生の短さについて 他2篇 (岩波文庫) (岩波文庫 青 607-1)

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  • / ISBN・EAN: 9784003360712

感想・レビュー・書評

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  • 以前「限りある時間の使い方」という本を読んだ。人生には限られた時間しかないということを受け入れなければならないという内容だった。約2000年前の賢人セネカはこの問題についてどう考えていたのだろうか?

    パウリーヌスという、セネカの親戚?への手紙として書かれている。

    人生は短いと思われているが、これは人生を無駄に浪費しているからで、実際は、何かを成し遂げるには十分な時間があるということだ。最も無駄なのは、他人のために苦労をすることだから、自分のために時間を使いなさいと説いている。

    やや賛同しかねるところもあるが、いかに生きるべきかという問題について、知識が得られる良い本だった。

    光文社古典新訳文庫版も読んだが、そちらの方が自分には読みやすくわかりやすかった。

  • ブクログで見かけて気になったので購入。

    セネカは古代ローマ時代の哲学者。高校世界史で学んだのが懐かしい。

    本書は「生の短さについて」「心の平静について」「幸福な生について」の3篇で構成される。それぞれリンクする部分が多く、内容の重複感は否めない。あと、多くのローマ人が引用されるけど知らない人ばかり…w

    それでも、案外楽しく読めた自分がいた。文章から感じるセネカの印象は「気の良い、物知りおじいさん」と言った感じw

    さすがに読みにくさは否めないけど、そこはむしろ古代ローマの書籍を日本語で読めることに感謝するべきかな。

    以下、各エッセイの所感。

    表題作の「生の短さについて」。

    「人生は浪費すれば短いけど、十分に活用すれば長い」というのは、本当にそのとおりだと思う。

    過去を振り返ることは、平静な精神を持ったものの特権、という過去観も面白い。

    静謐を生きていない人は、余暇が怖い。だから、酒と欲望に溺れて「時を短くする」。という説明には、どこかドキリとくるものがあった。

    宴にうつつを抜かしすぎるローマ人を憂いたり、その悪習はギリシャ人のものだと言ったり、そのヤレヤレ感になんだか愛くるしさを感じてしまったw

    次に「心の平静について」。

    人生は無から始まり、無に終わる。我々は何も所有しないし、所有されるべきではない。いま持っているものはいつ無くなっても構わない。そんな思考は、あらゆる悩みが吹き飛ぶようでとても良かった

    それでも、時たま酒に狂うのも悪くはない、と説くのは遊びがあっていいね。「正気の人間が詩作の門を叩いてもむだ」というプラトンの引用は直球過ぎて笑えた。

    孤独のみを推奨せず、社交の時間も大切であると書かれる。「孤独は群衆への嫌悪を、群衆は孤独への倦怠を癒やしてくれる。」というのはバランスが取れていて共感できる。

    人生の目標について、難しすぎずなんとか達成できるものが望ましいとあり、現実味があってよい。

    最後に「幸福な生について」。

    倦怠を遠ざけるために日々の実務に注力することが推奨される。置かれた場所で咲く的な考えは、実があってとても好き。

    (書評ブログの方も宜しくお願いします)
    https://www.everyday-book-reviews.com/entry/%E3%81%9F%E3%81%A0%E3%81%A1%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%88_%E7%94%9F%E3%81%AE%E7%9F%AD%E3%81%95%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6_%E3%82%BB%E3%83%8D%E3%82%AB

  • 善く生きれば人生は短くないと説く短い本。
    セネカと言えば、ローマ帝政の初期の哲学者で、イエス・キ1とほぼ同時代を生きた人です。そのセネカが書いたのがこの本で、人生は短いと嘆く多くの人達に対して、「われわれは、短い時間を持っているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大な事をも完成できるほど豊富に与えられている」と説いています。

    これは、2000年前のローマの時代の言葉ですが、現代でも十分に通用します。仕事と遊びが繰り返す毎日を送り、いつの間にか季節が巡り、年を取った自分が一体何をしてきたのだろうと思うことがあります。こんな疑問が湧くこと自体が、時間を浪費している証拠なのかもしれません。今からでも遅くないので、セネカの言葉に従って、充実した毎日を送りたいものです。

    ちなみにセネカは、皇帝ネロに自殺を命じられます。
    自分自身の運命を予期していたからこそ、自分の大事な時間を善く生きたいと願っていたのかもしれません。

  • 生の短さについて、幸福な生について、心の平静について、の三篇である。マルクス・アウレリウスの自省録と同様セネカも、快楽や欲望に溺れたり、こだわり過ぎないように説いている。人間は無から生まれて無に還っていく。従って、その間に得られたものや失ったものは全て重要なものではないとする。共感する。

