饗宴 (岩波文庫)

  • 岩波書店 (1965年3月16日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (182ページ) / ISBN・EAN: 9784003360132

みんなの感想まとめ

エロスについての深い議論が展開される本作では、愛と恋の本質が探求され、ソクラテスを中心とした6人の登場人物がそれぞれの視点を持ち寄ります。エロスは単なる肉体的な愛ではなく、善や美を追求する力として描か...

感想・レビュー・書評

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  • 「コーラン」を読み終わったので哲学書再読キャンペーンを勝手に開催(といっても数冊)まずはやっぱり『饗宴』。最初に読んだのは澁澤龍彦にかぶれていた18~20代の頃だったと思う。澁澤龍彦のエッセイのどれかに『饗宴』の中でアリストファネスが語る「愛慕の説」について言及したものがあって(両性具有関係だったかな~もう覚えてないや)それで興味を持って読んだのでした。当時、うまくいえないけどなんていうか、目からウロコみたいな気持ちにさせられる説だったなあ。

    簡単に言うと、もとは完全体(球体で手脚それぞれ4本づつ)だった人間が神の怒りに触れて真っ二つにされたのが今の人間の姿、だからもう半分を探してるんだよっていう、ロマンチックさがあり。のちに映画『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の中でも「The Origin Of Love(愛の起源)」として歌われていて感動したものでした。

    もちろんその他の部分も興味深く読めます。饗宴というのは要するに飲み会、女子会ならぬインテリのオジサマたちが集って高尚な(?)お話をする会ではあるけど、今回のテーマは「愛(エロス)って何?」です!っていう、なんだろね、言ってること実はガールズトークと変わらないような気もちょっとしたり(笑)

    しかも古代ギリシャのオジサマたちの間では異性愛より少年愛のほうが高尚とされているので、ちょいちょい腐女子みたいな発言も。現代語でBL風に訳すと「アイスキュロス先生も書いてるけど、パトロクロス×アキレウスのCP最強だよね!パトロクロスがヘクトルに殺されたから仇とるとかアキレウスの愛深すぎる~!アキレウスのほうが年下で美少年でヒゲもなかったから受なんだよね!」みたいな(※意訳すぎ)

    終盤ではソクラテスの愛人であるところの美青年アルキビアデスが酔っぱらって乱入、痴話喧嘩というか惚気なのか愚痴なのか、かつてソクラテスに抱き着いて一晩過ごすも何もしてくれず、だったら逆がいいのか!?攻にまわればいいのか!?と思ったけどそれでも相手にしてくれず、ひどいと思わない!?という話になるのですが(※意訳)、つまりこれこそが「肉体ではなく精神のみの愛」「美を愛でるだけの愛」=プラトニック・ラブ!!!なのですよね。語源ですから。そういう本です(笑)というか、基本的に会話劇になってるから、小難しくなくてとても読み易いのがいいですね。

  • "読書する人だけがたどり着ける場所"
    に紹介されていたので読みました
    哲人達が愛について演説し合う話

    ギリシャ神話がわかったらもう少し理解できるだろうか、
    勉強してからまた読み返すかも

    思ったのは
    愛のことを普通に男性間の愛だと言ってること
    ソクラテスが出てきてようやく、生殖という現代っぽい切り口が出てきたけど、それにしても醜い者への愛はないみたいな発言は現代だとちょっと厳しいよな

  • エロスについての議論が繰り広げられる。エロスとは善きものを目指そうとするもの、神でも人間でもない中立のものである。というのがおおまかなソクラテスの結論だが、そこに至るまでの議論が面白い。

  • 難しい…と思いながら読み終わってしまい、投稿まで時間が空いてしまった!
    難しいと感じる最大の理由は、「エロス」という神が一つの人物像(人ではないけど)なのか、それとも恋や愛という概念として語られるものなのかがなかなか掴めなかったことでした
    ネットに上がっている要約に助けられながら振り返ります。笑
    
    
    物語はソクラテス含む6人が、ギリシア神話のエロス神を称えるという形式で進んでいく。
    エロス=恋(少年愛)に関して、6人が様々な意見を戦わせる。
    
    ・古さゆえにエロス神は「善さ」の源泉であり、徳と幸福をえるために最も強い力となる
    ・エロスには2種類あるが、世俗的な恋ではなく、理性的な男性に対してのみ向かう恋が称賛に値する
    ・少年の美だけではなく、徳も同時に目指し徳を通じて善さの実現へと向かうエロスこそが称えられるべき
    ・完全なものへの欲望と追及が恋
    ・エロスは最も美しく高貴で幸福な神であり、正義の徳、慎みの徳、勇気の徳、知恵の徳を備えている
    
