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Amazon.co.jp ・本 (160ページ) / ISBN・EAN: 9784003361313
感想・レビュー・書評
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三部、四部まではまだ良いけど
それ以降はちょっとよくわからない。
再読予定。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
真理の探究と、日々の生活と。
デカルトの『方法序説』って、こんなに薄いんだあ、これくらいなら私にも読めるかも。
そんな気持ちから、あるとき書店で、気軽に他の本と合わせ買いした本書。
いや……確かに薄いけど……、めっっちゃ、固い。
フランス語らしい構文で綴られる、抽象的な議論と自然学の考察の断片。
当時の主流な学問から距離を置き、自らの思想を打ち立てようとする試み。
もうちょっと、それ以前の学説に関する本を読んでから、手にとれば良かったと後悔しつつ、やっぱり薄さに助けられ(笑)、何とか読了。
個人的に面白かったのは、
「わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れない」
と宣言したデカルトが、その真理の探究の道のさなかで
「工事の期間中、居心地よく住める家をほかに都合しておかなければならない。」
として自分に定めていた道徳を語った第三部。
・極端からはもっとも遠い、いちばん穏健な意見に従って自分を導いていく
・自分の行動において、できるかぎり確固として果断である
・世界の秩序よりも自分の欲望を変える
などなど。
日常生活の中でも、結論が出ていないのに、時間的には何かしらの対処を迫られる問題って、たくさんありますよね。
苦手だけど全く無縁でいるわけにもいかない人との付き合いとか、持ち家か賃貸かとか、ちっちゃなことだと、キャッシュレス決済まだやってないけど導入しようかなあ、とか。
自分にとって納得のいく折り合いをつけたいけれど、まだ見つからない、でも現実的には何かしら対処していかなければならない、という時。
そうか、これからは、この道徳に頼らせてもらおう。
この本の主題からは脇道にそれた感想になりましたが、デカルトが掲げた近代精神の確立についても、引き続き少しずつ学んでいこうと思います。 -
方法序説
著:デカルト,R.
訳:谷川 多佳子
岩波文庫 青613-1
1637年ラテン語で発表された本書は、教会からの迫害を恐れて、無名のまま発表された。
当時は、宗教界の圧力は強く、生前には本人の名を出すことはできなかったようだ
我思う故に我有り:コギト・エルゴ・スム
逆説のようですが、完全なる神の理念が中心と理解しました。
つまり、論理の世界から神、神学が除外されるのは、ニーチェの「神の死、神々の死」を待たなければならないです。
用いる言葉をすべて、定義することはできず、哲学的な考察については、厳密性に欠け、行間を含めて、論理に飛躍があるが、哲学とは、完全性を証明するものではなく、「知を愛する」ということでよいでしょうか
気になったのは、以下です。
・きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながら道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる
・理性すなわち良識が、わたしたちを人間たらしめ、動物から区分する唯一のものである
・良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人々と親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念は準備のなされたものだ。
・一人で闇のなかを歩く人間のように、きわめてゆっくり進み、あらゆることに周到な注意を払おう
そうやってほんのわずかしか進めなくても、せめて気を付けて転ぶことないように、とわたしは心に決めた
・全生涯をかけて自分の理性を培い、自ら課した方法に従って、できるかぎり真理の認識に前進していくことである
・ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に謝りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見極めなければならない、と考えた
・われわれの持つような感情と欲求を持ち、そうして真の人間を構成するためには、理性的魂が身体と結合し、より緊密に一体となる必要があることも示した
・わたしは生きるために残っている時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使うまいと決心した。その知識は、そこから医学のための諸規則を引き出すことができるようなもので、それらの規則はわれわれが現在までに持っている規則よりももっと確かなものである。
■デカルトの論理
・「我思う故に我有り」
