方法序説 (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (137ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003361313

作品紹介・あらすじ

すべての人が真理を見いだすための方法を求めて、思索を重ねたデカルト(1596‐1650)。「われ思う、ゆえにわれあり」は、その彼がいっさいの外的権威を否定して到達した、思想の独立宣言である。近代精神の確立を告げ、今日の学問の基本的な準拠枠をなす新しい哲学の根本原理と方法が、ここに示される。

感想・レビュー・書評

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  • 人類史上最大の知性(の一人)、ルネ・デカルトが自分の論文集の序文として一般向けに書いた本。
    「我思う、ゆえに我あり」の一節はあまりにも有名。
    読み心地は哲学書というより、科学者のエッセイといった感じ。

    広範な学問を修め尽くしたデカルトは、「学問の基礎(哲学)なんて、いろんな人がいろんなことを言ってて、全然確固たる基盤がないじゃないか。土台があやふやなままだと科学も真理に迫れやしない」と考えた。
    それで、とりあえず根拠のあやふやものはすべて疑ってみた。
    ただ、世の中のものすべてが疑わしいと考えたわけではなく、あくまで真理に迫る手段として疑ってみた。(「方法的」懐疑)

    その結果、あらゆる思考の出発点として「物事を考えている私は確かに存在している、ひとまずそれを真理と認めましょう」という結論に至った。(「我思う、ゆえに我あり」=「コギト・エルゴ・スム」)

    それから、数学はとにかく正しい、直感的に考えて「2+2」の解は4以外にありえないし、三角形の内角の和が180度なのはたやすく証明できる。そういうものだけを真理と認めよう。(「明晰かつ判明」)

    ちなみに、中学や高校の数学で習う関数のグラフの書き方とか、微分・積分の理論とか、変数はx・y・zで表し、定数はa・b・cで表すっていうルールとか、「2乗・3乗」の2や3は右上に書くっていう記法とかを考えたのがデカルト(豆知識)。

    「コギト」の真理は一応見出したけど、デカルトはそこから推論を一つ一つ丁寧に重ねていくわけではない。そこはスピノザと違う。
    本書の中でデカルトは、神の存在証明をちょちょいとやってのけているけど、その出発点となる「実体」の定義や、「完全者が存在する」「人間は完全ではない」という前提もほんとにそれでいいの?と思ってしまう。
    「いろんな哲学者がいろんなことを言うから哲学は根拠があやふやだ」っていうなら、神の存在なんて一番最初に斥けられるのが筋じゃないのか。

    「コギト」以降のデカルトの論の展開の仕方はむしろ若干乱暴な感じがする。
    事実、デカルトが主張していた天文学や人体に関する数々の学説は、後世の科学者たちによって誤りであったことが指摘されていたりする。
    (世界は目に見えない謎の物質で満たされていて、潮の干満は月がエーテルを押したり引いたりすることによるという、いわゆる「エーテル論」をニュートンの万有引力が完全否定しさったことは有名。ただ、よく言われる「ニュートンの万有引力によってデカルトの物心二元論は崩れ去った」という言説には微妙に納得いかない。機械論的説明が否定されただけで物心二元論が否定されたわけじゃない……よね?)

    それはさておき、デカルトが自分に課した「3つの格率(自分ルール)」が面白い。俺ルールにも採用したい。

    ・第一格率:疑ってばかりではなく、とりあえず自国の法律と慣習には従っとけ。
    ・第二格率:自分がこれと決めた意見は、たとえ途中で疑わしくなっても最後まで投げ出すな。何が正しいか判断できないときは「より正しいっぽい」意見にしとけ。
    ・第三格率:「私の力」が及ぶ範囲はどうせ「私の思考」に限られているので、世界を変えようとするよりは自分が変われ。

  • 20200512
    1637年、デカルト41歳の処女出版「理性を正しく導き、学問において真理を探求するための方法の話【序説】加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」全500ページの大著の内、冒頭の78ページが「方法序説という序文」なのだそうだ。後の歴史が選択した通り、あらゆる哲学的思考の根幹を成した彼のこの「基本姿勢」は、人類の叡智を直線的に紡ぎ積み上げる大構想・ビジョンに満ちている。決してお籠りさんで独りよがりではなく、自ら旅に出て体感し体験し、考えた末に打ち建てる真理。同時に、人間臭く未熟で不安で内省的。人間デカルトは本書において度々、お茶目な側面も垣間見せている。

    ー良い精神を持っているだけでは十分でなく、大切なのはそれをよく用いることだ

    ー大きな魂ほど、最大の美徳とともに、最大の悪徳をも産み出す力がある

    ーきわめてゆっくり歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる

    ー旅にあまり多く時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまう

    ー真らしく見えるにすぎないものは、いちおう虚偽とみなした

    ー【四つの規則】1.明証: 注意深く即断と偏見を避ける、2.分析: よりよく解くために必要なだけの小部分に分割する、3.総合: 思考を順序にしたがって導くこと、4.枚挙: 完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、何も見落とさなかったと確信する(デカルト「精神指導の規則」)

