啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

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  • / ISBN・EAN: 9784003362525

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  • カント
    歴史哲学論文集 人間の進歩と自然の摂理 を信じた歴史哲学。

    人間の進歩と自然の摂理は、世界公民的組織の創設につながるという論調。世界公民的組織による平和を 意図しているように思う


    啓蒙とは何か
    *啓蒙=未成年状態から抜け出ること
    *自ら理性と自由意志を発展させる決意と勇気を持て というメッセージ

    世界的公民的見地における一般史の構想
    *歴史の意味=人間が自然の本分を理解し、人間自ら理性と自由意志の展開した(啓蒙した)前進を読みとれる
    *自然=人類に理性と自由意志を与える摂理、宇宙における最高の理性
    *自然は 全人類の世界公民的組織の創設を目指す

    人類の歴史の憶測的起源
    *人類の歴史の起源=無憂の楽園
    *人類が 無憂の楽園から 労苦の世界に入ったのは、自然の本分に沿った前進


  • 『プロレゴーメナ』を書き終えてから10年の間に発表した彼の歴史哲学に関する小論5編を収める。啓蒙とは何か、人類の進むべき道、人類の起源、世界の終わり、理論としては正しいが実際には役立たぬという批判などの興味あるテーマを、かれの哲学的原理を応用、一般の読者を対象に解りやすく論じたものである。

  • 啓蒙。自分自身の知性を勇気を持って使え。自分の頭で考えろ。権威に頼るな。▼暗黒のなかでは、われわれの想像力はたくましくなる。カント『啓蒙とは何か』

  • カントの文章はわかりやすい。
    正直あまり興味ないが一応読んだ。
    徳や義務って言葉はあまり好きじゃないんだよな。

  • 「啓蒙とは何か」のみ読。
    啓蒙主義運動やフィヒテ、メンデルスゾーンなどの「啓蒙」に関する論文、カント自身の哲学や政治哲学への興味が増した。

    「万物の終わり」

  • 啓蒙とは何か 他4篇
    (和書)2009年03月10日 15:39
    1974 岩波書店 カント, 篠田 英雄


    柄谷行人が言っていることがこの本のカントの書いていることと繋がっていてとても興味深く読むことができました。

    啓蒙と言うこと、根底的啓蒙と言うことは何かということを率直に書かれていてこういう本が存在すること自体が救いになるように感じました。

    この本の註にあったカントの言葉
    「自分で考えるとは、真理の最高の規準を自己みずからに(即ち自己自身の理性に)求めることである。そして、常に自分で考えるという格率が即ち啓蒙である云々」。

    自分で考えるということについて、以前に高橋源一郎が書いていたことがある。今は彼については全く興味を無くしてしまったがカントの言う啓蒙というものが彼にあったのだろうと思う。

  • 納税について差し出がましい非難を口にすることは不届きな行為として処罰されてよい、というところが、カントが農民の反乱で虐殺されていることを是認したということの根拠であろう。
     カントの行動を支える思想がこの啓蒙とは何かによく表れている。
     理論と実践も西の本ではわかりやすいと書いてあったが、あまりピンとはこなかった。

  • 難解。


    事を成すに必要なるは、勇気。
    事を為さぬのは、思考力の欠如よりも、勇気の欠如。

    自身の悟性を使用する勇気こそが重要。

  • “啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである。〔……〕未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である” p7

    冒頭から至極明快である。

    “ところがここに奇妙なことがある、それは――後見人たち〔※いまだ啓蒙されていない者たちを監督する立場にある者の比喩〕の手で最初この軛に繋がれたところの民衆が、およそ、啓蒙される見込みのない若干の後見人たちにそそのかされると、こんどは自分達のほうから後見人に迫って、いつまでもこの軛に繋いでおかせる、ということである” p9

    あるある。自由からの逃走。

    “自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に利用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない” p10

    当たり前だが、カントは「ナチス以前」の時代の人であることに留意したい。「理論と実践」で語られる抵抗権の否定論もあわせて。

    “自然が、人間に与えられている一切の自然的素質を発展せしめるに用いるところの手段は、社会においてこれらの素質のあいだに生じる敵対関係にほかならない、しかしこの敵対関係が、ひっきょうは社会の合法的秩序を設定する原因となるのである” p29

    利己的だからこそ、人間は社会秩序を形成しようとするという理屈。とても納得できる。

    “そこで自然が我々に課した仕事は、人類がこの理念に次第に接近していくということである” p35

    公的正義は一人の権力者によって一度に実現することはできない。未完のプロジェクト。

    “第一は、人間に重くのしかかる数多くの害悪があるからといって、その責任を摂理に帰してはならない、ということである。また第二に、人間は自分の犯した過ちを犯す性癖のようなものが、原罪によって子孫に遺伝されている〔……〕と考えるのは誤解であって〔……〕” p79

    さすがカント。人間の限界を、人間が勝手に線引きするのはやめよう。

    “しかし利口ぶった人が、理論とその価値とを、(ただ頭脳を訓練する目的だけの)学課としては認めるが、しかしいざ実践ということになると、様子ががらりと変ってくるとか、〔……〕要するに、理論ではいかにも尤もらしく聞こえることでも、実践にはまったく当てはまらないなどと主張するにいたっては、とうてい我慢できるものでない” p114

    “理由と反対理由とのややこしい縺れから脱出して損得の差引き勘定を誤らないためには、頭がよくなければならない。これに反して、何がこの場合に義務であるか、を自問するならば、彼はこれに対する自答にいささかも惑うことなく、自分は何を為さねばならないか、ということを立ちどころに確認できるのである” pp135-136

