新編 東洋的な見方 (岩波文庫)

  • 岩波書店 (1997年4月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (350ページ) / ISBN・EAN: 9784003332320

みんなの感想まとめ

テーマは、東洋と西洋の視点の違いを探求することであり、特に禅の思想を通じて自己と世界の関係を考察しています。著者は、東洋が「自分と世界は一つ」という感覚を重視するのに対し、西洋は二元化を通じて理解を深...

感想・レビュー・書評

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  • 新編東洋的な見方
    著:鈴木 大拙
    編:上田 閑照
    岩波文庫 青323-2

    本書を貫いている考えとは、世界にとって失われてはならない東洋の「よきもの」とは何かである

    西洋には、二元論しかないが、東洋には、二元論を包み込む考えがある、相対するものをも包容する超越した世界である

    気になったのは、以下です。



    西洋は父性、東洋は母性
    父は力と律法とで統御する
    母は無条件の愛でなくもかも包容する
    善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併呑して、「改めず、あやうからず」

    東洋的見方のうちで、もっとも特徴ありと認むべきは禅である

    「色即是空、空即是色」、色は有形、空は無形、それで有が無で、無が有だという、これが般若の立場である

    東洋では霊性的美の欠けたものを、ほんとうの美とは見ないのである

    マリアも観音様も母性の象徴である
    東洋では観音さんは、三十三どころではない、無数の化身に現じて到るところに人間と万物の救済に従事ておられる
    マリアのように、天界に登ってしまって、神から宝冠を戴くということにはなっていない

    平常心これ道なり

    周辺のない円相、これを無心といい、また無念夢想などともいう

    束縛の四面
     なにかの制約から離れたいとする これ第一段
     師匠につくなり、自分で考えたりして、何か知解覚悟があったとする、これ第二段
     知解に執着してこれがわかったとする、これが禍いして本来の自由を束縛する、これ第三段
     この執着からまた離脱し、本当の自由、本当の自主性を体得する、これ第四段

    物の真相に入るには、言葉の上で片づけないで、体得しなければならない、知見、しなくてはならない

    移りゆく時間、そのほかに永遠はない、永遠は、絶対の今である

    身も消えて 心も消えて わたる世は つるぎの上も さはらざりけり
    心こそ 心迷はす 心なれ 心に心 心ゆるすな
    うきものと おもひながらも さりとても 身にばからるる 心なりけり
    心だに 誠の道に かなひなば 祈らずとても 神やまもらむ
    おそろしき うきよのなかを そのままに 仏はものに さはらざりけり

    科学では、あるいは哲学でも、この「わかったような、わからぬもの」を無視していく

    言葉に囚われるな

    無限大の円、仏教では、これを空という



    平常心是道 これを、「疲れては眠り、飢えては食う」という

    やわらぎは、一種の触覚でもある。やわらぎは生の感覚である、生命は柔らかなものに宿る
    やわらぎということが、日本人全体の性格ではないかと思うのである

    仏教の根本義は、自分とその環境とを一つものに見るこである
    草木は言うまでもなく、石や土までも、生きものになるのである

    近頃の日本人は、欧米思想の跡を追いかけて、自然を征服するとか、克服したとかいうが、これほど馬鹿げたことはない
    自然の征服などということは東洋ではいわぬことだ

    「他力には、自力もなし、他力もなし」というのは、矛盾したように見えるが、この他力は、いわば絶対他力である

    仏性は大智にして大悲、大悲にして大智だ

    七十にして心の欲する所に従うて、矩をこえず

    生きながら 死人となりて なりはてて 思ふがままに するわざぞよき
     生きて死んでいるとは、どんな人をいうのか。
     それは生死を超越した人間ということである



    自分の心に動くことを表現するに躊躇するな
    大人物だといわれている人でも、自分の心の中にあるもの以上に、何ものをも持っているのではない

    目次


    東洋文化の根柢にあるもの
    東洋的見方
    東洋「哲学」について
    禅と漢文学
    東西雑感
    自由・空・只今
    このままということ

    現代世界と禅の精神
    創造の自由―『荘子』の一節
    「自由」の意味
    時間と永遠
    刹那と永遠
    日本人の感傷性
    日本人の心
    東洋思想の不ニ性


