国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

著者 : プラトン
制作 : 藤沢 令夫 
  • 岩波書店 (1979年6月18日発売)
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  • Amazon.co.jp ・本 (551ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003360187

作品紹介

ソクラテスの口を通じて語られた理想国における哲人統治の主張にひきつづき対話は更に展開する。では、その任に当る哲学者は何を学ぶべきか。この問いに対して善のイデアとそこに至る哲学的認識の在り方があの名高い「太陽」「線分」「洞窟」の比喩によって説かれ、終極のところ正義こそが人間を幸福にするのだと結論される。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)の感想・レビュー・書評

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  • 上下巻共に読み終えた。


    率直な感想は頭に入ってこなかった。
    これは私の強要の無さに由来するので多くの人には当てはまらないと思うので誤解がないように注意して欲しい。


    という事で、私の頭では理解し難かったので、インターネットで要約してある記事を探して読んでみた。


    ところがこれでもあまり期待する答えがなかった。


    イデアという概念や、国家、人、正義としての定義を書かれているものは多かったのだが、これだけであれば上巻を読んだだけでもある程度理解できる。

    という事は私が言うと多くの反感をかうかもしれないが、完全に理解もしくは、要約出来るまでに読み込んでいる人は少ないのではないかと感じた。

    それか本書は書いてある事を学ぶのではなく、書かれている結論がどのようにして導き出されているのか、思考のプロセスを学ぶためなのではないかと思う。

    むしろそのように感じた。


    まだまだ私には消化出来ないので半年後くらいにもう一度読んで見たいと思う。
    http://blog.livedoor.jp/book_dokushonikki/

  • 上巻の終盤で放たれた超弩級の思想(哲人統治、イデア論など)に引き続き、下巻も読みどころ満載である。有名な《善のイデア》や《洞窟の比喩》は、下巻の割と早い段階で語られる。下巻の中盤では、国家の諸形態の分析がなされる。名誉支配制国家、寡頭制国家、民主制国家、独裁制国家のそれぞれの特徴を論じたこの部分は、ある意味、最大の読みどころかもしれない。特に、「民主制国家が堕落したらどんな現象がみられるようになるか」「民主制から独裁制への移行はどのようにして達成されるか」を論じた部分は圧巻。下巻の最後は、正義の報酬として有名な《エルの物語》で締めくくられる。ここは哲学というより物語(神話)として興味深い。

    ・《哲人王》による《善のイデア》を希求する政治(≒ユートピア思想)
    ・エリート層による大衆の統制(≒民主主義の否定)
    ・エリート層における私有財産の禁止(≒共産主義)
    ・エリート層における妻女と子供の共有(≒優生学的思想)

    …など、私には容認しがたい極論も多いのだが、「衆愚政治へと堕落した民主主義への批判」や「僭主独裁政治への批判」など、現代人必読の警告と思われる箇所も多い。その主張の是非はともかく、形而上学的にも政治学的にも西洋思想の原点となった著作である。

  • 難読の末なんとか読了。
    自分には難解だったが、2000年以上前も人間って全然変わってないよねぇ〜ということはわかりました。
    今の政治状況にもあてはまる言及がしばし見かけられましたわ。
    疲れた!

  • 真理の探求から得られる快楽こそが至上でありそれは恋愛や名誉から得られるものと比べ物にならず、従って理性が欲望を飼い慣らさなければならない、といった主旨のことが書いてあり勉強の励みになりました。

  • 古代ギリシアの哲学者プラトン(前427-347)の主著。副題「正義について」。

    真/偽、善[正義]/悪[不正]、美/醜、存在/生成、同一性/差異、概念/個物、一/多、内/外、イデア[界]/仮象[界]、知識/臆見、彼岸/此岸、秩序[cosmos]/混沌[chaos]、必然/偶然、精神/肉体、理性/感性、観想/実践 ・・・。世界をこうした階層化された二項対立的図式によって解釈し、ヨリ価値の低い後者の現実とヨリ価値の高い前者の理想とを区別して(現実とは、イデアを分有しただけの不完全な代物である)、後者から前者への階層移動を志向する、そういう機制としての西洋形而上学は、プラトンによって見出され、その後2000年以上ものあいだヨーロッパの思想の骨格となっていった。存在論としてのイデア論、認識論としての想起説も、それぞれの時代に於いて変奏されながらその基本的な機制は反復されてきたと云える。

     □ ユートピア思想

    ここで語られているのは、西洋最古の壮大なユートピア思想である。

    ユートピアは理想郷として現実に於いて場所をもたない[ou-topos]が、と同時に、理想の完全性により生成変化することもなくそれゆえそこには時間が無い[ou-chronus]ともいえる。そこには人工的な空想の無表情な不気味さがある。そこで語られるユートピア社会の構成員の"顔"が見えないのだ。空間や時間が無いだけでなく、人間もいない。

