パイドン: 魂の不死について (岩波文庫 青 602-2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003360224

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  • ソクラテスがその死の直前に語ったとして展開される魂の不死・不滅についての議論。
    彼の最期の場面に相応しく劇的な雰囲気で述べられるこの議論は、緊張感もあり議論も割とわかりやすいので、『プラトン』の中では読みやすい方なのではないだろうか。

    ソクラテスがいよいよ毒をあおり刑死するその当日、皆が最後の別れにと参集する。数えてみると何とその数20人ばかり!。牢獄の中はさぞや熱気でむんむんしていたことだろう。(笑)
    遺言を訊かれたソクラテスはそこで問題発言をする。同じ哲学者(?)であるエウエノスにも早く自分の後を追うようにと伝えよと。ここに、仰天し見事に喰いついてきたシミアス&ケベスとソクラテスとの対話が始まる。(今回も書名と対話相手とは不一致なのね・・・!?)
    ソクラテスは述べる。死とは神的な魂と快楽を追求してきた肉体との分離であり、肉体は消滅するが、魂は純粋なものとして死者の国ハデスへと赴き、そして、再び別の肉体へ転生する、肉体と魂が一体の時は五感を通じてしか把握できなかったことも、魂だけになったならば純粋な思惟が可能となり、本当の真理と知恵を獲得することができる、真理を知りたいのなら魂だけになるこれこそが哲学者が本当に求める道であるだろう、と。
    納得しないケベスは肉体と魂の分離はそうであったとしても、魂も一緒に消えてしまう可能性はないのかと反問する。ここでソクラテスは人間は学問をして新たに知識を得るのではなく、魂だけの時期に既にイデア(物事の真の姿)を見ているのであり、人間の時期の学習は単にそれを想起しているだけであり、そうであるがため魂は消滅していないと論証するのである。
    ここで語られているのは想起説により導かれた有名なイデア論である。「徳」とは何かなどの問いに対し、真理へ辿りつけないのはイデアを忘れているからであり、肉体を通じて見ているものはイデアと似ているものに過ぎないという論であるが、解説によれば、『プラトン』の中で初めて明確に記されたのがこの『パイドン』とのことである。
    そして、さらにシミアスとケベスは余命いくばくもないソクラテスを追及する。(笑)魂と肉体は調和して存在しているとしたら、やはり、肉体と分離された後、魂も消滅するのではないか?あるいは何度か輪廻転生している間に魂も衰弱して滅んでしまうことがあるのではないか?と。
    ここでソクラテスはお家芸の詭弁気味な議論(笑)にて相手を黙らせてしまうのである。いわく、想起説が正しいので魂が肉体を支配しているとみなすべきで、決して調和ではない、イデア論が正しいので魂は決して死なないし滅びもしない、と。そして、肉体が滅んだ後の魂がどのような場所に行くかの神話を語って聞かせるのである・・・。

    現代人からみると、ソクラテスの説明は証明しようとする結論を証明の前提にしていることが多くあり、議論としては詭弁としか思えないのだが(笑)、『プラトン』ではよくありがちなので、昔のギリシア人ってこういうので納得していたのかと思うとこれはこれで興味深い!(笑)また、この証明の過程でソクラテスが「自然学」(現在でいうところの「理系」か)に失望し、真実=イデアの探求→「哲学」を探求していることが述べられており、例えば、なぜ会話ができるのかという問いに対し、音声→空気の伝播→聴覚という説明が気に食わなかったようで、真の原因は別のところにあるとしていて、現代ならば新興宗教家と話しているような気分になったかもしれない。(笑)
    また、自分には、イデアの近似の説明のところはいまだに「???」なのであるが、そういえば小学生の時に、1+1はなぜ2であるかの説明を聞いた時にこのような話をされたような気もしてきた。あれば数学の話ではなく哲学の話だったのね。(笑)
    ソクラテスの死に際して述べられる「魂の不死」という議論がため(ということは死に行く者に対して魂は滅びるのでは?と議論を吹っ掛けていたことに・・・)、イデア論の登場も劇的であり、演出効果も抜群の一書であった。
    ラストは、ソクラテスの最期の場面も生々しく描写される。

