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Amazon.co.jp ・本 (310ページ) / ISBN・EAN: 9784003361542
みんなの感想まとめ
この著作は、神の存在と人間の精神、感情の本質について深く探求する哲学的な作品です。著者は、汎神論という独自の視点から、神があらゆる場所に存在することを前提に、ユークリッド幾何学の演繹方法を用いて論を展...
感想・レビュー・書評
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17世紀に書かれたものというから、有り難く読む。定義を丁寧にしながら感情の幾何学をほどいていく。だが、QED、QEDと自己完結的に閉じていく論理は、読むほどに「これ本当に証明できている?」という違和感に溢れ、往年の哲学者に挑戦してみたい気持ちになる。いざ。
スピノザは、神を「唯一の実体」「必然的に存在するもの」として定義する。だがこの時点で勝負はついた(なわけはない)。
なぜなら「必然性」そのものが、世界の内部にいる人間にとって語り得る概念なのかという問いが、まったく処理されていないからだ。
必然か偶然か。それは世界の性質なのか、それとも観測者の視点の問題なのか。
もし世界が完全に規定された非人格的必然性モデルであるなら、そこに神は不要であるはずだ。分かりやすく言えば、この世界は神不在でも自然の摂理で成り立ち得る。だが、自然の摂理を創り上げた創造主が必要だ。観測者は神を想像できても、完全に捕捉することはできず、だから神について語り始めた瞬間から、そこに人間によるフィクションが混ざり始める。どうしても人間には神を語り得ない。
神を人格化させてしまうと、その神を作ったさらに上位概念としての神が必要となり、無限後退に陥る。これはこの世界は何ものかによるシミュレーションだというシミュレーション仮説でも同じジレンマだ。
確かに、スピノザの神は人格神ではなく意志も目的も持たない。しかしそれでもなお、彼の神は「世界が必然であること」を保証する装置として機能している。
—— ここに決定的なパラドックスがある。
必然だと語った瞬間、その必然性は人間の言語の中に落ちる。
これは「今から私は嘘をつく」という文と同型の自己言及的矛盾だ。スピノザは「神は必然である」と語るが、その語り自体が、世界の外部視点を仮構してしまっている。世界の内部にいる人間が、世界全体の必然性を語ることは論理的にできない。それは必然ではなく物語だ。
だからこそ、ウィトゲンシュタインは「語れないものについては沈黙せよ」と言った。しかし、スピノザは沈黙すべき地点で、あえて雄弁になった。その結果、『エチカ』は完璧な体系であると同時に、完璧な自己循環を作り上げてしまった。
では、この本は単なる詭弁であり、反知性主義的で大衆が有り難がって有名になった「観光地のような古典」にすぎないのか。
否、問題はそこではない。
スピノザの誤り(雄弁さ)は、人類が一度は必ず通過してしまう誤りだからこそ、この本は今も読まれている。『エチカ』は正しいからではなく、人間理性がどこまで行けて、どこで破綻するかを、これ以上ないほど誠実に可視化した書物だ。
QEDを重ねながら、実は世界の外に出られなかった。その事実そのものが、『エチカ』の最大の価値であり、この皮肉や虚無を真正面から受け止めたのがスピノザだったのではないか。下巻へ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読み始めると分かるが、この著書でスピノザは神というものを設定している。そしてその神はどこにでもいることを前提にしている。これを汎神論という。つまり、スピノザはこのエチカで神はあらゆる所に存在しているということを前提に、人間の経験に依存せずにユークリッド幾何学の演繹方法、つまり定理、公理、証明などを用いて論を展開して行く。
設定された神は現在考えられている存在とは異なり、スピノザの神の設定はギリシャ神話、キリスト教、ユダヤ教などの神の概念とも異なっている。
エチカとは、ラテン語で倫理学をさす。神の存在、人間の精神や感情の本性などについて論証されている。
始めは神のことについて語り、その後少しずつ人間の精神や感情について語られて行くので、最初は退屈に感じるかもしれないが、後々納得する表現が目立ってくる。
「すべて高貴なものは稀であると同時に困難である」という、有名な言葉で結ばれている。 -
これまで敬して遠ざけてきた「エチカ」、ついに読了。聞きしに勝るとてつもない書物だった。読了に要した約2週間、行きつ戻りつしながら何度同じ定理を読み返しただろう。その都度初めて読むような新鮮さを覚えることの高揚感と、自らの理解の程を疑う不安感に同時に襲われ、ページを手繰る手が止まらない。若い頃に途中で放り出した自分は一体何を考えていたのだろう、と思えるほど刺激に満ちた読書体験だった。