    また、他人の行状を非難したり気に病むような時間の余裕はないとも言っている。セネカの時代から、人は時間の大切さを知らず、あたかも永遠に人生が続くかのように日々を無為に過ごしていたようだ。多忙の中に身を置く中で、本当に大切なものを見失い、老いてからそれを嘆いていたようだ。まさしく現代人と同じである。アウグストゥスのような人物でさえ、日々の仕事に忙殺され、余暇を求めていたようだ。

    私達は普段「自分の人生」「自分の時間」を生きているのだろうか?それとも、誰かの人生、誰かの時間を生きているのだろうか?もし自分の人生を生きていないなら、それは不幸なことだとセネカは説く。仕事に縛られ、忙殺された人生ではなく、自分の精神を、心から為したいことに向けよと言う。自分という船の舵取りをせよということだろう。こちらも、大いに共感できる。

    人生は短い。にもかかわらず、現代人は様々なものに縛られてばかりである。過度に情報化された社会の中で「かくあらねばならない」という妄想にとりつかれている。私はその縛りから解放されて、自分の心を知り、それに従った人生を送りたい。そう思った。

  • 読む前は、人生を1日に例えると、睡眠7時間、食事1時間、仕事10時間 
    残り6時間が人生という感覚だったが、本書を読んで、その6時間さえも自分だけの時間か?という問いが投げかけられていた。「誰かの為に時間を簡単にあげてしまう。」「怠惰な多忙」「無益な研究」時間の落とし穴を避けて通った自分の1日の人生の時間は、休日でも1時間あるか、無いかだと感じた。
    また時間を過去、現在、未来に分類した時、「現在は過ぎ去るのに短く」「遠い未来に煩わされる」などの警句から、過去を振り返る重要性を再確認しました。
    「人生一度きり」貴重な自分だけの時間を大切に過ごしていきます。

  • 全体的に冗長な文章に思えたが、この本を理解するには私の想像力が乏しいのかもしれない。

    理由はわからないが私は高校生の頃から"時間は有限である"という概念に囚われて続けており、これまで何かと忙しない人生を送ってきた。
    そうして過ごした時間の中には当然浪費も含まれていたであろう。

    ここ数年で自分自身と向き合う時間が増えたことで、時間を浪費するとはどういうことなのか、体感的に理解できるようになった気がしている。
    モラトリアム期間である学生時代にこのことに気づけたのは幸甚の至りである。

    人生100年時代とはいえ、明日どうなるかはわからない。
    見えない未来を恐れて忙しく生きる必要は無いけれど、忙しく生きるのであれば自分の心に正直になることは心に留めておきたい。

    ✏ひとはだれしも、未来への希望と、現在への嫌悪につき動かされながら、自分の人生を生き急ぐのだ。 しかし、すべての時間を自分のためだけに使う人、毎日を人生最後の日のように生きる人は、明日を待ち望むことも、明日を恐れることもない。というのも、[未来の]ひとときが、彼にどんな新しい楽しみを与えうるというのか。彼は、すべてを知りつくし、すべてを十分に味わっているのだ。

    ✏ところが、先延ばしは、人生の最大の損失なのだ。先延ばしは、次から次に、日々を奪い去っていく。それは、未来を担保にして、今このときを奪い取るのだ。

    ✏生きるうえでの最大の障害は期待である。期待は明日にすがりつき、今日を滅ぼすからだ。あなたは、運命の手の中にあるものを計画し、自分の手の中にあるものを取り逃がしてしまう。

  • 1年生の終わりに読んだことを思い出し、過去の自分に向けてレビューを書いてみた。(本書の主張との整合性は確認していない。)
    授業にバイトにサークルにと忙しく過ごしていたものの、どこか虚しく何も楽しくない時に全てを止める勇気をくれた一冊。

    -------
    文字通り、忙しさに殺されてはならない。
    それは流された環境において、自分以外のものとのしがらみに囚われ、身に降りかかる物事を受動的にこなすだけの日常に時間を奪われていることを示すからである。

    生殺与奪の権を日常に握らせるな。
    日常から時間という名の生を奪還せよ。

    ”思考”を重ね自分のために生きれば、日々はドラスティックに変貌し、そこに日常など存在し得ない。
    大元の思考を大切にするためには、常に余裕をもつことが大事である。
    自分と向き合う時間を何よりも大切にしろ。

    余裕を身に纏え。
    --------

  • 「死ぬ術は生涯かけて学びとらなければならない」などの名言目白押し。カネや面子に囚われず、徳のために生きましょうという内容なのだが、最後の方で「そやかて自分めちゃ金持ちですやん」という突っ込みに、文字通り必死で虚勢を張るさまに失笑した。オチ付き。

