- Amazon.co.jp ・本 (373ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003362563
感想・レビュー・書評
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非常に難解であり、事前の知識以上に理解することができなかった。
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人間には従うべき道徳法則がある。▼道徳は何かの手段のためではなくそれ自体が目的。人に親切にするのは、見返り(報酬・感謝)を得るための手段(e.g., 功利主義)ではなく、親切にすること自体が目的。「人に親切にしなさい」見返りのためではない無条件の命令(定言命法)。道徳的な行い自体が目的となり、自律して自由な人々が互いに尊重し合っている世界(目的の王国)。 ▼道徳は神から与えられるのではなく、人間が自分で認識するもの。物自体は認識できないが、道徳法則は認識できる。▼人間が道徳的な行いを実践しようとする理性(実践理性)。カント『実践理性批判』
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カントは『純粋理性批判』で、人間の理論的認識は感性に与えられた現象にのみ関わるものであり、「物自体」を認識することはできないとした。したがって人間の理論的認識能力には限界があり、「神、自由、魂の不死」といった超越的理念を純粋理論理性が扱うのは理性の越権行為であるとした。
しかしひるがえって『実践理性批判』で彼は、「神、自由、魂の不死」は人間の純粋実践理性の要請であることを証明していく。
これは一見すると矛盾しているように見える。しかしよく考えてみるとそうではない。
人体の構成元素は、炭素原子20パーセント・水素原子10パーセント・酸素原子60パーセントくらいであるらしい。元素という視点で見れば、人間はそのへんに転がっている物質となんの違いもない。しかし自分や他人を物質のように扱うとしたらその人は異常者だろう。
つまりなんらかの不可知な事情によって、人間はだれでも、自分や他人をあたかも魂を持つかのように考えており、事実そう振る舞っているのである。(自分自身に魂がない、と思う人はいないだろうし、自分と同じような魂を他人も持っているととうぜん推測できるのだから。)
理論理性によれば、人間は単なる物質にすぎないが、実践的には人間は魂を持つものである、これこそは人間の常識的認識のあり方であり、普通人が意識せずに行っていることだ。これは、人間が理論理性と実践理性の使い分けをしているというよりも、魚が水の中を泳ぐように、不可知の「物自体」の中を生きているということだ。
ただし私がこのように言うからといって、いわゆる神秘家が不可知のことをあたかも自分は何でも知っているかのように理論理性に押し付けるということを、カントが認めているわけではない。むしろ彼は、そのような神秘家の態度は往々にして道徳を損ないがちだと警告している。
カントは「理論的認識(科学)に制約を課し、宗教と道徳を守った」というのはよく言われることだが、一方で彼は、批判を経ていない実践理性がみずからの宗教と道徳によって横暴に振る舞うことをいさめてもいる。つまり片面的な制約ではなく、両面に対する制約なのだ。ここを強調したい。 -
「人間に対する愛は、確かに可能であるがしかし命令され得るものではない、他者の命令のままに何びとかを愛するということは、人間の能力の能くし得るところではないからである。……隣人を愛するとは、彼に対する一切の義務を履行することである」
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Mおすすめinせきぜん
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不死、自由、神
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カントの三批判書のうち、道徳における実践理性の機能を解き明かした著作。純粋理性の批判において、消極的に捉えられた自由、心の不死、神という3つの理念が、今度は客観的道徳法則の条件として捉えられる。特に可想界に属する存在としての人間にとって、自由の理念こそが道徳の基礎にあるとするカントの教説は、中世的な「自由」から離れた独自の自由概念を道徳論に導入したと考えられる。その客観主義、形式主義ゆえに現代でもなお道徳論において重要な位置を占めている。
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難しすぎて読むのを諦めた、印象深い本。