最も感銘を受けたのはまず何よりもこの本の構造だ。第二部定理40に人間の三種類の認識が出てくるが、このうちの第二種の認識である「理性知」こそが人間が推論の基礎として用いる「共通概念=公理」に基づくものであり、これは「神」の認識と矛盾せず適切であるとされている。一方、スピノザが「エチカ」で試みたのはこの世界に必然性を付与している唯一の実体、すなわち神を起点とした公理系の構築だ。つまり「エチカ」は求めるべき理念を方法論自体が自ら体現している、つまり証明しようとする主体と証明される客体が同一である「閉じた循環構造」となっているのだ。その構造は歴とした意味があって採用されているのであり、決してユークリッド「原論」の上っ面をなぞっただけなのではない。理論を実践することの意義が強調されているのだ。
無論、この方法論だけでは三番目の認識である「直観知」、すなわち神の本質が個物に本質を付与した必然性、を理解するには至らない。おそらくはこの「エチカ」が示すのは方法論にとどまるのであって、直観知に至る実践は読者の手に委ねられているということなのだろう。この意味でも、僕は「エチカ」が「理論と実践の書」であるという思いを強くした。
よく「頭から読もうとしてはいけない」と言われる本書だが、より具体的な記述が多く取っ付き易い第三部以降から読んでしまうと、却って上記の構造が判りにくくなると思う。いきなり実践に近いところから読むのでは、なぜスピノザが定義や公理を重視しているのか、何を意図してこういう構造を採用しているのかが判りにくくなるのだ。いきなり多元方程式の解の公式を頭に叩き込んでも、自分が幾何学の本質を実践に移しているとは実感できないだろう。
その意味で、「エチカ」で最も重要で刺激に満ちているのはこの上巻に収録されている第一部、第二部だと思う。スコラ哲学独特の語彙が頻出し読みづらいが、訳が古い割には巻末の訳者注がかなり親切であり、丁寧に参照すれば僕のような門外漢でも全く手に負えないということはない。特に、神の観念により構築された因果律のネットワークと、身体変化を通じて観念を把握する人間精神の関係を論じた第二部前半はかなりの読み応え。余白に何度もベン図を書いて整理しようとしたが、読むたびに印象が変わり冒頭のようにどこまで理解しているのか不安になる。しかしそれが本当に楽しいのだ。
(下巻へ) -
ほんの少し「エチカ」概要を知った時は、「エチカ」の「神」を理解した気になっていました。自分の意思に投影もしていました。しかし、しっかり読んでいくうちに訳がわからなくなりました。私たちが認知できないこと、つまり、精神と肉体を含んだそれ以外を表す「無限の領域」について触れており、この辺りで理解が追いつかなくなりました。この世を取り巻く「形」や「完全」として認知・評価できるものをスピノザは「偏見である」と論破しており、平和主義なのか、屁理屈なのかわからなくなってきました。でも、丁寧なこの実体や生き方の証明は本質的ではあると思います。
素敵な考えでしたが、残念ながら、スピノザの考えを極めるとヒッピー化してしまい、この世のルールから隔離されてしまうと思いました。
【メモ】
スピノザ
→オランダ生まれ
→合理主義哲学者
→「商売で得る利益よりも自己実現の利益の方が大きい」と考えて、哲学の世界にいく。
→哲学の世界に行く前から「無神論」思想を持つ為、ユダヤ教を破門になる
→「神学政治論」1670年、聖書の解釈・解読を試みた。1674年に正式に禁書。
「エチカ」
→「倫理学」という意味
→東洋的な真理間(悟り)に近い
→個別の善を達成するためにはどうしたら良いかを説いた倫理の本
→デカルトが主流となっているこの世界で、エチカに触れることで、相対的に私たちが無意識に縛られている常識を浮き彫りにすることができる。
「幾何学的秩序によって論証された」とは
→エチカの構成は非常に特殊な形式
→「定義」が羅列、「公理」、それを前提とした「定理」と「補足」
→数学の証明のような雰囲気
「実に、光が光自身と闇とを顕すように。真理は真理自身と虚偽との規範である」
→真理を判断できる何かがあるとするなら、それもまた真理でないとおかしい
→真理自体に自身の真理性を証明する性質がなくてはならない
「光と闇」
→真理の判断を真理以外の別のツールに求めると「無限退行」が発生し、真理についての判断が保留され続ける
→光はその性質から闇を作り出す
→しかし、光は闇を表現するだけでなく、光はそれ自身も表現している
→つまり、真理はその性質上、それに触れればそれが真理だと認められる
→真理とは普遍的かつあらゆる人に説明が可能なものではなく、あくまでも個人的・個別的に体験として感じることのできるもの
「我思う、故に我在り(デカルト)」
→スピノザと逆の考え
→明晰判明
→ある概念が明晰で判明であれば、それに基づいて表象すふことは真である