    訳者後記の次の言葉に大変励まされる。

    “経験において未熟な青年が、自分で自由に考えることは、行き過ぎの危険を伴い易い、むしろ「亀の甲より年の功」で、長年の経験によって得られた老練こそ、安全な行路を約束する指針である、という反論がおきるかも知れない、しかしそれは思い違いである。行き過ぎは、行動の不足にまさる、前者は人の能力を開発するが、後者はそれを萎縮させるからである。それにまた自分で考えることを学び取った人達なら、やがて自分の行き過ぎにも、みずから気づくに相違ない” p193

  • 啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである、ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。と書いてある。つまり、自分で考えて、行動しろということを一貫性を持って語っている。これは今読めてよかった。若いうちに読めてよかったと思っている。私はもうすでに成人であり、自分でものを考えられる。私は一人の人間として恥ずかしくない行動をし、社会で生きていきたい。そして社会で実践していきたい。そんな風に思わせる本であった。

  • 啓蒙(Aufkla¨rung)とは、「精神を覆っている、従ってこれを暗くしている愚かさや誤りを除く」ことである。

    カントによれば、啓蒙とは人間が自分の未成年状態から抜け出すことであるという。
    未成年とは他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用しえない状態である。

    啓蒙を成就するのに必要なものは、自分の理性をあらゆる点で公的に使用する自由に他ならない。

    理性を公的に使用する聖職者について言及し、主に宗教における未成年状態を脱却することを重要な論点として述べている。


    啓蒙とはつまり「自分で考える」ということです。

  • 難しいから全部読んでいない。
    啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることであり、この状態は人間が自ら招いたものだとカントはいう。また、彼は啓蒙を成就するのに必要なのは自由であると述べており具体的には自分の理性をあらゆる点で公的に使用する自由であるらしい。

    また、宗教による未成年状態はもっとも恥ずべきだと述べており、僕も激しく同意する。
    宗教の固定化した信条に対する批判。

  • 船を漕ぎつつ流し読み。ぽかーん。
    また読もうっと。

  • カントによる4編。『啓蒙とは何か』はあまりにも有名。
    ホッブズに対する反論が興味深い。自然状態の定義がまったく違い、カントは人間(人類)の成長に期待を持っている。ただ、それが達成されるのはいつになることやら。自分は人類が滅亡するまでに達成されるとは到底思えない。

  • 最初の2行が印象的だった。人間は生まれながらにして、悟性を持っているってことか。それにもかかわらず、悟性があることに気づかない振りをする。

  • 封印しそう むいてないわ

  • 先日読んでいた小田中直樹の新書のなかでカントの『啓蒙とは何か』が引用されていて、その部分が妙に印象に残っていた。そんなわけで熊本に帰ったらどうせ暇だからひとつ難解な本にでもチャレンジしようと手に取ったわけだが。

    表紙には「興味あるテーマを、かれの哲学的原理を応用、一般の読者を対象に解かりやすく論じた」と書いてあるが、ちっとも解かりやすくない。これで解かりやすかったら、「批判」3部作とか絶対読めない。最近光文社から、『啓蒙とは何か』のわかりやすい新訳本が出たそうなので、機会があったら読み比べてみてもいいかもなあ。

    感想というほどのものも書けない程度の理解なのだが、僕が理解した範囲での印象は、個人の完全な自律というのをカントは主張していなかったのだなあ、ということだ。個人の幸福と、集団の維持(これが「道徳」という言葉なのか?)は調和しうるし、その調和である「最高善」に人間はあちこち右往左往しながらも向かっているという風に読めた。「啓蒙」による自律も、国家や政府を否定したアナーキーなものではないみたいだし(『啓蒙とは何か』のp19あたりに、「政府」を前提とした議論がある・・・と思う)。

    なぜ政府を否定しないか、という点に関係して、原本的契約(「国民の一般(統一された)意志のみから発生し得るところの法」『理論と実践』p151、「多数で一応は満足するという原則でも、国民の一般的同意を得たものとして、従ってまた契約によって承認されたものとして、公民的組織を設定する最高の根拠でなければならない」同p154)を根拠として、「国家主権者に対する強制権(言葉或いは行動による反抗)は決して国民に帰属しない」(同p163)と述べているところも、驚いた。要するに革命権の否定なわけだ。<一般意思>への強い信頼という意味では、ルソー以上にルソー的なんだなあと感じた。

  • カント

  • \105

  • 「啓蒙とは何か」について。
    カントによると、啓蒙すなわち「人間が自分の未成年状態から抜けでること」にとって、自分の理性を公的に使用する自由(公共世界に向かって自由に自分の意見を述べる自由)こそ、肝要であるという。そしてこのような啓蒙に対する抵抗勢力として教会(聖職者)の例が挙げられている。教区民に教会の公式教理を説き続けること(理性の私的使用)のみならず、学者として信条の批判的見解をひろく江湖に問うこと(理性の公的使用)が、聖職者には奨励されている。これは現代の主流派キリスト教聖職者たちも実践していることであるが、しばしば「理性の公的使用」が「理性の私的使用」に比して重視されすぎているように思われる。「牧会もする神学者」ではなく「神学もする牧会者」こそ、啓蒙精神に影響される前の聖書的理解(なかんずく再洗礼派的理解)ではなかろうか。そうは言っても、トレルチが「教会と国家の分離」(新プロテスタンィズム)を少なからず啓蒙精神に負わせているように、国家の宗教的中立性を主張している点など評価すべきところは多いだろう。
    「理論と実践」について。
    間違いなく確固として組み立てられた理論は必ず実践と適合する、というのが本論第一章におけるカントの主張であり、それをもとに第二章で国内法について述べ、第三章では第二章の議論を国際法のレベルにまで拡大させている。

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