この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられると判断した。
・わたしは、一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない
・考えるためには存在しなければならない
・わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である
・完全性の高いものが、完全性の低いものの帰着であり、それに依存するというのは、無から何かが生じるというのに劣らず矛盾しているからだ。
・そうして残るところは、その観念が、わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた、ということだった。
・つまり、一言でいえば、神である本性だ。
・わたしの本性に可能なかぎりで神の本性を認識するためには、わたしのなかに何らかの概念が見出されるすべてのものについて、それを所有することに完全性があるかないかだけを考察すればよかったからである
・神のうちにある一なる完全性ではありえずしたがって神は合成されていない
だがもし、世界に何らかの物体、あるは、知性的存在者、あるいは、他の本性があって、それらが、完全無欠でないとすれば、それらの存在は神の力に依存しているにちがいなく、そうなると神なしには、一瞬たりとも存在できないと。
・多くの人が、神を認識することにも、自分たちの魂が何であるかを認識することにさえも困難があると思い込んでいる。
イメージを思いうかべられないものは、すべて、かれらには理解できないと思われるからである
そもそも、感覚のうちになかったものは、知性のうちにはない。
・結論として、われわれの観念や概念は、明晰かつ判明であるすべてにおいて、実在である
実在であり、神に由来するものであり、その点においても、真でしかありえないことになる
目次
方法序説
第一部
第二部
第三部
第四部
第五部
第六部
訳注
解説
ISBN:9784003361313
出版社:岩波書店
判型:文庫
ページ数:160ページ
定価:570円(本体)
1997年07月16日第1刷
2014年02月14日第29刷 -
林修先生がメディア等で紹介されてたので、試しに読んでみた。
ページ数も少なくて、数日で読めるかと思いきや敢え無く撃沈。
有名な「我思う故に我あり」は何となく理解はしたが、それ以外のくだり(特に神を絡めた文章)は、繰り返し読んでも頭に入らなかった。 -
人類史上最大の知性(の一人)、ルネ・デカルトが自分の論文集の序文として一般向けに書いた本。
「我思う、ゆえに我あり」の一節はあまりにも有名。
読み心地は哲学書というより、科学者のエッセイといった感じ。
広範な学問を修め尽くしたデカルトは、「学問の基礎(哲学)なんて、いろんな人がいろんなことを言ってて、全然確固たる基盤がないじゃないか。土台があやふやなままだと科学も真理に迫れやしない」と考えた。
それで、とりあえず根拠のあやふやものはすべて疑ってみた。
ただ、世の中のものすべてが疑わしいと考えたわけではなく、あくまで真理に迫る手段として疑ってみた。(「方法的」懐疑)
その結果、あらゆる思考の出発点として「物事を考えている私は確かに存在している、ひとまずそれを真理と認めましょう」という結論に至った。(「我思う、ゆえに我あり」=「コギト・エルゴ・スム」)
それから、数学はとにかく正しい、直感的に考えて「2+2」の解は4以外にありえないし、三角形の内角の和が180度なのはたやすく証明できる。そういうものだけを真理と認めよう。(「明晰かつ判明」)
ちなみに、中学や高校の数学で習う関数のグラフの書き方とか、微分・積分の理論とか、変数はx・y・zで表し、定数はa・b・cで表すっていうルールとか、「2乗・3乗」の2や3は右上に書くっていう記法とかを考えたのがデカルト(豆知識)。
「コギト」の真理は一応見出したけど、デカルトはそこから推論を一つ一つ丁寧に重ねていくわけではない。そこはスピノザと違う。
本書の中でデカルトは、神の存在証明をちょちょいとやってのけているけど、その出発点となる「実体」の定義や、「完全者が存在する」「人間は完全ではない」という前提もほんとにそれでいいの?と思ってしまう。
「いろんな哲学者がいろんなことを言うから哲学は根拠があやふやだ」っていうなら、神の存在なんて一番最初に斥けられるのが筋じゃないのか。
「コギト」以降のデカルトの論の展開の仕方はむしろ若干乱暴な感じがする。
事実、デカルトが主張していた天文学や人体に関する数々の学説は、後世の科学者たちによって誤りであったことが指摘されていたりする。
(世界は目に見えない謎の物質で満たされていて、潮の干満は月がエーテルを押したり引いたりすることによるという、いわゆる「エーテル論」をニュートンの万有引力が完全否定しさったことは有名。ただ、よく言われる「ニュートンの万有引力によってデカルトの物心二元論は崩れ去った」という言説には微妙に納得いかない。機械論的説明が否定されただけで物心二元論が否定されたわけじゃない……よね?)