「実体」「汎神論・神即自然」
→それ自体が原因となるような究極の存在
→実体が複数あることは考えられない
→原因を逆向きに追い求めると、必ず最後には何か一つの究極にたどり着く
→よって、実体はたった一つの唯一のものである
→その実態に名前をつけるとしたら、言語を超えた完璧な何かという意味での、「神」という言葉以外に妥当なものはない
→実体は唯一それしか認められないのだから、外部があるとするならば、他の実体を認めることになるから、実体に外部があるとは考えられない
→実体が唯一のもので、外部を持たないのであれば、我々を含めた我々が認識する全てのものは、実体の内部に含まれることになる。世界は実体そのものである。(汎神論)
→【必然的に「私たちも神の一部である」という結論】
→【「私たちが認識する全てもの、その全てが「神」の一部なのです」】
→あらゆるものに神が宿る(新道的汎神論)のではなく、あらゆるものは神の一部なのである(万有在神論)のではなく、あらゆるものは神という唯一の実体そのものである(神即自然)
→神は外部を持たない
「個物」「様態(mode, 神の現れ方)」
→自然のありありとした「差異」について
→神は法則に則って変化する
→神は神自身の法則によって内部で様々に形を変状(変化)させている
→その瞬間ごとに特定の「様態」をもつ
→その様態(現れ方)そのものが個物を表現している。
→真の意味で主語になりうるのは神のみ、それ以外の「個物」は副詞的存在
→宇宙を作る粒子は、外部から刺激を受けることなしに、自身の法則の中で変化を続けていく
→我々人間も、絶対的な法則の変化の一過程でしかない
→神の現れ方の一番特定の個物なのであれば、個物は神の「力の表現」だと言える=「このような形で現れることができるぞ」という力
→スピノザ的神は全能ではない。全てを包括する超越的な存在ではあるが、その力の表現には限界がある。つまり、表現できない個物もある。
「神の属性」
→「心身並行論」
→神の様態を違う方法で同時に認識しているだけである
→「延長」も「思惟」も神の属性の一つである(双方に因果関係はない)
→物質的実体と心的実体は確かに両方とも認識することが可能だが、それらが相互的に関係して変化しているのではなく、神の変状による表現を人間が二つの属性として認識している
→神の現れ方を二つの属性から認識
→影響しあって見えるのは勘違い
→一つの事柄を二側面から見ているだけ
→どちらも神の変状の現れであり、両者は影響し合わない。この二つに関係性を見出すのは人間の誤解。
「神の属性は無限に多く存在する」とは
→「延長」や「思惟」は、「無限にある属性のうちたった二つでしかない」
→私たちの前にはその属性は表出してない。または、私たちはそれを認識する力がない。
→人間の認識能力では「延長」と「思惟」の二つの属性しか認知することはできない
→その二つを特別視し、両者には相互的な関係があるのではないかと誤認してしまう。
「善悪」
→「善悪は本質的に存在しない」
→【前提】全ての個体や事柄は神の現れである。それぞれに絶対的な優劣はない。あるのはそれぞれの完全性だけである。ゆえに絶対的な善悪は存在しない。
→人が善悪を感じるのは、そこに何かしらの偏見があるからであり、状況と対象における相対的差異が原因しているとする。
→相対的な差異の結果現れる個別の善と悪は認める。
→自分にとっての善(活動能力を向上させるもの)を追い求めるのが幸福な人生の鍵である
→なので、「自身の活動能力を向上されるものは何か」ということを熟知してないといけない
→そのために、実践を通して「体は何をしうるか」を研究しなければいけない
→自分にとって善いものを見つける努力をし、その善いものをなるべく集める生活をせよ。
「完全」と「不完全」
→「完全」=後付け。後から付け加えられた常識に照らし合わせているから発生する概念。つまり、偏見以外の何者でもない。
→「完全」を定義すると、どうしても、差異が生まれる。差異には優劣のレッテルを貼ることができる。それによって、完全・不完全の概念が現れる。
→個体それぞれが神の力の表現なのであり、個体それぞれに形の違う「完全性」が現れている。
→この世に「不完全」なものは存在しない
「コナトゥス」
→「方向性を持った力」のこと
→その方向は、「恒常性」に向く。それは、個体が本来持つ固有性のこと。
→体内の状態を一定に維持できる能力のことを表す。
→「欲望」とも言える。
→個体特有の恒常性から逸脱した状態をもとに戻そうとする力であると解釈できる
→「変状」=コナトゥスの力と外部の刺激の相対的関係によって、個体が変化すること。
→コナトゥスこそが個物の本質
→「死」は、個物における、本質の変化。個物の「死」または「終わり」によって失われるものが、個物の本質。
→コナトゥスは、自分のことを忘れてしまう状況などでも、失われてしまう
