エピクテトス 人生談義 (下) (岩波文庫)

  • 岩波書店 (2021年2月18日発売)
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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784003360842

作品紹介・あらすじ

「もし君が自分のものでないものを望むならば、君自身のものを失うことになる」。ローマ帝国に生きた奴隷出身の哲人エピクテトスは、精神の自由を求め、何ものにも動じない強い生き方を貫いた。幸福の条件を真摯にさぐるストア派哲学者の姿が、弟子による筆録から浮かび上がる。下巻は『語録』第三・四巻、『要録』等を収録。(全二冊)

みんなの感想まとめ

自己の意思と理性に基づく生き方を重視し、外的な要因に依存しないことの重要性を説く哲学が展開されます。エピクテトスは、肉体や財産、他人の期待など、力の及ばないものに心を奪われることの無意味さを強調し、逆...

感想・レビュー・書評

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  • 自分の力が及ぶもの=意思と理性のみを重視し、力の及ばないもの=肉体、役職、財産、他人等には一切期待しない。そして意思を誘惑する様々な心象≒欲望を避ける訓練法などを勧めながら、逆に外的なものに意思を依存した人間の末路や有様が刻々と語られる…

    「外的なものに一切依存しない」という姿勢は、リスク回避という後ろ向きな目的ではなく、意思を完全に自由にするためには捨てなければいけないものなのだ、と理解した。

    上巻と下巻を通して読んだが、やっぱり思想の全体感を掴むには難しい。と思ったら、下巻最後の「要録」に40ページ程で全体の要約があった笑
    なんだ、最初にこっちから読んでおけば良かった!

  • 504P

    ギリシアローマ時代に出来た本が素晴らし過ぎて、人類はここでもう完結してたんじゃないかと思う。

    エピクテトスの人生談義に『人は起こることではなく、それをどう捉えるかで心が乱される』って言葉があるんだけど、私人からマウンティングされたことないし、裏切られたことも無いんだけど、マウンティングと裏切りって捉え方でかなり左右される気持ち悪い言葉だなと思った。こういう言葉昔から苦手。

    ニーチェ、アラン、パスカル、夏目漱石も尊敬していた!古代ローマの哲学者「エピクテトス」

    言行録「人生談義」は人生にまつわる悩みごとを先生が切れ味抜群に回答。夏目漱石も愛読した名著。

    エピクテトスが「早く走れるようになりたいなら毎日早く走れ」と言っていて、要するに2000年近く前に答えは出てる。絵が描けるようになりたいなら絵を描く。勉強できるようになりたいなら勉強をする。他に薬などはない。これ以上「勉強法」などを売り捌く下品な自己啓発屋に搾取されてはならない。

    エピクテトス
    1~2世紀、ローマ帝国時代のストア派哲学者。解放奴隷出身でネロ帝に仕えた。ローマ帝政時代のストア派の哲学者。小アジアのフリギア出身の奴隷であったが解放され、文章家としてネロ帝などに仕える。外的なものに左右されず、自己を確立することによって自由を得ることを説いた。その思想は、五賢帝の一人、哲人皇帝といわれるマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝にも影響を与えた。

    「書物は、もしそれがよりはっきりした文字で書かれたものならば、誰でもより気持よく、そしてよりたやすく、読むことができるだろう。それで言論も、もしそれが口調よく、同時に適切な言葉でいい表わされたものならば、人は誰でももっとたやすく、聴取できるだろう。従って表現能力が、存在しないなどといってはならない。というのはこれは、信仰のない人や、同時に卑怯な人のいうことであるからだ。信仰のない人というのは、それは神からの恩恵を軽視するからであって、ちょうどそれは人が視力もしくは聴力もしくは言語自身の使用を棄てるようなものだ。ところで神は君にあてずっぽうに眼を与えたのだろうか、遠方に達して対象の像を形づくるような、そういう強力にして巧妙な霊(*)を、神はそれら眼に対して、あてずっぽうに混合したのだろうか。いやどんな使者がこのように迅速で注意深いだろうか。またあてずっぽうに神は中間の空気をして、そんなに活動的に、弾力あるようにし、従ってその張り合っているものを通して、視力が通過するようにしたのだろうか。またあてずっぽうに、神は光を、つまりそれがなければ他のいかかるものも役に立たないような光をつくったのだろうか。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「家であなたの好きなだけの競争をやるがいい、そして彼がネメア、ピュチア、イストミア、オリンピアの競争で勝つように、叫ぶがいい。だがしかし公の場所では人より余計に所有しようとするな、また共有のものをわがものとするな。もしそうでなければ悪口を辛抱するがいい。なぜかというにあなたが大衆と同じことをする時には、あなたはあなた自身を彼らと等しい処へ置いているのだからである。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「そのように熱病の時もしていないだろう。いやもし立派に散歩しようとするならば、散歩にふさわしいことをするだろう。もし立派に熱病を病むならば、君は熱病にふさわしいことをするだろう。立派に熱病を病むとはどういうことなのか。それは神をも人をも非難せず、出来事によって悩まされず、立派に死を期待し、なすべきことをなすことである。また医者がやって来た時、彼が何というかを恐れもしなければ、「こりゃいい」といっても、悦び過ぎることもないことである。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「寂しさとは寄るべのない人のある状態である。というのは孤独である者が直ちに寂しいのでないのは、ちょうど大衆の中にいる者が寂しくないのと同じわけである。とにかくわれわれが兄弟や息子や信頼している友人を失った時には、われわれは往々ローマに住んでいて、沢山の群衆に出逢ったり、沢山の人々と一緒に住んでいたり、時にはおびただしい奴隷を持っていたりしても、寂しく残されてしまったというのである。というのは、寂しい者とは概念的にいうと、寄るべなく、毀害を加えようと欲する人々にさらされている者を意味するからである。だからわれわれが旅をして盗賊の手に陥った時、その時はとりわけわれわれを寂しいというのである。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「アイオロスはテッサリアの支配者で子沢山だった。シシュポスはその一人で有名な盗賊で、その罪の故に、永遠に山巓へ石を転がして行き、転げ落ちてはまた転がして行くという罰を受けた。 (* 3)「イリアス」第二二巻。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「それから他のすべての気晴らしの代りに、君が神に従順であるということ、また言葉によってではなく、行為によって、知徳兼備の人の義務を果しているということの自覚から来る気晴らしを持って来るがいい。というのは自分が自分自身に対して、次の如くいうことができるということは、何と素晴らしいことだろう、「現在私は、他の人々が学校で勿体ぶって話したり、パラドックスを話したりしてると思われることを、実行しているのだ。そして彼らは坐って私の徳を説明したり、私について探求したり、私を褒めたりしているんだ。そしてゼウスは私をして私自身からこの証明を得させようとし、また自身兵士らしい兵士や、市民らしい市民を持っているかどうかを知ろうとしているのであるし、また他の人々に対しては、私を意志を越えてるものについて(真の善は意志外のものにはなく、われわれの意志にあるということ)の証人として、引き合いに出そうと欲したのである。『見給え、諸君は無闇に怖がっている、諸君は諸君が欲しいものを空しく欲している。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「また動物の場合、われわれが自由の観念をどのように用いているか考察してみるがいい。人は馴れた獅子を檻に入れて世話したり、食わしたり、またある者は連れて歩いたりする。だが誰がこのような獅子を自由だというであろうか。おとなしい生活法をしているだけ、それだけ奴隷的なのではないだろうか。もし彼が感覚や理性を持っていたとしたならば、どのような獅子がそのような獅子になろうと欲しただろうか。(あそこにいる)鳥どもを見給え、彼らがつかまえられて、籠に飼われる時、彼らは逃げようとしてどんなにもがくだろうか。そして彼らのあるものは、そのような生活を辛抱するよりも、むしろ飢え死をするし、また生きているものでも痩せ衰えてやっとこすっとこ生きてるのだ、だからもし何か穴でもあいているのを見つけるならば、飛び出てしまうのである。そんなに彼らは、自然的な自由や、独立や、邪魔されないということを求めているのだ。  しかし籠の中は君にとって何が悪いか。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「人を卑しくし、他に隷属するようにするものは、ただ官職や富の欲望だけでなく、平静や閑暇や旅行や学識の欲望もそうであるということを記憶しておくがいい。なぜかと云うに、概して外物は、どんな性質のものであろうと、その価値は他に隷属させるからである。それで議員になろうと欲するのと欲しないのとでは、何の差別があるか。官職を欲するのと欲しないのとでは、何の差別があるか。「私は都合が悪い、私は何もするものがない、いや私は死体のように書物に縛られている」というのと、「私は都合が悪い、私は読書する暇がない」というのと、何の差別があるか。というのは挨拶や官職が外的な意志を越えたものに属しているように、書物もその通りだからである。それとも何のために君は読書しようとするのか。どうかいってくれ給え。というのはもし君がそれを娯楽のためか、何かを知るためになすのであるならば、君はつまらないあわれむべきものだからである。だがもしなすべきもののためになしているのであるならば、それはゆとりを持つこと以外の何であろうか。だがもし読書が君に心のゆとりを持ち来らさないならば、それは何の役に立つだろうか。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「ある人の気に入りたいという気持からして、一度外部に心惹かれることがもし君にあるならば、君の計画は御破算だと知るがいい。それですべての場合、哲学者であることで満足し給え。だが哲学者であると思われたいならば、君自身にそう思わせるがいい、そしてそれで十分だろう。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著