    東洋の心
    人ー東洋の主体性
    無位の真人
    機心ということ
    日本再発見
    やわらぎ

    「詩」の世界を見るべし
    自力と他力
    安心ー禅と念仏
    「任せ切る」むずかしさ
    老人と小児性


    明治の精神と自由
    物の見方―東洋と西洋
    宗教的体験
    世界律

    補注
    鈴木大拙における「東洋的な見方」(上田閑照)

    ISBN:9784003332320
    出版社:岩波書店
    判型:文庫
    ページ数:350ページ
    定価:1050円(本体)
    1997年04月16日第1刷発行
    2002年12月25日第11刷発行

  • 本屋で目に付き深く考えずに購入しました。本書は鈴木大拙氏が最晩年に書いたエッセイ集ということで、短い論考がたくさん集まっていますが、最晩年に書かれたこともあって、著者の思想の集大成とも言える本でした。そして非常に示唆に富む興味深い本でした。禅だけではなく老子、孔子なども参照しながら、さらにキリスト教や欧米の詩人、作家などにも言及しつつ、「東洋的な見方」とは何かについて論じています。

    本書でたびたび登場する最も重要な主張は、「東洋は分別される前の未分の状態に関心が高いのに対して、西洋は分別すること、分別された後のことに関心が高い」というものでしょう。私はこの言葉を読んで、人間における受精卵とそれが分化した内胚葉(消化器系)、外肺葉(神経系、感覚器)、中胚葉(筋肉、骨、血液)のイメージを持ちました。前者が「未分」の状態で、後者が「分別」された状態だからです。あるいは物理学の量子でたとえると、「量子重ね合わせ」の状態が「未分」で、0か1かに確定した状態が「分別」された状態とも言える気がしました。

    そして西洋が得意な「分別」は、対立や紛争を引き起こす元であると同時に、科学を発展させてきた存在でもあるわけです。そして著者曰く、未分と分別どちらか一つだけではダメだというわけです。つまり、分別だけだと、どこまでも細分化していったところで解決できず、最後は精神病に陥る(これが西洋起源の近代社会の病気の源)。逆に東洋のように未分のままだけだと論理も合理性もない感情論的な議論に陥るからです。つまり理想は「分別しつつ分別するな」ということになります。逆に言えば、未分であることを体解しつつ分別するならよい、ということで、禅および仏教全般に話が及ぶわけです。

    仏教には無と有、自力と他力、色と空など一見すると分別したかのような概念が登場しますが、般若心経でも繰り返し述べられているように、実は二分されていない絶対的な(未分の)無や空があるというわけです。色と空という二分を超越した絶対的な「空」で、著者はこの空の定義を「ゼロ=無限大」と呼びます。これは弁証法によるジンテーゼ=統合とも違います。そもそも分別されていない未分の状態を指しているからです。私自身は、この「ゼロ=無限大」を理解するにあたっては、著者が本書で解説する「如今鑑覚(にょこんかんがく)」という言葉が役に立ちました。この言葉は、「いま=ここ」という瞬間が無限の可能性を秘めていること、つまり空だが無限の可能性を秘めているというわけです。

    そして著者は、西洋的な分別一辺倒の世界に明るい未来はない、そこに東洋的な思想を注入していくことで、よりより未来が開けていく、それに日本人は貢献していってほしいと願いを込めておられました。本書の中には難しいエッセイも含まれていますが、かなりやさしく書かれているものも多数ありますので、多くの日本人の目に触れてほしい本だと思いました。

  • 禅文化を主軸とした仏教学者の鈴木大拙が、西洋における物の見方と対比して東洋ではどのように世界を認知するのかを、様々な角度から考察した晩年のエッセイ集。
    強引に一度読み終えてみたが、多分2%くらいしか理解出来ていない。

    端的に言えば、西洋では「主観と客観」「天と人」「自分と世界」と二元化した状態、境界を引き、世界を分けることで「分かろう」とする。対して、東洋では「目の前の世界とお前とは何が違うのか?同じ世界だろう」と、自分を客観視することすら許さず、いわゆる禅問答の先に世界を見る。