→「自殺」は、恒常性を崩壊させる行為。「自殺の原因は、コナトゥスによるものではなく、徹頭徹尾、外部の強制力によるものである」=その原因は、全て外部からの刺激による強制である。
→「活動能力」を向上させることは、コナトゥス(本質)にとって喜ばしいこと(=善)
→外部の刺激が自分にとって善なのか否かを判断する術を身につけるために実践と実験をしなければいけないし、受け取る刺激の範囲を広げる努力をしなければいけない。
「理想の社会」とは
→「お互いのコナトゥスが踏み躙られない社会」
→それは管理でもなく、奔放でもない、相互のコナトゥスを尊重した、協調が前提となる社会
→「形」が重視されている社会に対して厳しい批判をした。
「自由」
→一般的には、自由は、制約のないもの。
→しかし、これを否定。
→「与えられた制約の中で、活動能力を高めること」が自由と定義。
→【魚にとっての自由】は、水中(制約)から解き放たれることではなく、水中(制約)でよりよく生きること。
→【世界は決定的なもの】とは、【我々の生も決定的なものである】つまり、【その制約からは逃れられない】なので、【制約を前提に生きることが重要】
→神の法則=自然の摂理から抜け出すことは【不可能】
→「制約」=主体を縛る外的な環境ではなく、主体を縛る内的な力である→コナトゥス(必然性)
→人は自分自身による必然性に縛られている
→外部の原因に影響されて行動することは不自由である
→「自由」のためには「経験」が必要
→「経験が浅い」「受動的」=「不自由」
→世界を飛び交う様々な刺激に対するアンテナをより鋭敏にするための努力をする
→「自由」=「自立」「能動的」
「能動」「受動」
能動→その結果に対して自らが原因となること
受動→その結果に対して外部が原因となること
「能動」=ある出来事に対して自分の力がどの程度表現されているか?
「自由意志」「自発性」
→否定
→自発的な意思(自由意志)は存在しない
→「自発的」という言葉はない。
→全ての個物は神を原因にしているから、原因なく現れる意思などを想定できない
→だから自発的に努力するということも同様にあり得ない
→自由意志はないけど「意識」は存在する
「人は自由意志というものを重視しすぎである」
→主体の行為を決定する要因のうち、意識できるものを人は「自由意志」と呼ぶ
→しかしそれ以外にも主体の行為を決定する要素は無数にある
→意識できるものだから、人は「自由意志」に極端に固執する
→だから「努力」と「自由意志」に不可分な結合を見出してしまう
→一度「自由意志」的な概念から離れないと、この問題は解決しない
→つまり「努力」という語自体にすでに誤りがある可能性すらある
→「自由意志」は、努力する対象を選び取って、そこに熱量を投下するという意味が含まれる。 -
固定概念や善悪の判断、べき思考に巻き込まれず、相性を重視して生きるという感じかな。
スピノザは悟った聖者ではないが、本質の探究者であり、彼の汎神論、神即自然はかなりいい線まで真実に近づいていると思われる。 -
アインシュタインがスピノザの神を信じると言ったとか。汎神論は梵我一如のようなものと勝手に捉えた。スピノザの話しの展開の仕方で全能の逆説を思い出したが、それは野暮と言うものだろう。
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第一に神は唯一であること、言い換えれば自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。 -
数学チックに証明を展開する方式だが、定理や公理に納得できなく途中で折れた。
ただ哲学を幾何学的にこの形態考えるのはは天才だと思う -
「幾何学的秩序により論証された」という副題が示すように、この『エチカ』はユークリッド幾何学に範をとり、演繹的方法による倫理学の体系化を試みた労作だ。デカルトは、実体を「存在するために他物を必要としないもの」であるとして、思惟実体と延長実体の二つを考えたが、周知のようにこれが心身二元論というアポリアを残した。これに対しスピノザは、一にして全なるものだけが実体であると考え、神=自然が唯一の実体であるとして、森羅万象をその「属性」に還元してしまうことでこの問題を克服したのだ。
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なんとなく気になってたスピノザさんが読めた。いろんな謎が解けて、元気が出たっ!でも、ドゥルーズさんのスピノザ読んでなかったら難しすぎただろうな。本には読む順番ってあるな。
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エチカは、一言で言えば、人間の自由について述べている本だ。どうすれば、人が自由になれるのか?を難しい言葉を使いながら説明している。
