道徳形而上学原論 (岩波文庫)

著者 :
制作 : Immanuel Kant  篠田 英雄 
  • 岩波書店
3.50
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本棚登録 : 544
レビュー : 24
  • Amazon.co.jp ・本 (195ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003362518

作品紹介・あらすじ

「我が上なる星空と我が内なる道徳律」に限りなき思いを寄せたカント(1724‐1804)が、善と悪、自由意志、自律、義務、人格と人間性など倫理学の根本問題を簡潔平易に論ずる。彼の倫理学上の主著『実践理性批判』への序論をなし、カント倫理学のみならず、またカント哲学全般にたいする最も手ごろな入門書ともなっている。

感想・レビュー・書評

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  • カントというひとはもっと固いひとだと思っていて、なかなか、その主たる著作に手が出せないでいた。ところが、それは大きな勘違いで、このひとは、「知る」ということにかけて、ほんとうに情熱をもっていたひとなのだと感じた。
    彼の一番の関心は、「わかる」ということ。これはいったいどういうことなのか、そこに尽きる。なぜわかるのか、わかった状態というのは、いったいどうなっているのか。彼はひとつずつ、そして確かなものを思考する。これが、彼の批判。ほんとうにわかる、ということは、時間や空間、そのほかの条件すべてを超えて、すべての考える存在に当てはまらなければ、ほんとうにわかるということにはならない。そのように考えると、どうしたってわかるということがア・プリオリに可能でなければならない。
    この道徳というものは、そんな彼の原理のひとつの応用実践といったらいいだろうか。考えるということ自体がひとつの具体的実践の形をとる瞬間。道徳に関して、人間の意志を切り離し、ひとつの形而上学を打ち立てようとしたした点からもうかがえるが、ほんとうの道徳が、人間の意志に左右されるようでは、ほんとうの意味での道徳ではない。彼の定言的命法は、ただ条件をつけていないのではなく、どんな時でもどんな場合にでもあてはまるものを考えていたら、条件の付けようがなかったのである。条件の付けようがないものは、人間の意志ではなく、理性のひとつの形なので、ひとに強い命令と拘束を与える。なので義務の形をとる。
    思ったからと言ってそれを実行しないのは本来的に、人間の意志と、思うという行為とが別系統のものであるからである。ここで注意しなければならないのは、わかったと頭では理解しているけれど、なかなか実行できない、ということとは根本的に違うということである。理性が求めるのは、条件なしの普遍的な「わかる」であるから、わかった時点で、行動に移せないということはそもそもありえないことなのである。カントに言わせてみれば、頭ではわかっているんだけど、というのは、ほんとうにわかっているとは言えないのである。
    この本が原論たるところは、ここにある。道徳というものに対して、誰にでも・いつ・どんな場合にでも、という原則に基づくべきである。そうでなければほんとうの道徳ではない。カントが推し進めるべきだったことは、誰にでもあてはまるということはいったいどういうことなのか、そのことではないかと思う。誰にでもあてはまるはずのことが、なぜ、この「わたし」が考えているのか、なぜ、今このわたしがわかるのか。どうして考えているのが、誰でもない、この自分なのか。誰にでもあてはまるということは、存在しないということに他ならない。そういうものを原則として打ち立てるという時点で、仮言命法になってしまうのではないか。
    存在するということが、存在しないことを前提にしなければ存在しえない。たぶんカントも知っていたに違いない。だからこそ、物自体やア・プリオリという表現をせざるを得なかったのだと思う。

  • 比較的易しいカント、入門書に良いと思う。「善」とは何か、人に行動を命ずる「道徳」とは何か。
    道徳とは行動の基準であり、それ自体が目的、言わば「絶対に正しいもの」。
    そこに完成や経験などの「主観」の入り込む余地は無く、客観的な自己…それだけが絶対のもの。
    ここまで突き抜けたカントに惚れ惚れ。
    個人的に何が正しいかというのは社会が決めるもので、自分にとっての正義とは、あくまで正しいと「信じ続けられる」ものに過ぎません。
    生涯をかけても、到底カントには及ばない。

