人間不平等起原論 (岩波文庫 青 623-2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (282ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003362327

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  • 解説で述べられているように、ルソーの有名著作の原風景を垣間見られる本なのでしょう。白眉は最終頁、自ら独立して生存していた自然状態と同様に、堕落しきった民主政治の腐敗形態においても人は等しく平等であるということ、しかしその最大の相違点は、後者において人は”惨めな”存在として描かれている部分でしょうか。

    ルソーの政治体制の変化論はプラトンの議論を想起させますし、同様に現代日本における政治・社会状況もまた連想されるところです。自由主義、なかんずく経済的自由主義を強調することによって、他方政治的感覚を喪失した市民がポピュリズムとデマゴギーに墜落してゆく様は、現在の日本を見ているかのようです。藤田省三いうところの、”安楽の全体主義”はこうした状況を指すのでしょう。戦後社会科学が有していた問題意識が、今日において、より強調されねばならないことを我々は肝に銘じておくべきです。

  • 読んでる途中さん

  • ディジョンのアカデミーに提示された問題「人々の間における不平等の起源はなんであるか、そしてそれは自然法によって容認されるか」にルソーが答える。懸賞論文には落ちたらしいが、ルソーの答えは次のようになる。

    ■本論

    まず、自然法ってのを考えなきゃいけないんだけど、「自然」も「法」も哲学者は皆、全然わかってねえよな、曖昧だよとルソーは言う。自然法について哲学者があれこれ理屈並べてるけど、そんな偉大な哲学者じゃなきゃ理解できないような法則に基づいて社会が建設される・・・って、人類が皆哲学者じゃないんだから、そんなのありえないだろというのがルソーの考えだ。

    「われわれは哲学者をまず人間にする前に、人間を哲学者にする必要はない」p.31

    じゃあ、ルソーはどう考えるかっていうと、彼は、「法」とはどんなものでなくちゃいけなくて、「自然法」とはどんなものでなくちゃいけないのかってミニマムな条件から、推論して考えてくという方法をとる。

    「法」であるためには、法の強制を受ける人がこれを承知して服従したものじゃなくちゃいけない。さらに「自然法」というからには、法が自然の声を通して直接に話しかけるものじゃなくちゃいけない、つまり、あまりに小難しかったり、複雑だったり、哲学者が勝手に自然に投影したような条件を「自然法」に加えちゃダメだってことだ。

    そこで、ルソーは理性に先立つ、2つの「人間の魂のもっとも単純なはたらき」を元に考えていく。1つは自己保存のはたらき。もう1つが同類に対する憐れみだ。

    この2つの規則の組み合わせから、自然法のすべての規則が導き出せるとルソーは考える。

    ルソーによれば、動物も自然法(の対象)に加わる。人間が他に対して悪をなしてはならないのは、相手が理性的だからではなく、感性的な存在だからだ。動物は感性的な存在だ。したがって、動物は無用に人間によって虐待をされない権利を持つ(アニマルライトの人はぜひこの部分を論拠にしたいところですね)。

    また、ルソーは人類の中に二種類の不平等を想定する。1つは「自然的または身体的不平等」、もう1つは「社会的あるいは政治的不平等」。

    さらに「自然状態」について、ルソーはその存在を疑っている。だって聖書読んでも、アダムからして神から知恵を与えられてて、ちっとも自然でもなんでもないからね。確かに! だから、事実は無視していい、事実「自然状態」があったかなかったかは話に無関係だとルソーは考える。

    宗教によれば、人間ははじめから神によって、自然な状態から救い出されている。でも、「もし最初に自然状態があったら・・・」と反実仮想的に考えることは可能だし、これは宗教も禁じていない。そこで、この「もし・・・」を考えよう、これこそ「自然法」に関係する論点だ、というのがルソーのスタンスだ。ルソーははっきりと自然状態なるものは、過去にも存在しなかったし、今後も存在しないだろうと言い切ってる。