それはさておき、デカルトが自分に課した「3つの格率(自分ルール)」が面白い。俺ルールにも採用したい。
・第一格率:疑ってばかりではなく、とりあえず自国の法律と慣習には従っとけ。
・第二格率:自分がこれと決めた意見は、たとえ途中で疑わしくなっても最後まで投げ出すな。何が正しいか判断できないときは「より正しいっぽい」意見にしとけ。
・第三格率:「私の力」が及ぶ範囲はどうせ「私の思考」に限られているので、世界を変えようとするよりは自分が変われ。 -
デカルト
17世紀の哲学、科学に大きな影響を与えた、大陸合理論の中心人物。フランス人であるが、三十年戦争時代のオランダなどで活動した。
デカルト
デカルト ルネ=デカルト René Descartes 1596~1650 は、フランスに生まれ、オランダなどで活躍した、17世紀の科学革命を牽引した人物の一人。三十年戦争の勃発した1618年にオランダに渡り、さらにドイツ、イタリアなどにも旅し、1628年からはオランダに定住して、アムステルダムなどで暮らし、数学、医学、天文学、などの科学の方法論的な原理の探求を重ね、1637年、『方法序説』を発表して、17世紀の科学と同時に、哲学の上で大きな影響を及ぼした。デカルトは、すべてのものを徹底的に疑ったうえで(これを方法的懐疑という)、それを考えている自分の存在だけが確かなことであるとして「われ思う、ゆえに我あり」(ラテン語では、cogito, ergo sum コギト・エルゴ・スム)という第一原理に立ち至った。
彼の自己存在から真理を演繹的に認識していく方法は、合理論哲学の潮流として、ライプニッツやパスカルなどヨーロッパ大陸で継承され、「大陸合理論」(それに対してフランシス=ベーコンに始まる「イギリス経験論」があった)が展開されていく。彼の合理的認識の根幹にあるのは数学的合理性であり、x軸とy軸によって現すデカルト座標を導入するなど、直線や曲線を代数方程式で表す新しい数学を生み出し、次の微積分法の基礎を築いた、といえる。その著作には他に、1641年の『省察』、1644年の『哲学原理』などがある。晩年にはスェーデンの女王クリスティナに招かれてストックホルムに赴き、1650年にその地で没した。
「わたしとしては、自分の精神が、どんな点でもふつうの人より完全だなどと思ったことはない。それどころか、ほかの人たちと同じくらい頭の回転が速く、想像力がくっきりと鮮明で、豊かで鮮やかな記憶力をもちたいと、しばしば願ったほどだ。そしてこれらの特質以外に、精神の完成に役立つものをわたしは知らない。というのも、理性すなわち良識が、わたしたちを人間たらしめ、動物から区別する唯一のものであるだけに、各人のうちに完全に具わっていると思いたいし、その点で哲学者たち 4に共通の意見に従いたいからだ。哲学者たちによれば、理性の多い少ないは、同じ「種」における「個体」の、「形相」すなわち本性によるのではなく、「偶有性」どうしのあいだにあるだけである 5。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「だが遠慮なく言おう。わたしは若いときから、わたしを考察と格率へ導いたある道に踏み入る多大な幸運に恵まれたと思う。それらの考察と格率(自らの学問、思想や生を導く規準)によって一つの方法をつくりあげたのである。そしてこの方法によって、自分の知識をだんだんに増やし、わたしの人並みの精神と短い生の達しうる最高点にまで少しずつ知識を高める手立てがあると思われた。というのも、その方法からすでに多大の成果を収めてきたので、自分を判断する場合、いつも、自惚れるより疑心を抱くほうであり、また哲学者の眼で万人のさまざまな行為や企てを眺めると、ほとんどが無益で無用だと見えるものの、それでもわたしは、真理の探究においてすでに成しとげたと思う進歩に非常な満足感をおぼえずにはいられないし、未来にたいしても大きな希望を抱かずにはいられない。人間の職業、純粋に人間としてなせる 6職業のうちに、たしかに優れた重要なものが何か一つでもあるとすれば、それこそわたしが選んだ仕事だと、信じたいほどである。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「しかし、わたしが間違っていることもありうる。金やダイヤモンドだと思っているものも、ただの銅やガラスにすぎないかもしれない。自分にかんすることでは、どれほど考え違いをしやすいか、友人の判断が、わたしたちに好意的であるとき、どれほど疑わしいものになりかねないか、わたしも知っている。けれどもこの序説〔話〕のなかで、自分がどういう道をたどってきたかを示し、一枚の絵に描くように自分の生涯を再現できれば、わたしにとってこのうえない喜びとなろう。つまり、各人がそれについて判断できるだけでなく、世間の評判から人びとの意見を知ること 7は自己教育の新しい手段であり、わたしが用いてきたものに加えられるからだ。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ。雄弁術には、くらべるもののない力と美がある。詩にはうっとりするような繊細さと優しさがある。数学には精緻をきわめた考案力があり、これが知識欲のさかんな人たちを満足させるのにも、あらゆる技術を容易にして人間の労力を軽減するのにも、大いに役立つことができる。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「習俗を論じた書物は、いかにもためになる教訓と徳への勧めを数多く含んでいる。