    5人の意見に対してソクラテスは、
    ・恋とは善きものと幸福を手に入れようとめがける欲望である
    ・愛には段階があり、肉体の美も恋の入り口として必要
    エロスは美への追及の道だという論を展開する。
    
    …
    
    自分の持っていないものや自分に欠けているものを相手に求める、というのは納得する。自分の知らない世界を知っている人や、自分が思い付かないような考え方をする人って素敵だなと思う。
    一方で、自分と似ているところや同じ感じ方をする人に惹かれるということもあるけど、ある程度の同質性の中にあっても結局はその中の違いに惹かれているということなのかしら
    
    そもそもこの饗宴の中では、恋と愛との区別があるのかな?世俗的な恋(男女の恋)を貶し、少年愛を貴ぶ意見もあったけど、ここではどちらも恋は恋なのでしょうか
    
    
    どんなにどのような恋が善いものであるかを考えても、心はなかなかコントロールできないものだけど、恋が自身の美への追求だという着地点は面白いなと思った。
    個人的には、歴史的にも現代でも「恋」はどちらかというと破滅として描かれるイメージがあるんだけど、それはわたしの中での恋っていうのは一時的な感情だからであって、ここで語られる恋とはまた違うのかなあ〜
    果てしない笑
    

  • 193P

    プラトン
    (Platon 前427~前347)ソクラテスの弟子で、古代ギリシア哲学の最盛期であった前4世紀のアテネを代表する哲学者。彼が生まれたのはペロポネソス戦争が始まって4年目、ペリクレスの死後2年目にあたり、アテネの民主政が大きな岐路にさしかかり、ポリスの衰退期に向かおうとしていた時期であった。プラトンは名門の出であったがアテネの政治に関わることはなく、前399年に師のソクラテスが、民主政にとって有害であるとして民主派政権の手によって裁判にかけられ、有罪となって刑死してからは、フィロソフィア(知を愛する者)としての思索生活に入った。プラトンの著書はその師のソクラテスの対話という形の対話編として、『ソクラテスの弁明』や、『饗宴』、『パイドロス』、『国家論』など多数ある。何度かシラクサにおもむき、理想政治を実現しようとしたが失敗し、アテネで学園アカデメイアを創設して、弟子たちとの議論に明け暮れ、ギリシア北方のマケドニアのフィリッポス2世(前359年即位)が台頭し、その脅威が迫るなか、前347年にアカデメイアで亡くなり、構内に葬られたという。なお、プラトンは生涯、独身であった。

    饗宴 (光文社古典新訳文庫)
    by プラトン、中澤 務
    このように、自分を愛してくれる人に身をゆだねるのは恥ずべきことだと定められた地域に、そんな定めがあるのは、それを定めた人々の悪しき性格が原因です。悪しき性格とは、すなわち、支配する人々の貪欲と、支配される人々の臆病のことです。これに対して、そのようなことは美しいことだと端的に定められている地域に、そんな定めがあるのは、そう定めた人々の精神の無能さが原因なのです。

    ゼウスは、人間を哀れに思い、別の方法を思いついた。ゼウスは、彼らの生殖器を体の前のほうに移動させた。じつは、それまで人間は、後ろのほうに生殖器を持っていた。そして、性交渉によって子どもを作っていたのではなく、まるで蟬のように、地面に直接、子どもを生みつけていたのだ。そこで、ゼウスは、彼らの生殖器を体の前のほうに移動させた。そして、それを使って、男性と女性の間で行われる性交渉によって、子どもを作るようにしたのだ。なぜなら、そのようにすれば、男性と女性が出会ったときに、体を絡み合わせれば子どもが生まれて、種を存続させることができる。また、男性同士の場合でも、少なくとも性的な満足は得ることができるから、ほかのことを考える余裕ができて、自分の仕事をしたり、仕事以外の生活の心配をすることができるようになるからだ。

    男性のうちでも、両性をあわせ持っていた性――すなわち、太古の昔に〈アンドロギュノス〉と呼ばれていた性――の片割れである男性は、女好きだ。そして、浮気性の男の多くは、この種族から生まれる。女性についても同様であり、男好きで浮気性の女が、この種族から生まれる。