    世界を合理化するためには二元化は必須であり、元々その視点を持っていた西洋は資本主義社会において抜きん出た。
    東洋を研究しつつ、西洋にも長く住み西洋人の結婚した大拙は、どちらがよいと言うことなく、その視点の融和が可能であることを自身の中に見い出した。

    クライミング中に眼前の岩壁以外が意識から消えた時、あの世界と溶け合うような感覚。これが限りなく禅の思想に近いのではないか。
    禅の心は円相で描かれるが、これは「全てが世界であり、その流れである」という感覚の表れと解釈する。

    会社では合理的に振る舞うが、週末は山に籠り不合理に過ごす自分を省みても、両者の視点は融和可能に感じる。
    常々、信念を持つが柔軟な人間で在りたいと考えているが、ここにもその融和を見いだせそうだ。

    お盆に金沢旅行した時、鈴木大拙記念館の存在を教えてもらった縁でこうして東洋思想に触れる機会を得たのだけど、自分が山に、世界に何を求めているのかを理解するきっかけを掴んだような気がする。
    まだまだ山に籠って考えて、数年後にでも読み返してみたいと思う。

  • 21世紀の日本に生きる僕にとって、近くて遠い「東洋的」。どこか懐かしくもあり、一方で異国のようにエキゾチックでミステリアスだとも感じる。自分の中で分離不能なほどに混線している東洋の遺伝子と西洋のミームに、少し光を当ててみるのも面白いかもしれない。

    近代の行き詰まりにあたる現代に生きている身としては、大拙禅師の息づかいの向こうに、一筋の光明が示されているように思えてならない。年月が経って思うことだが、この人の言葉は、本当に水墨画か墨蹟を連想させるものがある。決して鮮やかに着色されてはいないが、その絶妙な擦れや余白で、奥に無限の空間を生み出してくれる。読了は5年ほど前だったが、僕自身、今も計り知れない影響を受けていると思う本。

  • 他の著作を読み、ここに戻ってこようと思う。

  • @鈴木大拙館

  •  基本的に意味が分からない(苦笑)。
    理由としては;
    ☆ただでさえ禅がわからない
    ☆そのわからない禅を西洋的概念で説明しようとする
    これされると余計わからない(苦笑)。というかその説明比喩はあっているのか?!とずっと考えなければならないのでしんどい。( 西谷啓治氏の正法眼蔵講話もこんな感じだった)
    ☆あと狂言師の野村万作氏が言われるには、九十代になると今までとは違う世界が見えてくるのだそうで。鈴木大拙氏にもそういうものが見えていたのかなと思った。


    『自由・空・只今』
     大拙氏によれば、「自由」という言葉は仏教用語で、英語で言う「フリー」とか「リバティ」とかとは本質的に違うものだそうだ。
     私の解釈ではそれは「自受用三昧」に近いのかな?と思ったが。

    p70^71
    「慈悲は行動の原理であるから、決して人をして閑座せしめることはない。四苦八苦の娑婆の真ん中へ飛び出て、耐え難きに耐え、忍び難きに忍び、刻苦精励して、人間のため、世界のため、何か大慈大悲底の仕事を行ずるのである。そうしてその行動は報いを求める行動ではない、無目的の目的で働くのである。これを無功用行という。自由性の発動である。

     松はその松たる所以を自覚せず、竹はその竹たる所以を意識しないで、松になり、竹になっているように、仏や菩薩はだるまの「無功徳」と「不識」とで慈悲行三昧である。
    これを創造の生涯というのである。詩の境涯である。(中略)
    これはいずれも空の座に座っていないとできないのである。そうしないと精進も忍辱も無限の時間に動くわけにはいかないのである。無縁の慈悲である。不請の友である。」
    わからんけど後日のために抜き書き。

    東嶺「宗門無尽灯論」

  • 東洋的な思想(特に仏教、禅)についての著者のエッセイ・コラムを集成した一冊。

    仏教の知識がないと十分な理解が難しい。
    西洋的な見方(考え方)と東洋的な見方とを分け、前者は二分性的・相対的な思考、後者は「不二性」的な思考だとする。
    ただし、一方のみが優れているという趣旨ではない。