神学は天国に至る道を教えてくれる。哲学はどんなことについても、もっともらしく語り、学識の劣る人に自分を賞賛させる手だてを授ける。法学、医学、その他の学問は、それを修める人に名誉と富をもたらす。そして最後に、これらの学問を、どんなに迷信めいたもの、どんなに怪しげなものまでも、ことごとく調べあげたことは、その正しい価値を知り、欺かれないよう気をつけるためによいことである。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「わたしは何よりも数学が好きだった。論拠の確実性と明証性のゆえである。しかしまだ、その本当の用途に気づいていなかった。数学が機械技術にしか役立っていないことを考え、数学の基礎はあれほど揺るぎなく堅固なのに、もっと高い学問が何もその上に築かれなかったのを意外に思った。これと反対に、習俗を論じた古代異教徒たち 14(ストア派)の書物は、いとも壮麗で豪華ではあるが、砂や泥の上に築かれたにすぎない楼閣のようなものであった。かれらは美徳をひどく高く持ち上げて、この世の何よりも尊重すべきものと見せかける。けれども美徳をどう認識するかは十分に教えないし、かれらが美徳という美しい名で呼ぶものが、無感動・傲慢・絶望・親族殺し 15にすぎないことが多い。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「次に、ほかの諸学問については、その原理を哲学から借りているかぎり、これほど脆弱な基礎の上には何も堅固なものが建てられなかったはずだ、と判断した。それらの学問が名誉や利益を約束してくれても、それだけでは学ぶ気は起きなかった。なぜなら、幸いにしてわたしは、暮らしのために学問を職業とせざるをえない境遇にあるとは感じなかったし、キニク派 16気取りで栄誉をさげすむことを標榜するのではないが、名目だけの肩書によってしか得られそうもない栄誉など重んじなかったからだ。そして最後に、悪しき諸学説にいたっては、わたしはすでに十分にその値打ちを見定め、錬金術師の約束にも、占星術師の予言にも、魔術師のまやかしにも、知らないことまで知っていると言いふらす人間どもの手管や広言にも、もうだまされまい、と思っていた。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問〔人文学〕をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物 17のうちに見つかるかもしれない学問だけを探求しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまの経験を積み、運命の巡り合わせる機会をとらえて自分に試 を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこから何らかの利点をひきだすことだ。というのは、各人が自分に重大な関わりのあることについてなす推論では、判断を誤ればたちまちその結果によって罰を受けるはずなので、文字の学問をする学者が書斎でめぐらす空疎な思弁についての推論よりも、はるかに多くの真理を見つけ出せると思われたからだ。学者の思弁は、それを真らしく見せようとすればするほど、多くの才知と技巧をこらさねばならなかったはずだから、それが常識から離れれば離れるほど、学者が手にする虚栄心の満足もそれだけ大きい。それ以外には何の益ももたらさない。だがわたしは、自分の行為をはっきりと見、確信をもってこの人生を歩むために、真と偽を区別することを学びたいという、何よりも強い願望をたえず抱いていた。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「たしかに、他の人びとの習俗を考察するだけだった間は、わたしを確信させるものはほとんど見いだされなかったし、そこにも、前から哲学者たちの意見のあいだに見られたと同じくらいの食い違いがみとめられた。したがって、そこからわたしが引き出した最大の利点は次のことだった。つまり、われわれにはきわめて突飛でこっけいに見えても、それでもほかの国々のおおぜいの人に共通に受け入れられ是認されている多くのことがあるのを見て、ただ前例と習慣だけで納得してきたことを、あまり堅く信じてはいけないと学んだことだ。こうしてわたしは、われわれの自然〔生まれながら〕の光 18をさえぎり、理にしたがう力を弱めるおそれのある、たくさんの誤りからだんだんに解放されたのである。しかし、このように数年 19を費やして、世界という書物のなかで研究し、いくらかの経験を得ようと努めた後、ある日、わたし自身のうちでも研究し、とるべき道を選ぶために自分の精神の全力を傾けようと決心した。このことは、自分の国、自分の書物から一度も離れなかった場合にくらべて、はるかにうまく果たせたと思われる。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「実際、論理学は、いかにも真実で有益なたくさんの規則を含んではいるが、なかには有害だったり余計だったりするものが多くまじっていて、それらを選り分けるのは、まだ下削りもしていない大理石の塊からダイアナやミネルヴァの像を彫り出すのと同じくらい難しい。次に古代人の解析 10と現代人の代数 11は、両者とも、ひどく抽象的で何の役にも立たないことにだけ用いられている。