    女性のうちでも、太古の女性の片割れである女性は、男性に心を惹かれることがあまりなく、女性に心をよせる。女性同性愛者は、この種族から生まれるのだ。

    太古の男性の片割れである男性は、男性を追い求める。このような男性は、太古の男性の片割れであるがゆえに、少年のころは成人男性に愛情を感じ、男性と一緒に寝て、その腕に抱かれることを好む。そのような者は、少年や青年の中で最も優れている。なぜなら、生まれつき最も男性的なのだから。

    さて、少年を愛する人であれ、それ以外のどんな人であれ、自分の半身に出会うときには、驚くほどの愛情と親密さとエロスを感じ取る。彼らは、いってみれば、いっときたりとも互いのもとから離れようとはしない。彼らは、生涯を共に生きていく人たちだ。しかし、彼らは、自分たちが互いに何を求め合っているのかを言うことはできないだろう。彼らは単にセックスをしたいだけで、そのためにお互いに喜びを感じ、かくも熱心に一緒にいたがるというのか。誰もそんなふうには思うまい。彼らの魂が求めているのは、明らかに、なにかそれとは別のものなのだ。しかし、彼らの魂は、それが何なのかを言葉にすることができない。彼らの魂は、自分の求めるものをぼんやりと感じとり、あいまいに語ることしかできないのだ。

    俺たちにはわかる。この言葉を聞いて、その申し出を断る者や、別の望みを申し出る者など一人もいないだろう。むしろ、自分の聞いた言葉こそ、まさに自分が望み続けてきたことだと思うだろう。すなわちそれは、愛する人と一緒になって一つに溶け合い、二つではなく一つの存在になるということだ。なぜなら、これこそが俺たち人間の太古の姿であり、俺たち人間は一つの全体であったのだから。そして、この全体性への欲求と追求をあらわす言葉こそ〈エロス〉なのだ。

     エロスがひときわ美しいわけをお話ししましょう。第一に、パイドロスよ、エロスは神々の中でも、ひときわ若いのです。この主張に大きな証拠を与えてくれるのは、エロスご自身です。なぜなら、エロスは老年から逃げ去る神なのですから。誰の目にも明らかなように、老年というものは足早なものです。事実それは、必要以上に足早に、わたしたちのもとを訪れます。しかし、このような老年を、エロスは生まれつき嫌い、距離をおいて近づきません。そして、エロスはいつも若者と共にあり、エロスご自身も若いのです。古き格言は、うまいことを言うものです――似たものは、いつでも、似たものの近くにあると。

     わたしは、パイドロスの言葉の多くに同意しますが、エロスがクロノスとイアペトス( 61) よりも古いという点には同意しません。むしろ、わたしはこう主張しましょう。エロスは神々の中でもひときわ若く、そして永遠に若いのです。ヘシオドスとパルメニデスは、神々の間に起こった太古の事件について述べていますが、彼らの言うことが正しいなら、その事件は、エロスではなくアナンケ( 62) によって生じたのです。神々は互いに去勢し合い、縛り合い、またそれ以外にも、たくさんの暴力的事件が引き起こされました( 63)。もしそのとき、神々の中にエロスがいたとしたら、神々の間には、いまと同じように友愛と平和があったことでしょう。しかし、それはエロスが神々の王となってからの話なのです。

    かくして、ポロスとペニアの息子として、エロスは次のような性格を持つことになった。第一に、エロスはいつも貧乏だ。繊細で美しいなどとは、とてもいえるものではない。(たいていの者は、そう信じているようであるが。)それどころか、エロスは硬くひからび、裸足で家もない。寝床もなく、いつも地べたに横たわり、戸口や道端で空を見上げて寝ているのだ。エロスは、母の性質を受け継いでいる。それゆえ、彼はいつも欠乏と隣りあわせで生きているのだ。

    まず、エロスですが、この言葉は、主として異性間あるいは同性間の性的な愛を意味します。さらに、人間以外のものに向けられた欲求を意味することもありますが、その場合も、性的な愛から連想されるような、激しい欲望を意味するのが普通です。本作でも、エロスという言葉は、もっぱら性的な愛を意味しています。それを逸脱する例外的な使いかたをしているのは、エリュクシマコスくらいでしょう。

    本作でのエロスを語るうえで欠かせないのが、 パイデラスティア(少年愛) と呼ばれる古代の性風習です。これは、成人した男性と成人前の少年が性的な関係を結ぶものであり、古代ギリシャ・ローマ世界に広く普及していた風習です。この風習は、同性愛に対して否定的な感情が抱かれることの多いヨーロッパ世界では、タブー視されてきたものであり、栄光ある古代ギリシャ文化の汚点と見なす人もいました。

