ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

  • 岩波書店
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レビュー : 25
  • Amazon.co.jp ・本 (334ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003360422

感想・レビュー・書評

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  • (01)
    倫理を分析し,愛(*02)や政治への接続を思索した書である.特にそれはあるべき個人について語られ,徳や卓越性とされるアレテーが人間の状態をよりよい善に漸近させることを至高としている.もちろん社会における人間ということが前提となっており,その共同性や他者との関係から,主体のあるべき姿を探ってはいて,例えば,人間というあり方を,獣性(テーリオテース)や奴隷状態から峻別し,家政的(オイコノミコン)なものから政治や政治の場としての都市を抽出し,徳のある個人をこの場にある人間として考究している.
    ゆえに,現代の自己啓発本やセミナーなどの主張に,見合うような字句も本書から引っ張ってくることもできるのだろう.中庸というバランス感(*03)を大事にして,快楽,名誉,財貨,そして知や学のちょうどいい加減について語りかけている箇所は,現代でも実用的であるかもしれない.

    (02)
    親愛(フィリア)について考究された第8巻と第9巻はとりわけ面白く感じられる.この親愛は,男女間の性愛や家庭的な愛とは,かなり趣を異にする愛であり,同性間や仲間,あるいは国家的な愛や,知への愛(フィロソフィー,哲学)へも横断するような概念でもある.いってみれば古代的な人間関係の単位や集計として.また政治学(そして戦争学)と倫理学の接着剤として,かなり重要な提起であろう.
    知についての,直知,知慮,智慧,学などの整理も,近代の科学や学問を考える上でもおさえておきたいところである.また,「棟梁の位置にある者」としての歩きテクトーンも登場し,社会や善にある建築が標榜される.おそらくギリシア哲学の再考から始めたアーレントも語っている制作や活動への言及もある.運動の問題は,現代思想にも通じ,映像学への応用が可能だろう.そして,倫理にとっても重要な状態でもある観照(テオーリア)は風景学の視点場をなすに違いない.

    (03)
    バランスをどのあたりに調節するか,というのは実践であるとともに,今がどのあたりにあって,バランスされる全体を見通せる認識が必要であり,著者はその認識の方法や状態として知や学を位置付けている.
    しかし,エウダイモニアとされる幸福な状態や,そこから得られる幸福感については,ダイモンの存在を根拠としており,バランスは,知や学が水平的なパースペクティブにあるとすれば,ダイモンとの垂直的で直接的な関係によって人間が神に垂らされているような感覚と認識が想定されている.この神学的な場面と倫理という主題はいつも合わせて考えたい問題でもある.

  • 903円購入2010-10-22

  • 2011/06/25

  • -510

  • いやぁ〜この歳になって読んでよかった(^^ゞ本書にもあるけど年齢とともに経験値がますからだろうな…

  • 第7巻
    抑制と無抑制,放埓と節制

    第8巻
    愛(フィリア)とその種類

    第9巻

    「人間はポリス的・社会的なもの(ポリティコン)であり、生と他と共にすることを本性としている」(137頁)

    第10巻
    快楽,幸福
    「幸福こそが究極目的なのだ」(172頁)+

    解説
    倫理学というよりも政治学と言った方がよい
    本論ではないが、プラトンのイデア論に対する反論が注目される。

  • この本は、読んでると、えッ・・・・!!なになになに???と思わず何度も聞き返してしまうような感じです。気になったところに付箋を貼っているのですが、多すぎて、付箋箇所をもう一度たどるのが億劫なくらいです。それでも今日は気になった箇所をもう一度見てたら「寛恕」という言葉を知りました。寛恕とは三省堂国語辞典によると、心が広くて思いやりがあること。また、あやまちなどをとがめずにゆるすこと。だそうです。本文中でも「・・・、寛恕に値することがらであろう。」と書かれてあります。なんかすごいな~って感じがします。