    「東洋思想の不二性」(166頁)、「物の見方――東洋と西洋」(286頁)あたりが特に思想が表れている部分か。

  • 今月の岩波文庫青。そして激ムズ。

    禅については、達磨が座っているイメージしかなかったが、言葉で説明するような類のものではないということだけが、読み終わって体にしみ込んだ。

    人生経験を積めば、何が書かれているのかを理解できるようになるのか、それともこのような、まさに禅問答のような読書体験を続けると、いつか体得できるようになるのでしょうか。

  • 関西外大図書館OPACのURLはこちら↓
    https://opac1.kansaigaidai.ac.jp/iwjs0015opc/BB00077530

  • 鈴木大拙の思想を集めたエッセイ集。
    テーマは主として西洋と東洋の思想、ものの見方の対比という面白いテーマを扱う。
    とは言え、内容は結構難解。

    正直、半分程度しか理解できなかった。。
    それとも、そもそも不立文字といわれる仏教の神髄を書物で追いかけることがそもそも無理があるのだろうか。

    我々日本人の思考のルーツや欧米との違いを言語表現する上ではとても良い本だと思う。

  • 禅を修めた人の心持ちを知りたくて、この本を読み始めました。やっぱりよくわからないけれど。不思議と、読み耽っていました。

  • よく読み終わった。

  • おもしろい。禅とはなにか、東洋思想と西洋思想の違いは。
    エッセーの形をとっており、ときおり垣間見られるユーモアも楽しい。
    著者の伝えたいことを理解できたかといえば、怪しいものだ。西洋というものは明暗、正義と悪、などはっきりとさせるが、東洋思想もしくは禅においては、混沌としたまま受け入れる、という理解でいいのだろうか。
    読んでいて、わかったような気になったが、本当はわかっていないのだとも思う。

  • 大拙氏は言語化が上手い。

  • 本筋とは関係ないが、明治初期に教育を受けた人は教科書も全部英語だったんだな。香港も最近までそうだったらしいが、現在自国語で十分な教育を受けられるのは幸せである。

    大拙はロックフェラー財団から海外に引っ張られたり、エラノス会議に出たり、井筒俊彦がその後を追うような経歴を持っている。
    漱石も『門』で宗助に参禅させてるし、井筒も父親の影響で瞑想座禅をよくしたそうだ。明治大正生まれの教養人は英語や西洋思想と禅的な素養と両方持ち合わせていたのだろうが、どこでアンバランスになったのだろう。
    戦時下には歪んだ東洋思想に傾いたろうし、敗戦直後は伝統的なものは完全に否定された。1950年代後半からは反動で日本的なるものが再度注目されるようになり、高度経済成長期には効率性一辺倒になる。いまはどうだろうか。

  • 西田に比べると大拙は主観的な自分の意見というか私小説っぽい感じが強くてあまり好きにはなれないのかもしれない。禅には興味があるのだが。。。

  • どうも語り口に古老のような印象を持ったが、どうやら筆者が90歳を過ぎての文章を集めた著作とのこと。
    そのためか、筆者自身は熟知している用語が解説なしで繰り出されると、その意味を追うのに困難を伴うところもあった。
    最後の解説は蛇足。あまりに長過ぎる。
    残念ながら、この解説は著作事態の価値を高めるものになっていない。読まなくてよいと思う。

  • 文体は読みやすいのだけど、なかなか頭にすっと入ってこない。再読の必要。

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著者プロフィール

1870(明治3)年、金沢市本多町生まれ。本名貞太郎。1891年、鎌倉円覚寺の今北洪川について参禅。洪川遷化後、釈宗演に参禅。1892年、東京帝国大学哲学科選科入学。1897年、渡米。1909年に帰国、学習院大学・東京帝国大学の講師に就任。1921(大正10)年、真宗大谷大学教授に就任。大谷大学内に東方仏教徒教会を設立、英文雑誌『イースタン・ブディスト』を創刊。1946(昭和21)年財団法人松ヶ岡文庫を創立。1949(昭和24)年文化勲章受章。同年より1958年まで米国に滞在し、コロンビア大学他で仏教哲学を講義。1956(昭和31)年宮谷法含宗務総長から『教行信証』の翻訳を依頼される。1960(昭和35)年大谷大学名誉教授となる。1961年英訳『教行信証』の草稿完成。1966(昭和41)年7月12日逝去。

「1979年 『The Essence of Buddhism 英文・仏教の大意』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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