    第一に、パイデラスティアは、すでに述べたように、成人男性の間の性的関係を表わすものではなく、成人男性と少年との間に成り立つ関係を表わすものでした。成人男性の相手となる少年は、パイス(あるいはパイディカ) と呼ばれ、通常は一二~一八歳くらいの少年です。身体的特徴でいえば、頰に産毛が生えだすころから、あご髭が生えだすころまでが適齢期とされていました。

    第二に、成人男性と少年の間の関係は、現代の同性愛におけるような、対等なものではありませんでした。両者の関係は規則に厳しく縛られ、成人男性のほうが主導的な役割を果たし、少年のほうは徹底して従属的・受動的であることを求められました。この関係は、成人男性のほうがエラステス(愛する者) という能動的な意味を持つ名称で呼ばれ、少年のほうはエロメノス(愛される者) という受動的な意味を持つ名称で呼ばれる点に如実に表われています。(また、少年を表わすパイスという言葉は、奴隷・召使を指す言葉でもありました。)少年は、成人男性に奉仕する役割を果たさなければならず、快楽を求めることは禁じられていました。また、売春的な行為も、恥ずべき行為として厳しく禁じられていました。

    現代における性倫理は、一般的には、男性と女性の間の対等な尊重関係にもとづいて成立する愛情を理想としており、そのようなものが自然で正常な愛だと考えられています。そして、同性愛は、このような正常な状態に対する、いわば異常で不自然な状態と見なされる傾向にあるように思われます。

    しかし、古代ギリシャ人の愛は、そもそもそのような近代的な価値観の枠組の外にあるといえます。彼らの性的な愛は、そもそも対等な関係を前提してはいません。むしろ、彼らの性的な愛は、不均等な優劣関係の中で成立するものです。それは、少年愛に限りません。男性優位社会であった古代ギリシャ世界では、女性との関係もまたそうなのです。彼らにとっての性は、能動―受動という関係によって把握されます。彼らにとっては、このような関係性こそが重要だったのであり、対象が女性であるか男性であるかは二次的な問題だったといえるように思います。

    プラトンは、アリストファネスを徹底的にコミカルに描き出そうとしていますが、われわれは、このような姿をアリストファネスの現実の姿とは考えないほうがよいかもしれません。本作では、アリストファネスは、アガトンのサークルの気心の知れたメンバーとして描かれています。しかし、じっさいには、アリストファネスは保守的な人物であり、その喜劇作品の中で彼らを辛らつに批判しているのです。『雲』という作品の中では、ソクラテスが胡散臭いソフィストとして登場し、若者を道徳的に堕落させる人物として描かれています。また、『女だけの祭』では、アガトンの同性愛の習慣が揶揄され、批判されています。

    それでは、エロスとは何者なのかと問うソクラテスに、ディオティマは、エロスとは 精霊 だと答えます。ダイモンとは、神々に関係するさまざまなものや現象を意味しますが、ディオティマがここで言っているのは、神と人間の間にある超自然的な霊的存在のことです。ディオティマによれば、ダイモンとは、神々と人間の間をつなぎ、全宇宙を一体化させるものです。そして、占いや予言をはじめとする宗教的行為も、すべてこのダイモンを媒介として行われるのです。

    このような説明に、われわれは違和感をおぼえるかもしれません。なぜなら、男性が宿している子、すなわち精子は、じっさいに生まれる子どもとは別のものだからです。しかし、われわれは、古代ギリシャの医学的な考えかたでは、精子と胎児は、われわれが考える以上に連続的であったことに注意する必要があります。すなわち、当時の一般的な考えかたでは、精子の中には胎児のもとのようなものが内在していて、女性の側から供給される同様の胎児のもとと結合して、胎児が形成されると考えられていたのです。ですから、当時の人たちにとっては、男性も子を宿しているのだという主張は、必ずしも奇妙なものではなかったと考えられるのです。

    ご注意いただきたいのは、プラトンが二つの善の役割を区別しているからといって、必ずしも、その間に価値の上下を想定してはいないということです。一見すると、美しいものが、よいものを手に入れるための手段とか道具のように見なされていると感じられるかもしれません。しかし、じっさいの恋愛の場面において、男性が愛する女性のことを、子どもを手に入れるための手段とは捉えないように、美という善もそれ自体が一つの独立した善なのです。「よいもの」と「美しいもの」は、エロスのはたらきの中でその役割を異にする、同等の善なのだと考えることができます。