そのうえ解析はつねに図形の考察に縛りつけられているので、知性を働かせると、想像力をひどく疲れさせてしまう。そして代数では、ある種の規則とある種の記号にやたらにとらわれてきたので 12、精神を培う学問どころか、かえって精神を混乱におとしいれる、錯雑で不明瞭な術になってしまった。以上の理由でわたしは、この三つの学問の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探求しなければ、と考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実をあたえるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人びとのうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見いだしえたのは数学者だけであったことを考えて、わたしは、これらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「さて最後に、住んでいる家の建て直しを始めるまえには、それを取り壊し、資材を用意し、建築技師をたのむか、あるいは自分で建築術を実地に学ぶかして、そのうえで周到に図面を引いたとしても、それだけでは十分でない。工事の期間中、居心地よく住める家をほかに都合しておかなければならない。それと同じように、理性がわたしに判断の非決定を命じている間も、行為においては非決定のままでとどまることのないよう、そしてその時からもやはりできるかぎり幸福に生きられるように、当座に備えて、一つの道徳を定めた。それは三つ四つの格率から成るだけだが、ぜひ伝えておきたい。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「わたしが述べたことが何か の拠り所になっているとしたら、それはわたしが、少しばかり学問した人が普通やるよりも率直に、自分の知らないことを知らないと告白したからにちがいない。またおそらく、わたしが何か学説を一つでも誇示するよりは、他の人たちが確実だとしているたくさんのことについて、わたしの疑う理由を示したからにちがいない。しかし、わたしは実際の自分とは違うように取られたくないという正直な気持ちが強かったので、与えられた評判に値するように、あらゆる手段をつくして努力すべきだと考えた。そしてちょうど八年前、こうした願望から、知人のいそうな場所からはいっさい遠ざかり、この地 18に隠れ住む決心をした。この国には、長く続いた戦争 19のおかげで、常備の軍隊は人びとが平和の果実をいっそう安心して享受できるためにだけ役立っている、と思えるような秩序ができている。ここでは、大勢の国民がひじょうに活動的で、他人の仕事に興味をもつより自分の仕事に気をくばっている。わたしはその群衆のなかで、きわめて繁華な都会にある便利さを何ひとつ欠くことなく、しかもできるかぎり人里離れた荒野にいるのと同じくらい、孤独で隠れた生活を送ることができたのだった。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「次に、幾何学の最も単純なことがらについてさえ、推論をまちがえて誤 推理 4(誤った推論)をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去った。最後に、わたしたちが目覚めているときに持つ思考がすべてそのまま眠っているときにも現れうる、しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレ惟ウ、故ニワレ在リ〕」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理 5として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「それから、わたしとは何かを注意ぶかく検討し、次のことを認めた。どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体 6であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂 7は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「その後わたしは、一般的に一つの命題が真で確実であるためには何が必要か考えてみた。というのも、真で確実であるのを知っている一つの命題をわたしは今見いだしたから、この確実性が何によるのかもわかるはずだと考えたからだ。そして、「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの命題において、わたしが真理を語っていると保証するものは、考えるためには存在しなければならないことを、わたしがきわめて明晰にわかっているという以外にまったく何もないことを認めたので、次のように判断した。わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である、これを一般的な規則としてよい、ただし、わたしたちが判明に捉えるものが何かを見きわめるのには、いくらかの困難がある 8、と。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「次にわたしは、自然の諸法則が何かを示した。