    ー【四つの格率】1.わたしの国の法律と慣習に従うこと、良識ある人々にしたがって自らを律する、中庸、2.自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと、3.運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めること、4.最善の仕事を選ぶ、全生涯をかけて自分の理性を培い、自ら課した方法に従って、できうるかぎり心理の認識に前進していく

    ーあらゆる極端は悪いのが通例であり、穏健な意見は行うのにいつもいちばん都合がよく、おそらくは最善である

    ー旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一カ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方角を変えてはならない。というのは、このやり方で望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ。

    ー「必然を徳とする」自分の力の範囲内にあるものは思想だけしかない、ほかのものごとにたいするあらゆる執着を脱することで、自らをはるかに豊かで、力にみち、自由で、幸福だと考えた

    ーすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない

    ーコギト・エルゴ・スム: わたしは考える、ゆえにわたしは存在する【ワレ惟ウ、故ニワレ在り】(中略)どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。(中略)わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない

    ー「そもそも感覚のうちになかったものは、知性のうちにはない」(デカルトは、哲学者ですらそうだ、と批判している)

    ー今までわたしが学んだわずかばかりのことは、わたしのまだ知らないことに比べればほとんど無に等しい

    ーほかの人から学ぶ場合には、自分自身で発見する場合ほどはっきりものを捉えることができず、またそれを自分のものとすることができない

    (以下、訳注より)
    ー「知者は運命のただなかで魂をみがき、運命を脱する」「神は時を征服しても、知者の幸福までは征服しない」(セネカ「書簡」)

    ー実体: 「存在するために他のいかなるものも必要とせずに存在するもの」(デカルト「哲学原理」)それは本来神だけであるが、デカルトは、神に創造された実体として、精神と物質の二つを認めた

  • 思考の過程が論理的に順序立てて書かれているので突飛なこともなくわかりやすい。〈ワレ惟ウ〜〉のフレーズはあまりにも有名だが、それに至るまでの考えも比較的明瞭に知れるし、心身二元論についても、あ〜これが!という感じで、とにかく概要だけ習っていたのを改めて確認するといった感じだった。

  •  真理の探求のための基本則として、
     
     ①明証的に真といえるものだけを真と受け入れること
     ②問題は小部分に分割して検討すること
     ③単純なものから順番に思考を進めて複雑な認識へと至ること
     ④全てにおいて一つの見落としもないことを確認すること。

    この4つを掲げた上で、もっともらしく見える異なった主張が論争される哲学において、確かに堅固であるといえる第一原理として「我思う、故に我在り」を唱える。

     感覚も、推論も、思考さえも、自分の精神のなかの観念すべてを偽であると仮定しようとするところが、本当に画期的だったのではないかと思う。

     しかし、
    ・わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である
    ・わたしの存在よりも完全な存在の観念については、それを無から得るのは明らかに不可能
    など、「そうかな?」と思う論証もけっこうあって、しばらく考え込んでしまった。

  • とてつもないおもしろさ。デカルトを祖とする近代哲学、ここでデカルトの語る近代的な主体なるものがいかに崩されたかということを、私は哲学・思想の変遷を辿るいくつかの書物によって予め知っていました。しかしそのような前知識は、本書を読みながら感じた知的興奮をいささかも妨げるものではなかった。哲学といえば抽象的で難解、というイメージは持たれがちだし、私自身そういうイメージを抱いていたけれども、「方法序説」は小難しい哲学書というより人生訓を含んだエッセイのようなかんじ。アカデミズムは現実と乖離しているように見えるし、実際乖離しているとしか思えない部分もある。でも「方法序説」を読んでいると、思考が実生活/学問などという区別に限らず生きるうえで須く行う切迫した行為であること、その行為の切実さは専門性/非専門性といった枠を越境して重要さを知らしめるものであること、つまり、本当の意味で考えるとは、何らの乖離をもたらすことでもないのだとわかります。人生のあらゆる場面にあって自分がいかに生きるべきか、そもそも自分とは何なのか、自分が今生きているこの世界とは何なのか、という根本的な問題に対して真正面から闘いを挑んだデカルトは尊敬に値する。そしてデカルトのユーモア、その強靭な意志、賢さ、バランス感覚、権威に迎合することなく「世間という大きな書物」に向かっていったその姿勢。興味深すぎる。大学で学んで、アカデミズムの権威を否定して放浪して、っていうデカルトの人生語りは、とてもじゃないけど400年も昔の人間の話とは思えません。ガリレオの断罪と同時代…?信じられない。優れた書物は時を超えた普遍性を持つ、とも言えるかもしれないが、そういうことよりも、「近代」のなかでわたしは本当に生きているんだなあと。何はともあれ学問に向かう姿勢、その根本的な意味を考えるために非常に有益な書物でした。

  • さぞかし難解な内容かと思いきや、評論・エッセイのようで、わりと読み易いのであった。
    デカルトの、真理・学問を追究する姿勢、自戒も踏まえた方法論をまとめている。