    以上の図式は、心の場合でも、同様に成立します。ディオティマによれば、心の中に宿している子とは、知恵をはじめとするさまざまな徳です。そのような徳を心に宿す者は、しかるべき年齢になると、子を生むことを欲するようになります。身体の場合と同様に、その欲求は、美しいものを求める思いとなり、彼は美しいものを探し求めるようになります。すると彼は、美しい体、そして美しい心の持ち主に心を奪われます。彼は、美しい者にさまざまな話をしてやり、その者を教え導こうとしますが、やがて、子を生み、そして一緒に育てていこうとするのです( 14)。

    愛情は、相手が美しいか否かには関係がないという反論があるかもしれません。しかし、ここで「美しい」「醜い」と言われているのは、世間一般の評価ではなく、愛する者の側からみた主観的な評価であるように思われます。つまり、ある男性が、ある女性に対して魅力を感じて惹かれるとき、そこに成立する肯定的な評価が「美しい」ということであり、逆に、嫌悪を感じたら、その否定的な評価が「醜い」ということになるわけです。この場合、「愛している」と「相手を美しいと思っている」は、ほとんど同じ意味であることになります。

    比較のポイントは、外面の姿と内面の姿の違いにあります。ソクラテスの外面の姿は、美少年好きと無知です。彼は、いつも美少年につきまとっていますし、また、自分はなにも知らないと言っています。しかし、それは仮の姿だと彼は言うのです。じっさいには、ソクラテスは、相手の外面的な美しさや裕福さなどは軽蔑していて、気にも留めていません。また、ソクラテスが無知であるということも、アルキビアデスにとっては、事実ではありません。アルキビアデスがそう考えたのは、彼がソクラテスの内面に神々しい価値を見出したからです。それは、肉体的美しさのような世俗的価値を軽蔑する、節度をはじめとする徳でした。そのような神々しい徳の持ち主、そして美しい言葉で自分を魅惑する人物が、なにも知らないはずがないと、アルキビアデスは考えたのでしょう。

    そのころ、アルキビアデスは、ソクラテスはじつは美少年の美しさなどは軽蔑しているのだということを知りませんでした。だから、彼の中に神々しい徳と知恵を見出したアルキビアデスは、自分自身を誘惑の材料にして、彼からそれを分けてもらおうとしたのです。そのために、アルキビアデスは、伝統的なパイデラスティアの作法に従おうとしました。すなわち、自分の美しい身体を彼に与え、それと引き換えに、ソクラテスに自分を教育してもらえると期待したわけです。

    しかし、プラトンの描き出すアルキビアデスは、これとはまったく異なっています。アルキビアデスは、決して邪悪な人間ではありません。それどころか彼は、純粋で自分の気持ちに正直な人間的な人物であり、そして、そのような人間的な限界ゆえに失敗し、挫折していくのです。  このようなプラトンの描きかたを見れば、彼が単純にアルキビアデスを非難しようとしているのではないことは明らかです。むしろ、プラトンは、人間アルキビアデスがたどる運命を描くことによって、この現実の世界で、ソクラテスのエロスの道に従い、美の梯子を昇っていくということが、いかに困難で難しいことかを描こうとしているようにみえます。

  • 愛について考える。

    最初の序説が長いけれど、この解説のおかげで本文がわかりやすくなってる。

    まず、ファイドロス、パゥサニャス、エリュキシマコスがエロスが人間にどんな影響を与えるか、について語る。そのあとのアリストファネスの話はラッドのオーダーメイドみたいなロマンチックなようでないような。
    そしてアガトンが愛の神エロスそのものを讃える。100ページ目の演説はそれだけで一編の詩のような美しさ。
    最後にソクラテスがディオティマとの対話を思い出して愛に関する真理、を発表する。

    愛とは善きものの永久の所有へ向けられたもの。
    人間は肉体においても精神においても絶えず新しくなり続けるのに、死ぬまでひとりの人間として認知され続けること。
    つまり、子孫を残すことは滅びゆくものの永遠への憧れを満たす手段であること。
    生きるとは美の本質を認識を目指すこと。

    あたりが好きかな。
    なぜ生きるのか、それは美しいとは何か知るためだ、って人生は希望があると思う。
    また、人は一瞬一瞬新しくなっている、ってのも明るい気持ちになれる。
    神々のエピソードを交えながら語られる、初めから最後まで飽きさせない一冊でした。そのうち読み返そう。