そして、神の無限の完全性という原理のみに論拠を置き、少しでも疑いをはさむ余地のある法則はすべてこれを証明しようと努め、それらの法則は、神が多数の世界を創造したとしても、それが守られないような世界は一つとしてありえないような法則であることを示そうと努めた。その後わたしは、このカオスの物質の大部分が、これらの法則に従って、どのようにして一定の仕方で並び、連なって、われわれの天空に似たものになるはずかを示した。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「またわたしが、自分の国のことばであるフランス語で書いて、わたしの先生たちのことばであるラテン語で書かないのも、自然〔生まれつき〕の理性だけをまったく純粋に働かせる人たちのほうが、古い書物だけしか信じない人たちよりも、いっそう正しくわたしの意見を判断してくれるだろうと期待するからである。そして良識と学識を兼ねそなえた人びと、かれらだけをわたしの審判者としたい。こういう人びとは、わたしが通俗のことばで論拠を説明したからといって、これに耳を傾けるのを拒むほど、ラテン語を偏重しないだろうとわたしは確信している 20。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「 『方法序説』は一六三七年、デカルトが四一歳のとき、オランダのレイデンでヤン・マイレ書店から、著者名なしで出版された。デカルトが初めて公刊した著作であり、正確なタイトルは次のようになっている。『理性を正しく導き、学問において真理を探求するための方法の話〔序説〕。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「ルネ・デカルトは一五九六年にフランスのトゥーレーヌ州ラ・エに生まれた。この地方はフランスの庭園とうたわれ、肥沃で、ラ・エ(現在はデカルトと呼ばれている)は陽光に恵まれた田舎町である。父はブルターニュのレンヌ高等法院評定官で、階層的には法服貴族であった。デカルトもそうした貴族の子弟として、イエズス会系の名門校ラ・フレーシュ学院に入学し、八年間人文学とスコラ学を中心に学んだ。さらに一年間ポワチエ大学で医学と法学を学び、法学士号を取得した。学校生活を終えたあとの足取りは不明だが、その後志願士官として、一六一八年オランダ、一六一九年ドイツに赴く。オランダでは科学者ベークマンと知り合い、数学を自然学に適用する構想を得、流体の圧力や、落下法則について共同研究を行った。ドイツでは冬にノイブルクに駐屯中、炉部屋で思索を重ねて、学問の普遍的方法を見いだし、あらゆる学問を統一する見通しを得、この仕事に一生を捧げる決心をした。本書第二部と第三部でもその思索の内容が語られている。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「だがしかし、デカルトは状況を語るためだけにこの書を著したのではない。これは単なる状況論ではないし、政治的あるいは社会的思想そのものが展開されているのでもない。デカルトが表したかったのは、そうしたことよりも、普遍的なものとなって後世に残るであろう、学問の方法、新しい科学や学問の基礎を示す広い意味での哲学の根本原理、自然の探究の展望と意味なのである。新しい哲学の方法を示し(数学を基にした四つの規則)、新しい科学の一端をかいま見せ(宇宙論や機械的な人体論)、その哲学の出発点(コギト・エルゴ・スム)を確立し、形而上学の基礎を述べる。そして、どのような解釈をとるにしても、結局は仮のものであり、新しい学問原理からは生み出されることのなかったモラル。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
「スコラでは、算術や幾何学だけでなく、天文学、音楽、光学、力学なども「数学」と呼ばれうる。デカルトもこのような意味で自らの『音楽提要』や『屈折光学』を数学的試論とすることがあった。スコラでは、研究対象の区別という観点から、これらの学問を区別していたが、これに対してデカルトは、以下に見るように、それを構成する知性の観点から、数学をモデルにとって、連鎖を見いだし、統一をはかる。」
—『方法序説 (岩波文庫)』デカルト, 谷川 多佳子著
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『方法序説』を読み終えて、まず胸に迫ったのは「この時代に、ここまで透徹した自己省察に到達できたのか」という畏敬の念でした。十七世紀ヨーロッパ――宗教改革と科学革命が交錯し、思想の座標軸そのものが揺らいでいた時代にあって、デカルトは流行や権威に寄り掛からず、ひとり静かに「理性を正しく導く方法」を求め続けました。およそ四百年後を生きる私でさえ、情報の奔流に呑まれ、他者の正義感に操られがちです。凡人である身には、彼の徹底した懐疑精神こそが、まぶしくも痛烈な指針となりました。
「われ思う、ゆえにわれあり」。この一句に象徴されるように、デカルトはあらゆる学問の土台を「自らの思考そのもの」に据え直しました。匿名で刊行されたレイデン版(1637年)には屈折光学・気象学・幾何学の三論文が付され、全体で五百頁を超えますが、その導入部にあたるわずか七十八頁の「序説」こそが、六つの章立てを通じて彼の方法論と知の姿勢を凝縮しています。難解な哲学用語にたじろぎつつも、私は次の三つのエッセンスを掬い取りました。