スピノザの言う自由とは、自分自身の必然性である本性に従って生きることであるという。
自由という言葉には、必然性という縛りの言葉を似つかないような感じもするが、この矛盾があるようで実はない論理がとても面白い。
文書自体は非常に読みにくく、何度も読まないと全くわからない。まして、解説書なしに読みだすと途中で投げ出すことは見えている。
実際、今回自分で読んだ時も下巻は読みきったが、上巻は読み切れていない。というか、断念した。
また興味が湧いた時に読めばよいと思って、机の横に置く決心をしたのだ。
読めたら達成感はあるんだろうなと思いつつ、この難しい文体を解読するのは体力が必ずいるだろう。 -
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まずは上巻。第一部から第三部まで、それぞれ神、精神、感情を議論する。
いくつかの定義と公理を提示されたあとは、定義と公理から導かれる定理とその証明がひたすら繰り返される。
定理n xxxx、証明……Q.E.D。という形が延々と続いて最初は面食らうし読みづらいけど、慣れてくると議論が明解でわかりやすい。
倫理の問題にまで至ってはいないものの、スピノザの思想の特徴である汎神論と決定論は上巻ですでに提示されている。ここからいかに倫理が立ち現れていくのかは下巻第4部第5部のお楽しみ。 -
オランダの哲学者、神学者スピノザ(1632-1677)の著。1677年刊。この世の事物事象はすべて唯一絶対の存在必然的な神に全く依存している、換言すれば、すべては神の表れ(神即自然)であるという全く一元論的な汎神論と、それに伴う人間の神への完全依存による自由意志の否定という決定論が展開されるスピノザ晩年の著。デカルトの研究者でもあった彼のこの著書は演繹的論述法により展開される。ただしスピノザは「世間一般の哲学は被造物から始め、デカルトは精神から始めた。しかし私は神から始める。」と述べ、デカルトを含むそれ以前の思弁法を排撃した。
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「エチカ-倫理学-(上)」スピノザ著・畠中尚志訳、岩波文庫、1951.09.05
295p ¥500 (2025.06.17読了)(2018.11.29購入)(1987.08.17/28刷)
【目次】
凡 例
改版のことば
『エチカ』について
第一部 神について
第二部 精神の本性および起源について
第三部 感情の起源および本性について
訳者註
☆関連図書(既読)
「スピノザ『エチカ』」國分功一郎著、NHK出版、2018.12.01
(アマゾンより)
スピノザは『エチカ』の中に自己の哲学思想のすべてを結集させた。典型的な汎神論と決定論のうえに立って万象を永遠の相のもとに眺め、人間の行動と感情を嘆かず笑わず嘲らず、ただひたすら理解しようと努めた。ドイツ観念論体系成立のうえに大きな役割を演じ、また唯物論的世界観のすぐれた先駆的思想でもある。 -
<閲覧スタッフより>
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所在記号:文庫||135.2||スヘ
登録番号:10101335
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2024.7.9
たぶん何年かぶりに再読したのだけれど、全くのちんぷんかんぷんというやつだった。
イメージとしては壮大なゲームブック。
「何ページの〇〇へ進め」みたいな。
意外とゲームブックの始祖はこの辺なんじゃないかしら、てな事を考えながら文章は目玉の表面を滑り落ち全く頭に入ってこなかった。
自由意思が存在しないってのは気に入っている。 -
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開始:2023/9/5
終了:2023/9/26
感想
幾何学的に整理される人間の精神。汎神論的だがそこに含まれているものは単なる前代の踏襲ではない。取締りの憂目に遭うのも納得。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/706522 -
俺には少し早かったかもしれん…
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難解!目が文字を撫でただけになってしまった。この本が悪いんじゃない。私の理解力の問題。
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さすがにスッキリとはいかなかった。解説も含め、何度も読まないと。
この本が好きな人におすすめの本
ベネディクトゥス・デ・スピノザの作品
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