    本編における大きな特徴は、個人の問題が国家の問題へと接続されている点にある。「ところで、国家は一個人より大きいのではないかね?」「するとたぶん、より大きなもののなかにある〈正義〉のほうが、いっそう大きくて学びやすいということになろう。だから、もしよければ、まずはじめに、国家に於いては〈正義〉はどのようなものであるかを探求することにしよう。そしてその後でひとりひとりの人間においても、同じことをしらべることにしよう。大きいほうのと相似た性格を、より小さいものの姿のうちに探し求めながらね」

    匿名的な知性=徳性によってあらゆる価値が一元化されたソクラテス/プラトン思想の下に展開される理想国家の構想は、一部の隙も無い息苦しさがどこか狂気染みている。人間は知性=徳性の下位に置かれ、それを否定=超越する自由が無いものとされているように思われる。空想に於いて実行される理想の"独裁"である(勿論、プラトンが本書後半で述べる独裁僭主 tyrannos とは全く意味が異なるが)。そこに、人間的な自由や文化は、その存在余地があるのか? 歪な初等教育論然り、「詩人追放論」然り、国家に無用な者に対する死刑の肯定然り、「国家の守護者」の選抜試練然り、管理生殖然り、女と子どもの共有然り。表現統制・優生思想・選民主義・個人の国家への全き同一化の要求・・・。個人の人間としての尊厳や、そもそも私生活それ自体が、国家の存立よりも下位に置かれている。端的に云って、グロテスクである。「・・・、一人の人間のあり方に最も近い状態にある国家が、そうだ[苦楽の私有化による国家の分裂から最も隔たっている]ということにもなる・・・。――たとえば、われわれの一人が指を打たれたとする。そのとき、身体中に行きわたって魂にまで届き、その内なる支配者のもとに一つの組織をかたちづくっている共同体が、全体としてそれを感知して、痛められたのは一つの部分だけであるのに、全体がこぞって同時にその痛みを共にする。そしてこのようにしてわれわれは、その人が指を痛めている、ということになるのだ」。ここに、国家と国民の区別はない。国民は国家に溶解してしまっているようだ。これは、最古の素朴な全体主義思想ではないか。「人間性」「個人の尊厳」「人権」という現代の我々にとって"自然"な観念が決して普遍的なものではなく"歴史"的なものであるという事実を、痛感する。

    (尤もプラトンは、独裁制(僭主制)は民主制の崩壊によって生じる、というファシズムを通過した我々にとって極めて鋭い指摘をしている。優秀者支配制国家〈理知〉→名誉支配制国家〈気概〉→寡頭制国家〈金銭欲〉→民主制国家〈自由〉→僭主制国家(欲望のアナーキー、狂気、カリスマ希求? 自由の隷属化)。「・・・、民衆の慣わしとして、いつも誰か一人の人間を特別に自分たちの先頭におし立てて、その人間を養い育てて大きく成長させるものではないかね? ・・・。則ち僭主(独裁者)が生まれるときはいつも、そういう民衆指導者を根として芽生えてくるのであって、ほかのところからではないのだ」「まず第一に彼[独裁者]のすることは、たえず何らかの戦争を引き起こすということなのだ。民衆を、指導者を必要とする状態に置くためにね」「さらにその目的はまた、人々が税金を払って貧しくなり、その日その日の仕事に追われるようになる結果、それだけ彼に対して謀反をたくらむことができにくくなるようにするためでもある」。まるで現代の我々の社会のことを2000年以上前から指摘されているような気にならないか。なお、別の個所で国家の起源としての社会契約論の萌芽が見出されるのも興味深い)

    これが、アテナイ民主制によって師ソクラテスが殺されたプラトンの政治的到達点なのか。

    〈正義〉の原則は次のようなものとされる。「各人は国におけるさまざまの仕事のうちで、その人の生まれつきが本来それに最も適しているような仕事を、一人が一つずつ行わなければならない」。さて、理想たるべき国家には、〈知恵〉〈勇気〉〈節制〉の三つの徳が備わっていなければならないとされる。つまり、国家の構成員が各自の分に応じた仕事に専念し、思い上がりによって自らの分を逸脱することなく、三つのうちの各自の分に応じた徳を体現することが、国家に於ける〈正義〉といわれる。そして、国家が三部分に区分されるように、個人の魂にもそれに対応した三部分〈理知的部分〉〈気概的部分〉〈欲望的部分〉が存在するとされる。そして、〈理知的部分〉が魂全体を支配し〈気概的部分〉がそれに服従し(欲望的部分)の放埓を制御する、則ち自分で自分自身を支配し秩序づけ節制と調和のうちに一人の人間と成ること、これが個人に於ける〈正義〉といわれる。こうした考えのうちにも、ユートピア思想特有の「構成員の匿名性・"顔無し"性」「理性による理想的な統御」が現れていないか。

    繰り返し見てきたように、ソクラテス/プラトンの政治哲学の裡には、共同体の構成員たる個々人の「実存」という視点が見事に抜け落ちているのである。それが数学や哲学的問答法の訓練を受けた哲学者=哲人王の理性によって統制可能であると考えられている。唯物史観に基づく共産主義の革命思想にも欠落している観点である。「実存」との緊張関係を通過することのない「政治」はもはや通用しない。事象の本質的概念的把握を目指す哲学的精神を政治権力と結合させる哲人王思想では、「実存」という人間の存在様態に追いつかないのである。

    現代の我々に、ユートピアは不可能である。では、「革命後の世界」は?