1. **普遍的懐疑** ― いったんすべてを疑い、確実なものから組み立て直す勇気。
2. **分析と総合** ― 問題を最小単位まで分割し、明晰になった要素を順序立てて再構築する技術。
3. **全体の把握** ― 小さな真理を積み上げながらも、常に全体像に目を配るバランス感覚。
これらは現代の私たちが「情報過多」の日常を捌くためのナビゲーションにも通じます。「知らないことを自覚する知」と「方法を持って考える力」――デカルトが灯したこの二つの炎を、私自身の思考姿勢にそっと継ぎたい。ページを閉じた今も、序説の活字は静かに呼びかけます。「まず、自分の頭で確かめよ」と。折に触れて本棚から取り出し、心の水平を測る定規として読み返していくことでしょう。 -
今後は少し自分には難しいなと思える本を読んでその意味を理解できることで見える世界があるのかと哲学書を読み進めてゆきたい。
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「我思う、故に我あり」、神の存在、二元論などなど、読んだことはなくてもデカルトの哲学の概要は有名です。そんな哲学テーマをデカルトの生の言葉で読むと、理解が深まるとともにデカルトの人となりが分かって面白いです。
彼なりの学問に取り組む際の原則、地動説への弾圧を踏まえた学説公開への慎重さ、人体に対する並々ならぬ興味なとがひしひしと伝わってきます。
不完全な人間が生得観念を持つことから、完全性イコール神の存在を証明し、それをもとに理性にとって明証的なことを真であるとする流れは、今読むと少々無理があると感じてしまいます。 -
デカルトといえば本書。
私は先に『情念論』を読んでしまった。
「我思う故に我あり」
その真理に辿り着く過程はもちろんだが、デカルトのあらゆる学問に対する姿勢について目の当たりにできる。
この序説について、自分が(デカルトが)どのような道を辿ってきたかを示され、一枚の絵に描くように自身の生涯を再現しようとされている。
本書は全六部構成で、第一部は「学問に関する様々な考察」、第二部は「デカルトが探究した方法の主たる規則」、第三部は「二部の方法から引き出した道徳上の規則のいくつか」、第四部は「神の存在と人間の魂の存在を証明する論拠」、第五部は「デカルトが探究した自然学の諸問題の秩序、とくに心臓の運動や医学に属する他のいくつかの難問の解明と、われわれの魂と動物の魂との差異」、第六部は「デカルトが自然の探究においてさらに先に進むために何が必要だと考えるか、またどんな理由でデカルトが本書を執筆するに至ったか」が書かれている。
『情念論』で書かれている“動物精気”についても第五部で触れられている。
ちなみに「我思う故に我あり」は第四部で語られている。
ページ数は少ないが、訳を理解し読み進めていくことにエネルギーを必要とされる。
本書を通して、私もデカルトの言うように“良い精神を持っているだけでは充分ではなく、大切なのはそれをよく用いること”を意識して生きていきたいと思わされた。
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今まで読んだ本の中で一番難しく、ほとんどなんのことだかわかりませんでした^^;
ただ、そんな中にもちょっとくらいは「俺もそう思ってた」と共感できるところがあるのが不思議です。
まだこの本を理解するには勉強不足ですね。 -
思考の過程が論理的に順序立てて書かれているので突飛なこともなくわかりやすい。〈ワレ惟ウ〜〉のフレーズはあまりにも有名だが、それに至るまでの考えも比較的明瞭に知れるし、心身二元論についても、あ〜これが!という感じで、とにかく概要だけ習っていたのを改めて確認するといった感じだった。
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真理の探求のための基本則として、
①明証的に真といえるものだけを真と受け入れること
②問題は小部分に分割して検討すること
③単純なものから順番に思考を進めて複雑な認識へと至ること
④全てにおいて一つの見落としもないことを確認すること。
この4つを掲げた上で、もっともらしく見える異なった主張が論争される哲学において、確かに堅固であるといえる第一原理として「我思う、故に我在り」を唱える。
感覚も、推論も、思考さえも、自分の精神のなかの観念すべてを偽であると仮定しようとするところが、本当に画期的だったのではないかと思う。
しかし、
・わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である
・わたしの存在よりも完全な存在の観念については、それを無から得るのは明らかに不可能
など、「そうかな?」と思う論証もけっこうあって、しばらく考え込んでしまった。 -