    第2部にかような一節がある。
    ( 家屋や都市、国家などを、土台から取り壊して一気に改変することは現実的でないが )( 一個人である)「 わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ、と。後になって、他のもっとよい見解を改めて取り入れ/ 理性の基準に照らして正しくしてから取り入れるためである。」
    ( 第2部 p23 )
    上の一節には、胸を突かれるような思いを感じた。
    壮年期でも青年期でも、その時までに築いてきた自身の価値観の内なる体系を、より正しいものに近づくために、一旦否定し捨て去るという。その潔さというか、徹底していることに恐れいったのである。 真理を追究し、それに少しでも近づくための、プラグマティックというか機械的というか、ストイックな姿勢である。現代人でも、なかなか出来ることではない。

  • 少々難しいです。
    立ち止まって、もう一度読み返し、理解して進んでいくような読み方でした。しかし、書いていること自体が面白く読破することができました。

    この時代に書かれた本としては、かなり先を捉え、グローバルな見方を持った人だと驚きました。それに勉強量がすごいです。到底普通の人じゃ辿り着けないところにまで学習し、一度それらを捨てて、自らの哲学を編み出しています。

    心に残った部分があるので引用します。
    *わたしは、真らしく見えるにすぎないものは、いちおう虚偽とみなした。

    *すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、彼らの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のされたものだ。

  • ただ前例と慣習だけで納得してきたことを、全て払拭し自分自身が真に納得したものだけを信ずる。

    その土台の上に物事の思考を展開していく。
    それは人間が本来もつ生まれながらの光である理性を働かせることだ。

    古典を読むことは過去の一流の人々と語り合うようなものであり、旅をするようなものだが、
    それも今現在からより発展させた未来へのバトンを渡すことで、古典は活きてくる。

  • 1. 全体について
    『方法序説』は、彼の科学論文集の序文として、デカルトにより、1637年に書かれた文書である。それは、デカルトの生きてきた道のりを示したものでもある。

    上記論文集の正確なタイトルは、『理性を正しく導き、学問において真理を探求するための方法の序説。加えてその方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』である。そこで、今日デカルトが「近代合理主義思想の元となる考え方を打ち出した」とされていることに照らせば、前述した「デカルトの生きてきた道のり」はスコラ学や人文学が支配的な学問の方法であった前近代において、①それらを否定し(第一部)、②「学問において真理を探求するための」ルールを確定(第二部)し、③それらを実践してきたという道のりであると言えよう。

    第三部は、判断におけるルールを定めた第二部とは対照的に、行為におけるルールを定めた部と評価できる。

    第四部及び第五部は、全体としてみれば、彼の理性中心主義とキリスト教との整合性をとり、正当化した部であると言えよう。

    第六部は、当時から見た学問の発展の展望が書かれている。

    2. 四部について
    私にとって最も解釈が難しかった部分は神の存在の証明(49-52 {第四部})である。論旨は以下の通りである。

    われわれは「完全な存在の観念」を持っている。(49) この観念は不完全なものや無からは生じえない。なぜなら、「完全性の高いものが、完全性の低いものの帰結であ」ると仮定すると、完全性の一部は無から生じたことになるところ、これは“無からは何も生ぜず”という因果律に反するからである。(49) そうすると、この観念は、完全な存在である神自身によって不完全な存在であるわれわれ人間に生まれつき与えられたと思われる。

    また、「完全な存在者が必ずなければなら」ない。(49)なぜなら、わたしは「他のすべてから独立」ではないからだ。(49-50)

    さらに、神は“完全な存在”という本質を持つところ、神には“現に存在する”という性質が属している。

    よって、神は現実に存在する。(52)。

    3. 面白いと思った部分

    「スパルタが隆盛をきわめたのは、その法律の一つ一つが良かったためではない。[…]ひどく奇妙な法律や、良俗に反する法律さえも多かった[…]。そうではなく、それらの法律がただ一人によって創案され、そのすべてが同一の目的に向かっていたからである。」

    これを日本国憲法についてみると、アナロジーが見られる。すなわち、非武装を定めた9条は世界的に珍しく奇妙であるかもしれない。しかし、戦争が人権侵害の温床であることに照らせば、戦争を放棄し非武装を定めた9条は人権侵害を防止し個人を尊重する(13条参照)という「目的」に向かうものであると理解される。そして、その個人を尊重するという目的は3章の人権条項の人権を保障し個人を尊重するという目的と「同一の」ものであるから、9条は憲法を良き法足らしめていると言えよう。 

  • 今まで読んだ本の中で一番難しく、ほとんどなんのことだかわかりませんでした^^;
    ただ、そんな中にもちょっとくらいは「俺もそう思ってた」と共感できるところがあるのが不思議です。
    まだこの本を理解するには勉強不足ですね。

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著者プロフィール

デカルト

Rene Descartes 一五九六―一六五〇年。フランスの哲学者、数学者。数学的明証性を学問的認識の模範と考え、あらゆる不合理を批判検討する立場を確立した。そのことによってしばしば近代哲学の父といわれる。一六三七年公刊の『方法序説』は思想の領域における「人権宣言」とも称される。長くオランダに隠れ住んだが、終焉の地はスウェーデンであった。

「2019年 『方法序説・情念論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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