  • 「理性は善意の宝石箱やぁ~」、とカントは言う。だが、親切は、ただの親切で、道徳的価値はないし、親切にしたいという欲求を満たしているだけだ、と。道徳的価値があるのは、「~すべし」という格律(マキシム)によって万人に普遍に共有される善意である。じゃあ、万人に価値があると善意はなにか? 人を奴隷のよう扱わないで、手段としてではなく目的としてみることである。あるいは、人間に無限の可能性をみて信じることだ。ただ、その話は、理性的存在者にだけ当てはまる。どこぞの白熱教室にいる人も理性的存在者ではないかもしれない皮肉。

  • 我々はどのようなルールに従うべきか。
    個人の選り好みやその時々の状況(カントの表現では「傾向」)を完全に排除し普遍性を追求しつつ、カントはこの問いに対する答えを導く方法を示した。

    本書に書かれている順番を少し入れ替えてカントの推論を整理すると次のようになると思う。

    人間の意志は自由である
    ⇒「自由な意志」にも従うべき法則(格律=マイルール)がある
    ⇒その法則の立法者は自分自身である
    ⇒その法則は普遍的な法則でなければならない

    カントによれば、自由とは「存在者を外的に規定するような原因にかかわりなく作用」(p140)することができるということだという。すなわち「或る状態をみずから始める能力のこと」(p140 訳註二 ※『純粋理性批判』からの引用)

    人間以外の動物はただ自然法則にのみ従って生きているが、人間は自然法則に縛られることなく思考したり行動したりすることができる。
    かといって、「自由な意志」は完全なアナーキー状態ではない。まったき自分勝手が許されるか。否、「自由な意志」は「自分自身」という法則に従うのである。そしてその法則は自分に都合のよいものではなく、普遍的なものでなくてはならない。

    以上のことが有名な
    「君は、〔君が行為に際して従うべき〕君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって〔その格率と〕同時に欲しうるような格律に従ってのみ行為せよ」
    という格言に表現されている。

    自分が従うべきルールを自分で作るという、一見して循環論を孕んでいそうなこの問題を、カントは一人の人間は「悟性界」と「感性界」という二つの世界に属するものであるとして解決した。
    すなわち、立法者としての自分(=悟性界に属する自分)と義務に従おうとする自分(=感性界の自分)の二つの人格が一人の人間の中に共存しているという。
    平野啓一郎の分人主義を想起させる。

    また、カントは、自由である人間は、手段としてではなく一人一人が「目的」として扱われなければならないと論ずる(個々人の人格の尊重)。

    「およそいかなる理性的存在者も、目的自体として存在する(略)すなわちあれこれの意思が任意に使用できるような単なる手段としてではなく、(略)いついかなる場合にも同時に目的と見なされねばならない」(p101)言い換えると「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」(p103)
    (ちなみに、ここから自殺否認論が帰結する。)(p104)

    道徳論としては、ニーチェよりもカントのほうが理路整然としていて理解しやすい。「傾向」というノイズを排除し純粋に論理的妥当性、普遍性を追求しようとする態度は、自然科学にも通じるものがある。

  • カント自身によるカント道徳論の入門であると言ってもよい。論述は短く、理路は明確である。カントの理性への全き信頼に基づいた理想的道徳論は、今日においても一つの有効な教えとなりうるし、一つのドイツ観念論の結実としてしばしば参照されるのである。
    充実した注が、他の文献への導入ともなり親切である。

  • 義務論

  • 疲れてくるので一週間弱かけてちまちまと読みました。
    カントのエッセンスが凝縮された一冊。
    用語こそ難解ではあるものの、僕がぼんやりと感覚的に抱いている観念の隙間を論理的に埋めているようで、比較的掴みやすかったです。