  • 面白かった。滑稽だけど、含蓄深いエロスに対する讃美の饗宴。
    しかしまあ少年愛が徳の高いものとみなされているのは笑うなあ

    ソクラテスが巫女に諭された話では、美が仏教の言う空のような語り方をされていて興味深く読みました。美の本質を観るに至るって、悟るってことじゃないのか。
    そのために「少年愛の正しい道を通」うってのがさすがです~
    ソクラテス先生を落とそうと誘ったのに全然のってくれないんだよこの人まじすごいよってぶっちゃけちゃう最後の語り手アルキビヤデスがもうすごいなあ笑 古典の自由さが好きよ

    モーリスで天王星人がゲイとされる所以、
    Hedwig And The Angry Inchの大好きな曲(The Origin of Love)のモチーフとなった神話?等、
    元ネタが読めて嬉しかった。
    ゲイ作品(だけではないだろうが)に多大なる影響を与えている偉大な哲学書。

  • エロスについて、ソクラテスらが語る饗宴(飲み会)。
    この饗宴で主題となるエロス(愛)とは、基本的には少年愛のことですが、語るにつれて男女の愛さらには愛智(フィロソフィア、哲学)に及んでいきます。

    エロスについて演説するのは、ファイドロス、パゥサニヤス、エリュキシマコス、アリストファネス、アガトン、そしてソクラテスの6人です。

    始めの5人は、言ってしまえばソクラテスの前座なのですが、それでも興味深いものがあります。
    中でも特筆すべきなのは、アリストファネスの人間球体説でしょう。
    その昔、人間は男女の合一した存在でした。背中合わせの2つの顔、4本の手と4本の脚。しかし、神々を冒涜したために、ゼウスは人間を2つに割ってしまいます。
    以来、男女はその半身に憧れて、抱擁し、子を作ろうとするようになりました。
    これは、訳者によれば出典不明の譬え話なのですが、荒唐無稽な筋にもかかわらず何か納得させるものがあります。

    こうした演説の最後にソクラテスが登場します。
    ソクラテスは、エロスの対象の分析から始め、人間の欲求やその対象である不滅、美、智、善そのもの(イデア)へと話を広げ、その中に少年愛から愛智(フィロソフィア)までが位置づけられていきます。
    この箇所は語りの展開が見事ですし、主題が一気にソクラテス=プラトン的になるので、私はぐいぐい読ませられてしまいました。

    最後のアルキビヤデスの話は何というかアレだし哲学関係ない気もするのですが、愛智者ソクラテスが肉欲に対する自制心に満ちているというのは少し示唆的です。

    全体としては、本文は100ページちょっとですし、予備知識もいらない(ギリシャ神話とホメロスの雰囲気を知っているとベターな程度)ので、古典の中では読みやすいと思います。
    ギリシャ哲学は、ギリシャ語カタカナ音訳が耳慣れなくて敬遠しがちだったのですが、昨年から古典ギリシャ語を少しずつ勉強したところ、親しみをもって読むことができました。

  • 男女の恋愛ではなく、少年愛が主なテーマ。
    ギリシャ時代、少年愛こそが崇高なもので、女性に興味を持ってるような男はまだまだ人間としてレベル低いやつ、というような考えだったよう。
    フェミニストとしては、この時代で既に女性は男性に都合の良いように定義づけられてきたのか、、と悲しく思った。

    ただ、愛というものは、最終的には1つの対象に対するものではなく、広い後世の世代に対しての教育意欲を掻き立てる=社会全体への貢献欲に繋がる、という点は、
    自分自身の感覚や、アドラー心理学とも共通していて、やはり、人の欲求は最終的にそこに至るのだなと再確認できた。

  • 初プラトン、気合いを入れて読んだら、それほど難しくないし、短くてすぐ読了。古今東西、何千年も前から人は愛とはなんぞやと考え続けてきたんだと認識。善、美、徳といった、人が求めて行くより高いところに絶対的なイデアがあって、そこに導かれるための力が愛、ということなのか。どこか宗教にも通じていく考えなのだろう。

  • もっと難しいのかと思っていたけど、読んでみるとそうでもなく、面白かった。ギリシャ語がわかれば、詩的な面白さもわかるんだろうけれど…翻訳の限界。序文は解説なので、本文を読んでからのほうが理解しやすい。プラトン、というかギリシャ古典をまともに読んだのが初めてなので、ここから周辺へ広げていきたい。
    しかし、どうしても、閉じられたサロンでの机上論、と見えてしまうが、ソクラテスは実践してた人らしいので、やっぱ当時としても特別というか変わり者だったんでしょうね、だからすごいんだけど。