    こういう古い本は当時の風俗を知る上でも興味深い。ハゲはやっぱり恰好悪かったんだなとか、女の年齢詐称も既にあったんだなとか、本の蒐集家も居たんだとか、訴訟が結構多かったんだなとか、ほとんど現代の話にしても違和感が無い。引っ掛かるのは奴隷と男色くらい。

  • 自分の自由を拘束しているのは
    いついかなる時も自分自身であるのかもしれない。

  • 君たちは永久に生きられるかのように生きている。▼忙しさで心が散漫になると、なにごとも深く受け入れることができなくなる。そして、すべてのものを、むりやり押し込まれたかのように、吐き出してしまう。p.37▼生きることの最大の障害は期待である。それは明日に依存して今日を失うことである。セネカ『生の短さ』

    無為に過ごした80年は何の役に立つというのか。その人は生きたのではなく、人生をためらっていたのだ。死ぬのが遅かったのではなく、長い間死んでいたのだ。▼運命は望む(志ある)者を導き、望まぬ(志のない)者を引きずっていく。▼どこにでもいる人はどこにもいない。旅に人生を送る人たちは、多くの歓待を受けるが、友情を結ぶことはひとつもない。▼不要なものは一文でも高い(大カト)。セネカ『倫理書簡集』

    人の命を奪うことはできるが、死を奪うことはできない。セネカ『フェニキアの女たち』

    怒りは必要である。怒りは気概に火をつける。ただし、怒りを指揮官ではなく、兵士として扱わねばならない(アリストテレス)。セネカ『怒りについて』

    財産は、賢者にあっては奴隷の地位にあるが、愚者にあっては支配者の地位にある。セネカ『幸福な生活について』

    所有の少ない人が貧しいのではない。渇望が多い人が貧しいのだ。セネカ『手紙』

    恩恵を施す者はそれを隠せ。恩恵を受けた者はそれを公にせよ。セネカ『恩恵について』

    一度も不幸な目に遭わなかった者ほど不幸な者はいない(デメトリオス)。セネカ『摂理について』

    難しいからやろうとしないのではなく、やろうとしないから難しいのだ。セネカ

    ※セネカ。道徳哲学。皇帝ネロ(在位54~68)の先生。属州ヒスパニアのコルドバ生まれ。

    竪琴を弾いて歌う人は、自分独りで歌うなら不安を感じない。しかし聴衆の前に出ると、たとえ非常に声が良く、竪琴を見事に鳴らしても不安になる。なぜなら彼は見事に歌いたいだけでなく、拍手喝采もされたいから。しかし「拍手喝采」は彼がどうにかできるものではない。p.171.▼自分ではどうにもならない意志外のことには大胆に、自分の意志でどうにかなるものには細心であれ。死に対しては大胆に、死の恐怖に対しては細心であれ。p.125-127.▼君は私の足を縛ることができる。しかし私の意志はゼウスでも征服できない。p.17エピクテトス『人生談義』

    自分自身を統治できない者は自由ではない。エピクテトス『断片』※ローマ帝政、ネロ時代。

    死を安らかな心で待て。死は生物を構成する要素が解体するにすぎない。万物の変化と解体は自然による。自然によることに悪いことは一つもない。私の魂も物質も消滅して無になることはない。私のあらゆる部分は変化して、宇宙のある部分に配分され、それが新たに宇宙のほかの部分に変えられる。▼何かをしたために不正である場合だけでなく、何かをしなかったために不正である場合もある。▼すべて君が苦手だと思うものに慣れよ。左手は習慣のないために他のあらゆる仕事には不器用なのに、手綱は右の手よりもしっかりと持つ。これは慣れているからだ。▼もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。▼得意にならずに受け、いさぎよく手放せ。▼苦しみには限界があり、恐怖に想像を加えることしなければ、堪えられないことはなく、また永続するものでもない。マルクス・アウレリウス『自省録じせいろく』

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著者プロフィール

ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca)。紀元前4年頃(紀元前1年
とも)~紀元65年。古代ローマのストア派の哲学者。父親の大セネカ(マルクス・アンナ
エウス・セネカ)と区別するため、小セネカ(Seneca minor)とも呼ばれる。ローマ帝国の
属州ヒスパニア・バエティカ属州の州都コルドバで生まれ、カリグラ帝時代に財務官とし
て活躍する。一度はコルシカ島に追放されるも、クラウディウス帝時代に復帰を果たし、
のちの皇帝ネロの幼少期の教育係および在位期の政治的補佐を務める。やがて制御を失っ
て自殺を命じられることとなるネロとの関係、また、カリグラ帝の恐怖の治世といった経
験を通じて、数々の悲劇や著作を記した。本書はそのなかでも「死」との向き合い方について説いた8つの作品がもとになっている。

「2020年 『2000年前からローマの哲人は知っていた 死ぬときに後悔しない方法』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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