  • とてもよかった。

  • 学生時代にソクラテスやプラトンを知ってから、ずっと読んでみたいとは思っていた。今、この年齢になって読んでみて、どういうふうに生きることが幸せなんだろうか、という基本的な問いにまた思いを馳せている。
    「魂の不死」を信じる生き方。逆に「魂の滅」。ソクラテスはもちろん不死を信じて、従容として毒をあおり、旅立った。先日読んだ『「死」とは何か』の著者、シェリー・ケーガンは魂の滅の立場を取っている。人間を3次元世界の中の物質界から考察する限り、そういう立場は自然だと私も思う。が、「宇宙」存在そのものを思う時、到底、3時現世界だけでは把握出来ない世界なのがこの宇宙。その宇宙の中で生きているのが人間ということを思う時、4次元やそれ以上の次元の発想を持って「命」というものを見ていくということが逆に自然なことなのでは、と思っている。

  • 議論はあちこちに行くがシンプルな本である。

    死は生よりもよいものである。
    ただし、自ら求めてはいけない。死が与えられるのを待たねばならない。
    でなければ、現世の神への背信行為となってしまう。

    では、いかにして待つのか。
    死の準備である哲学によってである。
    哲学とは、死すべきものである肉体から、魂を解放させる訓練をするものである。

    その必然性は、魂が不滅であることから証明される。
    「想起」は、魂がアプリオリな体験を経ていることを示しており、肉体に宿る前から魂が存在していたことを示す。肉体の調和によって魂が生じたという考え方は、このために不適切。
    また、魂は単一不可分のものなので、肉体の死後に霧散することはない。
    また、魂は生そのものであって、死とは相容れないので不滅。
    つまり、肉体が与えられる前にも、肉体が滅んだ後にも、魂は在り続ける。

    魂は、一時的に滞在している肉体の欲求に従うのではなく、肉体を従えるべきである。肉体をいかに従え、肉体とともにあるときにいかに魂を汚さずに済ましたか、ということによって、死後に魂が神々の仲間のところに辿り着くかどうか判定される。

    哲学によって、不滅の魂を訓練する、というのが、人のやるべきことであって、魂を肉体に奉仕させることではない。

    ものすごく大雑把に言うと、こんな感じか。

    最後、ソクラテスの死に方はあっぱれである。
    新約聖書のキリストの死の悲惨さはまったくない。
    それは、グリューネヴァルドの「イーゼンハイム祭壇画」を連想させるものであるが、ソクラテスのそれはダヴィッドの描く「ソクラテスの死」のソクラテスのように理性的であった。
    ここにダヴィッドの描くソクラテスが天を指差しているのは、ラファエロの描く「アテナイの学堂」にてプラトンがアリストテレスに対して天を指差しているのをアレゴリーしてるのか、面白い。

  • 読書サークルで読むことになり手に取る。わたしなんかにわかるのかと表紙から難解オーラが発せられている気がした。
    専門用語に溢れ理解不可ではという偏見を破り、訳出された日本語は普通で意外。読めない文字も言葉もほぼない。

    魂の不滅の対話は「ああ言えばこう言う」イメージ通りの訳の判らなさで可笑しくなる。その対話は何度読んでも頭に入らないものの、魂は美しく保ち、頭を使って考え続けなければ良い場所にはたどり着けないと書かれているのが良い。

    輪廻転生も、考えるという努力なしに良いところへ行けないらしく、ここ何年も流行っているスピリチュアルブームにちょっとそれに触れただけで、幸せになろうなんておこがましいもんだ・・・との気持ちを新たにすると同時にこれってホントに昔の本なの?と新しさのようなものを感じる。うまく表現できない・・・けど、変な自己啓発系の本を読むならこれを読め…
    紀元前400年頃の彼らは地球が球体なことは分かっていた驚き…水が流れる説明からの連なりはまるでファンタジー文学。わくわく感をもって読了。

    哲学者は屁理屈をこねてたのではなく、ちゃんと実際的に積極的に学び、実践した上での論証なんだな。いろんなことを知ってたんだなと昔の人はつくづくエライ。

  • 魂は不滅であり、死とは魂の肉体からの解放であるということを、これは一体何段論法なんだ?というぐらい理屈で証明していく、死刑直前のソクラテスを描いたもの。

    真理に到達する、善く生きることができる人について、「純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて純粋なそのもの自体を追求しようと努力する人」とし、これは禅の初心に通じるものを感じた。