    ■第1部

    という前置きをしてから、本論へ。第一部では「自然状態」に関する考察が続く。

    ルソーの自然観の基本は非常に明快だ。「人間は昔はよかったけど、道具とか知恵の活用によって、どんどんダメになる」。たとえば、ルソーは、医術ができると、それ以上の数の病気にかかってるじゃないかと言う。自然状態においては、医者も薬も必要なかった、動物を見てみろ、足とか折っても自然に治ってんじゃねえか、家も衣服も無駄だよ、無駄。自然人なら、寒くなったらそこらの動物をハンティングして、その毛皮着て済ましてるじゃねえかってわけ。

    じゃあ、動物と人間は何が違うのか。通常「知性」と答えられるこの問いに対しても、ルソーはそうじゃないと異論を吐く。動物だって感覚を持ってんだから観念はあるし、その観念を組み合わせてさえいる。そんな違い、程度の差に過ぎねえ(理性を持つのは人間のみ。というのも、理性は人間悟性と情念の相互作用によって完成する)。じゃあ、ルソーが考える「人間と動物の違い」とは。彼によれば、人間には「自由な能因」(意思する力、選択する力、人間は自由だ!)と「自己を改善(完成)する能力」だ。この後者の力こそが、人間の不幸の原因、堕落の原因、人間を自然の暴君にしてしまったのだ、というのがルソーの言い分だ。

    以下、そんな人間がどうやって火を、耕作を、言語を発明し、伝承していくのかという問い&記述が続く。結論としては、人間を自然状態のままほっぽらかしておいても、「自己を改善(完成)する能力」が顕在化して、言語やら農耕やらが発達することはありえない。なんらかの外的偶然が働く必要があると述べられる。

    また、ルソーによれば、自然人は社会人と比べて「みじめ」であることはない、また、自然人には道徳関係、相互の義務もなかったのだから、善も悪もない、所有という概念も正義という概念も、精神的な恋愛感情もない。ホッブズの言うような「万人に対する万人の闘争」など自然状態にはない。自然状態において、自己愛のほかにも、憐れみの情があることを見逃しているとルソーはホッブズを批判する。自然人は、憐れみによって、過度な自己愛から免れているし、自然状態から脱し、自尊心が生れた後も、この憐みによって、その力が緩和されるとルソーは言う。

    基本的に自然状態では、社会状態にあるような問題がないし、仮にあったとしても、そのことによって生まれる不幸は少ない、とルソーは考える。たとえばルソーは「恋愛問題を取り締まる法律があるけど、あれ、取り締まる法律ができたせいで、激しくなってないか」なんてことを言う。「永久の貞節の義務がただ姦通者を作るのに役立つだけで、貞操と名誉の法律そのものが必然的に淫蕩を拡め堕胎を増加させている」(p.79)などと言う。

    結論として、自然状態では不平等はほとんど存在しないし、存在したとしてもごくごく小さなものにとどまること、改善能力や徳などが発達するためには、偶然の外的要因が必要であるとされる。

    じゃあ、人間はどのようにして自然状態から脱却していったのか。偶然の外的要因によってだし、その外的要因は発生しないこともありえたのだから、あくまで自分の話は憶測でしかないと断った上で、それでも、この憶測以外にありえないのだから、たとえ憶測からであっても、そこから導かれる結論まで憶測になるわけではないと断り、第2部へ。


    ■第2部

    第2部は自然状態から、いかにして現在のような社会が成立したかについて述べている。最大のポイントは、土地の私有制度の登場により、政治社会=国家が成立したことだけど、それだけじゃない。ルソーに言わせれば、自尊心も社会的性差も、すべてこの自然状態からの逸脱によって発生したとみなされる。

    人類が増えるにつれて、苦痛も増す、というのがルソーの考えだ。ルソーによれば、まず、人間が自然に対し、工夫するようになった結果、新しい知識が芽生え、人間間の優劣がつき、それによって、自尊心も働くようになる。また、自然状態では相互に没干渉だった人間は、共通の利害に気付くことによって、家畜の群れのように結合するようになる。この結合には拘束力はなく、結合を可能にしている欲求が持続している間しか、この結合も存続しないと言われる。
    木を切ったり、粘土をこねるようになったことで、家が作られる。家が作られた結果、家族生活がそこで営まれることになり、これにより、男女の差も生れることになる。「これまでただ一つの生活様式しかもっていなかった両性の生活様式のなかに最初の差異が確立したのはこの時である」(p.91)。