    「孤独とは頼るものがない人の心の状態のことである。というのは、ひとりでいるからといってただちに孤独であるわけではないのは、多くの人の間にいるからといって孤独でないとは言えないのと同じだからである」(P77)

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  • 【鹿大図書館の所蔵情報】
    https://catalog.lib.kagoshima-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BC05546531

    【選書ツアーコメント】
    善く生きるとはどういうことか
     感情に振り回されず理性的な判断に従うことによって精神の自由を追求したエピクテトス。雑念に思い悩まず自分の務めに専心する生き方の価値が、巧みなレトリックのもとで語られる。ストイックの語源にもなったストア派の哲学は、2000年の時を経た現代でも多くの人の心をとらえる。

  • 上でも語られたテーマが繰り返されるが、哲学の実践に悩む弟子には寄り添い、モテを気にしてファッションに走る俗に傾いた弟子は厳しく注意し、形だけ過剰に哲学者らしく(貧相で汚れた)している男には辛辣にかつ念入りに説得するなど、人としてのエピクテトスの動き方を見ることができる

  • 下巻は「語録」の残りと断片集、短い「要録」が収録されている。語録は相変わらず「自分の力の及ばない物事にわずらわされず、自分の自由になる唯一のものである意志を善くしていく」ことをいろいろなテーマに合わせて繰り返し繰り返し語っているのだが、ちょっとわかりにくい。しかし巻末に収録されている要録は非常にコンパクトにわかりやすく書かれていて、もうこれ読めば十分じゃないかというか、今まで読んできた語録は何だったんだと思わされる(笑)。
    哲学の学校は健康な者が来るところではなく、病気の者が来て苦しんで帰るところだ、という一節があったが少し考えさせられた。結局のところ、私は人生の意味とか実存的不安に悩んでいないからこうして哲学を読んでいてもいまいち響かないのだろう。別の本を読むのに必要があって読んでいるから、仕方ないのだが。

  • われわれの力が及ぶのは「判断、衝動、欲望、忌避」といった、意志のみである。それ以外のものは力の及ばないものである。力の及ぶものだけに注意を払い、それ以外の事物に心を奪われるべきではない。 といった趣旨のことを述べ続けている。
    度々ソクラテスやディオゲネスがリスペクトの対象として引き合いに出される。一方でエピクロスはやはり敵対視されている。
    古代哲学は万物の根源(火だとか水だとかアトムだとか)を何なのかという命題をよく議論している。エピクロスは自然現象を知ることが不安を払拭し、心の安寧につながると考えていた。一方でエピクテトスは、そういった力の及ばないことを考えても無駄だという立場をとる。ここにもストア派と快楽派の異なる立場が見えて面白い。

  • 上巻と同じく意志を重視し、「意思と関わりのあるもの」と「意思と関わりのないもの」との区別が何度も繰り返されている。読んでいると確かに区別はちょっと哲学っぽい。物事を悪くとらえるのではなく、一度眺めて起こっている物事の現象だけ取り出し、自分の意志を加える、というのはすげーと思いつつ…難しいだろうなぁ…

  • 自己啓発の先にある不安障害って感じで素敵です

  • 期せずして、本書の通読講義を受けることができた。
    今回で『語録』部の通読を終え、残すところもわずか。この機会がなければ”ストア派”に親しむことはなかっただろうし、講義では『Epictetus: A Stoic and Socratic Guide to Life』(A. A. Long)の紹介ー外国語はまったくだめは私にとっては救いーもあり、一気に距離を縮めることができたように思う。

    本書で「意志」と訳されている語は、今日わたしたちが日々使用する「意志」との隔たりは大きい。そこにはストア派ーそしてエピクテトス特有の倫理「Theos=Cosmos=logos」「決定論+運命論」が色濃く反映されており、魂が「自由」であるとはどういうことか、を反省的に考えることができた。

    講師がサルトルの命題「人間は自由の刑に処せられている」を引用された。「自由」とは選択肢の多さと自己決定に規定されるというドグマのなかにいることが反省させられた。真に希求されるべき自由、自由意志を見失ってはいないだろうか?繰り返し繰り返し説かれる『語録』の場面から、今日と同様の課題が、当時の社会にも課されていたのかもしれない。

    『語録』には人生のお手本としてソクラテス、シノペのディオゲネスがたびたび登場し、「よく生きる」ことについて語られる。ここでは、悲観的な印象であった決定論、運命論が、むしろ、積極的に生の肯定の色彩を与えてくれた。同時に「外的なもの」への態度は、圧倒的なメディア社会の中にあっての処世術を教えてくれ、厳しい反省を促された。