    …というところまでは良かったのだが、「反対のものがある限りのものは、まさにその反対からしか生じえない」、したがって「生き返るということも、…死者たちの魂が存在するということも、本当にあることなのだ」辺りで、理屈をこねくり回して無理やり理論構築している気がして、付いていけなくなった。

    想起説(生まれる前に知識を持っており、学ぶとは想起すること、であるから魂は不滅とする)もそうかなーと思ってしまう。

    しかし、ソクラテスは2400年前の人であり、そんな人の発言に対して、そうかなーとマジメに思わせてしまうのだから、やはり名著なのだろう。

  • プラトン3冊目。いよいよソクラテスの死刑当日。

    ある日、横断歩道で信号を待っている時、今一歩踏み出しせば交通事故で一瞬で生から死の状態になるのだと不思議に思ったことがある。しかしこれは自殺行為であり、プラトンによると、我々人間は神の所有物(奴隷)であるため、勝手に死ぬこと(自殺)は裁きを受けることになる。

    人々が信号を待っているのは死にたくないし、生きたいから。一般的に死は避けたいし、醜いものだ。

    だからと言って、死をただ醜いものとして捉えてはいけない。死は快楽や欲望をもたらす肉体と魂の分離であり、魂そのものになることである。肉体と魂が一体である生ある期間に、汚れのない行いを積み重ねてきた哲学者は決してそれを恐れない。なぜなら哲学は死の練習だから。そして、魂は不死で不滅なものだから。
    (ただ、その証明は何度も読まないと忘れてしまう...。)

    ソクラテスの死の描写は、目の前でまさに事が行われているよう錯覚するほどの臨場感がある。
    毅然とした態度で死に向かうソクラテスとそれを見守る友。毒を飲み干したソクラテスを見た友の「あの方の身を嘆いたのではありません。私自身の運命を嘆いたのです。」という言葉には、哲学に従って生きたソクラテスの本望が込められているように思えた。

  • 正直難しいです。考えながら読み進めないと、スッと頭に入らないこともあります。その反面、簡単な例えがあるので、そこはわかりやすいとも感じました。

    人間の生と死。そこにある魂。魂は不滅なのかどうなのか。人が死んだら魂はどこへ行くのか。哲学を対話の中で紐解いていくのが、面白かったです。

    自己の生を全うし、善を心がけて生きたならば、死に対して恐れる必要がないというのは、古代ギリシアだけの考えではなかった。魂が肉体から解放されると、そこには美しい世界がある。そしてまた永遠の美の中で暮らす。
    ソクラテスのエロースについて書かれた饗宴も読んでみたいですね。

  • 前半のイデア論にもとづく霊魂不滅の証明もおもしろいが、終盤の、ギリシア人が信じる死後の裁きとあの世の物語に関するソクラテス(プラトン)の向き合い方(p167)や、ソクラテスが毒薬を飲む前後のドラマチックな描写も印象的。プラトンはすごい。読み慣れてくるとクセになりそう。訳も読みやすくてよい。

  • 読了。良かった。プラトンの師ソクラテスの処刑当日に、ソクラテスと友人知人たちとの議論を描いたもの。早朝に始まり夕刻の処刑執行時間まで、ひたすら議論を行う。友人たちに、議論を恐れてはいけない、と笑って鼓舞する姿にほろりときた。ソクラテスは死後の幸福を確信し、一方で自殺を否定したので処刑を喜んだが、個人的には後2000年生きて、ヴィトゲンシュタインと対決してほしかったです。彼らは死後に会えるのかも知れないが、わたしは立ち会えないので。その意味であまり凄い人々には死んでほしくない。ギリシアらしからぬ輪廻転生思想は、オルフェウス教の影響にあるようで、プラトンとオルフェウス教を信じたピタゴラス教団との接触がこの本を書かせたようで、仏教にかなり近いため、何故こんなにも似ているのか不思議でした。

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著者プロフィール

山口大学教授
1961年 大阪府生まれ
1991年 京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学
2010年 山口大学講師、助教授を経て現職

主な著訳書
『イリソスのほとり──藤澤令夫先生献呈論文集』(共著、世界思想社)
マーク・L・マックフェラン『ソクラテスの宗教』(共訳、法政大学出版局)
アルビノス他『プラトン哲学入門』(共訳、京都大学学術出版会)

「2018年 『パイドロス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

プラトンの作品

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