  • フィックションだが、登場人物がリアルすぎて、しかも紀元前。本当の話のように…

    この中で出てくる、ソクラテスの雄弁さと説得力ある講釈、その弟子プラトンも侮れない…

    エロースとはをテーマに書かれる愛=人間⇨智慧。

  • 愛について
    恋について

    最近読むのは
    何か、
    かたちを探しているからで
    自分の中で答えを定義したいから


    ヘドウィッグに涙して
    思い出して読んだプラトンさんは

    やっぱりプラトン

    お酒の席での
    こういう話は昔から
    あるのね

    と親近感。

  • エロス(愛)について書かれている対話篇であるプラトンの「饗宴」ですが、概ね次のような事が書かれています。

    「本質的な美そのもの」に到達するためには順番がある。最初は人間で美しい人―美しい肉体―を求めていくこと、しかし肉体的な美だけを追い求めるのではなく、次には職業活動、制度のうちにある精神的な美を求め、最後には学問に至り、永久的かつ独特無二の存在である美そのもの、美のイデアを求めていく、という具合に。そしてそれぞれの段階―美しい人を求める時、職業活動、制度のうちにある美を求める時、美そのものを求める時、そこにはある原動力が働いている。それがエロスである。エロスは美しいものを追い求める愛である。美を求める人は、自らが欲する美が欠けているからこそ、それを求めるのである。そしてエロスは美を求める人と美の中間にいて、目的の美へと導いていくが、欲すれば、最終的には美のイデアへと連れて行くのである。

    私事ですが、10年前に本書を興味本位で購入しました。それまでに哲学の本を読んだこともなければ知識もなく、当然ながらエロスやイデアのことも知りませんでした。結果、内容が全く理解できず、そのまま本棚にしまいこんでしまいました。10年経ち、久々に読もうと再度手に取りまして、読了までに哲学史の本や哲学用語集などでソクラテスとプラトンの人物像や言葉の意味を、ある程度は理解した上で本書を読みまして、やっと上記のことがわかりました。失敗談として参考までに記載させて頂きます。

  • 学生時代に読んだっきりの本書を再読。
    さっと読むと普通に「ふむふむ」だったところも、今読むと「え、それは飛躍だろう」と思うことがちらほら。

    二千数百年前の本を今読んでなんやかや考えることができるなんてすげえなあ、と、内容に関係ないところで感動する。やるなプラトン。

  • 欲望というものを如何に考えるか、という対話篇で、
    いくつかの主張が各論者によってなされる。
    ソクラテスのものは美そのものを観取するのだ、というイデア論の先駆け的な主張。

    最後に、アルキビアデスの乱入が描かれたのは、
    アルキビアデスとソクラテスの関係性を書き換え、ソクラテスの立ち居振る舞いをポジティヴに描きだそうとした、というようなプラトンの政治的意図があるか。

  • 【本質的な恋愛論を語る】
    『饗宴』は、パイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、アリストパネス、アガトン、ソクラテスの6人が、ギリシア神話のエロス神を称えるという形で進んでいく。

    アリストパネスが説く恋愛論は、元々男女一緒だった肉体だったが、神によって引き裂かれ、その片割れを探すために恋愛をし続けるものであるが、フィクションチックであるものの、面白い。
    http://shira-chan.deviantart.com/art/Plato-s-Symposium-298480016

    ソクラテスは、生殖の目的は不死のためだという。自分の分身を作り続けることで、滅びるものは生き続けることができる。だからこそ自分の分身を守るためには、自分の身を投げ捨てることを厭わない。

    恋愛については、「肉体美→精神美→思想」へと考えを巡らせていくことが大事だという。思想へ恋愛が至った時、本質的な「愛」を理解し、本当に愛する人を見つけ、一生愛することができるとする。

    現代に言い換えれば、「かわいいなぁ/抱きたいなぁ」から入ることはなんら悪くない。しかし、その後相手の精神/教養までにも美を見出し、それを抽象化させ「愛」の思想へと発展させる必要がある。思想まで辿り着いた時、「他人になんと言われようとこの人を愛している」という状況が出来上がる。

  •  死ぬまでに読んでおいても以下略。有名な部分の前後だけはぱらっと読んでたけど、最初から読んではなかったんよ。読んだっつってもさらっと眺めただけで、内容は理解してないよ、日本語でおk状態。