    きっと誰しもが「情けは人の為ならず」などという、遠回りといえども利己に行動根拠を置くことに背徳的な抵抗を感じたり、あるいは、例えば自分の親切に「嫌われないため、あるいは好かれるため」だという気持ちが含まれていることに薄々気付いてしまったりすることがあるでしょう。人倫が相互関係の上に成立していることは分かっていながらも、その後ろめたさを拭えないときが出てくるわけです。
    カントの動機主義は、義務や自由の概念によって、利己とも利他とも違う視点から道徳哲学を提唱したもので、感情的配慮を外側にしていることもあり直感的ではないものの、「理念としてどうあるべきか」を考える場合においては非常に充実した一つの答えになっています。理解しておくと確実にためになります。

    また、訳者後記には諸問題解決における要件が平易な文で3つ示されています。自分で考えること、論理的に考えること、相手の立場に身を置いて考えること。目新しいものではないですが、これを熟読玩味した後ではより濃ゆい解釈が可能です。

    そして、もっと(いい加減を許容するわけではないですが)他者に寛容になるべし、と改めて思いました。
    というのも、行為の善悪が動機に存するならば、それは外部からは不可知であり、邪推すべきでないからです。
    とかく僕らは他者の人間的価値をその悪行を根拠に安易に計りがちですが、罪を憎んで人を憎まず、結果や功利だけを見て判断すべきでないと認識するべきではないでしょうか。
    カント的には、正確に善悪を判断できるのは本人の理性、良心のみなのですから、ただ短絡して罵詈雑言を浴びせるのではなく、必要ならば本人が本人の「自由な理性」を以てして贖えるような手助けをすべきだと考えます。

    先日、ある友達が意地悪紛いのことをしていたのを見て、どうしてそんなことするの?と聞いたら、意外にも良心的な答えが返ってきて、自分はまだまだ推測で他人を判断しているなと反省したものです。(勿論彼の行為自体は非難されるべきかもしれませんが、だからといって彼が酷い人間だとは判断できないということ)
    まだまだ自分は利己的であり、独断的であり、至らない人間だと改めて思いました。

  • 2012/10/8~
    意味不明で挫折

  •  どうも息の長い論理展開はまだまだ苦手で、部分的な議論は理解できても全体を通した主張を論証まで正確に追っていくことまではできなかった。それでも、カントの議論が否定派がいうような理性的な生き方をする強い個人意外の存在をすべて否定するものではないということは理解できた。
     もちろん、カントの理想は自由な意思を持った理性的存在者による目的の国の実現であることは否めないであろうし、説明できないことを説明してしまうというアクロバティックな論理を駆使しているという問題もないとはいえない。しかし、傾向性と理性によって認識された最高原理が矛盾せずに両立するとき、いかなる批判が可能なのか。
     批判する側が容易にその論理に組み込まれてしまうというのは非常に恐ろしいことである。カントの理論は、他の理論を評価するさいの尺度として用いたほうがよほど建設的な気がしてしまう。
     結局良くわかっていないので、再読するつもり。

  • 本当にカントは偉大な哲学者だ。哲学者の見本だ。この本の中でカントの徹底した考える姿勢に驚かされた。我々は自由の理念を持つことができ、そして、それによって道徳的法則を持つことができる。しかし、その理念、すなわち人間のような理性的存在者が必然的に持つような理念、は人間自身には説明する事が不可能だ。どこまでが説明可能で、そしてどこまでが不可能なのか、カントはきっぱりと述べ、何度も何度も繰り返して言う。そうしてどこまでが人間の限界なのかを見極めながら、カントは自由の理念と道徳的法則がどうのように結びついているのかを明らかにする。訳者後記でも書かれているが、カントを読むことで哲学するとはどういうものなのか学べるだろう。次はドイツ語で頑張って読みたい。

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