    講義ではたびたび『語録』の語られた場面、著述そのものについても考察され、文献学の面白さも知ることができた。

  •  エピクテトス(50?-135?)自身が著した本ではなく、アリアノスが師から聴いた講話を出来るだけその話し方そのままに再現した形で記録した『語録』、それを簡潔にまとめた『要録』、種々の筆者によりエピクテトスに言及した断章を幾らか集めた『断片』を収めたもの。岩波文庫上下巻の大半は『語録』が占めており、あとの2編は分量はごく少なく、下巻の後半に載っている。
     昨2020年に岩波文庫から出た「新訳」版なのだが、『語録』はどうも読みにくかった。平明な言葉を話しているのに、文と文の相互関係が意想外に乱れており、現代日本語としてはちょっと分かりにくすぎる。思うに、「分かりやすくなるよう」に括弧[ ]などでもっとたくさん接続詞等を補ってやるべきではなかったか?
     しかもこの『語録』、数ページから成る短いエピソードが大量に入っているのだが、何も考えずに配列したようなデタラメさで、このアリアノスという人の無才無芸が際立っている。そもそも、速記が出来たとも思えぬし、本当にエピクテトスがこう語ったのだというのも疑わしい。むしろ『要録』の方が簡潔な文章になっているので理解しやすい。
     いずれにしても、本書を読んでエピクテトスにおいて語られたストア派の教義を知ることは出来る。世界の真理をくまなく調べていこうとするようなアリストテレス的知とは異なって、ここでは「自分の心をいかに陶冶するか」という人生論的な方針に哲学知は限定される。

    「次のことを心に留めておくがいい。君を辱めているのは、罵ったり殴ったりしている人ではなく、彼らが辱めているという思いなのだ。だから、だれかが君を怒らせたなら、君の考えが君を怒らせたのだということを知るがよい。だから、まず第一に心像によって心を奪われないように心がけよ。・・・(後略)」(『要録』二〇 下巻P373)

     このような自己陶冶のテクネ—は、現在の日本人にとってもある意味では参考になるのかもしれない。ストレスだらけの社会生活を孤独にさすらう、寄る辺もない現代人がすがりつくものを求め、安直な自己啓発本や、怪しげなカルト宗教や、アドラーなんていう二流の心理学者の「ことば」に飛びついたりするのも、まあ気持ちは分かるとして、エピクテトスの本書も、そういった需要に応えうるところがあるだろう(しかし分かりにくい日本語訳が問題だが)。
     誰かに何かをされたり、「自分の力の及ばないこと」に対しては「自分には関係ない」と捨象し、代わりに心の平静さを保つための自己鍛錬に専心する。こうして限定された「自己」こそが本当の「自由」であり、宇宙の自然本性にかなった知や生き方を約束するものである。
     このようなスタンスは、何かと心乱される日常生活において確かに心がけた方がよいのかもしれないという気はする。しかし、そんな有用性よりも、この時代のストア派の知の権力において、「自己への配慮」が全力で推進されたという、ミシェル・フーコーの系譜学的考察を参照するのが面白い。
     フーコー『性の歴史Ⅲ 自己への配慮』には、マルクス・アウレリウスの「自身の外をさまようこと」を止め「自分自身を支援せよ」と自らに呼びかけるような思考へとつながる言説として、「この主題についての最高の哲学的琢磨が表れるのは、多分エピクテトスにおいてだろう」という指摘がある(田村俶訳 新潮社、P.65)。
     フーコーと共に、古代の思想をメタ的に辿り直し、そして現在、消費財としての「自己啓発」ベクトルのテクネ—が人々の間で濫費される状況を顧みてみる、というプロセスに魅力を感じている。

  • 「語録」の続きと「断片」「要録」を収録。

    断片は色々な書物のエピクテトスの言葉を集めていて、
    「要録」は弟子のアリアノスが分かりやすくまとめた本。
    断片にはアントニヌス帝の「自省録」からの引用もある。

    やはり意志をコントロールし外物に動かされない
    ということを繰り返し言葉を変えて説いている。

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著者プロフィール

京都大学文学部非常勤講師
1952年 大阪府生まれ
1985年 京都大学大学院文学研究科博士課程修了
2005年 京都大学博士(文学)
主な著訳書
 『新プラトン主義の原型と水脈』(共著、昭和堂)
 『イリソスのほとり—藤澤令夫先生献呈論文集』(共著、世界思想社)
  K・ヘルト『地中海哲学紀行』全2巻(共訳、晃洋書房)
 『ソクラテス以前哲学者断片集』1—3巻(共訳、岩波書店)
  K・カーク他『ソクラテス以前の哲学者たち』(共訳、京都大学学術出版会)

「2007年 『プラトンのミュートス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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