大森貝塚 (岩波文庫 青 432-1)

  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (219ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003343210

感想・レビュー・書評

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  • 1877年6月18日,アメリカの動物学者E.S.モースが来日。来日直後,横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から露出した貝殻層を目撃し,発掘します。この大森貝塚の発見により,日本の考古学は第一歩を記しました。モースの報告書『大森貝塚』(岩波文庫)を少し紐解いた。

    昔読んだ時は、まだお二人とも元気だったのであまり価値が分からなかったのだが、編訳が私が敬愛する近藤義郎、佐原真の両氏なのである。解説はどちらが書いたか明らかにしていないが(多分、佐原氏)、普通の解説には無い情熱のこもった名文であった。例えば、以下の通り。

     「大森貝塚」をいまの水準でみれば、物足りない点や部分的な誤りは容易に指摘出来るかもしれない。しかしそのことは、この書物の価値をいささかも減じることは無い。
     この研究報告書は決して分厚いものではなく、図版をのぞいて英文で39ページ、日本文で80ページたらずのものである。モースはその中で、貝塚・土器・石器・骨角器・装飾具・土版・動物遺体・人骨・貝類等について、簡潔で要を得た記述を行い、また見事な測図をしめしたが、それだけでなく、ほとんどあらゆる事柄について類例を求め対比を行い理解し解釈しようとする態度を、執拗かつ全面的に展開した。とくに諸遺物の解釈から描き出そうとした大森原始種族および貝類の進化について繰り返し述べる情熱的な叙述は、読む者を圧倒さえする。この書物がなお深い感銘を引き起こすのは、すべてを焼きつくさんとするが如き彼の精神のもっとも鮮やかな表現がそこにあるからにほかならない。
     いま日本考古学は年間数百冊厚さ数メートルに達する発掘報告書を生み出し、資料の大海に自ら溺れさせようとしている。加えられているあらゆる状況を考慮せずに述べれば、そこでは画一化と技術主義が支配しようとしている。調査報告とは何かを、いまや「大森貝塚」についてふたたび学ぶ時にきているように思う。(187p)

    誤りとは、ここでは縄紋人の「食人習慣」が主張されている。出て来た人骨の跡がそうとしか見えない、というのである。解説によると、追加資料がみいだされず、「いずれとも決定されないまま」になったらしい。「大森貝塚人は、プレ・アイヌ人である」という主張もいまではあまり言われない。

    モースの報告書の図版は、現代でも充分通用する正確さを持っており、同時に美しいのである。

    やがて、モースが居なくなったあとに、この報告書を超える報告書がでてくるのは、不幸にも50年を待たなくてはならなかった。完成形の土器のみ製図したり、数を数えなかったり、本格的な学問はレベルが下がる。しかし解説者は言う。「モースの方針をそのまま受け継がず、その刺激を間接的に受け止めて独自の熟成を待ったからこそ、良い意味でも悪い意味でもアメリカのものでもヨーロッパのものでもない、日本独自の考古学が育って今日に至っている、ともいえるであろう」

    1929年、品川区大井六丁目に「大森貝塚」の碑が建てられた(発掘者は全員ここを大森だと勘違いしていたのである)。遺物の多くは現在大田区立郷土博物館にあるはずだ。12年ほど前に訪れた事がある。驚くほどきれいな、典型的な縄紋土器だった。

    付けたしとして、大森貝塚は、現代犯罪捜査に欠かすことのできない「指紋」の発見にも一役買っている。以下05年に読んだ本の感想の冒頭。

    「指紋を発見した男」主婦の友社コリン・ビーヴァン 茂木健訳
    スコットランド人医者ヘンリーフォールズは、宣教師として日本に滞在中、友人モースを手伝い大森貝塚の発掘に携わっているときに、土器に付いている指のあとの筋から『指紋が犯罪捜査に使えないか』と発想する。指紋が犯罪捜査に与えた役割はとてつもなく大きいものがあったが、それが証拠として採用されるまでにはいろいろなドラマがあった。

  • 明治初頭に日本を訪れた米国人M.Sモースは、若輩ながら人類学に通じ、ダーウィンの進化論以来世界各地で進んでいた貝塚発掘の経験を積んでいた。そのため、東京から横浜へ向かう汽車の中から一見しただけで、それが貝塚であることが分かったのである。大森駅の前、大森貝塚の発見により、日本における縄文時代の解明が始まった。

