯を嘗めてからの直覚または肯定でないと、その上に形而上学的体系を組立てるわけにはいかないのである。(p.124)

    霊性的直覚なるものは、まず個己の霊の上において可能である、すなわち【一人】の直覚である。ところが神道には、集団的・政治的なものは十分にあるが、【一人】的なものはない。感性と情性とは、最も集団的なるものを好むのである。それは集団の上にみずからを映し出すことによりて、みずからの存在が最も能く認められるのである。冷静的直覚は、孤独性のものである。これが神道にない。神道に「開山」というべきもののないのはその故である。「開山」はどうしても超個己を個己の上に映した【一人】であるから、集団性を持ち能わぬ。集団は【一人】の「開山」をめぐりて集まりきたるものである。集団の上に一面に拡がっているものには中心がない。或る意味でそれは全体的であるが、この種の全体性は中心のない集合で、いわばただの群衆でしかない。そのときどきの感性と情性との動きに任せて蕩揺不定の行動をなすのが常である。これらは冷静的直覚によって指導せられねばならぬ 。なんとなれば霊性的直覚の上にのみ、形而上学的体系が加えられ得るのである。(p.128)

    鍬をもたず、大地に寝起きせぬ人たちは、どうしても大地を知るものではない、大地を具体的に認得することができぬ。知っていると口でも言い、心でもそう思っているであろうが、それは抽象的で観念的でしかない。大地をそれが与えてくれる恵みの果実の上でのみ知っている人々は、まだ大地に親しまぬ人々である。大地に親しむとは大地の苦しみを嘗めることである。ただ鍬の上げ下げでは、大地はその秘密を打明けてくれぬ。大地は言挙げせぬが、それに働きかける人が、その誠を尽くし、私心を離れて、みずからも大地になることができると、大地はその人を己がふところに抱き上げてくれる。大地は【ごまかし】を嫌う。(pp.131-132)

    煩悩具足が具体的事実として体験せられるとき、信心決定の機がおのずから出るのである。前者が真剣であればあるほど、後者は的確性を帯びてくる。まず前者を体せよ、後者の来らんことを期するな。それは仏を拝んで、その功で自分も成仏したいというのと同じである。道宗が猛烈な自己練成をやったのも、実に霊性的直覚の道を進んでいたのである。(p.203)

    「わしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀の方からはわしになる。なむあみだぶつ。」名号は阿弥陀の方から来て才市に「あたる」と、才市は才市で変わりないが、しかしもはやもとの才市ではない、彼は「なむあみだぶつ」である。そしてこの「なむあみだぶつ」から見ると、一面は弥陀であり、一面は才市であって、しかもまたそれ自身たることを失わぬ。「なむあみだぶつ」は霊性的直覚の又の名である。直覚の内容であるというのが正当かもしれぬ。或いは弥陀の個己化が「なむあみだぶつ」だと言うべきであろうか。文字の上で詮索すると、こんなようなことよりほかに言われない。(p.220)

  • 13.12.7

    こころの時代〜宗教・人生〜「いま・ここを生きる 鈴木大拙の生と死から」

    欧米にZEN(禅)を伝えた仏教思想家・鈴木大拙。95歳で迎えた最期は静謐なものだった。大拙の生と死を身近で見つめた岡村美穂子さんと主治医の日野原重明さんが語る。

    明治から昭和にかけ、欧米に広くZEN(禅)や仏教を紹介し、多大な思想的影響を与えた思想家・鈴木大拙。95歳で亡くなる直前まで海外を歴訪し、親鸞の『教行信証』の英訳を手がけるなど、人生をかけて東西の思想的交流に貢献した。大拙の最晩年は禅者の静けさそのものであったという。その時間を共に過ごした岡村美穂子さんと主治医の日野原重明さんが、大拙が語った「無事」という言葉や、心に残る大拙の姿について語る。

    【出演】鈴木大拙館名誉館長…岡村美穂子,【出演】聖路加国際病院名誉院長…日野原重明,【きき手】木村宣彰,【語り】伊東敏恵

  • 日本的霊性につきて
    第1篇 鎌倉時代と日本的霊性(情性的生活;日本的霊性の自覚―鎌倉時代)
    第2篇 日本的霊性の顕現(日本的霊性の胎動と仏教;霊性;日本的霊性の主体性)
    第3篇 法然上人と念仏称名(平家の没落;浄土系思想の様相;念仏と「文盲」;念仏称名)
    第4篇 妙好人(赤尾の道宗;浅原才市)

    著者:鈴木大拙(1870-1966、金沢市、仏教学)

  • 日本仏教の本質は日本的霊性である。日本的霊性そのものは、万葉集の時代、奈良時代、平安時代にもあったものの、
    平安時代末期の政治的、経済的混乱と鎌倉時代の元寇という国難を通過して、浄土真宗、禅宗という形で顕現したのだった。日本的霊性の本質は「earth」にある。都で経典に関する抽象的な議論ばかりしていた大宮人は、日本を変革する思想を生み出すことはできなかった。この点、今の時代に通ずるものがあると思われる。日本的霊性の再顕現は平成の次ぎの時代まで待たなければならない。

  • 法然と親鸞を一体とみなして日本的霊性は形成されていった 。
    日本的霊性的直覚
    南無阿弥陀仏→無義を義とする
    AはAではないからAであるという非論理
    鎌倉時代に日本的霊性は発展していった。

  • 鈴木大拙先生の著名な著作ですが、これを読み解くのはかなり難しいですね。

  • 佐伯「反・幸福論」で本書に言及していたことから、以前購入していた本書を手に取った。
    前半では、日本人は、鎌倉時代になって初めて日本的霊性=宗教意識に目覚めた、と繰返し説く。そしてそれは浄土系思想と禅であるという。後半では、浄土系思想ないし真宗の本質に焦点を当て、妙好人才市を例に六字の名号「南無阿弥陀仏」を唱えることの宗教的意味=日本的霊性を説く。全体的にくどい感じがするのは、著者がそれだけ伝えたいこと、その思いが強いからか。戦前の検閲の下で書かれた書であることも関係あるのだろうか。

  • 日本の仏教、哲学の第一人者の日本的とは何かを分析した名著。
    日本文化、歴史に対する深い知見からの洞察は消化するのに何遍も読む必要がありそう。
    現在の日本人的精神(鈴木大拙はこれを「霊性」と呼ぶが)は仏教が日本の大地に順応した鎌倉期に起源を発するとして、それが、真言であり、禅であるとする。
    仏教に興味が湧き、座禅に行ってみたくなった

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784003332313

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著者プロフィール

本名、貞太郎。1870年、金沢市生まれ。東京帝国大学在学中に、円覚寺にて参禅し、大拙の道号を受ける。97年、渡米。帰国後、東京帝国大学、学習院、大谷大学で教鞭を執るほか、英文雑誌を創刊し、海外に仏教や禅思想を発信した。1936年、世界信仰大会に日本代表として出席。イギリス、アメリカの諸大学で教壇に立った。66年没。著書に、『無心ということ』『禅とは何か』『日本的霊性』などがある。

「2017年 『東洋的な見方』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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