とてつもないおもしろさ。デカルトを祖とする近代哲学、ここでデカルトの語る近代的な主体なるものがいかに崩されたかということを、私は哲学・思想の変遷を辿るいくつかの書物によって予め知っていました。しかしそのような前知識は、本書を読みながら感じた知的興奮をいささかも妨げるものではなかった。哲学といえば抽象的で難解、というイメージは持たれがちだし、私自身そういうイメージを抱いていたけれども、「方法序説」は小難しい哲学書というより人生訓を含んだエッセイのようなかんじ。アカデミズムは現実と乖離しているように見えるし、実際乖離しているとしか思えない部分もある。でも「方法序説」を読んでいると、思考が実生活/学問などという区別に限らず生きるうえで須く行う切迫した行為であること、その行為の切実さは専門性/非専門性といった枠を越境して重要さを知らしめるものであること、つまり、本当の意味で考えるとは、何らの乖離をもたらすことでもないのだとわかります。人生のあらゆる場面にあって自分がいかに生きるべきか、そもそも自分とは何なのか、自分が今生きているこの世界とは何なのか、という根本的な問題に対して真正面から闘いを挑んだデカルトは尊敬に値する。そしてデカルトのユーモア、その強靭な意志、賢さ、バランス感覚、権威に迎合することなく「世間という大きな書物」に向かっていったその姿勢。興味深すぎる。大学で学んで、アカデミズムの権威を否定して放浪して、っていうデカルトの人生語りは、とてもじゃないけど400年も昔の人間の話とは思えません。ガリレオの断罪と同時代…?信じられない。優れた書物は時を超えた普遍性を持つ、とも言えるかもしれないが、そういうことよりも、「近代」のなかでわたしは本当に生きているんだなあと。何はともあれ学問に向かう姿勢、その根本的な意味を考えるために非常に有益な書物でした。
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読みにくい文章だったが読了。デカルトは絶対に確かな原理を探すため、方法的懐疑によりあらゆるものを疑ってみた。その結果、「疑っている自分の意識の存在」は疑いようがないことに気づく。(我思うゆえに我あり)
その後の「神の存在証明」の展開の仕方は、少し無理があると感じる。
展開:
人間は「不完全な存在」だが、「完全」という観念を持っている。不完全な人間が「完全」という観念を持てるはずはない。→きっと「完全」な存在である神が、完全という観念を人間に与えたのだ→だから、「神は存在する」
あらゆるものを疑うことで、「自分の意識の存在」を発見したはずなのに、その理性は「神から与えられたもの」という着地。ただ、神ありきの理性だとしても、「私」という存在を確立したのは確か。
「自我」が神から完全に離れて確立されるのは、もう少し後の近代哲学からということなのだろう。 -
3/10再読✅
個人的に5部は一回読めば十分な気がしました。キリスト教的な考えが色濃く、すこし同意しかねます。
しかし、1〜3部は人生をよりよく生きるにあたって必要な方法が述べられていて定期的に読み直しが必要だなと思いました。
また4部では神の存在についてデカルトの考えが論理的かつ実践的に書かれているので面白いです。
6部は5部と同様それほど重視しなくてもいい気がしますが、自分で真理を発見することの重要性、またそれまでの習慣や経験に価値があると述べられている点については、貯金や筋トレ、勉強習慣と似ているなと感じ、そこはぜひ読んでほしいです。
また、全体を通して「善き理性」「無知の知」が述べられており、前世代のプラトン(ソクラテス)的な考えが垣間見えて面白いです。
あとやっぱり古典は普遍的なことを言っているものが時代を超えて残っており、現代でも十分通用するので古典読書は大切だなと実感しました。 -
意外と庶民的な感覚を持っているんだな、という地点から繰り広げられる知的無双に笑いが込み上げてきた。
すごいことは分かるんだけど、当時の常識を共有できていないからいまいち目を輝かせることができない。この方々が私の価値観を涵養したため、もはや当たり前として昇華してしまっている可能性もある。
ところどころで歯切れが悪くて、今のSNSに似ているなと思った。 -
とりあえず一周した。岩波版。
中身は難解やったけど、
最終章はデカルトの熱い想いが伝わってきた。
今まで感じた事のなかった『読書を通じて、過去の人と会話する体験』を得ることができた。
ちくま版で2周目に入って内容をちゃんと腹に落としたい。 -
1600年代の新しい科学や哲学が弾圧されてた時代に、生涯公刊せず、それでもこの本が後世に残ることを確信してるあたり、
デカルトの自分自身の考えへの圧倒的な自信を感じた
学問全般を極めた上でそれを全部疑いにかかるって、、考えられん -
さぞかし難解な内容かと思いきや、評論・エッセイのようで、わりと読み易いのであった。
デカルトの、真理・学問を追究する姿勢、自戒も踏まえた方法論をまとめている。
第2部にかような一節がある。
( 家屋や都市、国家などを、土台から取り壊して一気に改変することは現実的でないが )( 一個人である)「 わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ、と。後になって、他のもっとよい見解を改めて取り入れ/ 理性の基準に照らして正しくしてから取り入れるためである。」
( 第2部 p23 )
上の一節には、胸を突かれるような思いを感じた。
壮年期でも青年期でも、その時までに築いてきた自身の価値観の内なる体系を、より正しいものに近づくために、一旦否定し捨て去るという。その潔さというか、徹底していることに恐れいったのである。 真理を追究し、それに少しでも近づくための、プラグマティックというか機械的というか、ストイックな姿勢である。現代人でも、なかなか出来ることではない。
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谷川多佳子の作品
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