     この年になってようやく気付いたけど、この系統は序説とか解説はすっ飛ばすべきだわ。本編に入る前になんじゃこら、ってなって結局読めないまま放置する。内容わかんなくても、とにかく本編を読むことに努めた方が全然ましだわ。
     ええと、愛、エロスについてとにかく褒めまくる宴会のお話。
     ちゃんとメモ取りながら読めばよかったけど、読み流したから、解釈違い、勘違いが多いとおもう。
     ファイドロス、パゥサニヤス、エリュキシマコス、アリストファネス、アガトン、ソクラテスの順。
     ファイドロスさんが言うには、エロスってすげー偉大なのよ、最古の神なのよ、少年を愛するのがそのエロスを得ること?なのよみたいな。
     パゥサニヤスさんは、エロスってのは二種類あってね、天上の愛と万人向けの愛でね、天上の愛がすごいのよ、みたいな。
     エリュキシマコスさんはお医者さんで、医学的見地からのエロス賞賛。エロスってのはいたるところで大切なのよ、みたいな。
     アリストファネスさんの部分が有名だよね、人間はもともと顔を二つ、手足を四本持ってたのよ、完全なる一になるために、運命の相手を探すのよ、それを成就させるのがエロスなのよ。
     アガトンさん、エロスってのは一番美しいし、一番幸い。
     ソクラテスさんのお話は、ディオティマという女のひとから聞いたお話を伝えてる感じ。エロスってのは完全無欠じゃねぇよ、むしろ美しくもなく醜くもなく、善でも悪でもない、その中間にいるのよ。じゃないと、美しいものを求めたり、善なるものを求めたりしないでしょ。求めることが愛でしょ、と。
     で、ソクラテスの演説が終わったときに、アルキビヤデスさんが乱入してきて、「みんな聞いてソクラテスってひどいひとなの、でもすごいひとなの!」とぶちかます、と。正直、最後の「僕はこんなにもソクラテスが好きなのにアガトンといちゃいちゃして悔しい!」っていうアルキビヤデスさんに全部持ってかれた感がある。
     抜粋、ソクラテスの演説中のディオティマさんの言葉。

    「(前略)こういう訳ですから、正しき意見〔ドクサ〕とは明かに智見〔フロネーシス〕と無知〔アマテイヤ〕との中間に位するようなものというべきでしょう。」

  • 再読。愛=エロスの本質を求めて男達が語り合い、愛の絶頂即ちイデアを求めて昇り詰めていく対話のエクスタシー。エロス、それは賢者と愚者の狭間であり神と人間の中間にいる神霊(ダイモーン)的存在。善きものの永久の所有を欲求するそれは肉体的不死/生殖へ向かい、それを心霊的生産へと向けることで徳へと至る精神を形成する。初読時には同性愛讃歌と思っていたが完全な誤読。とはいえ相変わらず恋愛体質で愛されボーイなソクラテスの口説き文句は絶好調。「こんなにオシャレをしたのは、美しい人の所へは美しくなって行こうと思ったからだよ」

  •  「研究発表会」「討論会」を意味する「シンポジウム」という言葉は、古代ギリシャの「饗宴」に由来し、「一緒に酒を飲む」ことを意味しました。古代ギリシャ人にとって、飲み会が研究集会であり、研究集会が飲み会だったのです。
     ジョージ・スタイナー曰く「劇作家としてのプラトンは、多くの点でシェイクスピアと互角と言ってもよく、さらに倫理的知性の強度ということになれば、ひとりプラトンの(あるいは双璧としてのダンテを加えてもよいが)独壇場である」「その人物としての厚みと存在感は、フォルスタッフやハムレットやアンナ・カレーニナについてわれわれが経験するところに、それを凌駕するとは言えないまでも、およそ匹敵するのである」。「その人物」というのが、プラトンの師にして、キリスト教以前のヨーロッパ世界における最重要人物と目されるソクラテスそのひとのことなのであります。

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著者プロフィール

山口大学教授
1961年 大阪府生まれ
1991年 京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学
2010年 山口大学講師、助教授を経て現職

主な著訳書
『イリソスのほとり──藤澤令夫先生献呈論文集』(共著、世界思想社)
マーク・L・マックフェラン『ソクラテスの宗教』(共訳、法政大学出版局)
アルビノス他『プラトン哲学入門』(共訳、京都大学学術出版会)

「2018年 『パイドロス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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