  • 「二コマコス倫理学(下)」Aristotle


    ユーダイモニアは人間万般の営みの究極目的。

    幸福は状態(ヘクシス)ではない。

    幸福とは、知性(ヌース)という最高の卓越性に即した行動。

    幸福には快楽の存在が必要であるとされるが、最も快適なのは、智慧(ソフィア)に即しての活動である。

    哲学はその純粋性と安定性の点において、驚嘆するに足る快楽を含んでいる。

    知性(ヌース)の活動はその真剣さにおいて勝り、活動それ自体以外のいかなる目的も追求せず、その固有の快楽を内蔵している。

    人間に固有なのは、知性(ヌース)に即しての生活に他ならない。

    知性(ヌース)の卓越性は肉体を離れた独立的な性格を持つ。
    倫理的な卓越性ほどには外的な給備を必要としない。

    ソロンが言う幸福な人とは、「外的なものをほどほどに給せられ、自らもって最もうるわしき事柄となすところを行い、節度ある仕方でその生涯を送ったひと」だが、実際にほどほどのものを所有しておれば、まさになすべき事をなしうる事ができる。

    幸福な人が、世人の眼には奇妙な人間として映ったとしても驚かない。

    ヌースに即した活動を行い、ヌースを大切にする人は最も善きありかたの人であると共に、最も神に愛される人。

    善とは、人間の目標とすべき最高善、究極的な善であり実現可能なもの。それは幸福に他ならない。

    ユーダイモニアの原義は「ダイモン(守護神)によってよく見守られている事。」であり日常的な意味は「好運」であったが、アリストテレスはこれを純化し、「人間の人間としての卓越性の具備を基盤とするところに基づく活動であり、その活動の為に必要ないかなる条件にも欠けていない事、そしてそれも全生涯に及ぶものであり、あらゆる意味において究極的、自足的たる幸福」とした。

    快楽(ヘドネー)は、ユーダイモニアに付帯する副産物。

  •  われわれは、しかしながら、ことがらの真を語るのみならず、また誤りの原因をも語らなくてはならない。というのは、そうすることが論議の可能性に寄与するからである。(p.78)

     究極的な性質の愛は、善きひとびと、つまり卓越性において類似したひとびとのあいだにおける愛である。けだし、かかるひとびとたちのいずれもひとしく願うところは「善きひとたるかぎりにおける相手かたにとっての善」なのであるが、相手のひとびとは彼ら自身に即しての善きひとびとなのである。(p.93)

     善きひとは自愛的でなくてはならぬ。なぜなら彼は、自愛的であることによって、もろもろのうるわしきことがらをなして自らも利益を享けるのみならず他のひとびとをも利するだろうからである。(p.176)

     何よりも好ましいのは親しい相手と生を共にするということではないであろうか。なぜかというに、愛とは自他の共同なのである。そうして、ひとの自分自身に対する関係が、やがてまたその相手に対する関係でもある。(p.189)

     快楽を欲しないひとはないといえよう。何びとも生きることを希求しているのだからである。「生きる」とは或る活動であり、各人はその最も愛するところのものに関して、その最も愛する方面の機能を働かせて(たとえば音楽的なひとは聴覚によって音律に関して、学を愛するひとは知性によってその観照の諸対象に関して等々)活動するが、快楽はしかるにこの活動を究極的に完璧たらしめ、したがってまた各人の追求しつつある「生」を完璧たらしめる。それゆえ、ひとびとが快楽を希求するのも当然であろう。快楽は各人にとっての「生きる」ということ―それは好ましきものである―を究極的に完璧たらしめるものなのだからである。(pp.210-11)

     幸福な生活とは、かえって、卓越性に即しての生活であると考えられる。かかる生活は真剣であり、遊びではない。真剣なことがらは滑稽な遊びめいたことがらよりもよりよきものなのであるし、また、魂のよりよき部分とか、よりよき人間とか、いずれにしてもよりよきものの活動なのであるとわれわれは考える。よりよきものの活動は、それだけですでに、よりよき活動であり、より幸福な活動なのである。また、肉体的な快楽ならば、任意のひとが、たとえそれが奴隷であっても、最もよきひとと同様にこれを享受しうる。だが、何びとといえども幸福に与る可能性を奴隷にまで及ぼしはしないのである。われわれの生活にもやはり与らせるのでないかぎり―。(p.222)

  • 中庸が大事と説く。中国の儒教と同じ発想じゃないか。
    そこにいきつくのだな。

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