    道具を持った人々には余暇が生れるようになる。余暇が生じることで、それまで知られていなかった種類の安楽も生れるようになる。ところが、この安楽の味をしめ、習慣化するようになると、今度はそれなしではすまされなくなる。安楽が習慣となり、欲求化する。ルソーによれば、これが人類の不幸の最初のみなもとであるとされる。

    さらに家族が接近して生活するようになって、そこではじめて「国民」(国家ではない)が生れる。まだ、規則も法律もないので、この「国民」は何で結ばれているのかというと、習俗と性格で結ばれている、ということになる。

    と、この自然状態からも離れてるけれども、我々の社会の状態からも同じくらい離れている段階が未開民族のいる段階だと、ルソーは言う。未開民族は人類の青年期、「最良の状態」であり、もっとも幸福でもっとも永続的な時期であり、ほおっておけば、この状態で人類は永遠に止まっていたはずだ、これ以降は種として老いていくだけなのだ、というのがルソーの考えだ。

    ところが、ここに財産の私有が生れ、奴隷制と貧困が生まれ、それと同時に私有を認める正義の規則も生じ始める。このターニングポイントは、ルソーによれば、冶金と農業の出現により、人間が分業するようになったところに求められる。土地の分配により、自然法の権利とは異なる「私有の原理」が生れることになる。人間には元から理性があるけれど、これが活発に働くことになる。

    その結果、人々は、自分がそうである状態よりも、よく、美しく、強くあるように見せかけようとすることになる。「在ること[存在]と見えること[外観]がまったくちがった二つのものとなった」(p.101)。お互いがお互いに対して奴隷であり主人であるという状況が生れる。他人に頼らなければならないため、他人に対し「オレに〇〇すると特だぜ」と、外観だけでも思わせる必要が出てくるのだ。自然状態のときに存在していた「憐みの情」は窒息してしまう、とルソーは言う。こうした相互に対立しあう状態を元に、支配者は「これじゃお互いに危ないから、力を自分に集中させ、対応しよう」と他の弱者を騙す。これが社会と法律の起原だとルソーは言う。

    ルソーによれば、不平等は3つの段階に分かれる。

    「これらのさまざまな変革のなかに不平等の進歩をたどってみると、われわれは、法律と所有権との設立がその第一期であり、為政者の職の設定が第二期で、最後の第三期は合法的な権力から専制的権力への変化であったことを見出すであろう」(p.121)

    ルソーは「このような進歩の必然性」と述べているから、不平等が始まると最終的にこの第三期にまで至る、と考えているようだ。もっと言えば、(おそらく)現在はこの第三期に当たると思っていたんじゃないか。

    この第3期が不平等の最終段階だ。ところが、ルソーによれば、この第3段階に入ると、逆説的に自然状態と同じく「ここですべての個人が平等」になる、新しい自然状態になるという。というのも、家来は主人の言うことを聞くだけだし(つまり力に仕方なく従ってるだけ)、主人は主人で、自分の好きなようにやるだけで、そこに「善の観念」も「正義の原理」もないから。要するに、力という自然秩序しか、そこには見出されない=新しい自然状態=個人が全員無になるという意味で平等だ、というのだ。

    不平等起原論は、こうして「人々の間の不平等の起原は何か」という問いに対し「平等になっている/いずれなる」とルソーは回答する。もちろん、ここで「平等」というのは一種の皮肉で、ルソーが専制主義を肯定しているわけではない。では、どんな社会になるべきなのかというと・・・これは『社会契約論』のテーマになる。
     

  • 私のターニングポイントとなって欲しい一冊

  • まさかこんな本が私の本棚に入るなんてなぁ。
    レポートの素材として読んだ本。
    タイトルの通り、不平等がいつから始まったのかって事を未開状態にまでさかのぼって考えていく。

    教科書で知ったくらいだからすっごい小難しいものだと思ってた。けど、読んでみたらすごくわかりやすかった。これがずーーっと読まれている本の力なのかな。

  • 皆平等に狩りや採集の生活を送っていた人間社会に、どのようにして支配する側・される側の構造が定着したのか。ルソーによる仮説です。

  • 人間はいつから不平等になったのか。ルソーの人間観について。

  • ゼミで使用。

  • 徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽

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