    大森貝塚では世界の他の地域、また東京の他の地区と同じく、貝殻のほか土器、石器、骨器等の人が作った道具が見つかっており、土器の未熟さ(ろくろを使用しないため厚い、(低温焼成のため?)もろい、釉薬がかからない)、石器の粗さ(打製のみで磨製を含まない)などから古い時代のものと推定された。
    大森貝塚の特徴は土器の豊かさと石器・骨器の乏しさで、はっきりした理由は記されていない。また、装飾品が全く見つかっていないとのことで、古墳時代以降平安から江戸時代まで首飾り、耳飾り、腕輪、指輪の類いが全く用いられなかったという事実を思い起こさせる。

    大森貝塚を作った人々は、出土品の特徴からアイヌの人々ではないとされているが、それが現在の日本人であるのかさらに古い時代に日本に住んでいた何らかの種族であるかは分からないとしている。

    大森貝塚の発見の中で最も驚きだったのは食人風習のあったことである。人以外に食されていたシカ、イノシシ、猿などの獣、鳥などの骨と同じ場所で区別なく見つかったこと、一人分まとめて人の形では見つからないことから、これが埋葬ではないことが分かり、また、獣にするように、髄液が取れるように骨が割られ、骨から筋肉をそぎ落とす際の刃のあとが見つかったことなどから、食人習慣があったことは間違いないようだ。
    モースは日本には文字に記された古い記録が存在するが、食人の記載はなく、食人に関する言い伝えは皆無で、アイヌにも食人習慣はないことから、食人を行っていたのはごく限られた期間であるか、現在の日本人とは異なる先住民族だったのではという見解を述べている。

    そんな面白い発見があったのに、教科書とかにはつゆほども記載されていない…当時の、また現在の日本人にとって受け入れられない事実であったのだろうか。はたして事実かどうかも含め、このことについて殆ど語られないのは(日本人の)食人に関するタブーの強さ、理解の昏さを物語っている。
    (人を食べる話、昔からめちゃくちゃ興味あるので、早く教えてほしかった・・・)

    本書では貝塚が海岸から離れた場所にあるのは土地が隆起したからであるなど(縄文海進は温暖化の影響大)、現在では間違った解釈も見られるが、進化論から高々50年、大陸移動説などは影も形のなかった時代に、東京以外の国内数カ所で発掘を行い、発掘した生物が現生している状況を詳しく調査するなど、「知りたる事より推して知れざる事を尋ぬるは正途なり。知れざる事より推して知れたる事を定むるは異途なり」といった科学的な態度は、明治の夜明けに学問のこれからをさぞ明るく照らしたことだろう。

  • 岩波文庫
    ESモース 「 大森貝塚 」

    東京の大森に 先アイヌ(アイヌに先立ってこの地に住んでいた原日本人)が のこした貝塚を発見し、そこにどのような生活が行われたか論考


    衝撃的なのは 原日本人の食人風習を証明した点。解説では 「食人風習は 稀に儀礼的に行われたものであり、一般的に行われたものではない」として、著者の主テーマをトーンダウンさせている


    著者の結論「日本人が複合民族であることは疑いない〜日本の伝承はすべて彼らが南から渡来したことを示している」は、やっぱりという感じ

  • 大森貝塚は東京の品川区大森にある。東京では小学生の遠足で行くところらしい。東京に転勤になって真っ先に尋ねてみたが、休日だと言うのにほとんど誰もいない公園の中にポツンとモースの銅像が立っていた。あまり知られていないが、貝塚には食人の痕跡が残っていたそうだ。

  • エドワード・モースは、軟体動物の研究者として、貝塚の発掘に携わることになった。彼は大森貝塚の知見のなかでも、とりわけ貝から見た生態系や食性の変化に注目している。例えば、欧州と日本の貝塚から出土する貝(やその他動物)の種類を比較し、何らかの形で現在ではその地域に存在しない貝がいることに言及しているのである。
    後半のモース自身が書いた記事や、モースに対して書かれた関連資料も非常に興味深いものである。例えば、シーボルトと言えば、博物学者として日本の生物種を欧州に広めた人物である。一方、貝塚から出土する貝の種類や、日本には食人習慣があったなど大きく間違った事実を広めており、こうした点をモースは批判している。その他、チャールズ・ダーウィンによる、推薦文など。

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