     □ 自己関係性

    〈善〉のイデアとは、太陽が見られるものを照らし出し以て視覚=見ることの原因となるように(「太陽の比喩」)、認識対象に真理性を付与し認識主体に認識機能を働かせるものとされる。しかし、〈善〉のイデアが"在り"且つ"かく在る"ことを、ソクラテス・プラトンは如何に認識しその認識を正当化するのか。彼の哲学体系の内部に於いてその正当化は可能か。そこが問われない哲学体系は、端的に独善であり無意味ではないか。

  • 国家=個人の中の正義をパラレルに語る。
    正義論。

    イデア論,哲人王思想。

    「役に立たないことの責は,役に立てようとしない者たちにこそ問うべきであって,すぐれた人々自身に問うべきではないのだと,命じてやりたまえ。」(30頁)

    「そのそれぞれの単一の相に応じてただ一つだけ実相(イデア)があると定め,これを<まさにそれぞれであるところのもの>と呼んでいる」(79頁)

    「真の意味での富者とはすなわち,黄金に富む者のことではなくて,幸福な人間がもたねばならぬ富――思慮あるすぐれた生――を豊かに所有する者のことだ。」(110頁)

  • 1997 読了

  • オフィス樋口Booksの記事と重複しています。記事のアドレスは次の通りです。
    http://books-officehiguchi.com/archives/3993292.html

    登場人物はソクラテス、ケパロス、ポレマルコス、トラシュマコス、クレイトポン、グラウコン、アデイマントスである。この登場人物による対話が上巻と下巻で展開されている。

    上巻では正義・国家・哲学者について議論が展開され、下巻では議論が完結されている。この上巻での議論は国家や正義について熱く語られているので、面白いと感じた。私が議論の中で注目しているフレーズなどは後日取り上げたい。

  • 「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」という有名な言葉がある。この『国家』を読んだだけでも、なるほど確かにそうなのかも、と思わされてしまう、それほど広範かつ重要なテーマを扱った本である。

    ただ、完全無欠の神のような人間の存在(ないしは創造可能性)を前提とした国家設計は許容しがたい。個人より国家を優先して思考を突き詰めれば当然の帰結なのかもしれない。

    プラトン曰く、理想的な哲人政治もいつかは落ちぶれる運命にあるという。しかしそれがなぜかを説明する箇所は意味不明の数式で煙に巻く。そもそもプラトンが説くような、完全無欠な哲人が統治を続ける限り、その国家の衰退はありえないはずではないか。この部分のプラトンの論旨展開は、統治者として君臨すべき完全無欠な人間の存在を自ら否定するようなものだ。

    下巻で展開された詩人追放論は、上巻で主張された音楽・文芸の効用と矛盾するものではないか?という陥りがちな疑念は、訳者による説得力のある註釈により晴らされた。
    本書は、世人の間で哲学が文学よりも重要であるとは必ずしもみなされていなかった時代に書かれた。そしてプラトンは哲学の地位向上を図るためにあえて強い書き方を選んだのだった。

    2400年も昔の人が書いた本を読むというのは刺激的な体験であった。ルソーやニーチェなど後世の哲学者を先取りしたかのような考え方が随所に見られた。ニーチェが否定した西洋哲学の伝統とは何かを知るための重要な手がかりとなることは間違いない。

  • 上巻に書いてしまった感想がほぼ全てだが、いくつか追記する。

    そもそも、本書を『国家』としている時点でおかしいと感じる。
    本書には『正義』だとか『正義論』だとかが相応しい。
    そこにはそれなりの理由がある。つまりこういうことだ。

    本書では「『正義』に生きることは『不正』に生きることよりも得である」という証明を行おうとしている。
    そのとき、個人について考えるよりもまずはもっと大きい国家について考えようよ、となって国家が登場する。
    国家には寡頭制だとか民主制だとか僭主独裁制だとかがあるが、俺が考えた国家(読んで頂きたい)が最強だね、と持って行くことで「俺が考えた国家は俺みたいな人が支配するべきだし、そうじゃない今の国家ってクソだね」を証明する。
    こうなると本書は確かに『国家』かもしれない。

    早い話が「俺はやればできるのに周りがいけないんだ」である。

    余談だが、議論の持っていき方は論理というものを知らない人間を陥れる技法として応用可能であると考える。
    反面教師とすべし。

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